家族の肖像~親子の対話 その66

 

佐々木 眞

 
 

 

2023年4月

お父さん、メンドウクサイといったら、ダメでしょう?
ダメだね。

今回って、今のことでしょう?
そうだよ。

変更って、変えることでしょう?
そうだよ。

お母さん、シャケご飯とトマトスープとマーボドウフにしてね。
分かりましたあ、シャケご飯とトマトスープとマーボドウフにしましょう!

お父さん、じえじえ、アマちゃんでしょう?
そうだね。ツバメも、じぇじぇって鳴いてるけどね。
じえじえ、じえじえ、じえじえ

お母さん、被告人て、なに?
悪いことをしたかもしれないひとよ。

お父さん、駅でえ回数券買ってえ、東急行きますお、29日。
分かりましたあ。

アコトさん、加藤のトウ、フジでしょ?
そうだね。フジだね。

お母さん、案内に従って、て、なに?
言うとおりにしてくださいね、のことよ。誰が言ってたの?
東急で。

お母さん、ぼく、東急好きですよ。
そうなんだ。もうツツツ大丈夫になったのね?
大丈夫ですお。

コウ君、ひーちゃんに、朝の5時に電話したら、駄目じゃないか!
うわあああ、御免なさい、御免なさい、もうしません!!

桜木町で、横浜線見ました。ぼく、横浜線好きですお。
そうなんだ。

 

2023年5月

鎌倉には、ツツツが、あります。
「早く渡れ」の信号ね。

お父さん、笑うとサトミ、なんていう?
「コウさん、アホ笑いしないでね」っていうよ。

お父さん、早く起きてください!
うんうん。
お父さん、早く起きてください!
うんうん。
お父さん、早く起きてくださいね。

お父さん、生徒会長、英語でなんていうの?
生徒会長ねえ。うーん、ちょっと分かりません。

取材って、なに?
取材かあ。新聞記者やテレビ局が記事や情報を集めて仕上げること、かなあ。
お父さん、取材って、なに?

「首都圏ネットワーク」のウエハラミツキが、黄色いスカートはいてましたよ。
そうかあ。よく見てたね。

お父さん、首都圏の英語は?
えーとお、メ、メトロポリタン!

お父さん、大好きですお。
お父さんも、コウ君大好きだよ。
お父さん、大好きですお。
コウ君、どうかしたの? 大丈夫?
大丈夫ですお。

お母さん、インターネット、なに?
いろいろと調べる道具よ。

お父さん。いまお母さんは?
当ててご覧?
セイユー。
ブ、ブー。
オバアちゃんち。
ピンポン!

お母さん、亡くなったのは、ヒロスエリョウコでしょう?
そうねえ、ドラマのお話の中でね。

お父さん、「やり直し!」って、言われちゃったよ。
いつ?
むかしッ!
大丈夫だよ。

お母さん、むかし、湯河原の、コノエモンホテル、行きましたお。
そういえば、昔みんなで行ったわね。面白い旅館だったわね。

盛りだくさんって、なに?
いっぱい、いっぱいのことよ。

 

2023年6月

たしなめるって、なに?
悪いことしたらダメよ、って注意することよ。

ウエハラミツキ、臙脂色のスカート、はいてますよ。
そうだね、臙脂色だね。

コーヒーポッド出て来たよ。コウ君が捨てたんじゃないのに、コウ君を疑ってごめんね。
許してあげますよ。
ありがとう!

クワイ、出てて良かったよ!
何が出たの?
ハッパだよ。
どこで出たの?
お庭だよ。

コウ君、今日はどこいきますか?
図書館とお西友だお。
分かりましたあ。

再調査って、なに?
もう一度調べることだよ。

ぼく「舞いあがれ!」みてますお。ぼく「舞いあがれ!」好きですお。
そうなんだ。
舞いあがれ! 舞いあがれ! 舞いあがれ!

お父さん、大好きですお。
お父さんも。

お父さん、洗濯物、乾いた?
乾きましたよお!
お父さん、洗濯物、乾いた?
乾きましたよお!
お父さん、洗濯物、乾いた?
乾いたよ。乾いたよ。乾いたよ。

お父さん、社長秘書の英語は?
プ、プレジデンツ、セ、セクレタリー。
なに?
プレジデンツセクレタリーだお。

お母さん、ウエハラミツキ、怖くない?
怖くないわよ。コウ君、怖いの?
怖くないですお。
可愛いんでしょ?
ウエハラミツキ、可愛いお。

コウ君、今日はどこへいきますか?
西友ですお。
そうですか。

お母さん、ヒロスエリョウコ、いなくなっちゃったよ。
そうねえ。ザンネンなことしたねえ。

さて問題です。お父さんは、いまからどこへ行くでしょう?
おばあちゃんち。
あったりー! コウ君も行きますか?
おうちでお留守番してます。
そうですか。

お父さん、洗濯物、乾いた?
乾いたよ。
洗濯物、乾いた?
バッチリ乾いた方から、心配しないで返ってきな。

一人ぼっちって、なに?
お友達がいないことよ。

フラレルって、なに?
もうお付き合いをしてもらえなくなることよ。

お母さん
証明って、なに?
はっきりさせることよ。

お父さん、明日トウキュウいきますお。
そう。もうツツツ、大丈夫?
大丈夫ですお。

お父さん、ぼく、イシャラサトミ、可愛がっていますよ。
え、そうなの。

対象者のショウって、ゾウだよね?
そだね、確かに象だね。

 

 

 

drive my father’s car

 

原田淳子

 
 

 

灼けつく壁に垂れ下がり
息を凝らしている

夏は無かった
ただ白百合が揺れていた

漂白された運動靴

葡萄棚の海

カー・ステレオから
ポール・モーリア「涙のトッカータ」

昨夜読み耽った
マッカラーズのワンシーンが繰り返される
木、石、雲に宿る愛の科学

無かったのではなく
散っているのだ、四方の光に

未来も過去もなく
凪を潜りぬけてゆく

窓に映る
青い影のほおずき

秋に朱に燃ゆる
わたしのこころ

いつか
この凪の季節を
優しく想い出すときが来るだろう

 

 

 

ジェーン・バーキンの思い出

 

佐々木 眞

 
 

その1

 

2023年7月16日、女優ジェーン・バーキンが、パリの自宅で76歳で死んだそうだ。

長く心臓を患い2021年には軽い脳卒中を起こしたこともある、という新聞報道を斜め読みしながら、私はしばらく彼女との懐かしい思い出に浸っていた。

バーキンといえば、日本人の誰もが思い出すのは、2011年3月11日の福島原発事故であろう。

あの時、多くの外国人が来日を取りやめたが、なかにはジェーン・バーキンやシンディ・ローパーのように、万難を排して震災直後のわが国にやって来てコンサートを開いたり、激励のメッセージを私たちに伝えてくれた勇気あるミュージシャンもいた。

当時原発事故の様子は、本邦よりも西欧諸国のメディアのほうがより深刻に報道されていたはずだから、「万難を排して」というのは単なる形容詞ではなく、彼らは恐らく文字通り、みずからの生命の危険を賭して、飛んできたに違いないのである。

実際ジェーン・バーキンが乗り込んだ成田行きのエアフランス機には、彼女以外の乗客は一人もいなかったそうであるが、この便がパリに戻るときには、大勢の乗客で満席だったはずで、その中には本邦を逃げ出そうとする日本人もいたに違いない。

なぜジェーンが、そういう命懸けの向う見ずな行為に及んだのかは私にはよく分からないが、思うに彼女は、愛する日本人のことが心配で心配で仕方が無かったのではないだろうか。

テレビで第一報に接してすぐにシャルル・ドゴール空港に向かおうとする異邦人の心の底には、日本人と自分を同一視し、この最大の苦難の時をともにしたいという、国境を超えた同胞愛のようなもの、が点滅していたに違いない。

「朋あり遠方より来たる」と孔子は言うたが、同胞からおのれを切断する悲愴な決意を固めて西に飛んだ友人の代わりに、新しい東方の友人を迎えた人たちは、百万の味方を得た思いで「楽しからずや」だったのではなかろうか。

私がジェーン・バーキンという、そんな伝説付きの女優に初めて出会ったのは、1986年11月のことだった。

当時彼女は、レナウンの「P-4」という婦人服の広告にモデルとして出演するために、夫の若手映画監督ジャック・ドワイヨンと共に来日し、宣伝部に在籍していた私が、その接待役?を務めることになったのである。

私はその前年に同じ「B.B.N.Y」というブランドのテレビCⅯ2本を、やはり老練映画監督のJ=Ⅼ・ゴダールに撮ってもらっていたので、なんとなく新旧のヌーヴェル・ヴァーグに近いところで、趣味と実益を活かした?楽しい仕事をさせてもらっていたなあと、今振り返って思うのである。

 

ただひとりバーキン乗せてエアフラは放射能の島に舞い降りたり  蝶人

 

 

 

その2

 

ジェーン・バーキンが出演するテレビや雑誌広告の撮影は、京都の大沢池や高山寺の周辺で行われたので、私はロケ隊と同行し、彼女のモデルとしてのプロ意識とスタッフに対するざっくばらんな接し方に共感を覚えたが、いちばん印象的だったのは、ある日の昼の弁当に出て私を驚かせ、どうしても食べられなかったアメリカザリガニ!のフライの弁当を、彼女がミック・ジャガーのような大口で、パクパクパクと喰ってしまったことだった。

1986年11月30日日曜日の私の日記に、「ジェーン・バーキンはキディランドでお買いもの。夜、音響スタジオにてグリーグのペールギュントの「ソルヴェーグの歌」を管弦楽とピアノの両方で録る。久しぶりに自宅でくつろぎ『キネマ旬報』の原稿を書く」とあるが、この時のテレビCⅯの音楽で、彼女がスキャットで歌った「ソルヴェイグの歌」が、彼女が帰国したあとの1987年に、ゲンスブールの歌詞とプロデュースによって「ロスト・ソング」という新曲としてフィリップスレコードからリリースされたのだった。

ゲンスブールは高音部を出せないバーキンに、あえてそれを強いた。バーキンの悲鳴に似たその歌声が、この曲の悲愴味をいやがうえにも高めているが、ハンサムでインテリのドワイヨンに夢中で、間もなくゲンスブールと別れて結婚することになるバーキンに対する、サディスティックないたぶりも、ふと感じさせるような編曲である。

なぜか音楽の話になってしまったので続けると、私はバーキンの最初の夫、英国の作曲家ジョン・バリーの映画音楽が割と好きで、今でも「007シリーズ」や「冬のライオン」「真夜中のカーボーイ」「アウト・オブ・アフリカ」などの名曲を楽しんでいるのだが、2人の間に生まれたフォトグラファーのケイト・バリーが、2013年12月に謎の死を遂げたことは、子供思いの母親バーキンにとってとても大きな痛手だったに違いない。

来日中の彼女は、毎日3女のルーに、「ルー、ルー」とその名を愛しげに呼びながら、国際電話していたことを、何故か私は知っているのだ。

 

 

 

その3

 

それはさておき、接待役の私は、日本の普通の家の暮らしが見たいというジャック・ドワイヨン&ジェーン・バーキン夫妻を鎌倉に招き、当時妻の両親が住んでいて、その死後には私の次男のアトリエ兼展示会場に変身した古民家「五味家」に案内すると、大層喜んでくれたのだった。

それから妻が運転するカローラに2人を乗せ、大仏と長谷観音を見物してから光則寺に行ったら、バーキンが鳥かごのカナリアに指を差し伸べながら、ア・カペラで知らない歌を歌っていたので、「ああ、この人はアッシジのフランチェスコみたいに不思議な少女なんだ」と思っていたら、突然、「日本で火葬が始まったのはいつごろ?」とか、「日本人はどうして火葬にするの?」などと、矢継ぎ早に英語で聞かれ、不勉強で教養のない私は激しくうろたえたことを、いま思い出した。

長野県の親戚の田舎などでは、いまだに土葬にすることを知っていただけに、「日本全国総火葬」と言い切ることも憚られたのである。

その場はいい加減にちょろまかして、私らはそこから以前女優の田中絹代が住んでいた鎌倉山の眺めの良い日本料理屋に行って、4人でお昼御飯を食べたのだが、その思い出の「山椒洞」は、その後ミノ某とかいう芸能人が買い取って、無惨なるかな跡も形もなく破壊され、すっかり新築されてしまったそうだ。

さて京都での撮影が無事に終わって東京に戻り、ドワイヨンが一足先に帰国してからも、バーキンは一人で帝国ホテルに滞在していたので、当時季刊映画雑誌「リュミエール」の編集長をやっていた蓮實重彦さんが彼女をインタビューし、私もその号にバーキン愛のエッセイを寄稿させて頂いたはずだが、肝心の掲載誌がどこかに消えてしまって見当たらないのが、とても悲しい。

 

 

 

その4

 

前にも書いた通り、私は彼女の接待役であったから、雑誌社の取材の時にも立ち会って、賓客の「バーキン様」に失礼や粗相のないように気を付けていなければなかったが、マガジンハウスのふぁっちょん雑誌「アンアン」の取材のときに問題が起こった。

彼女が滞在していた帝国ホテルの彼女の部屋でインタビューし、ホテルの裏口あたりで何カットかの写真撮影が行われ、「さあこれで終わりだな」と思った瞬間、取材担当のライターのおネイさんが、バーキンが肩にかけていた白くて大きなバッグに眼をつけ、彼女に断りもせずバッグを手に取って、そのままコンクリートの地べたに置き、カメラマンに「これを取れ」と命じたのである。

後ろの方でそれを見ていた私は、思わずカッとなって最前列に飛び出し、「あんた、こんな所でバーキン様の大事な私物を撮るなんて、失礼じゃないか、即やめれ!」と阻止したのだが、その白くて無暗に大きな皮製のバッグこそ、1984年にエルメスから商品化された「エルメスのバーキン」の「原型そのもの」だったのでR。

だから今思うに、本家本元の大元祖に目を付けたオネイさんは、礼儀知らずの無礼者ではあったけれど優れた編集者であり、それを実力で阻止した私は、ふぁちょん音痴の忠犬ハチ公なのでありました。

 

 

 

その5

 

ジェーン・バーキンが滞在していた間、東京でも京都でも、素晴らしく天気が良かったので、私は中原中也が待望の長男の誕生に狂喜し、『文也の一生』で「10月18日生れたりとの電報をうく。生れてより全国天気一か月余もつゞく」と綴ったことなどを、ぼんやり思い出していた。

1986年11月29日の土曜日も、東京は晴れていたが、その日、渋い2枚目俳優のケーリー・グラントが82歳で死んだ。

私は同じ英国生まれの彼女から、帝国ホテルでそのニュースを直接聞いたのだった。

「ジャパンタイムズ」を両手で握り締めた彼女は、猛烈な勢いで、(フランス語ではなく英語で)、彼女とグラントとの思い出について語ってくれたが、残念なことに、それがどういうエピソードであったのか、私の貧弱な語学力では、ほとんど理解できなかった。

しかし、同じ英国生まれの大先輩とはいえ、共演したこともない偉大な俳優の死に、なんで彼女はあんなに興奮していたんだろう?と、私は随分あとになってからも気になっていたのだが、ある時米国アイオワ州ダベンボートの劇場でリハーサル中に脳卒中で急逝したケーリー・グラントが、現地で「火葬」されたという事実を知って、もしかすると、それが興奮の原因だったのかも知れない、と考えるようになった。

わが国では死者の殆どが火葬だが、欧米では今でもその多くが土葬にされるので、ケーリー・グラントのようなケースは稀である。

バーキンは「ジャパンタイムズ」でそんな記事を読んだので、光則寺で土葬と火葬の話題をふってきたのではないか、と思い当たったのだが、ひょっとすると先日パリで死んだ彼女は、フランスでは少数派でも、英国では多数派の火葬にすることを、予め遺言していたのかもしれませんね。

 

 

 

その6

 

仕事柄何度も何度も帝国ホテルに通ったのだが、彼女はその都度「ボンジュール!」といいながら、自分の頬を私の頬に左右2度に亘ってくっつけ、そのたびに明後日の方を向いて、チュッと唇を鳴らすのだった。

フランス人が、親しい友人との間で交わす「ビズ(la Bise)」、すなわち“社交的なキス”である。

はじめのうちは大いに戸惑い、右から来るのか左から来るのか、と緊張しまくったが、だんだん数を重ねて慣れてくると、その時のテキの出方で、なんとなく分かるようになり、彼女の頬の柔らかさと淡いあえかな香水の匂いにうっとりしている自分が恥ずかしくなる瞬間も、偶にはありましたね。

何事につけても自然体で、あるがままに振る舞う彼女なので、格別セクスイーとは感じないのだが、何度も何度もビズを繰り返しているうちに、これはもしかするとベゼbaiserではないかという勘違いに陥る人も、いるに違いありません。

私はそういうニッポン人だけにはなりたくないなあと思っていると、バーキン様が喫茶レシートを見ながら、何度も「ヴウワーキン」と発音しながら、ミック・ジャガーそっくりの顔をして、私を横目で見て、激しく首を振っています。

彼女の名前はBirkinなのに、私が間違えて帝国ホテルのレシートにVirkinとサインしていたことを、いま知ったのです。

 

 

 

その7

 

すべてのプロジェクトが終わって、いよいよ明日は帰国という日に、コーディネーターの方の招待で、ジェーンと私はJR有楽町駅前のガード下あたりの、当時はちょっと有名だったフレンチレストランに入ろうとしていた。

ところが、入口でジェーン・バーキンを上から下までじろじろ観察していたボーイが、「ただ今満席です」と、にべもなく入店を拒否したのである。

彼女はいつものように白の幅広シャツにあちこち素肌が露出しているボロボロに履き慣らしたジーンズといういで立ちだったが、それがこの格調高い高級店?のドレスコード?に抵触したらしい。

私は、ここでまたしても逆上して、「このお方をなんと心得る!」と、不逞のボーイを叱りつけようとしたのだが、その前に「あ、そう。そんなことは慣れっこよ」といわんばかりに軽やかに身を翻したバーキンは、別に「食べるのはどこでもいいのよ。あ、ここがいいんじゃない」と呟くと、敷居の高すぎるフレンチの左隣にあった大衆食堂にどんどん入っていき、私たちはその日本料理屋の畳の上であぐらをかきながら、ビールで乾杯してから天ぷら、刺身、寿司などの山海の珍味に舌鼓を打ったのであった。

今ではその高級フレンチも、なんでもありの大衆食堂も消え失せて跡形もないが、私はここを通るたびに、女優でもなく、歌手でもなく、ただ一個の人間であった日のジェーン・バーキンを、懐かしく思い出すのである。

そして、その日彼女が日比谷花壇で買ってプレゼントしてくれた大きなタペストリーは、今でも我が家の家宝のように大切に保存されていて、毎年のクリスマスの日が、すなわち「ジェーン・バーキンの日」になるのだった。

巴里に戻ったバーキンとドワイヨンは、その後も彼らの愛児ルーを寵愛しながら、数年間仲睦まじく暮らしたようだが、1990年に離別し、ドワイヨンは96年の「ポネット」でヒットを飛ばしたけれど、2人の代表作は1984年の「ラ・ピラート」であると、わたくしは信じている。

ジェーン・バーキンの霊よ、安かれ!

 

 

 

 

 

随分と殺してきたが

 

道 ケージ

 
 

いくら頼まれごととはいえ
確実な死をもたらすのは
それなりに大変で
気苦労も多い
 
体を鍛えても
役に立っているのやら
安全装置を外し
スコープ越しにとらえる
こめかみ
 
安全装置って
変なネーミングやなぁ
で、撃つ
 
何かがいつものように
飛び散る
銃身を少し撫で
ケースにしまう

ダケカンバの狂いもみぢ
ぬかるみの峠道
小鹿の目尻かわして
 
生きすぎた
ボートデッキで葉巻
南洋の素潜りはまだしも
北国の撃鉄は真に凍てつき
宇宙の弓引き、砂塵で仮眠
 
後ろに立ち
卒倒した者が
それを誇る始末
 
何度でも何度でも
撃ち撃つ、撃つ撃つ、うつうつ
強欲なバキシル、レメロン
生き難いぞ
ラム酒浴びて牛になる
尊勝陀羅尼
とそそめく

それを続けるのだ
もみあげはどうします?
あ、長めで

 

 

 

浜辺では

 

さとう三千魚

 
 

一日
部屋にいて

本を開いたり
写真を

サイトに上げたり
してた

夕方には
クルマで

浜辺に行った
珈琲をポットに入れて

ディランを聴いて
行った

“One too many mornings” だった

波がうねってた
飛沫があがってた

そのヒトは最後に母の詩を書いた

そして
九月に逝った

浜辺では激しい雨を受けた
浜辺では激しい雨を受けていた

 

* 2023年8月15日 敗戦の日に

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

産む男

 

工藤冬里

 
 

これだけの人が居ても
一人居なくなったと思うと
平穏では居られない
飛ぶことはできるが
低空でしか飛べない日に
やっとの思いでビルを超え
嵌め込み式ベッドを倒し
覗き窓に「まど」と書いて埋没しようとしたが
平穏では居られない
日が斜めに射す田圃
感情を押しつけて指を切らないよう注意しながら
白鷺の下を通過する
斜めの陽は秋にまで到達する
一人が居なくなっただけで

夜中に救急車を呼んで6万5千円かかり払えないので保険証を持ってまた病院に来ている
人生は一割負担にかかっている
最初期のルーリードのまま一生を終えなさい
デモテープのまま発表なさい
いますぐ発表なさい
近づいてくる救急車の
サイレンの音も入れること

自分のことしか考えていないので自分が子供を産むことをなかなか実感できない

https://youtu.be/gPna4mxNr_w

 

 

 

#poetry #rock musician

濃重的陰影

 

Sanmu CHEN / 陳式森

 
 

濃重的陰影
沉痛的烏雲擠壓著天際。
大水將至的早晨
寫下詩行,離別的眼神。
很久很久以前,請你取下這詩集
尋覓今日;今日大雨,
這世界的淚水……….
孩子們老去,昏昏欲睡。
那些垂死的世代!
行刑者已經在回家的路上;
杯子已飲盡琥珀;你刑期已滿,
手中的傘回到雲上,
在雨中下雨,為你洗旗洗塵
為你準備好渡日渡海的舟船。
暴政削減我們的季節,
路途消耗我們的滄桑,
而我們的抵抗勾勒出呼吸;
在黑暗的律動之間製作曙光。

 
2023年8月11日~8月14日西貢

 

 
 

・翻訳はこちらで
https://www.deepl.com/translator

 

 

 

Poetry On My Mind (さよなら、黄明珍 life goes on)

 

今井義行 2023©Cloudberry corporation

 
 

さよなら、黄明珍(コウメイチン)、
あなたは、ヘルパーさんを辞めて
台湾・高雄に帰ると言うのだ……

どうしてですか、と聞きたいけど
聞いてしまったら
帰国が早まりそうで出来ない……

還暦をまえにして
一度人生を整理しておきたいのは僕も同じなので、
止められないん、だろうな

「はい、おそうじ、おそうじ!」と黄明珍(コウメイチン)が微笑む火曜日 そんなとき僕の住む古い木造アパートは、急に、明るくなる

彼女は、ヘルパーさんの仲間から、
明珍(めいめい)チャンと呼ばれているので、僕もそう呼ばせてもらっている。どうでもいい流行歌なんかには流されず……落ち着いた暮らし、出来れば、それで、O.Kなのさ……!

僕は、明珍(めいめい)チャンと、随分語り合ったものだ。「僕は、詩人なんです。30年くらい、毎日、毎日書いてきましたよ。」「義行サンは、ずうっと、部屋に籠もってきたのですの?」と明珍(めいめい)チャンはしばしば僕に言った。少しあきれ顔で。

明珍(めいめい)チャンは、お掃除の名手で彼女が部屋の角から角を通り過ぎるたびに、その跡が綺麗に片付いていた。いつの間にかペン立てが机の上で輝いていたり、タオルケットの髪の毛がすっかり払い落とされていたりした。ものたちが本来の意義を取り戻して、光を宿していた、と言うべきかな? 僕は、思ってた。(こういうのを、詩的とも称するのではないかしら……。)と。

でもね。そんなとき、僕は、思い返したりもしたのだった。ペン立ての置かれていない机だったものの佇まい、髪の毛が払い落とされていないタオルケットだったものの佇まい。そこにきっと詩はあるのではないかという僕の頑固な考え。
明珍(めいめい)チャンと僕との間には、大きな溝があるのかな、と思ったら、ちょっと寂しい気持ちもした。

そんな明珍(めいめい)チャンがある日「来月から台湾ニ帰ります。」と告げてきたわけだ。僕は「えーーっ」と大声を上げた。「そんなあ…僕たち、仲よしになれたのに…?」「仲よしですけど、帰りますのよ。」「明珍(めいめい)チャンには、大事な親族がいるんだものね、台湾には…。」「CORONAでずっと帰れませんでしたから。帰った後はずっと居るのですけど。」「明珍(めいめい)チャン。明珍(めいめい)チャンの栗鼠みたいな眼がだいすきなのに…白髪のない髪の毛も、好き。」「わたしも、義行サンの、おおきな子どものところ、好きですのよ。」「うわーっ。((泣))」Poetry On My Mind (相手をいつも輝かせる、僕のなかの詩人。さよならですか?黄明珍ちゃんlife doesn’t go on……) 「義行サン、そんなにも、哀しむことはないのですのよ。」と、明珍(めいめい)チャンは、僕に言った。

「私たちは、長い間とは言えないけれども、ヘルパーとお客様として、ずっとお付き合いしてきましたね…。」「うん、そうだよね。」「その間で、私たちは、とても気持ちが合いましたので、どんどん仲よくなり
ほとんど親友のようになりましたわね。」「……僕は、毎週火曜日に明珍(めいめい)チャンに会うのが本当に楽しみなんだよ。人に対してこんな気持ちになることは、随分なかったのです…。」「私も同じですのよ。義行サンの笑顔を見るのが楽しみなんですのよ……。」

「でもね、やはり別々の人生、なんですのよ。それは、間違っている考えではないと思いますのよ。」「明珍(めいめい)チャン。そのことは、僕もよくわかっているつもりです。もしも、僕と明珍(めいめい)チャンが恋人同士であったとしても、きっと僕たちの人生は、別々の人生なんでしょう……。」「さて、どうするか……私は、ずっと考えてきましたの。」

「私は、限られた時間、これまでよりももっともっと、義行サンのヘルプをいたしますわ。いつどこへ出ても義行サンが活躍できるように、協力して差し上げたいのですわ。」「…明珍(めいめい)チャン…いつも、そのようにしてしてくれて、どうもありがとう。でも、明珍(めいめい)チャンは、子どもっぽい僕に、なぜそこまで、関わってくださるのですか…?」「……それが、大きな友情というものだと思いますのよ。」「そう…。僕は、女の人とお付き合いしてみて、友情のことを考えたりするのは、たぶん初めてだよ。」
「私だって、きっと初めてですのよ。私には70歳になる夫がおりますが、彼のお手伝いをすることも、大きなお仕事ですのよ……。でも、夫も義行サンも、どちらも大切にしています。夫とは、一緒に台湾・高雄に帰ることになりますのよ……。」

「明珍(めいめい)チャンとご主人が無事に台湾に帰り、幸せに暮らしていくことを祈るよ……!」「私も、義行サンがこれから死ぬまで幸せに生きられらるようにできることをしますわ。」「…………。」「私の勤務日は、火曜日2時間ですけれども、これからの残りは、勤務外の時間もたくさんヘルプに伺いますわ。私は、義行サンを応援したいのですわ…!」
「僕も、心から、あなたの幸せを祈るよ。明珍(めいめい)チャン、今までどうもありがとうございました……。これからもよろしくお願いしますね!」
Poetry On My Mind (さよなら、黄明珍ちゃんlife goes on)お元気で!!

 
 

2023/05/28

 

 

 

白について

 

野上麻衣

 
 

島にきて二日目
港から 山へ

朝の海をうかべた靄は
肌の上のしずく
半径1メートルの
白い情景

その色は
詩の役目を担っていた

ここでは
風だけが動いて
季節は止まっているね

この島には
港がふたつ
どちらに舟がつくかは
その日の風向きできまる

雲をみあげ
波をながめることは
遠くの風をよむことなのだった

 

 

 

なんという研ぎ澄まされた緻密で精妙な狂気

 

駿河昌樹

 
 

     真実とは、みずから錯覚であることを忘れた錯覚である。
     フリードリヒ・ニーチェ

 

六月二八日に
初台の新国立劇場で『ラ・ボエーム』を聴いた

指揮は大野和士
演出は粟国淳
楽しかったし見事で
他の数ある名演と比較する必要もない出来映えで
満足が行き
つまり
とてもよかった
特に第二幕の演出の楽しさは出色だった

わたしにとっては
これは生涯思い出に残る『ラ・ボエーム』となるだろう
そう思われた

難を言えば
ロドルフォ役のスティーヴン・コステロが
ときおり
楽器に負けてしまうことがあるように聞こえたところか
とはいえ
それも
好みで分かれるものかもしれない

しかし
劇場側にとっての大失策があった
第二幕のはじまりで
音楽の開始に舞台が付いて来れなくなり
いったん停止して
再開し直したことだ

照明準備が整わないうちに
音楽のほうが始まって
しばらく進んでいってしまったのだった

失策には違いないだろうが
聴衆の側にとっては
ちょっと面白いハプニングで
停止して説明が入った後
客席からはすこし笑いが湧いた
これが
逆に舞台と聴衆を引きつけることになり
その後の第二幕以降は
聴衆の側からすれば
もっと楽しく展開を受けとめていけることに
繋がった
歌舞伎で舞台と客席を繋ぐ花道の役割を
このちょっとした失策が
予定外に演じることになったようなものだった

まあ
それは
それとして。

いったん停止して
第二幕が再開されるまでの
しばらくのあいだ
わたしは
劇場内の天井や
照明のあれこれや
二階席や
三階席などを見上げて
日ごろ
それほどしげしげ見上げるわけでもない
劇場内を見直していた

昔なら
想像もつかないような
オペラ向きの立派な劇場が
25年前にこのように出来て
たまたま今夜
じぶんは1階16列35番に座って
プッチーニの最も乗りのいい『ラ・ボエーム』を
名指揮者大野和士の指揮で聴いている
と思った

しかし
こうも思ったのだ

じぶんが生まれてからの日本は
というより
祖父母や父母の世代からの日本は
結局
欧米の正確な模倣に営々と励んできただけのことで
その結果が
新国立劇場のこの立派なオペラ空間でもある
そういうことではないか?

欧米のどこの国も
国立の歌舞伎劇場や雅楽堂や能楽堂や文楽劇場を建てたりはしない
観客が高い料金を出してそれらを見に来るわけでもない
しかし日本は
ヨーロッパのものであるオペラに恋し続け
日本人の立派なオペラ歌手も育てられるようになり
欧米から優れたオペラ歌手を呼んだり楽団を呼んだりする
今では見事にオペラを我がものとし
欧米に肩を並べられるほどに成長したと言えるものの
それが見事であればあるほど
底なしにうら寂しい眺めではないのか?
どこまで自らの本性を捨て切り
どこまで欧米の模倣だけを進歩と呼んで邁進し続けるのか?

ヴェルナー・ヘルツォーク監督の映画『フィッツジェラルド』では
クラウス・キンスキー演じるオペラ狂いのアイルランド人フィッツカラルドが
アンデスに鉄道を敷設しようとして失敗し
次にはイキトスにオペラハウスを建てるべく
アマゾン奥地にゴム園を拓いて一攫千金を試みたり
インディオを酷使して巨船を山越えさせる狂気ぶりを発揮するが
日本は列島全体ではるかに底知れない狂気を演じているだけではないか?

武力と経済力を我がものとしたヨーロッパとアメリカの時代に
アジアの極東の一小国として居合わせてしまった不幸
といえばいえるのかもしれず
人類史的にはただそれだけのことかもしれないが
それにしても
なんという研ぎ澄まされた緻密で精妙な狂気
知性も感性も悟性もいっぱいに注ぎ込んで
何世代もかかって一身に欧米の模倣にのみ邁進するという喜劇
この哀しさはいったいどれほどのことか?
新国立劇場内の立派な様相を見続けながら
これを思わざるを得なかった

小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』には
三軒茶屋のトリスバー「かおる」で
かつて駆逐艦「朝風」の艦長だった平山(笠智衆)と
元一等兵曹の坂本(加東大介)が
こんな会話をする

坂本 けど艦長、これでもし日本が勝ってたら、どうなってますかねえ?
平山 さあねえ…
坂本 勝ってたら、艦長、今頃はあなたもわたしもニューヨークだよ、ニューヨーク。パチンコ屋じゃありませんよ、ほんとのニューヨーク、アメリカの。
平山 そうかねえ…
坂本 そうですよ。負けたからこそね、今の若い奴ら向こうの真似しやがって、レコードかけてケツ振って踊ってますけどね。これが勝っててごらんなさい、勝ってて。目玉の青い奴が丸髷か何か結っちゃって、チューインガムかみかみ三味線ひいてますよ、ざまあ見ろってんだい。
平山 けど負けてよかったじゃないか。
坂本 そうですかね、ウーム…そうかも知れねえな、バカな野郎が威張らなくなっただけでもねえ。艦長、あんたのことじゃありませんよ、あんたは別だ。
平山 いやいや…

大平洋戦争でカルタゴ並みの大敗戦を喫した後
日本は78年かけて
この元一等兵曹坂本の
「これが勝っててごらんなさい、勝ってて。
目玉の青い奴が丸髷か何か結っちゃって、
チューインガムかみかみ三味線ひいてますよ、
ざまあ見ろってんだい」
というセリフを
国民総出で強制自粛し必死に押し殺してきたのだった
ただそれだけの78年であり
この国に歴史と呼ぶべき歴史は
わずか一片も
存在はしなかった

こう言ったからといって
もちろん
これは大平洋戦争の称揚でもなければ
かつてナチスドイツがヨーロッパに対して行なったような
次の報復戦へのハッパ掛けの意図を持つものでもない
この国に
次の報復戦なるものはあり得ない
本当にカルタゴ化されたのであり
骨の髄まで
精神の髄の髄まで滅ぼされたからである

仮に
大平洋戦争に勝って
本当のニューヨークへ日本人が乗り込み
「目玉の青い奴が丸髷か何か結っちゃって、
チューインガムかみかみ三味線ひいて」いたとしても
日本人はやはり
新国立劇場を建て
知性も感性も悟性もいっぱいに注ぎ込んで
何世代もかかって一身に欧米の模倣にのみ邁進し続けただろう

この国の病は
太平洋戦争に勝つ程度のことで癒えるような
そんな浅いものではないのだから

もっともっと古い頃に
とうの昔に
魂を
蒸発させてしまっていたのだから

「この世は無常とは決して仏説といふ様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常といふ事がわかつてゐない。常なるものを見失ったからである。」

小林秀雄『無常といふ事』

「常なるものを見失った」のは
いつだったか?