文鳥

 

サトミ セキ

 

 

幼稚園に行っていた ある日
文鳥を 小鳥屋さんで買ってもらった
羽の生えていない 赤い地肌が 痛そうだった
イナバノシロウサギ
ふにゃふにゃしてるミニ怪獣みたいなヒナを
お菓子屋みたいな紙の箱に入れて おとうさんが持ちました

箱の中でカサカサ動いているのが こわかった
空気がなくなるんじゃないかしら
はやくはやく 急いで家に帰りました
箱をあけました
生きていた
目がまだあいてない
どきどきしながら おかあさんの掌の上のヒナを見ていました
黄色い穀物のつぶつぶを よく 練って
おかあさんは 人差し指の上にのせました
小さなくちばしが 開いて 小さな舌が 見えました
シタキリスズメ
食べたよ ほんの少しずつ
一粒二粒数えられるくらいのスピードで

文鳥には ほわほわと真っ白な毛が生え
たくさん食べて しっかり鳴くようになりました
素敵なぴんくのくちばしと細い足  サクラと名前をつけました

サクラ サクラ
呼ぶと可愛く 返事をしました
ピヨリピヨリ
チーチヨチヨトトチヨト
わたしの肩に乗って りんごを一緒に食べました
わたしには妹も弟もいなかったので
毎日 さくらと遊びました
さくらは 賢かった
キキミミズキン
ちょっと首をかしげて わたしの言葉を聞いていた
ピールチヨトト ホィヨホィヨ
チヨトトトピリ
わたしたちは いろんな話をしました 鳥語と人間語の間で

呼ぶと四畳半のどこにいても 飛んできて手に乗ってくる
肩に乗せると 真っ白な羽が 頬に当たる
なんだかなつかしい日向のにおい
サクラは柔らかくてあたたかくて小さな生きものでした

ある日 幼稚園から帰ったら
鳥かごは 空っぽ でした
鳥かごの入り口が あいたまま
サクラがいませんでした
おかあさんが 言った
餌を替えようと思ったら隙間から飛んでいったんや
窓があいてたごめん

大声で 泣きました
涙の味が鼻まで沁みて 茶碗の中のごはん粒の上に落ちました
夜寝る時に かぶった布団が湿っていきました
電気を消しながら おかあさんが 言った
また文鳥を買ってあげるからもう泣きやみ
わたしはもっと大きな声を出して 泣きました
新しい文鳥は サクラじゃない

次の日 だったか 次の次の日だったか

おとうさんが虫とり網を持って 団地の前の公園を走っていました
文鳥がいたって
夾竹桃の木に止まっているって

わたしは 団地の二階のわが家から駆け下りました
おとうさん おとうさん おねがい つかまえて
真っ白で紅いくちばしの小鳥は サクラに
とても良く似ているように見えた
走るのが遅いおとうさんが 振る虫取り網は
子供の目にも たいへん のろいように思われました
息を詰めて 手をぎゅっと握って
おとうさんが虫取り網をめちゃくちゃに振り回すのを見てる
そこじゃないよ おとうさん ヘタくそ ああ おとうさん
白い小鳥は 羽ばたいて 網をすり抜け
ちょっとだけ電信柱の釘に止まって ぴいいいりと甲高く鳴いた
サクラ サクラ サクラサクラ! と 叫んだのに
小鳥は すぐに飛び立って
曇っていた空に 溶けて見えなくなりました
わたしは また泣きました
声がかすれたけれども 涙はまだ出るのでした
サクラは わたしの目の前で 飛んで逃げていってしまった

あれから 父母が飼ったのは金魚だけです

病院で
今と昔が混同していたおかあさんが
帰省したわたしに言いました
団地の一階の大淵さんが 文鳥を飼っているんだって
窓ガラスに当たるものがあって
何かと思ったら文鳥だった
ベランダで 逃げない文鳥をそうっと手でつかまえたんだって
(それは きっとサクラだ
サクラが うちに戻ろうとしたんだ
サクラが住んでた部屋の真上で
知らずにわたしたちはずっと暮らしてた)

それきり おかあさんは黙ってしまった
わたしの言葉が耳に入らないように
おかあさん
どうして あの日
一度もしなかった文鳥の話をしたのですか
もう答えを聞けないけれども

結婚して わたしが住んでいる先の 交差点角に
「いしい小鳥店」があります
文鳥の ヒナ います
コピー用紙に書かれた 下手な手書きの文字が 硝子窓に貼ってある
信号待ちのたびに ヒナを探す
店の中は暗くて よく見えない

生きものを飼うことは これからもたぶんない と思います
でも 真っ白であたたかい小さな柔らかな文鳥を 肩に乗せ
もう一度 頬で触れてみたい

 

 

 

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サトミ セキ

 

 

父がわたしのこの部屋にいる。
わたしの横で寝ているのは、父だ。父は昨年死んだので棺の中で寝ていた。
亀裂が入った棺の中から素足がはみ出している。ぐりりっと音を立てて目の前で足指が膨張しはじめ、見覚えのある大きなシミのある足首まで一気に棺の外に出た。左足先は一部が腐り、皮がめくれて肉が露出している。父を包んでいる毛布には、血とも死体から滲み出たともつかぬものが生乾きのままこびり付いている。
くるぶしの先がすごいスピードで回り始めるから目眩がする。
部屋の中を風が吹き抜けている。吹いているね、だから死体が動くってこともあるのかもしれないね。真っ白なカーテンが光を透かして揺れている。
ねえお父さん、これから起き上がったりするのかな。怖いからわたしは逃げるよ。

今日は風が強いなあ。真っ青な空の奥で雲がすばやく流れていく。
真後ろのマンションを振り返り、顔を元に戻す。わたしは実家の公園の前の道にいた。アケビの蔓製の買い物籠をさげた母が、向こうから鼻歌を歌いながらやってきたよ、腰にいつものエプロンを巻いて。
「お父さんが、生き返りそうなんだって? だったら、あたしがなんとかしてやろう」
わたしより若々しい黒髪がきらりと輝き、母は紅い唇を開く。
母はなんだか弾む足取りで、父のお棺がある部屋へと向かってゆく。なんとかってどうするの?  あなたもとっくに死んでしまったくせにって、ふと思った。

目が覚めた。昼寝をしていたのだった。カーテンが夕暮れの光に染まってゆっくり揺れている。
母は五年前に死んでしまって、白髪も唇も燃えてしまったのだった。母の声も、老いた皺だらけの顔の面立ちももうはっきり思い出せない。目にするのは、
新婚旅行の二人の写真。母はまだ二十代の娘で、陰のない笑顔で笑っている。そう、わたしが生まれるのはまだしばらく先なのだ。

わたしはマンションに戻らなければならない。現実の世界でも、父はまだわたしの部屋にいて、今シャワーを浴びているのだった。マンションに戻ると、弟が玄関に立っている。おやじ、生き返ったんだって?
電気剃刀の音がじゃりじゃり聞こえる。棺の中でヒゲが伸びたんだね。
シャワー室から爽やかに出てきた父は、見たことがないくらい男前だ。弟が用意した車椅子にゆっくり腰を下ろして言う。
「死んでいたと思えないくらい、顔色がいいやろ? 散歩に行こうや」
明るい声だね、お父さん。黄色くしなびかけてるわたしよりずっと。少しずつ歩けなくなって、二度とベッドから離れられなくなったのはいつだっけ。また、すぐ長く歩けるようになるよ。公園の鉄棒で逆上がりをもう一度教えてくれる?
窓の外に見物人が重なって、父の一挙一動をみつめている。そのうち、こわごわと声をかけてくれるよ、ひろしさん、死んでいた時を覚えてる? 生き返るってどんな感じって。
ねえお父さん、これからどこに行こうか。

まぶたを開けると薄暗かった。少しだるいからだを起こしながら、目の前にあるタオルケットの端からはみ出ている糸をそっとひっぱってみた。今度こそ本当に目が覚めた、のだと思った。
父も焼いてしまったのだった。焼けたばかりの骨は香ばしかった。てのひらに置かれた骨の温度もまだ覚えている。もうすぐ父の一周忌だ。一年前にまっすぐに骨壺から突き出た足骨を砕き粉にした。一周忌では、重い岩を持ち上げ、暗い空間に小さな骨壺を入れるのだ。母の骨壺の隣にならべて。

わたしは刻々と老いてゆく。わたしの夢の夢の底でも風が吹き太陽は沈む。あなたたちの声が、ふたたび筋肉がついた足が、歯が生えかけた口がよみがえる。
夜になった。夢の中と同じ曲線を描いてカーテンがひるがえる。部屋の片隅で新婚の父母の写真がふらりと動く。