michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

冷たいブギーにしてくれ

 

工藤冬里

 
 

8月30日-9月6日

カワラタケを見つけたので煎じて飲む
癌に効きます

鳥や蝉を吉濱君のmaxで遅くしていた頃は豊島はまだのどかで、話題に上るのは処理場のことだけだった。

上の水は全部落ちたのではない。虹が映る程度に落ち着いただけだ
比喩なのではない。比喩的なのだ
残り10巻で教えようと思っていたことをネタバレ注意の但し書きなしで吹聴するのが奴らというわけだ
見ても見ても見切れないのはそのためだ
空海のカバラい金
「モーターボートの
湖水を走る
本能の城」

ロケットのことだったんだよ露助さん
風物詩
熱帯夜金魚鉢から外に出て浅い眠りを起きる勇気か
憂鬱https://youtu.be/AFn2ogJZoPU

もう森へなんか行かないp81「静寂のなかで黒貂がざわめく」に鉛筆で傍線、William Blake “Tiger”(?)てふ書き込み有驚愕
1世紀以上ユスターシュやってるわけだご苦労さま

ハリースミスはカバラだからだめだ

残雪「突囲表演」はマンボーのさなかに読むと「なんどいえないほど素晴らしい」。もちろん、その「なんともいえない」ことの感じ方は人それぞれであるが。

デュジャルダンと黒田夏子はジョイスを通して繋がるのだが、それによって要支援2とか要介護Iとかのモードに入ったデュジャルダンなどというものが人気のない真剣さとして出版されていかざるを得ないのである

同郷の三品君の二冊目を見る。いま、なにが書けるだろう、とある。そうだろう、タリバンが撃つアルカイックを雑貨と呼ぶ覚悟ならザッカバーグから削除されるくらいの知識は必要だ。

「短歌をたのしく」という百円本の、黄金町の生方たつゑの顔をじーーーーーーーーーーー ✖︎ Xっと見る。ギギの顔は思い出せない。

シンプルなアプローチには勇気が要ります
難解なものや数字はだめです

人を物のように見ない
物を人のように見ない

真実を語るのはなんでも価値があると思っているかもしれないけど、得意そうに悪霊の真実を語るのは意味がない。その組を潰すためにチンピラの性癖のあれこれをスッパ抜いてもしょうがないのと同じことだ。スパッと親のタマを取るのはそれより強い勢力だからだ。

ヨテンボリのマグフォールさんから貰った冷たいブギーを探していたらシングルのテスト盤みたいなのがあったんだけど中にempressも裸で入っていてそれを聴いている雨

冷たいブギーにしてくれ
ジェフリー・リー・ピアースはメイヨの音程とイアンの声質とさらにその二人にはないさらけ出しヨーデルを併せ持った英雄だったんぞなもし

本州を板にパドリング、ですな
https://twitter.com/monaural7/status/1433215101692112897?s=20

アートペッパーとempressは一見関係ないように思うけれど頭蓋の中のコロナ脳を響かせる点で同一のはみ出した音色を持っている
ホンダのガソリン車のアクセルの踏み込みの感じも少し似ている
結果的に命より大事なツイートになっていく
いつの間にか後続の車がいなくなっている
ミキシングの中央のクリック音 異様な前景
これが絵画に於ける象徴界てやつだ

家から出られない猫が幸福であるように金魚鉢の中の人類も自足することが出来る。鏡を貼った店の奥行きに我々は安心する。
水の上を歩き、空に溺れること。虹を逆さに眺めること。

送った荷物大丈夫なのか

ニコラは泣きそうな笑顔の大柄な人でempressの後はパートタイマーというのをやっていた。泣きそうな大柄な人

bitterendが”貧困”後のカンヌで勝ちに行ったハルキ映画がヒロポン抜きのMC(マイ・チェーホフ)で趣味はフラットアーサーいじめといった通俗ラノベ宇宙の舞台は半導体抜きの日台韓にタクシードライバー経由電通ロードムーヴィー要素。人力のドラムは良かった。

Cesen de amoldarse a este sistema de cosas

金銀銅の序列は文化や版図ではなく滅したり開放したりする関わり方であった。ところが鉄は貴金属とは異なっている。それはひたすら強度に関係している。それは最終的に粘土と対比されるために存在している。

投げ入れて投げ入れて海馬選択岐
洗えば済むと思っているのか
これがそれだ
あれじゃ死ぬわな
と思った

地震の際、水、通信等に関して「なんともない部分」が必ず残っていて、原爆体験がある場合二度生き残ったことになるわけだが、逆にそこが問題なのだった

 

 

 

#poetry #rock musician

風鈴

 

みわ はるか

 
 

近くの神社でたくさんの風鈴が飾られているというのを広報で知った。
風鈴好きのわたしはすぐにとことこと早足でそこへ向かうことにした。
その日はうだるような暑さ、もこもこと存在感をあらわにする入道雲、けたたましい蝉の鳴き声がそこら中で聞こえるような日だった。
黄土色の涼しげな帽子、日焼け止めを露出する肌に塗り、黒いサンダルで出かけった。
サンダルから覗く足の爪は赤かった。
そういえば昨日自分でマニュキアを塗ったことを思い出した。
街は以前のような活気はなくなってしまったけれど、みんな静かに夏を楽しんでいた。
玄関先の朝顔に水をやり、しっかりと庇をつけたベビーカーを母親らしき人が押し、キャップをかぶった若者は汗を滝のように流しながら走っていた。
夏、それだけでなんだかとってもうきうきする。

神社に着いた。
それは見事な風鈴たちだった。
赤、黄、緑、青、紫色の5色が隣同士被らないように丁寧に吊り下げられていた。
風通しがよい場所なので一斉に音色を奏でていた。
同じ方向になびく何百もの風鈴。
首が痛くなるのも忘れてずっとずっと見上げていた。
まもなく夏が終わる。
ものすごく残念で悲しい気持ちになった。
いつまでも見ていたかった。

築100年はたっているだろう茶屋に入った。
小柄で白髪のかわいらしいおばあさんが1人で経営していた。
数席あるカウンターには常連客らしいおじいさんが静かにコーヒーを飲んでいた。
何か話すわけでもなく、ただただ静かに時の流れを楽しんでいた。
縁側には中年の髭もじゃのおじさんがヨレヨレの赤いポロシャツを着て座っていた。
煙草をそっとふかしながら庭を眺めていた。
眼鏡の奥にはつぶらな瞳がひそんでいた。
わたしはあんみつを頼んだ。
少々出てくるのに時間はかかっていたけれど、1つ1つ果物、餡子、寒天がとてもきれいにカットされていた。
甘すぎず、ちょうどいいお味だった。
木造の家屋、昔ながらの柱や土壁、黒電話・・・・・・・。
定休日がなく、マスターの気まぐれでクローズする。
全てのガラス戸や窓が開放されている。
相変わらず蝉の鳴き声が響いていた。

帰りに駄菓子屋に寄った。
昔買ったペロペロキャンディーとショウガ味の豆を購入した。
まだこういう店が残っていることが妙に嬉しかった。
小さなかごをぶら下げてまた来よう。
この時だけは小学生のような純粋で素直な自分になれる気がする。

「夏」、静かな「夏」の終焉をまだもう少し堪能したい。

 

 

 

長田典子『ふづくら幻影』読書メモ

 

長尾高弘

 
 

 

『ふづくら幻影』は、作者が幼少時に暮らし、人造のダム湖である津久井湖の底に沈んだ旧神奈川県津久井郡中野町不津倉にまつわる詩作品を集めた詩集である。以下は、個々の作品の感想。まだ詩集を読まれていない方は、先に詩集を読んだ方がよいかもしれない。

「祈り」。「涙」という縦の動きが「水位」という言葉で横に広がる「湖面」という境界となり、その下に沈んだ祖先との間に長い距離ができる。この場合、水は必然的に冷たいものになるだろう。最後の「永遠に結露する」が見事。

「夏の終わり」。湖が渇れて地上に現れたかつての村の絵が二度描かれる。おじおばが若かった頃はまだどこがどこだったかわかるが、「新しく家族となった男」と数十年後に来たときにはもうどこがどこだかわからない。湖底というふだん見えないものが見えたときに数十年という時間が重層化される。「男」という言葉がちょっと冷たく感じられて気になる。

「上を向いて歩こう」。「幼すぎた私の涙」の5行と坂本九の歌で工場にいた家族、親戚、奉公人の思いを描いている。天井が夜空になって星が輝くことから、決して辛い涙ばかりではないのだろう。

「バャリースのオレンヂジュース」。働く人々の褻の日々を描いたあとで晴れの日が描かれる。ふたつの詩で高度経済成長期の空気をよく伝えていると思う(私も長田さんよりさらに幼いながらその時代を生きたので、ぼんやり思い出すものがある)。

「セドリックとダイナマイト」。タイトルのふたつはセットであることが明かされる。でも、補償金はまだ入っていないのだ。このセドリックの種明かしの1行が初読のときから印象に残った。火消しの場面は、この詩集では書かれていない家族の運命の伏線になっているようだ。最後から2番目の連はひょっとするとなくてもよかったのかもしれない。

「しらんぷり」。「大きな魚」が効いている。日常と非日常。外から来た人の死が明らかになったところで繰り返される「いつも通り」も効いている。最後の連を読むと、遠くから見ると光っているのに近づくとただの石になってしまう川の石の連が自然の恐ろしさの伏線になっていたのかと気づく。

「蛍」。50年前は私が住んでいた柏市でも行くべきところに行けば蛍が見られた。20代の頃、越後湯沢で見たのが最後だなあ、と蛍がいた頃のことを思い出す。すごい技を持っているおじさんというのも、ごくわずかになっただろう。その時代を知っている者には、時代が変わったことがよく伝わってくる。

「水のひと」。過去には夢ではなく現実だったはずの野辺送りの行列が夢のように美しく描かれている。とりどりの色とひらひら、ゆらゆらといった畳語(ひとびとというのもある)がそのような効果を盛り上げていると思う。最後の「商店街のある町で/溺れたひともいるそうです」の2行が、村を失ったことの後悔を問わず語りに示していてうまいと思う。

「お祭り」。過去の村の生活を美化しているだけではなく、男の子は神輿をかつげるのに女の子はかつがせてもらえないというジェンダーの問題を告発口調ではなくそっと示している。「黒曜石」は、「ツリーハウス」や「空は細長く」でも何食わぬ顔をして再登場する。

「かーん、かーん、キラキラ」。ジェンダーでは差別される側だったが、民族では差別している側に立っている。食べもののなかに砂が混ざり込んでいたときのような苦さがある。でも、この作品が入っていることによって、この詩集が描く村の生活は深みが増したと思う。

「川は流れる」。これを読んで改めて地図を見た。相模川の源流が山中湖にあることを初めて知った。川をせき止めて作った湖の詩集に川の源流の話は欠かせないだろう。最後の「めだかに遊んでもらっていたのも気づかずに/川がお母さんのようだったのも気づかずに」の2行が効いている。

「ツリーハウス」。村が湖底に沈んだあとの再訪の詩であり、「夏の終わり」と対応している。このふたつの詩の間に過去の村の絵が入っている。「蛍」からの3作が、開発と無関係だった頃の村の生活を活写していて、それが詩集のちょうど中央あたりになっており、時間をU字形にたどっている。山羊の黒曜石と「わたし」のうんこの対比が面白い。

「午前四時」。亡くなったご両親が夢に現れる。浜風文庫で故郷を離れたあとのお父上との激しい対立関係についての作品をすでに読んでいるので、「もう借金取りに追いかけられるのはいやだからね/こんどこそ儲かるといいね」という2行をいずれまとめられるだろうその詩集の予告編のように受け取ってしまった。でも、ここでは「もっともっと たくさん/いろんな ありがとうを 言わなくちゃ」といった行に救われる。

「黄浦江」。メアンダーはmeanderで蛇行という意味の英語。前作『ニューヨーク・ディグ・ダグ』を思い出させる。国境を越えて蛇行という共通点を持つ中国の川と外国の人が登場することによって詩集の風通しがよくなっている。

「空は細長く」。今という時間から過去を振り返っている。スサノオが退治したヤマタノオロチなるものもおそらく川であり、彼は治水の力によって権力を獲得したのだろう、というようなことを思い出す。詩集内の位置からも、湖の底に沈んだ川沿いの村へのレクイエムのような響きを感じる。

「巡礼」。ユーラシア大陸の西の果てで東の果ての故郷を思う。時間も戦国から現代までをたどり、「セシウム」が効いている。スケールが大きくて、詩集の締めくくりの詩にふさわしい。

途中で少々文句もつけてしまったが、時代と人が見事に描かれていて、構成がよく練られているすばらしい詩集だと思う。最後にもうひとつ文句を言ってしまうと、製紐工場の最後を見たかった。それは次の詩集で明らかにされるのかもしれないけど。