ほんの散歩

 

野上麻衣

 
 

この蝶はなんてなまえ?

歩く速さに
蝶がついてくる

たちどまる

たちどまって
また
歩き出す

アオアゲハ
だよ。

きみのとなりを
ふわりふわり
かるく旋回

めずらしいのか
南の海みたいな、
あお
きみは最近
海をみただろうか

手をふって
蝶とわかれる

ほんの散歩
三人であそんだら
ひとりに立ち返った

 

 

 

コリコリコリック

 

辻 和人

 
 

コリコリだ
このところ夜はまとめて寝てくれる
このところ笑顔も増えてきた
なのにコリコリ、コリコリ
コリコリコリック
和名「黄昏泣き」
夕方、激しく泣く
4時にむっくとお昼寝から覚めて
ちっちゃなウェンウェンから始まり
やがてギュエエーンギュエエーン
泣き止まない、3時間泣き止まない
縦長に開いた口から呪いの声吐き出すコミヤミヤ
目腫れ切って真っ赤な手足震わすこかずとん
コリコリだ
コリコリコリック
必ず泣くこの時間帯
コミヤミヤを縦抱きしてゆっさゆっさ
涙がひと筋、ふた筋、流れ落ちて
落ち着いたかな
マットに下すと途端にギュエエーン
ああ、どうしたらいいんだろう
ミヤミヤと相談して代わりばんこに夕食をとる
ミヤミヤが抱っこ、ぼくがごはん
モグモグササッと食べ終わって交代
こかずとんを抱っこ、コミヤミヤにガラガラ
それでも泣き止まない

ミルク飲ませたしお昼寝もしたし
オムツも変えた
じゃあ、どうして泣いてるの?
ふと頭に浮かんだ
昔読んだ吉本隆明の難しくてよくわかんないところもあった本
『言語にとって美とはなにか』
「言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、
その反射がしだいに意識のさわりをふくむようになり、
それが発達して自己表出として指示機能をもつようになったとき、
はじめて言語とよばれる条件をもった」
おお、コリコリ、コリだよ
生後すぐの大泣きは
まあ動物的な段階だ
でも生後3ヵ月を過ぎた今は目を見て笑顔、社会的微笑を連発
「意識のさわりをふくむ」ようになった段階ってことだね
言語まではまだ遠いけど
<自己>が生まれて<表出>する
コミヤミヤはコミヤミヤでコミヤミヤだ
表出! ギュエエーン
こかずとんはこかずとんでこかずとんだ
表出! ギュエエーン
理由なく泣いてる、わけじゃない
さわりがコリコリを呼んでいる
コミヤミヤがコミヤミヤでこかずとんがこかずとんだから
コリコリだ
コリコリコリック

2人を交互に抱っこして
だんだん顔つきがとろっとしてきた
そろそろ7時か
抱っこしてると疲れるけど
その重さが快い
横抱き抱っこを縦抱き抱っこに変えて
お尻の感触がもちっと腕に伝わってくる
コリコリ?
意識のさわり
うん、こりゃさわりだ
コミヤミヤのお尻の感触、こかずとんのお尻の感触が
2人をただ目で見た時とは違う感情を連れてくる
ギュエエーン、とはならないけれど
何かコリコリしたもの
お尻を、腕で、食べちゃいたい
ぼくの中から<自己>が飛び出して
勝手にさわりを作ってやがる
こういうのも
<自己>が<表出>してるって言うのかな?
『言語にとって美とはなにか』、ちょっとわかった気になってきた
なったところで
コミヤミヤとこかずとん、とろんとろんと落ち着いてきた
親指をお口に入れてくっちゃくっちゃ
もう少ししたらお風呂入ろうね
それで明日の夕方またコリコリしようね
コリコリだ
さわりが<自己>で<表出>だ
コリコリコリック
コリコリコリック

 

 

 

アリガトウ、サヨウナラ、ゲンキデネ

 

佐々木 眞

 
 

正午。
誰一人通らないカンカン照りの田舎道を歩いていると、どこかでポトっと音がする。
振りかえってみると、道の真ん中に、栗がひとつ落ちていた。

栗を拾って、なおもカンカン照りの道を進んで行くと、
道の真ん中に、小さなコジュケイが、ひとり佇んでいた。

コジュケイは、ゆっくりと歩きながら、しばらく物思いに耽っているようだったが、
いつものようにチョットコイと騒いだりせず、また一度も僕の顔を見ることもなく、
黙って電柱の脇に消えた。

どこからともなく、一陣のそよ風が吹いてきたとき、
僕は突然、分った、と思った。
彼女は僕に、「アリガトウ、サヨウナラ、ゲンキデネ」と言いたかったのだ。

なぜか僕は、一瞬その電話を、とることを躊躇ってしまった。
去年の今頃亡くなった妹が、ホスピスから掛けてきた電話を、
コロナで仰臥していた僕は、なぜか素早くとれなかった。

巨大な白入道が立ち上がる群青の空の彼方から、
ふと思いついたように吹きつけたそよ風は、歌うようにこう囁いたのだった。
「アリガトウ、サヨウナラ、ゲンキデネ」

 

 

 

わたし ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 51     nozomi 様へ

さとう三千魚

 
 

わたしは
たんぽぽ

田圃の
ぽぽ

わたしは
いつか

ぽぽっと
咲くよ

ぽぽっと
羽ひろげて

飛んでゆくよ

いつか
野原に

たくさん

黄色の花
咲かすよ

 

 

***memo.

2023年9月2日(土)、川根文化会館 古本市にて、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」として作った51個めの詩です。

タイトル ”わたし”
好きな花 ”たんぽぽ”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

論争 ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 50     yoshimi 様へ

さとう三千魚

 
 

争うことを

避けてきた
できるなら

ひとりの道を
歩きたい

そう思ってた

里には
梨の白い

花が咲いて

秋には
実がなっている

実になる

ことば
あるの

 

 

***memo.

2023年9月2日(土)、川根文化会館 古本市にて、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」として作った50個めの詩です。

タイトル ”論争”
好きな花 ”梨の花”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

餉々戦記 (葉月きゅうりにまみれ 篇)

 

薦田愛

 
 

葉月はちがつ来る日も来る日ものびあがっていた雲の峰は
PM2.5をふくむ南風にくずれ
とはいえまだまだうろこ雲なぞ見あたるはずもなく
どこまでも暑い
ふれれば冷たい青物すなわち野菜をあらっては剝き刻んではさらし
しぼったり混ぜたり和えたりと
ぬれているあいだ
指は涼しくいられるのだった
それと心づかないまま
火をつかわずに済む料理がふえていたのだろうか
諸物価高騰の折というのにガス代が安い

去年おととし水はけのわるい畑にユウキが苦心
まず畝を高くし
なぜここにという溝を埋めてはまた戻し
防草シートを貼ったものの土がすこしも乾かないので外し
そして六月
男爵メークインの収穫につづいて小ぶりの玉ねぎを束ね軒端に吊るし
お次は黄色いズッキーニきゅうり大玉中玉トマトにピーマン少しなすまたきゅうり
庭のいんげんししとうにら九条ねぎ大葉は私もすこし摘み
梅雨の晴れ間にししとうさらにししとう日に十から二十とレジ袋を満たし
引き出す冷蔵庫の野菜室はぎゅう詰め
いやはやそれでも圧倒的に
きゅうりが、ね

さてそのきゅうりを十本ほど入れた袋を取り出す
ずどっ こすれるみどりの重み
ああ十日も経ってしまった
日付をメモして入れていたのだが湿って滲むし
「これじゃ開けないとわからないよ」と当のユウキが
養生テープにマジックで大書して袋の外に貼りつけた
ほほぅなるほど
日付を更新する時はテープを重ね貼りして書くわけね
ぴぃっと手で切れる養生テープも緑いろ
日の傾くころ畑に出たユウキがバケツを手に戻ってまた五本
猛々しい棍棒はかると六百グラムになんなんとしている
酢の物に冷や汁サラダに入れ叩いて豆板醤まみれ
って食べようはいろいろ
風呂上がりのユウキはとりわけ立派な一本を選んでまっぷたつ
それぞれ四つに割って大皿にのせマヨきゅうで平らげるのが好みだけれど
在庫が総計十五本いや二十本ひと雨くればまた破裂せんばかりに満ちてもがれるのだから
追いつくはずがない
去年みつけた
豚の冷しゃぶと薄切りきゅうりを梅肉とごま油とぽん酢で和えるあのレシピは
絶品にあきないけれど如何せん二本しか使わない
嬉しい悲鳴ってこういうことかな
最近ネットで見かけた「野菜の大量消費」という言葉
なんだか申し訳ない響きだけれど
うなずいてしまう
せっかく収穫したのに食べきれず傷めてしまったら
それこそ申し訳なくもったいない
朝に検索夜に検索寝落ちの際まで検索もしくはきゅうり×何かを妄想
きゅうりのスイーツって作れないかななんて
あっあったよ
五本だって
五本のきゅうりの輪切りに生姜ひとかけ分の千切りを
鷹の爪と醤油と酢と砂糖少しをあわせて沸騰させたものに浸して十分くらい煮て冷ます
それでできるんならいやいやまずは
輪切りに塩ひと振りしておいて
ぎゅうううっの目も出ぬほど水気をしぼりにしぼっておかなくては
それにしても
育ちすぎたきゅうりの中心はメロンよろしく潤んだ大きな種がぎっしりなんだな
縦割りしたそれぞれをぐぐいずずずっとスプーンで搔き出せば
あとは淡いみどりのアーチ
ぬれて涼しい指先はわずかずつ
みどりの汁を吸いあげているかもしれない
はじめはレシピにらんで
とっとっととんっと包丁つかって輪切りにしていたけれど
何度かつくるうちにスライサーでスッスススッ
調子づきすぎて指や爪を削がないようにしなきゃ、と強めに意識して手前でストップ
粗忽だから、さ 夜中にふと気づくんだ
あれっ人差し指の爪の輪郭が
へずれてるなって
おっとタイマー押し忘れてる
あと七分てことにしておこう弱火を確認
煮汁ごとさましたらタッパーに移す
前にどれどれうん酸っぱすぎない甘すぎないこれは
すっかり泥んでカーキ色だけれど正真しょうめい
みどり鮮やかな鎧を着たきゅうりくん
そうそう切り昆布を洗って水を切り鋏でぶっつぶつ
煎りごまと一緒に混ぜたらできあがりってわけ
すごいなああの棍棒サイズ筆頭に五本ぶんの山盛りスライスが
両手にちょうどのタッパーひとつに収まってしまうなんて

いきおいづいて去年新聞で知った山形の「だし」もつくっておくか
ユウキ野菜だけでは間に合わなくて
あれば直売所でミョウガにオクラ
去年は畑でとれた新生姜を使ったけれど今年はスーパーで少量パック
そもそも畑や庭できゅうりになす、大葉が揃うから
スイッチが入るんだ
種類が多いぶん使う量は少しずつだけれど
五ミリ角や粗みじんに刻むのは
フードプロセッサー使わないとやや面倒
オクラの産毛を塩でこそいだりね
大葉のいちまいいちまい破らないように洗ったりね
そんな難儀みまん粛々と指をぬらし湿らせ
これも切り昆布をざっと洗ってぷつっぷつぷつり
五ミリ角の世界に馴染ませなくちゃね
今夜もまた豚の冷しゃぶ細切りきゅうりの梅肉和えに
ふたつのタッパーからスライスしたのやら刻んだのやら小皿に盛り合わせ
ねえユウキ
身体の芯からひんやりするきゅうりのフルコースって按配だね
「やあ、美味しいよねこれ」と取り皿から梅肉和えをもりもり
続いて小皿を手にずっずずっ
日焼けに日焼けを重ねたユウキの二の腕から汗はひき
目を合わせてふたりほおっと
いきをつく

 

 

 

秋のはじめのねこじゃらし ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 49     maiko 様へ

さとう三千魚

 
 

はな
なのかな

ねこじゃらしは

椿の紅い花
風に

揺れていた

ねこを
じゃらす

風がとおる

 

 

***memo.

2023年9月2日(土)、川根文化会館 古本市にて、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」として作った49個めの詩です。

タイトル ”秋のはじめのねこじゃらし”
好きな花 ”ツバキ(赤)”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

bipedal walking blues

 

工藤冬里

 
 

妄想からこれほど遠ざかったことはない
なんだこれは
観てない映画のように
疲労する有限しかないのか
小道具の単価が高過ぎる
痣のように縁日があり
ステロイドもトリチウムも弁当になる
サポートする方法はいろいろあるが
有限の胡桃柚餅子を切るのが一番だ
食べられない雪の宿の
自発的な割れ方
継ぎ合わせる赤土を光らせる
無限の低火度の蒙古斑の項
アナウンスは常に大本営からのwhy not
7人死んで7人生き返った
扇風機がアフリカっぽい
ルーのニューセンセイションはニューじゃなかった。どろどろしてた。
耳が千切れそうだ

死ぬ前の方が大事だと何故分かったのか。名前のない兄はどう覚えられているか。死んだライオンよりましという認識を親から継承した召集者も、死んだ二足歩行の兄を産もうとした二足歩行の者のことを思っただけではない筈だ。

いちめん塩を被ったからか休んでいる平面が多い
あとはずんだ餅用の豆とか
新建材はまたそれが来るまでの間生きてるという感じ

結局全部音楽じゃないんじゃないか?

 

 

 

#poetry #rock musician

ひまわり

 

塔島ひろみ

 
 

ガサゴソガサゴソ音をたてて
カバーをかける
銀色のカバーを 自転車にかける
いたわるようにかける
何度も何度も かけなおす
赤ん坊に着物を着せるように
ていねいにかける
老人はもうこの自転車に乗ることがない
こげなくなった自転車にカバーをかける
ガサゴソ ガサゴソ ガサゴソ ガサゴソ
音は止まない
その音を 老人のうしろでひまわりが
聞いている
老人が育て
大きくなりすぎたひまわりが 聞いている
朝夕にせっせと水をもらい
グングンのびて 老人を追い抜き
伸びるほどに老人から離れ
伸びたくなくても 伸びていった背の高い 
たった一本きりのひまわりが
聞いている
老人からもはや 見上げられ眺められることもなくなったひまわりが
首を垂れて 聞いている
音がやんだ
老人は自転車から離れ おぼつかない足取りで家に入る
セミが鳴きだす
カバーに覆われた自転車と
ひょろ長いひまわり
ブロック塀
ポスト
セミが鳴く

セミが鳴く

雷が鳴る

セミが鳴く

雷が鳴る

黒いものがやってきた
雨が降る
どしゃぶりになる

カバーが気持ちいいように雨粒をはじく
ひまわりは重く濡れ 幽霊女みたくなって自転車のうえでグラグラ揺れる
雨の圧力
耐えている
自転車も ひまわりも 老人の入る小さな家も 路地も どこかで交尾するセミたちも 耐えている
私が差す傘も 坂道も 橋も 顔のない地蔵も そのそばに咲く小さな赤い花も 耐えている
雨がやむ
陽が差す
ギラギラと強く 容赦なく 照りつける

カバーにたまった水が キラキラ光る
老人がもう乗ることのない自転車を すっぽり覆い
カバーはまるで銀色の大きな生きもののように 光を放つ そして
たっぷりの水を吸収し
老人がもう見上げることのないひまわりが ゆっくり 顔をあげる
太陽に向かう

長すぎるこの世の 終わりを待って
セミがまた鳴き出す

 
 

(8月某日、高砂、地蔵堂近くの路地で)

 

 

 

誰もいない

 

たいい りょう

 
 

誰もいない
町は 人ごみに
溢れているけれど

わたしのこころには
誰もいない

目に映る人びとや光景は
何もかもが 幻影で
捕まえることなど
できはしない

わたしのこころの深奥にある
悲しみは
誰も見向きもしなければ
外へと流れては ゆかない

わたしは ひとり
湿った陽光の照射する部屋で
メランコリーに潰されている

夜の月あかりは 寂寥に深い傷を
舐めまわす

そして
何ひとつ
わたしは 過去の痛みを
思い出せない