michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

餉々戦記 (葉つきの葉と茎 篇)

 

薦田愛

 
 

スマホのタスク&買い物メモに「葉もの」と入力
なにがしか青いものを手に入れたい、と心に付箋たてる
冷蔵庫の野菜室の中身がかたよると料理ビギナー
できるメニューがたちまち見つからなくなる
(応用力が育つには経験がまだまだ追いつかないというわけ)

それは師走だったか年の初めか
寒かったころ たぶん
北摂の駅前スーパー産直コーナーは夕方4時をまわって大にぎわい
規格はずれだの一昨日あたり並んで残った青ものに次つぎ半額シールが貼られ
傍から手に取ろうと前のめりのお客一同にはもちろん私もまじっている
(だってオオサカ)
島根産生きくらげのパック一六〇円にも半額シールを認めて白黒ふたつ籠に入れ
コーナー一周こればかりは値引きの有無にかかわりなく並んでいれば連れ帰ることにしている葉つきの小かぶ三玉ひと袋一五八円今日のは徳島産をわしづかみ
白じろきめ細かいに違いない鈴菜とよばれる実は味噌汁に入れようか水菜や薄揚げと煮びたしにしようか迷うところだけれど
いやいやじつは目当てはこのしっかと伸びたひとかかえの葉と茎なのだ
だって 
だってほら
小松菜もほうれん草も高騰しているって時になんて貴重な緑黄色
葉もの はもの
だからね
握り直すスマホの買い物メモから“葉もの”を消去
レジを通って籠からエコバッグに移し替え
よいしょっと担ぎ上げるバッグはすでに鶏胸肉だの鰤の切り身だのみりんのボトルだの入っているので重い
急がなきゃ日脚が短くなったものと踏み出す肩先へ
「すみません、あの」
すわ忘れ物と振り向けば三十歳前後とおぼしき細身の女性
「その葉っぱ、なんですか?」
指さす先はエコバッグから突き出た緑の茎と葉
「ああこれ? 蕪です。かぶの葉なんですよ」
「かぶってあの」
「そうなんです。かぶ。こんなに立派な葉っぱつきなので、食べてみたら美味しくて! 
 あそこの産直コーナーに並んでますよ」と長すぎる答え
「あのコーナーですね? ありがとうございます。買ってみます」とにっこり
いやいやよりによってごくごく料理ビギナーのこのわたくしが
食材のことを聞かれるなんてと冷や汗かきかき
よいしょっとバッグをかつぎ直し
家への近道だけれど急坂へと前傾姿勢

もとはといえば最寄りの駅前ビルの図書館
レシピ本をあさってみつけたひと品は
私の目にはちょっとひねったおひたし いや和え物
ほうれん草をゆがいて絞って切ってまた絞り
そこへすりごま、かつおぶしにオリーブオイル、ちりめんじゃこを投入
ぽん酢を和えてできあがり、だったのだ
そもそもつれあいユウキが
「ほうれん草のおひたしって、なんだか時々食べたくなるんだよね」
と言うので
ありきたりのおかかのせを何度か作ってみたあとのこと
そういえばというくらいかすかな翳り
ほうれん草にはほの暗い思いが、あるといえばあるからだろうか
ついね 
くったりくたくた
ゆですぎてしまってね

五歳だったかあるいは
学校に通い始めていたろうか
常づね仕事から戻るのが遅い父を待たず
母とふたりの夕食
ならぶひと皿がその夜
ほうれん草のおひたし
ゆでられかたく絞られ
かつぶしと醤油
つまんではこぶと
鼻をつくあおみのにおい
むぐ んぐっ ぐちゃ
どれだけ噛みしめても
くちいっぱい筋っぽくて
それはつくり方のせいだったのか
そのころのほうれん草はそんなものだったのか
くちゃっくちゃっ ぐちゃむちゃ
むふう
ぼお
のみこめなくて むちゃぬっちゃ
ぼお
ぬっちゃ ぐ ぐっちゃ
ぼおお

ぴしっ 
いたっ

打たれたのだと すぐには
わからなかった だろう
ぼお
いつまで噛んでるのよっ

言われた

思っていたが
つくって食べさせたひとは
のちに
その子すなわちわたしが
テレビを見ながらぼおっとして
口が止まっていたのだと言った
血がにじんだ
かるくはたいたらどこか
くちのなかを嚙んだみたい、と

「どうしてかな、こどもの時は
 ぼくも好きじゃなかったな
 こどもの味覚じゃわからないのかもしれないね」
ガスを早めに止めて
鍋からざるへ すぐに冷水
それでもね
くったり
ぬちゃっ

ところがね
それがさ

日脚短くなる頃どこの店頭
まるい白い実がみっつに葉っぱあおあお
茎もしっかとぐいぐいのびきったそれが
かぶが
並んでいて

ざくり 実を切りはなし
実は野菜室に収める(出番は別の日)
ひとにぎりに余る葉と茎は湯がく前に
ざっくざく 大きなざるふたつに盛ってにゅうねんに水
その間に鍋にはぐらっぐらと湯
だってね
湯がいてから絞って 切ったらまた絞る
その段取りもたもたするのをひとつ減らしたい
ざるから鍋へ まず茎からどしどし
ガスは止めて刻んだ葉もぎゅぎゅっ
ややあって
念のため茎の太めひときれつまんで もぐ
ん、だいじょうぶ
ざるにとって流水 水けきりながら
オリーブオイルちりめんじゃこかつぶしすりごまぽん酢
オールスター揃いましたら
ぎゅぎゅっきゅっ
握って絞り にぎってはしぼって
次つぎボウルへ
どさどさっ
つつうっばらばらはらりぱららっしととっ

混ぜ入れまぜいれ うん
葉っぱは嵩が減るよね でも
茎はもりもり
すきとほるあさみどりの茎が
かつぶしとすりごまをまとって
きれい

ばりっ もぐっ んぐ
噛みごたえあるよね
「ああ、これはいいね。
 ほうれん草よりこっちがいいな」
うん、おいしい

かくして
白い実がまだ野菜室にあるうちに
次の葉つき小かぶをとくとくと持ち帰る
かたよるにも程がある
季節の幕開け

 

 

 

夢素描 19

 

西島一洋

 
 

死、その2

 

カヌーを見ると死んだ水野を思い出す。先程、僕が運転する4トン車の左横に信号で止まった赤い車。ルーフに赤いカヌーが一艘、ちょんと載っかっている。

水野は僕のひとつ下。高校の時、美術クラブで一緒だった。呑気なやつだった。喋り方もおっとりしている。「暑いなあ!」と言うと、必ず「夏だも…」と、若干だみ声で返ってくる。とりつくしまのないやつだ。

高校を卒業してからは、滅多に会うことはなかった。風の噂で、奈良でカヌーの小さな店を開いているということは、聴いていた。

いつだったか、夕刻、テレビをぼんやりと見ていると、唐突と言えばその通りだが、彼の死がニュースで流れていた。チャンネルを変えても、あちらこちらで流れていた。

彼はカヌーのツアーを主催していて、カヌーで沖に出たところ、参加者の一人が帰ってこなかった、彼はその人の助命と探索をするために再び一人で沖に出て行った、そして、その参加者は無事戻ってきたが、彼は戻ってこれなかった、彼は死んだ。責任を感じて必死に探したのだろう。

彼の死骸は相当傷んでいたらしいが、通夜での棺桶の中の、仰向けになった彼は、若干フランケンシュタイン状態ではあったが、それなりに綺麗に修復されていた。

さて、それが、いつだったか、記憶を順に辿って行こう。

昔であることには違いないが、大雑把に簡単に、そしてあっさりと「昔」…、ということで落着するわけには、いかない。「昔」でお茶を濁すことは許されない。つまり、その記憶の厚量というか、その濃厚さは尋常ではない。

おそらく、自分以外にとってはどうでも良いことに違いない。だが、いつだったか、が、気になる。

で、そのどうでも良いことをだらだらと書く。

僕が、あの家に住み始めたのは、二十九歳の時。長女が生まれる僅か数ヶ月前。長女が生まれたのが、1983年。その頃、僕はテレビを意図的に見ていなかった。

僕は基本的にテレビ嫌い、正確に言うとテレビは苦手、というよりも、テレビは僕の性質に合っていない。

どういうことかというと、一旦、スイッチを入れて、テレビを見始めると、何も手につかない、テレビに没頭してしまう、ただぼんやりと見ているだけなのだが、テレビを見ることしかできない、釘付けになってしまう。

しかも、何時間も何時間も離れることが出来ない。見たくもない番組でも釘付けになってしまう。完璧なテレビ依存症なのだと思う。だから、鼻っからテレビを見ない。

僕は、あの家に行ってから、テレビは持っていたが、アンテナも繋がなければ、もちろん電源も。

あの家に行ってから三年が経った。何故、三年というのを覚えているかというと、長女が女房の腹にいる時、あの家に住むようになった。そして、その長女が生まれ、三歳になった時、テレビ愛知の開局で、気になっていた写真家(名前が出てこない)が出るというので、それを見るだけのためにテレビをアンテナに繋いだ。

長女は、この時、三歳になって、実質テレビを初めて見る体験をした。実家とか、友達の家とかで、僅かな時間ではあるが、見る体験はしていたと思うので、テレビそのものの存在を知らなかったわけではない。

しかし、テレビの映像を見るという行為は、彼女にとっては強烈だった。テレビの映像に釘付けになって、動かない。まなこを見開いて、ただ、ただ、見入っている。

あまりにも、まばたきをしないので長女に、「目をパチパチとしなさい。」と言うと、自分の小さな両手を平手にし、目をバチバチと叩いた。

と、言うことは、つまり水野が死んだニュースを見たのは、1986年以降ということになる。ただ、僕の記憶では、僕は、ぼんやりとテレビを眺めていた。見入ってはいなかった。

まあ、記憶を辿るのはここまでか。

この頃は、体現集団ΦA ETTAの草創期、美術雑誌裸眼の編集発行や、アパルトヘイト否国際美術展の運営など、精力的に動いていた時期でもあった。

いずれにしても、水野は死んだ。ただ、それだけのことである。

下の名前が思い出せないので書かずにいたが、思い出した。三郎、さぶろうである。水野三郎か…。

水野のひとつ年上、山田省吾というのも死んだ。つい最近のことだ。つい最近と言っても、僕は知らなかった。

山田省吾は、僕の中では友人の中で濃厚な関係を持った一人、トップスリーの内に入る。つまり僕の親友三人衆のうちの一人である。

なのに、省吾を死んだことを知らなかった。

今年、つまり2021年の春だった。僕は、花粉症をこじらせて、苦しかった。それに加えて、虫歯が化膿し、鼻から脳天にかけての強い痛み。熱も37度5分越え、それが三日以上続き、ついには38度5分以上の高熱も出た。

一般の医者がもうやっている時間でもなかったので、時間外もやっている済衆館病院に電話をすると、高熱で新型コロナの可能性もあるからか、対応できないとのこと。結局、救急を通じて、小牧市民病院を紹介してもらい、診察してもらった。新型コロナの検査をしたわけではないが、症状から、副鼻腔炎、つまり蓄膿をこじらせていると診断され、翌日、町医者の耳鼻科に行った。

翌日のニュースで、昨夜最初に問い合わせて断られた済衆館病院で、昨日新型コロナの院内感染があり、数人が感染したらしい。それで、昨夜の済衆館病院の電話の応対が変だったのだろう。

副鼻腔炎だけではなく、虫歯の痛みも酷かったので、歯医者にも行った。歯医者は、その後、治療のため何回も通った。

何回目だったか忘れたが、その歯医者で、高校の時の同窓生、西安秀明にばったりあった。彼は、近くに住んではいるが、滅多に会うことはない。

西安は、「久しぶりだなあ」の後の開口一番、「省吾が死んだこと知ってる?」と言う。僕は知らなかった、唐突だった。

省吾というのは、山田省吾、高校時代の美術部で一緒だった。高校を卒業してからも受験のため、名古屋亀島にあるYAG美術研究所に何年かは一緒に通った。

何故か、苗字では呼ばなかった。山田とか、山田君とかと、そのように呼んだ記憶が全く無い。呼び捨てで、省吾だった。

あとで、西安が、省吾が死んだ日と死因をメールで送ってくれた。死亡日は前年2020年の11月2日、死因は胆嚢癌。

省吾は片目、つまり隻眼だった。どちらの目かは忘れた。すこぶる画面の中のヴァルールが整った美しい絵を描くやつだった。天性のものがあった。

僕が勝手に推察するには、片目の人は、両目で見るような立体感というか空間の三次元性が希薄だ。もちろん、片目でも、体を動かして、目の位置をどんどん変えれば、立体的空間感は把握出来る。両目が見える人は、常に、物が立体的に見えるのだ。意識せずとも。僕が思うには、この立体的な空間感に惑わされて、画面全体の調子とかヴァルールとかが狂ってくるのだと思う。

ともかく、省吾は死んだ。ただ、それだけのことである。もう会えない。それも、ただ、それだけのことである。

歯医者で同じ西安に、今度は僕の方からの死の情報「平松が死んだこと知っている?」と言った。彼は知らなかった。

平松明は、省吾と同じく、僕の中ではトップスリーの友人の一人だ。死亡日は2021年1月27日、死因は間質性肺炎。葬式は家族葬ということで行っていない。

平松は、小学校も、中学校も、高校も一緒だった。しかも、すぐ近くに住んでいた。しかし、不思議なことに、小学校も、中学校も、高校も、彼との付き合いは、皆無に限りなく近いほど、ほとんど無かった。

平松と付き合い始めるようになったのは、十九歳の頃だったと思う。僕は、飯田街道沿いの木造モルタル造りの古い六畳一部屋のアパートに住んでいた。

ある朝…、だったか、ある夜だったか、忘れた。部屋の出入り口の扉を中から開けると、暗い木の廊下に、汚い男が一人うずくまっていた。それが、平松明だった。

「帰って来た。」と彼は言った。「もう何時間もここに居た。」とも言った。状況はうまく掴めなかったが、とりあえず、僕は、彼を部屋の中に招き入れた。

ゆっくり、話を聞くと、彼は、東京から自転車で野宿しながら、ここに辿り着いたとのことだった。生家はすぐ近くなのに、何故家に帰らずに、僕のところの、しかも廊下なのか。僕の部屋のドアをトントンすることもなく。まあ、その辺は、いい感じということで端折ります。

彼は、東京の明治大学に通っていたのだが、自らの意思で中退したとのことだった。学生運動の内ゲバで、明治大学の校門のところ、目の前で、ツルハシでヘルメットの上から突き通し、つまり、そういう殺人現場を見たことや、学生運動の追い詰められた過激で情緒不安定な状況を話してくれた。

それからは、僕は同性愛者ではないが、男の裸が好きで、彼は僕の絵のモデルを快く引き受けてくれて、彼の裸をたくさん描いた。

平松明は多彩なやつだった。物言いは、ゆっくりおっとりしている、声は低く大きい。

その後、平松明と、彼の友人日置真紗人と、僕の三人で、ぴしっぷる考房という生活共同体を作った。雑誌ぴしっぷるを編集発行し名古屋の文化を担うくらいの思い入れと勢いがあったが、赤字が続き、主にデザインと印刷で収入を得ていた。三年ほどは続いたが、仕事も乏しく、生活も苦しく、解体した。

平松は、百貨店丸栄の奉仕課、つまりエレベーターガールと結婚して、五人くらいの子供を作った。

いつからか、あまり会うことが無くなった。いつだったか、そう、おそらく、水野が死んだ頃と同じ頃だったと思う、久しぶりに彼から電話があった。「躁鬱病なんだ。笑うことが全く出来なくなった。」この言葉は、不思議と今も覚えている。

そうか、平松明も山田省吾も死んだのか。そうなると、あと一人か。つまり、僕の中での、親友三人のうちの二人が死んだ。あと一人は生きているのだろうか。あと一人というのは、後藤久彰である。

後藤に連絡をした。後藤久彰は生きていた。彼は、平松の死も、省吾の死も、知らなかった。

生きてて良かった。もしかして、死んでるかしらんとも思っていた。まあ、彼についても、書きたいことは山ほどあるが、生きていたので、端折ります。

ただ、一言、彼、つまり後藤久彰は、優れて良い絵を描く。今は、描いていないかもしれぬ。

後藤久彰は生きていた。ただ、それだけのことだ。

 

 

 

落選

 

工藤冬里

 
 

ロシアではアースされていた
日本でそれを感知した

感情の雷親父
きみ(俳句)が悲しいから雨が降るんだよ
https://twitter.com/tomizawakakio_b/status/1452681393335455744?s=20

次手に太陽も食べられる高さにあります
https://twitter.com/tomizawakakio_b/status/1452666294117961731?s=20

義務化されれば従いますがそれまでは自由意志を行使します
さらに義務化されても従えない部分もあります
重要なのはそこだけで、
それ以外の幼児の色分けは角谷の言う足の裏に貼り付く一円玉や五円玉のように私たちの価値にべったりと貼り付きます
 

ユーチュー舞踏
というのをやっています
室野井が死んでからですからもう三年半がかりです

踏舞ーュチーユ
すまいてっやをのういと
すでりかが半年三うもらかすでらかでん死が井野室
 
 

月光は温度を下げます
冷えたライムを寂と言い
歳を食ったラッパーはその径を辿ります
https://twitter.com/tomizawakakio_b/status/1452651198784303112?s=20

俎板の恋であってはならぬ
https://twitter.com/tomizawakakio_b/status/1452696494180421633?s=20

眠りが浅い時は自分を殺せば夢が前に進んでゆく

GOsの動きに合わせたover the rainbowの最初の跳躍

堀モータースというガレージがあればメンテはそっちに変えてもいいよ

He pecado contra ti, sobre todo contra ti

NYの展示は3日からだそうです
https://youtu.be/aCmlEtFToeE

こうあってほしいと思うことを数式で説明しようとする科学と同じように、歴史に関しても他の選択肢のある限り逆説に留まろうとして迂回を続ける。手紙の言葉を信じなくなることによって未来は断たれる。

Queremos ir con ustedes
 

鶏頭の十四五本もありぬべし 子規
 

26 and died


銅​を​金​に​、鉄​を​銀​に、木​を​銅​に、石​を​鉄​に​、平和​を​監督​と​し、正義​を管理​者​と​する
金銀銅鉄木石の順か
 

Notamos la expresión inspirada de la verdad y la expresión inspirada del error

https://twitter.com/Cafeoto/status/1453691834207703042?s=20

We will now be living in a temporary virtual paradise
https://twitter.com/therecount/status/1453789257521315841?s=20
https://youtu.be/kt0jVDeu2Qc

https://twitter.com/twisuspendead/status/1454669167311740932?s=20

俺がまだ生きていたらという耳で俺以外の二楽章を裁断するベトちゃん案外ポーツマス的なのも良くないか?いやダメだベルリンもウィーンも土地がなってるだけだリスト編曲は偏屈な東洋リズムを細かく伝えれば済むってもんじゃない要はお前らは俺じゃないってことだ。

14:44 https://youtu.be/-4788Tmz9Zo

 
 

落選

俺は落選した
ムサシも効かなかった
岡山駅前のムナシも潰れた
無惨の造形には甘さがあった
民主主義的の方法で俺は落選したのだ
多数決で!
多数決じゃない一対他全部だ
三分の一が俺の尾で払われたものの
三分の一は
ワクチン打って鬼殺隊
ヒットエンドラン
ヒットエンドラン
ワクチン打って鬼殺隊
民主主義が最終政体として教え込まれている限り左右はその掌上で踊るだけだ
九条に対して
出産は身体が巻き込まれる暴力であり
病める血液が民主主義から零れ落ちる
私は彼より強い
ではなく
私は彼より正直だ
と主張する場合
裁判は時間を要する
自民はしばらく支配している
一貫したテーマは国家である
ツルツルと変換するな
小野の岐れ路のつまらない借家の
ブロック塀に国家が綻ぶ
枡目の中で綻ぶ
乱暴な巨人が白茶ける
神は化石を創造した(ジジェク)
患難から這い出して来ない人々を抱きしめる
バイデンがPopeを抱くように
第二の死も意味はない
綿から目鼻口が覗く
羊毛の汚れは捨象されている
家の軋む音は断続している
剪定しなければ実をつけない柿のように
未だに市民と言う木の市
共通点がなければ市民の交感はない
窓の向こう、干した綿のタオルが乾いて揺れることや外の気温をナメクジやサカナと共有するのだ
巻尺で測る頭のデカさに太いミサイルが配備されるインド
一層親しくなれるコックピット
移動してから気がついた
酸化の白の脳の表面の陰影
可愛いけれど顎のない輪郭
顳顬に鎧の鍔
中の人には言葉がなかった
岐れ路の絵を化粧台に貼る
吊られたマスクが揺れる

葛の巻き付いた引込線から火花が出ている
たまに風が吹くと電球が点滅する
ブレーカーを切った方がいいのは分かっているが本を読んでいるので

近江八幡7日合奏用


美大によくあるトランスパラント症候群
https://twitter.com/tomizawakakio_b/status/1454583967789637640?s=20

クラゲと共にやってきた
ヨン・ヤ・サ
https://twitter.com/NagautaLyrics/status/1454583659936174086?s=20

 
すげ替えてもすげ替えても全員不合格となれば人を裁ける人はいないということで落ち着くんじゃないでしょうか
あとは駆け込み寺なき復讐の地獄になると思うでしょう奥さん
ところがそうはならないんですなこれがまた

金木犀二度咲くことを知らぬ人

多数派は存在しない。批判の多さでその数が推し量られるだけだ。
しかし石を投げて敗北できた時代とそれ以降を比べて、どっちが充実感あった?投石すべきは海馬ヴァーチャルである。

 

 

 

#poetry #rock musician

悲しみ

 

たいい りょう

 
 

深くうな垂れている
疲れているのか
それとも 悲しみに
慄いているのか

手が顔を覆い
腰を老人のように折り曲げ
深く椅子に沈んでいる

悲しみは癒されようもない傷として
深い淵の中に
心を落としている

いつまでも いつまでも
降り続いてゆく
深雪のように
彼岸へとさらってゆく

 

 

 

あきれて物も言えない 28

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

Cheep Imitation

 

ここのところ、
高橋アキがピアノを弾いているCDで「Cheep Imitation」* を聴いています。

「Cheep Imitation」とは、
“安っぽい模造品”という意味だそうです。

昨夜も聴きました。
いまも聴いています。

 

今日は、
日曜日、

よく晴れた秋日和です。

音楽のおかげか、
すこししあわせな気持ちです。

我が家の金木犀に黄色い花が咲きはじめました。
清々しい香りの花です。

朝には、
道端の陽だまりにオキザリスのピンクの花たちが風に揺れていました。

もう午後ですが、
まだ陽はあたたかく窓辺から射し込みます。

静かです。
小鳥の声も聴こえてきます。

「Cheep Imitation」は、ジョン・ケージによって作曲された曲です。

高橋アキがピアノを弾いている「Cheep Imitation」は、
高橋アキのピアノソロで「Cheep Imitation」が弾かれて、
その後にモートン・フェルドマンが編曲し高橋アキに捧げられたピアノとフルートとグロッケンシュピール(鉄琴)のための「Cheep Imitation」の演奏があります。

「Cheep Imitation」は、
サティの「ソクラテス」を題材としてジョン・ケージによって作曲されました。

サティの「ソクラテス」をわたしは若い頃から、聴いてきました。
デルヴォー指揮でパリ管弦楽団、ソプラノのマディ・メスプレがパイドン役として歌っていました。

「Cheep Imitation」はケージがサティに捧げた音楽です。
その曲をモートン・フェルドマンが編曲して高橋アキに捧げたのです。

 

そこに小さな光が見えます。
そこに幸せがあるでしょう。

「Cheep Imitation」は、”この世界”へのとてもやわらかい”捧げ物”と言って良いと思います。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知っています。
呆れてものも言えないのですが言わないわけにはいかないとわたし思えてきました。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 高橋アキのCD「高橋アキ プレイズ ケージ × フェルドマン via サティ」(カメラータ・トウキョウ)

 

 

 

褪せた水色と白のストライプ、血痕

 

村岡由梨

 
 

1. 娘A

 
楽しそうに話す学生たちの声。
キュッキュッと忙しく歩く上履きの音。
「学校」という色々な音が渦巻く空間の中心で、
ひとり孤独感を募らせた、娘。
特に誰かに悪口を言われたわけでも、
意地悪をされたわけでもない。
鳴らないスマホ。
周囲の友達の、悪意の無い無関心。
自分という存在が持つ意味がわからなくなって、
娘はやがて、呼吸の仕方がわからなくなった。
そして、学校へ行けなくなった。
もちろん、それだけが理由なのでは無いのだろう。
理解のある面倒見の良い先生。優しい友達。
誰も悪くない。だから辛い。
「高校3年 大学4年 仕事を始めたら40年」
「今、選択を間違えたら、この先大変なことになりますからね」
オンラインの特別ガイダンスで声を張り上げる先生たち。
それを虚ろな目で見る娘。
思わず抱き寄せると、
体が静かに震えていた。
将来のことなんてわからない。
考えたくもない。それなのに
カチカチと無情に時間を刻む時計。
カチカチとカッターナイフの刃を出す音。
切れ味の悪い刃で、娘の白い皮膚が裂かれるのを見て
悲鳴をあげる。

 

「自殺したい」
親が子供にそう言われる苦しさを思い知りました。

そう言って診察室でうなだれる私。
「今はたくさん甘えさせてやりなさい。」
先生はそう言った。

娘が「ママさん、ママさん」と言って無邪気に抱っこをせがんでくる。その無防備な二つの胸の膨らみに、抱くのを躊躇う私がいる。これまで母親のような役割も果たしてきた夫に娘が抱っこされるのを見て、戸惑う私がいる。父娘が抱き合うのを見て、男女の性愛を思い浮かべてしまうのだ。うなされ苦しむ娘の声を聞いて私は、女である私と母親である私との間を右往左往する。これは育て直しなのだ。甘え直しなのだ。ぎこちなく娘を抱き寄せて、背中をさする。「ママさんって、いい匂いがするね」しばらくして抱いている手をゆっくりとほどいて、娘を寝かせて、手を握る。娘がどこか遠くを見つめて言った。

「ママさん…ママさんは近いのに遠いね」
「そう?」
「うん。近いのに、遠い。」
「そっか…」

そんなことないよ、とか
遠くなんてないよ、とか
そんな風に娘の孤独を受け止められる母親に、
これから私は、
なり得るのだろうか。

 
 

2. 娘B

 
夜遅くに塾が終わって、
突然の雨で全身びしょ濡れで帰ってきた疲労困憊の娘が
怒り任せに、こう言った。
「何でこういう時に限って迎えに来ないの」
「死ね、毒親」

 

「死ね、毒親」

 

かわいいとか愛しいとか、かけがえのないとか
そういった熱を帯びたような感情が、
すっと冷めていくような気がした。
こんなことくらいで感情が冷めていく、
自分の心の脆さが、こわかった。

「冗談だった」と言ってくれた娘。けれど、「私の知らないところでも、私のことを毒親だと嘯いているのではないだろうか。」自分の子供のことを邪推する。他人から悪い母親だと言われるのがこわい。いつかひどい言葉で傷つけられるんじゃないかと警戒する私がいる。自分自分自分吐き気がするような自己愛に耽溺する私。それを軽蔑する娘たち。自分自分自分自分自分自分自分自分いくら人から作品を認められたって、二人の娘の心に響かなければ意味がない意味がないもうどうすればいいのかわからない。自分という存在に意味を持たせようと必死だったけど、意味がない もう意味がない 自分の都合のいいように娘たちを解釈しようとする私 後ろめたさ いい母親ぶっていること 全て見透かされている

 
 

3.

 
ある日、私たち家族は、窮屈なベッドで眠っていて…
身動き出来ないほど、窮屈だった。
その時、まるでフラッシュバッグのように私は
2017年に訪れたアウシュビッツ(オシフィエンチム)で見た光景を思い出したのだった。
ぞっとするほど冷たい手で心臓を握りつぶされて
引きちぎられたような衝撃だった。
気がつくと、私はアウシュビッツの収容棟にいた。

モノクロではなく、鮮やかなカラーの光景だった。
私は、褪せた水色と白のストライプの囚人服を充てがわれ、
たくさんの囚人たちと同様、「名前を奪われて」、
一緒に収容棟へ入れられた。
寒い寒い夜だった。
古びて煤けた粗末な二段ベッドで痩せた体を押しつけ合い、
互いの体温を分け合いながら、
身を切るような寒さをしのいでいた。
生きのびるために
生きのびるために、自分以外の誰かの体温が必要だった。

ある日、一人の看守が一人の囚人を表にひきずっていった。
間も無くその囚人は頭を撃ち抜かれて死んでしまった。
地面に広がる赤い鮮血。周りにいる人たちの無関心。

夢から覚めて、
その血の赤さを思い出して
これまで「詩」という名の暴力で
娘たちの「名前」を奪ってきたのではないかと思う私がいた。
ただでさえ生きづらさを抱える娘たちを
自分勝手に振り回して、
私は今まで一体何を思って書き続けてきたのだろう。

過去の何もかもを消してしまいたい。
でも消したくない。
娘たちが許してくれてもくれなくても、
無条件に人を愛せる人間になりたいから。
娘たちになら、頭を撃ち抜かれて死んでも構わない。

けれど
生きのびるために
私たちは「名前」を取り戻さなければならないのだ。
生きのびるために
人は、自分以外の誰かの存在の温かさが必要なのだ。

生きのびるために
生きのびるために。

 

 

 

見てた

 

さとう三千魚

 
 

そのひとは
いまも

リビングのベッドに横たわっているのか?

なにを
見ているのか?

庭の
花を

見て
いるのか?

戦争も
空襲も

見たのか?

60年代も
70年代も
80年代も
90年代も
2001年も
2011年も
2021年も

見たのか?
見ているのか?

過ぎてゆくか?
過ぎ去ったか?

この世か?
この世のこの身か?

今日
優しそうに

見えたよ
看護師さん

この男は
2回目の筋肉注射を打ったよ

打って
もらったよ

15分間
タイマーを

渡された
熱帯魚が泳ぐのを見てた

眼が
まるい

鱗が青く光る
水草を口先でつついた

見てた
見ていたよ

 

 

 

#poetry #no poetry,no life