町の定食屋さん

 

みわ はるか

 

 

ご無沙汰しております。すっかり本格的な冬を迎えて、こちらはどかっとした雪が何度か降りました。
ちらちらと降る雪はなんだか可愛らしいですが、山のように降る雪には少し嫌気がさしてしまいます。

わたしの住む町は以前にも何度かお伝えしたかもしれませんがとても田舎で、一面に山や田んぼ、お茶畑が広がっています。そんな中にもいくつかご飯屋さんがあって、わたしの大好きな場所があります。今日は少しだけ紹介したいと思います。

メイン道路から外れたところにあるそのお店は深い緑を基調とした外観で、注意して見ていないと通り越してしまうほど背景に馴染んでいます。決して派手ではなくひっそりとたたずんでます。そこに初めて入ったきっかけは通勤の途中の道にあったからというなんともない理由でした。よく見るとそこの駐車場はお客さんの車でいっぱいでした。恐る恐る扉を開けてみると、天井は高く窓も適度にあり日の光がいい感じでさしこんでいます。木材で作られた4人掛のテーブルと椅子、カウンター、座敷にテーブルがそれぞれいくつかありゆったりと時間を過ごせるつくり。お店の至るところにその季節の植物の写真、地元で採れる野菜やお菓子の陳列、手作りの飾り物。たくさん飾ってあるのに各々の自己主張が強くないせいかほどよいかんじでそこに在るのです。なんとも言えない幸福な気分になれます。

メニューは豊富で定食や飲み物の種類は20を越えています。魚や揚げ物お野菜と好き嫌いが多い人でも必ず欲しいものを食べられます。モーニングもあり1日中楽しめます。始めに何を頼んだかはすっかり忘れてしまいましたがその味に感動したことは今でもはっきりと覚えています。味噌汁はよく出汁がとってあり、小皿の煮物を優しい味で、もちろんメインも素晴らしく美味しい。店内がお客さんでたくさんなのもうなずけます。店員さんは皆黒のエプロンをつけていて若い人から年配の人まで生き生きと働いてみえます。土日だけ顔を見る若い男の子が少し恥ずかしそうにお膳を運ぶ姿は微笑ましい。家族経営なのかな、親族かなと勝手に想像を巡らせています。

すっかり虜になったわたしはここ数年、月に数回仕事帰りに寄るようになりました。メニューはほぼ制覇したのではないかなと思っています。つい先日はお会計の際に「いつもありがとうございます。」と優しい笑顔で声をかけていただき温かい気持ちになりました。こちらこそいつもいい時間を過ごさせてもらって感謝したいくらいなのに。馴染みのお客さんにもそれ以上根掘り葉掘り聞いてこない姿勢にも配慮が感じられます。

社会に出るということ、生きていくということ、いろんな世代の人と関わっていくこと。いいことばかりではなく、不快な気持ちになったり腹立たしく相手を憎んでしまうこともあります。自分が情けなくて情けなくて涙を流す日もあります。そんなどんなときもいつも同じ場所にひっそりとたたずむそのお店に癒されたくてまた足を運びます。そんな場所がみんなにあればいいなと思うのです。

 

 

 

夢は第2の人生である 第47回

西暦2016年神無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

隣にいた家族がなかなか戻って来ないので、ああやっぱりなあ、と諦めていたのだが、しばらくすると、あの皆殺し殺人ゲームで殺されなかったとみえて、無事に戻ってきたので、驚いた。10/1

「あんたがたは、今何を作っているんだ?」と尋ねられたので、右手を出して「こんな指輪だよ」というと、興奮して「すぐ欲しい」と騒ぎだしたので「横高で売ってるよ」と教えてやった。10/1

村人たちは、慰安旅行に行こうと朝早く公民館に集まったが、いつまで待っても矢沢夫婦だけが来ないので、見に行くと、2人は激しく性交を続けていた。10/1

弟子を連れてスケッチに出かけたのだが、彼は誤ってお城の堀に転落してしまった。すぐに助け出そうと思ったのだが、私はその時、脳裏に浮かんだ幻影を定着しようとアトリエに引き返したために、彼は溺れ死んでしまった。10/2

もう秋か。久しぶりに大学へ行った私は、今年もまた試験はおろか授業さえ出ていないことを思い出し、これでは何年かかても卒業できないのではないか、と冷汗を流した。10/4

人生の調子を整えるべく、神様は時々私に任意の昔をもう一度生き直すように強いることがあった。万年筆にスポイトでインクを注ぎ込むようにして。10/5

一夜にして山と成った一夜山めざして、私は一晩中走った。10/6

私は持っていたCDを、雨水が溜まったところに落としてしまった。すると一緒に歩いていた長男は、自分のせいだと思いこんでいきなりその水たまりに飛び込み、ずぶぬれになりながら探そうとするので、私はその余りにもストイックな態度に深くうたれた。10/7

権謀術策を凝らして、私は、とうとうその小さな島の王になった。10/8

今年入社した私たちは、新規も中途もまじえて全員が寮に閉じ込められ、訳のわからぬ研修を受けたのだが、私は同室の若くて超美人のねいちゃんを毎晩可愛がっていたから、ちっとも文句はいわなかった。10/9

マイケル・J・フォックスの娘という人を遠くから眺めていると、日産の広報嬢が「あの人どうですか?」というので「いいですねえ」と答えると、「彼女、なかなか評判がいいんですよ」と宣うた。10/10

会社が物置に使っている部屋が、なかなかに趣があるので、私たちは、時々この部屋で寝泊まりしていた。ある日そこで端坐していたら、いきなりブルトーザーがつっ込んできて、私は大けがをした。10/11&12

私たちは、その詩人が生まれた町を訪ねて、研究発表の材料にしようと思っていたのだが、同行した女性たちの観光気分に妨げられて、何の成果も得られず引き揚げようとしたとき、上空に人力飛行機が現われた。10/13

かつて私が下宿していた家を訪ねたら、猛烈なゴミの集積の中に、乞食のようなおばはんがいて、ニヤリと不気味な笑みを浮かべたが、それはあたかも私の来訪を知っていたような表情だった。10/15

平行棒のように伸びた木の枝をつたって、上へ上へとましらのように登ってゆく2人の男を見よう見まねで真似て、木の頂上にたどり着くと、村の女たちに歓声と共に迎え入れられたが、あの2人の男は見当たらない。いったいどこへいったのか? 10/16

大好きなポネルの演出で、モザールの「フィガロ」をビデオで視聴したのだが、いつもと違って全然面白くない。途中で再生をやめてクレジットをよく見たら、ポネルではなくパネルと書いてあった。10/18

海底の穴の中で、大きな魚と隣り合わせた小さな貝の私は、懸命にいろいろお世辞をいうてその場を取り繕うとしたのだが、とうとうぱくりと喰われてしまった。10/19

逆風が吹き始めたので、「朝まだきひんがしの空を見上げれば」という歌を詠んだのだが、どうしても下の句が出てこなかった。10/20

買ってきた外付けHDDが、「早く早く私をレコーダーに取り付けてください」と枕元で囁き続けるので、結局朝まで一睡もできなかった。10/22

バスに乗っているのは荷物ばかりだったが、駅に着くと、男たちが一斉に乗り込んできて、荷物の中の朝顔に水をやるのだった。10/23

深い谷底を流れる急流に転がり落ちた私だったが、そのままどんどんどこどこ流されて、とうとう海にそそぐ緩やかな大河に至った。10/24

おばはんは、私が大事にしている英国製の高級スピーカー、ロジャースを小脇に抱えると、いきなりナタを振るってメリメリと壊し始めたので、「なんてことするんだ、このおオタンコナす!」と怒鳴りつけると、「おら、薪にしようと思っただけずら」と平然としている。10/25

そこいらに自転車や自動車を停めておくと、すぐに警察がどこかへ持って行ってしまうので、油断も隙もならない。10/26

明日はこの鎌倉石の掘削現場を離れて、江戸城の再建工事に加わると決まっているのに、私は弟子たちの衝撃と離反を懼れて、まだなにも喋ってはいなかった。10/27

前夜私は、どこかで会社の貴重な資料が入ったカバンを無くしてしまい、終電に遅れて義父の家に泊めてもらった。夜が明けると私は、義父の車に乗せてもらって会社に向かった。10/28

ヤフオクで見事に落札したのに、いつまで経っても出品者から連絡がないので焦っていると、私が落札したはずの商品が、いつのまにか再び出品されているので、いったいこれはいかなる仕儀かと、私はまたまた焦った。10/30

会社のPR誌で短歌を募集したが、誰も応募しなかったので、金メッキした安時計が段ボール一杯ぶん残ってしまったので、社員全員に配ったが、まだまだ大量に残っている。さてどうしたものか。10/31

仲間たちと登山中に遭難したオラッチは、誰かの助けを求めたが、たまたま風邪を引いていたので、ついでに風邪薬も持ってきてくれと頼んだ。やがて捜索隊が到着して、仲間は全員救助されたが、風邪薬の入荷は5日後になるというので、私だけは5日後に救助された。10/31

 

 

 

や、やよ、ゆけゆけ2度目の処女!~長田典子詩集「清潔な獣」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

 

これは著者が2010年に出したおそらく現時点では最新の詩集で、イントロ的な「蛇行」以下、全部で10篇のかなり長めの作品が収められています。

そして詩の進行具合は、「初めは処女のごとく、終りは脱兎の如し」、あるいは「一点突破全面展開」という疾風怒濤の展開となり、全編を通じて作者が自作自演する、なにか気宇壮大な物語、詩小説が眼前で物語られているような、横隔膜がうんと広がったような、なんだか愉快な気持ちになるのです。

私はこの一カ月を除いて、詩集なんかほとんど読んだことがなかったから、よく分からないけど、ふつう詩集では、「わたし」という主体が、世界の中心にデンとましましていて、その「わたし」の行動や思いの数々が、縷々るるると述べられていくわけです。

でもこの詩集では、「わたし」が作者本人を思わせる妙齢の女子であったり、うら若い乙女であったり、清潔な獣であったり、老いたる要介護の母親であったり、イケメンの男子であったり、まるで怪人20面相のように自由自在、神出鬼没に変容するのです。

「自分ファースト」ではないけれど、自分の内部に、他者が蛇のように自由に出たり入ったりする詩のメタモルフォセス自律運動に、詩の奔放さ、弾力とリベラルさというものを、つよく感じました。

シェークスピアに、All the world’s a stage,and all the men and women merely players.という有名な言葉があるそうですが、作者にとってはAll the word’s a stage,and all the men and women merely players.なのではないでしょうか。

この詩集全体が、まさにその格好の舞台になっていて、どことなく物哀しいヒロインは、自分と他人と全世界をば、なんとか光彩陸離たるものに塗り替えてやろうと、一世一代の独りカタリ芝居を見せてくれるようなおもむき。

私がいたく気に入ったのは「いったいii 」というタイトルの、マルキュウ(東急109)の洋服が大好きな貧乳ギャルの場外乱闘です。

そのめくるめくノンストップしゃべくり捲り大騒動&はちゃめちゃ行状記、この言葉と肉体の超高速ラップに、いったい誰が追従できるというのでしょうか。

私は思わず、
「や、やよ、ゆけゆけ2度目の処女!」
と、大向こうから声をかけたくなりました。

そしてその後から押し寄せる「カゲロウ」、「世界の果てでは雨が降っている」、「湖」における、大蛇がうねるような勁い構想力と、その細部を織りなす挿話の繊細さに感嘆しない読者はいないでしょう。

 

 

 

長尾高弘著「頭の名前」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

かつて鎌倉の青砥橋という田舎に「青砥」という地元の主婦が運営している精進料理の店があって、贔屓にしていた。

それは安くて美味しい料理もさることながら、部屋の壁に私の大好きな画家、熊谷守一の書が掛かっていたからだった。

良寛に似ているようで、もっと純朴な「五風十雨」を飽かず眺めていると、お店の人が、守一95歳の書「一去一来」も見せてくださった。

最晩年の枯れた書体が、背景の軸物の薄茶色や床に活けられた秋海棠と映えて、まことに情趣深いものがあった。

熊谷守一の猫の絵などは、誰が見たって本当に素晴らしい味わいを持っていて、それこそわが国を代表する最高の芸術家といえようが、それを支えているのは彼の中の卓抜な観察者であった。

あるとき彼は、地面をうろちょろしている蟻を丸一日じっと見つめていたが、「長い間疑問に思っていたが、とうとう分かった。蟻は左の二番目の足から歩き始めるんだね」と語ったそうである。

この小さな詩集に収められている16の作品は、どれも比較的短く、私が知る作者の風貌のように、表現は質朴にして平明そのものである。そしてその多くは日常の茶飯事を主題にしている。

しかしそのいずれの中にも、私は熊谷守一流のアリへの視線を感じる。

身近な素材を腰を折って熟視し、そこからささやかな、しかし自分にとってはとても大切な知見をそっと引き出す、作者独自の方法とその見事な達成を、私はあきらかに認めたのである。

 

 

 

高橋啓介著「なんとかして」を読んで歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

大人になっても子供の心を失わない人がいるなどと世間ではよくいいますが、そんな人実際にはなかなかいませんよね。少なくとも私が知る限りでは。

しかしこの本の最初の2つの詩を読んだだけで、このタカハシさんという人は、もしかするとそういう稀有な魂の持主ではないかしら、と誰もが思うのではないかしら。

「疑似体験」は、次のような3行からはじまります。

 

きれいなきみをおもいながらベッドにはいる
つかれたからだにかわがながれ
きりのおもいにひかりがさす

 

1日の闇雲で五里霧中の労働にくたぶれた若きリーマンに、ようやっとやすらぎの夜が訪れた、というわけです。

ちょっと話が飛びますが、いま京都の伏見でお医者さんをやっている私の弟は、少年時代に、「兄ちゃん、わいらあ毎晩きょうはどんな夢を見れるんかと思て、楽しうてしょうがない」などと申しておりましたが、まあそんなところでしょうか。

で、次の3行がこうなります。

 

ぼくの×××は
△△△することで
それをあらわし
きみの○○○○はどうだ

 

どうですか。分かりやすいパズルですね。
というか、分かり過ぎるほど単刀直入な突っ込みが、作者の人世への明朗闊達な楽天性をおのずから表明しているようです。

以下、好きな女の人をしたなめずりしながら料理していくタカハシさんの「疑似体験」が続いて、あっという間に終わってしまうまるで童話のような短い詩ですが、じつに率直で、真っ正直で、健康的でしかも純乎としている。
私はお酒は飲めませんが、ウイスキーでいうとピュアモルトというところかしら。

ともかくこの詩集は、冒頭からこんな感じで始まるのですが、2番目の「木になるたのしみ」では、タカハシさんは、なんと本当に葉緑素になり、樹木になりきってしまうのです。

世の中にこれに近い人はいますが、絶対にこんな人はいない、と断言できます。
誰か、なんとかしてあげてください。

そうして驚いたことに、私はそんなタカハシさんの、ちょっとした知り合いなんです。
どうだ、参ったか。
ザマミロ。

 

 

 

薦田愛著「流離縁起」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

この詩集を読んでいるうちに、私の脳裏にはひとつの奇妙な映像が湧き起こってきた。

それは、ひとつの巨大なコクーンである。

青空のただ中に、青白い繭が、まるで最新型の雲のように、ぽっかり浮かんでいる。

近寄ってよく眺めてみると、そのとても薄くて半透明な表皮の奥に、一人の女性のシルエットが透けて見える。

それは、素晴らしく美しい眺めだ。
なかにいるのは、知的で謎めいた女性のようだ。

その外貌は、平成の御世にまだ生き続けるという和泉式部や清少納言、あるいはまだ誰も会ったことのない小野小町という名の女性を思わせるのであるが、その正体は謎に包まれている。

いつのまにか空はたそがれ、黄金いろに光り輝くコクーンの中で、彼女は踊り始める。
出雲阿国のように不可思議な舞を、舞い始まる。

踊りながら彼女は、真っ赤なルージュを塗りたくったうすい唇の間から、真っ白な、細くて長い長い糸を吐く。

するとその糸は、私たちが知らない国の言葉、まだ誰も読んだことのない物語の言葉になって、繭の中に織り込まれてゆく。繭の内壁に、どんどん繰りこまれていく。

孤独な舞は、いつまでも続き、白い糸は、果てしなく吐き続けられ、折り重なった糸は、どんどん彼女を覆う。

やがて地上から最後の光線がふつりと消え、世界中が深い闇に閉ざされると、踊り歌う女も、巨大なコクーンも、街も、うたかたのように姿を消してしまった。

 

 

 

ムラビンスキーのチャイコフスキー交響曲第5番

音楽の慰め 第12回

 
 

佐々木 眞

 
 

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昔むかし、今から半世紀近く前のこと、東京は原宿の千駄ヶ谷小学校の近所にあった会社で、私はリーマン生活を送っていました。
会社の小路を隔てた向かいには「ヴィラ・ビアンカ」という名の7階建てのモダンなマンションがありました。

ここは日本で最初のデザイナーズ・マンションといわれ、かつては今は亡きイラストレーターの安西水丸選手が住んでいたそうです。地下1階には中華料理屋があって、しばらくすると、そこが桑原茂一選手が経営する、かの有名なライヴハウス「ピテカトロプス」に代わるのですが、今日はその話ではなく、1階にあった中古オーディオ屋さんのお噺です。

確か「オーディオ・ユニオン」という名前のそのお店には、かなり高額の中古品のアンプやプレーヤーやスピーカーが並んでいて、当時オーデイオに夢中になっていた私は、会社の昼休みや放課後にちょくちょく顔を出し、すぐに仲良くなったお店の主任のシミズ選手に頼んで、毎日のように試聴させてもらっていたのでした。

私は、つとに名高い米国の名スピーカー「JBLの4343」、そして流行作家の五味康祐選手が絶讃していた英国製の最高級スピーカー、「タンノイ・オートグラフ」の妙なる美音に耳を傾け、「ああ安月給の自分が、こんな高嶺の花を手に入れる日が、いつか来るだろうか、いや絶対に訪れないだろう」と思いつつも、連日の「オーディオ・ユニオン」詣を欠かしませんでした。

ある日の夕方のこと、私は大学時代の同級生の門君と、このお店で待ち合わせをしました。門君は、某大学のオケのハイドンの交響曲の演奏会で、「チェロを弾きながらうたた寝していた」という伝説のある人で、私はそんな偉大な豪傑から、クラシック音楽の手引を受けたのでした。

さてくだんの門君がやって来たので、一緒に店内を物色しながら歩いていると、シミズ選手が「ササキさん、いい出物がありますよ。騙されたと思って、ちょっと聞いてみませんか」と言葉巧みに誘います。
「これから新宿の厚生年金会館でゲンナジ・ロジェストベンスキー指揮のモスクワ放送交響楽団のコンサートがあるから、ちょっとだけだよ」というと、すぐさまシミズ選手が、物置から割合小ぶりの英国製スピーカーを取り出してきました。もちろん中古品です。

「ご存じかもしれませんが、これが「KEF104ab」というイギリスのBBC放送局お墨付きのモニタースピーカーです。曲は何にしますか。なんでもいいですか。お急ぎでしょうから第4楽章だけおかけしましょうね」
といって、テクニクス製のプレーヤーに乗せたレコードが、ムラビンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団が演奏するチャイコフスキーの交響曲第5番でした。

これは1960年にウイーンに楽旅に出た彼らが、1960年 9月14, 15日にウィーンのムジークフェラインで収録したものですが、さすが毎年ニューイヤーコンサートが行われている名ホールでの録音だけあって、時代を感じさせない鮮明さで定評があったのです。

そして肝心の演奏はといえば、この曲を偏愛して何度も何度も録音を重ねた全盛時代のムラビンスキーとレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団が、燃えに燃えた、空前絶後の怒涛の名演奏を繰り広げている名盤中の名盤なのです。

そんなことは、門君も私もよーく分かっているのですが、驚くべきはその貴重な音源をものの見事に劇的に音化している、この、見た目は貧相な2本のスピーカーです。
低音もブンブン唸っているが、殊に中高音の鳴りっぷりが素晴らしい。ムラビンスキーと当時のソ連ナンバーワンのレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団と名機「KEF104ab」が、完全に三位一体となって、歌いに歌いまくっている。

有名な「運命の動機」が高らかに奏され、ホルンとトランペットが豪快に応答しながら終曲に殺到するコーダでは、文字通り、血沸き肉が踊る思いで、演奏が終ると、私と門君は、思わず「ブラボー!」を何度も叫んで「KEF104ab」選手に向かって盛大な拍手を贈っていました。

それまでのどんな生演奏でも味わったことのない感動、そしてこの直後、新宿厚生年金会館でゲンナジ・ロジェストベンスキー指揮のモスクワ放送交響楽団が聞かせてくれた、チャイコフスキーの交響曲第4番のこけおどしの阿呆莫迦演奏を遥かに凌ぐ真率な感動を、この英国製の「地味にスゴイ!」中古スピーカーは、生まれて初めて私に体験させてくれたのでした。

 

 

空白空白空白空白空白空白空白空白空空白空白空白空白空白空白空白空白空大興奮のまま、来月に続く

 

 

 

夢は第2の人生である 第46回

西暦2016年長月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

佐々木 眞

 
 

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私は司会者から「たかがゴミだが最後にひと泡ふかせるゴミ」という注釈つきで紹介された。見ると壇上にゴミのぬいぐるみが置いてあったので、それを頭からかぶって「主とは一人称単数なり」という短詩を朗読した。9/1

自分で言うのもなんだが、その頃の私は写真家としての絶頂期で、どんな被写体であろうが、レンズを向けるやいなや、前人未到空前絶後の物凄い映像が撮れるのであった。9/2

友人の軽井沢の別荘でくつろいでいたら、突然安倍蚤糞のお気に入りで、AKBを売り出して大儲けしている作詞家がやって来て、挨拶もせずにニタニタ笑うので、けたくそ悪くなって引き揚げた。9/4

宮廷から招かれた昼食会は、なぜだか当世風のバイキング方式だったが、盛装した老人たちは、遥か遠方に三々五々配置された食卓の上の食べ物を、皿に取ることができず、大層困惑していた。9/5

丑三つ時に、猛烈に左の奥歯が痛くなった。これはもう我慢が出来ない。朝になったら岸本歯科に電話して、すぐに治療してもらおうと思ったのだが、朝になると軽快しているので、あの夢は本当だったのか、それとも嘘だったのか、奥歯を触りながら考えているところ。9/6

今から何十年も前、この山奥の駅で、大勢のサーカス団の人々が死んだという。9/7

「その美形を抱きに来たんだろう。早く見番に行って指名しろよ」と廻りの連中はしきりにそそのかすのだが、私は、なぜかその女が怖いので、ためらっている。9/8

社長が「今季のテーマはビッグシルエットだ」と命じているのに、最末端の新入りの彼女だけは、ミニばかりデザインしていたので、とうとう馘首されてしまった。9/11

いくら呼んでも、恋の呼び出しに応えられなかった。9/12

この節は、できるだけ寡黙に徹して、馬脚を現さないように努めるのに精いっぱいだった。9/12

中韓両国との外交折衝を担当する私は、虫歯と難交渉で疲労困憊したので、急遽帰国して横須賀の岸本歯科に立ち寄り、その後小田原の元老に経過を報告しにいった。9/13

昼食の時間になったので一膳飯屋に入ると、1階は超満員なので、2階へ行こうと階段を登ろうとしたが、そこもおしくら饅頭の状態である。ここで妻と待ち合わせをしている私は、はたと困った。9/14

帰宅する途中で、パーティがあることに気付いた。出版社が年2回開催していて、豪華な食いものやお土産がついてくるので、会場のホテルに行こうと思ったが、その近くのコンサートホールで、死んだはずのパバロッティが1曲歌うというので、私の心は揺れた。9/15

「伊勢丹は80年代に戻っています」という広告コピーが出来たので、早速真木準に見せようと思ったが、彼はもう泉下の人となっているので、私は誰に相談していいのか分からなかった。9/16

私は、長州藩の侍だった。いま池田屋に戻れば、新撰組に殺されてしまう。行かなければ、命は助かる。はてさてどうしたものか、といつまでも東大路の道端に佇んでいた。9/16

細長いビルで開催された日本美術展の作品を、階上から順番に見物し終えると、もうどこへも行きたくなかったので、私は1階の展示スペースの真ん中で昼食をとった。9/17

散歩に行くと、日本人と日本人、日本人と外国人、外国人と外国人というさまざまな組み合わせではあったが、みなあられもないすがたで、道端で無我夢中で番っていた。9/18

私が景品として貰った2千万円を贈ると、彼女は「有難うございます。これでようやっとお家を作ることができます」というて、深々とお辞儀をした。9/19

仲間と観光地を歩いているうちに、私だけが遅れてしまったので、追い付こうと懸命に歩いているうちに、道がまくれ上がるようにしてどんどん立ち上がり、急勾配の坂道から壁になってしまったので、私は途方に暮れた。9/19

なんとかいう有名なグルメの達人の甘味チエックが、ぺろりと入った。私はいよいよ食べられてしまうのか。9/20

私は、ブレーメンで何も買わなかったことを悔やんだ。夜な夜な悔んだが、どうしようもなかった。9/20

そのレストランの3階から、勢いよく2階のベランダに滑り降りたのだが、私はまるで仰向けになった海亀のようにもがいていたら、電通の古川選手たちが嘲笑った。9/21

樋口さんちの隣の小路を降りてゆくと、深い谷間になって、そこを森林鉄道が走っていた。あれは確か九州へ行くはずだと思って、さらに谷間をどんどん下って行くのだが、いつまで経っても辿りつかない。9/21

中央公論社の営業の田中君は、私を無理矢理バスに乗せたのだが、生憎超満員だったので身動きできない。こんな状態で到底3時間も我慢できないのでバスから降りると、田中君は「困ります。社長に怒られるのでなんとか乗って下さい」と訴えるのだった。9/22

河の中にWが手招きしているので、見ると、AとBと女がいた。「どうした、早く上がってこいよ」というと、Wは首を振る。私は、Wは女の前ではいつもとがらせているので、そこから身動きできなのだろう、と想像した。9/24

そこで私は、もうWにそれ以上呼びかけるのをやめてしまったが、急激に体力を失ってしまったWは、下流の方へどんどん流されていった。9/24

東京支店では、型どおりのしんねりむっつり型の展示だったが、大阪支店では、私は空飛ぶマネキンに変身させられ、部屋から部屋へとムササビのように飛びまわり、最後は韃靼人のように踊らされた。9/25

ショーのおまけつきの展示会が終って、帰ろうとしたら、高木さんが、手招きするのでついていくと、中島君の部屋が大改造され、2人のモデルが遊んでいた。これでは東京に帰れそうもない。9/25

息子と歯医者へ行ったが、2人とも予約がないので断られてしまったので、泣く泣くお手手をつないで引き返したのだが、いつの間にか息子は行方不明になってしまった。9/26

一度もゴミ出しをしなかった隣の人が、久しぶりに運び出したのだが、その分量たるやあまりにも物凄くて、ゴミ置き場はたちまち見えなくなってしまった。9/28

ホテルで美人コンテストが開催され、A嬢がグランプリに選ばれた。私は個人的にB嬢がすさわしいのではないかと思っていたので、異議を唱えようとしたが、時既に遅く、夕方皆でてんぷらを食べて別れた。9/29

不気味な死神に追われて、女が私に助けを求めてきたので、匿ってやったが、死神が「早く始末してしまえ」となおも迫ってくるので、私も困り果てたが、家に帰ってみると、女は巨大なイカやタコを全身に巻き付けて、息を引き取っていた。9/30

 

 

 

夢は第2の人生である 第45回

西暦2016年葉月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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政権党の横暴を向こうに回して、かよわい女一匹がプッチーニのオペラ「西部の娘」のミニーのように立向かう、という構図に興奮した多くの選挙民たちは、誰かが「こいつはゴリゴリの右翼でファシストだよ」と囁いても、誰一人聞き入れようとはしなかった。8/1

ナス1キロを販売するには1週間分のナス料理のレシピを無償で提供しなければ駄目なんだということを、私はコストコで学んだ。8/1

僕はじつに巧みに全身鉄で出来た敵兵を撃ち殺していたのだが、その決定的瞬間をテレビが中継してくれないので頭に来ていた。8/2

この駅はいつも電車が混雑する上に、乗客が振り回されてよく死人が出るので、十分に注意しなければならない。8/3

わしはバンダル王を2度まで破り、国境線の向こう側に放逐したのだが、彼奴はそのたびに王座に戻ってまたしてもわしの王国に挑んできたので、3度目には首を斬ろうと決意していたにもかかわらずそれをしなかったので、それがわしの命取りになったのじゃ。8/5

短いホットパンツをはいた女がしゃがんでいるので妙に気になった私は、思わず腰を浮かして立ちあがったが、それ以上何もしなかった。後で彼女はこの港町一番の美女だと聞いた私は、もっと積極的にアプローチすればよかったと後悔した。8/6

どんな詩でも、無料でそれなりの詩集にしてくれるというサービスをある出版社が始めたところ、注文が殺到したのはいいけれど、残念なことに、すぐに倒産してしまった。8/7

ばせをの如き俳諧師が我が辞世の句をたちどころに消してみせるというので、「やってみろ」というたら、「枯れ枝にカラスのとまりけり」という句のカラスに水をかけて消してしまった。8/7

去年このホテルで知り合った長尾さんと佐藤さんが、今年も同じ女性を同伴していることに気付いた。長尾さんは女優の卵、佐藤さんは和服が似合う粋筋の美女だったが、2人は私の傍に居る北欧の長身のモデルに気づいて驚愕したようだった。8/8

懇意にしているフランス料理屋の主人が、どうも客の入りがおもわしくない、という。料理などの改善点について尋ねられたが、このせつはフレンチよりイタリアンだから仕方ない、とは言いかねた。8/10

真夜中に蚊に刺されて目を覚ますと、突然アメリカ人の若い女性兵士が寝室に入って来て蚊を叩き殺し、刺された私の手足にキンカンを塗ってから、ウインクして窓の外へと去っていった。8/11

カタログ撮影で南のA島に行くことになり、慌ただしく準備していたら、ナベショーがしゃしゃり出てきて、「B島のほうがいい」というので、かつて両方の島に遠征したことのある私が、その理由を滔々と述べたら、尻尾を巻いて消えてしまった。8/12

環境問題活動家のAさんが、乱暴者に襲われたというので、僕等は急いで病院に駆けつけた。その場に居合わせた電通の岩橋さんの話では、Aさんは釘を打った棒で全身を乱打された、という。8/13

結婚式に招待されたのだが、こびとにはこびと用の椅子と料理が供されたので、さすが塚田家と舌を巻かされた。8/14

私が預かっている女性のうちの、3名までは、すでに傷ついていた。8/15

四条梅小路から自転車で夜道を走っていると、大学の建物が見えた。この学校の一般教養学科の単位がまだいくつか残っているので、まだ卒業できない。早く下宿へ帰って勉強しよう。8/15

「立ち論」という題名らしからぬタイトルでなにか書いとくれ。あんたなら立て板に水だろう、と友達からそそのかされたんで、とりあえず台所に立ってみたが、なんの考えも思い浮かばないので、あっさり投げ出してしまった。8/16

そいつは、ともかく全身がいわば抜き身をひっ下げたように、ぬううとそそり立っていて、余りにも不気味だったから、みなに懼れられたが、そのようにそそりたつことが、真剣白刃取りのように過剰な負担になっていたらしく、若くしてあっさり死んでしまった。8/16

全盛時代のイケダノブオはんは、ポップでシュールなスーパーカジュアルな洋服を発明しては、お店に並べて人気を博してはったけど、いつのまにかブームが廃れて、日本全国何百とあった売り場は、大阪ミナミのすがれた百貨店だけになってしもうた。8/18

しかも今ではその店でも、洋服はもう販売されていない。しかし店長が、「かまへん、かまへん、スーパーカジュアルなウエアの代わりに、スーパーカジュアルなフードを売ったらええがな。ここは食品売り場のとなりやさかい、誰にも分からへんよ」と好意的なので、鍋焼きうどんを売らせてもらっている。8/18

私は、どうしても給料だけでは食べていけなかったので、往年の大女優吉野花子の付き人を志願して、アルバイトに励んだ。彼女は最初は迷惑そうだったが、だんだん協力してくれるようになったので、私の晩年は、それほど悲惨にならずに済んだ。8/19

講談社の新男性誌が創刊され、編集長の原田氏から原稿を依頼されたので、しばらくしてから送稿したところ、「すんまへん、ダブルブッキングで他のライターに書かせてしまいましたあ」というメールが来たので、頭に来て、彼の上司の常務に文句を言うたら、速攻原田選手は解任されちまった。8/20

有名デザイナーのアシスタントをしているヒラヤマ嬢は、毎日赤いポストの貯金箱に硬貨を入れていたが、それがなんと2800円になったと喜んでいる。「何に使うの?」と尋ねたら、「男に誘われていざと云う時」と、頬を赤らめて答えた。8/22

別館でうち合わせしていると、銀ラメのロングドレスを着たワタナベナオミが、「巴里のスギハラさんから電話です」という。出ると「ササキさん、平凡パンチの20ページをサービスしますがどうですか」と、いつものようにまくしたてるので、思わず笑ってしまった。8/24

私は編集者なのだが、いくら思案してもいい企画がてんで出ない。それでも苦心惨憺して野坂昭如の自伝を提案したら、「きみい、あの人はもう故人だよ。そんなことも知らないのか」と罵倒された。その故人に書かせるというのが、私の企画だったのだが。8/26

没企画ばかり出していた編集者の私は、とうとう会社を首になり、まもなく死んで棺桶の中に入ったのだが、なんとそこには、生前ついに出せなかった私の詩集が置かれていた。8/27

惑星間移動ロケット競技で、金賞を貰ったのはうれしかったが、歳月人を待たず、その時すでに私は、100歳になんなんとしていた。8/28

夏の終わりにマラソンをしている時、どういう訳か蚊が襲ってくるので、道端でキンチョーの蚊取り線香をじゃんじゃん燃やしていたら、放火犯と間違えられて、警察に逮捕されちまった。8/29

私らは特攻に出る前に、京都名産の千枚漬けを全身にふりかけ、ねばねばした液体や昆布を擦りこんだ。こうしておけば敵機に撃墜されない、と上官がいうのである。8/30

夏のジャンボ宝籤の抽選で、なんと塩飽寿司なる貴重品が当たった。おそるおそる口にしたが、今まで食べた物の中で最高の味だった。8/31

 

 

以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

夢は第2の人生である 第28回

西暦2015年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

時代はますます閉塞し、すべての人民は投獄された。われわれは牢に入れられたまま労働し、生活することになったのだが、権力者たちの圧政と暴力によって完膚なきまでに打ちのめされ、もはや抵抗する気力すら喪っていたために、奴隷のようにいいなりになっていた。3/1

銀座通りのど真ん中で、黄金いろのウンチが湯気を立てていた。3/2

「こんな格差社会だから、最底辺に生きる人を対象にした、親兄弟4人でせんべい布団1枚に寝るような木賃宿を開きなさい」と、隣の玉ちゃんがせっかく勧めてくれたというのに、断ってしまった。地底人の俺たちには、そんな道しか残されていなかったのに。3/3

ロスに旅行した時、3分で万物が合体する奇跡を伝授された私は、そのテーブルにいた5名をたちまちアマルガムのように接着してしまったので、おおいに怨まれた。3/4

僕が駅への階段を降りていたのに、彼奴は「車で送ってやる」と云うてきかない。

最近発見された「佐々木眞侯維新好色日記」は面白い。数多くの同名の別人物をめぐる凸凹譚もくわしく載せられているからだ。3/5

「君は私たちの子ではない。アフリカの奴隷商人がマラケシ島で売っていた父なし児なんだ」と告げると、息子は「そんなはずはありません。私はお父さんとお母さんの子供です」と言いながら、ラアラアと泣くのだった。3/6

「これを新しい会社のロゴマークにすればいいじゃないか」と云いながら、私はどこかのデザイナーが作った奇妙な図像を示すと、広報の前田さんは小首を傾げた。3/6

久しぶりに北鎌倉まで散歩に行って疲れたので、横須賀線で帰ろうとしたのだが、何台待っても来る電車が中国や韓国やモンゴルの人たちで超満員なので、仕方なくあきらめて、また歩いて家まで戻った。3/7

無名の国の無名の村で開催される「なんちゃらフェス」に招待された私は、「なんちゃら航空」機で現地に到着したのだが、小学生のころ郷里の「なんちゃら病院」で手術した左肩が激しく痛んでしまい、とうとう1曲も演奏できずに引き返した。3/8

あたいは大丈夫だよ、もう中国語の芝居のセリフは全部頭に入ってる。でも心配なのは、いま連日公演している日本語の芝居のセリフに、その中国語のセリフが紛れ込まないかということなの。3/8

ヨーカ堂で販売していたワンポイントウエアの商標が使えなくなったので、「ワンポイントウエアからキーポイントウエアへ」という企画書をでっちあげ、鍵のマークのワンポイントウエアを提案したら、意外なことにすんなり受け入れられた。3/8

憲法改定の国民投票の会場に行くと、「改定にイエス」と書かれた自動販売機のような投票機械と、「ノー」と書かれた機械の2種類が並んでいたが、裏に回ってよく観察すると、電線がつながっているのは「イエス」の方だけだった。3/9

「彼女なら銀座の山本ネクタイで働いているはずだよ」という友人の情報を頼りに、その店を訪ねてみると、店長が「先月末に辞めてロスへ行ったよ」と教えてくれた。3/10

広瀬さんチの土地を、地元のヤクザがぶんどろうとしていたので、おいらはそれを止めさせようとしたのだが、だんだんヤクザに対抗するのがしんどくなってきたので、とうとう逃げ出したが、その結果、健さんに対する尊敬の念が一気に高まった。3/11

私が熟睡していると、すぐそばで物凄いイビキが聞こえたので、たちまち目が覚めてあたりを見回したが、誰もいない。イビキの主は、おそらく私だったのだろう。3/11

反乱軍に捕らわれ、鋭い刃に全身を串刺しにされて死んだメソポタミアの王は、彼に逆らった3つの蛮族を呪いながら死んだが、3人の蛮族の長も、王と同じやり方で虐殺された。3/12

私は長い間この街に来たことがなかったが、ふとこの街の大学をまだ卒業していなかったことに気付いた。急いで教務へ行くと、「3つの教科のレポートと卒論を提出すれば、証書を授与する」というので、しばらく当地に滞在して、長年の懸案を果たすことにした。3/12

いよいよレポートすべき国文学講座が始まる日、キャンパスの入り口で「こっち、こっち」と私に手招きする人がいるので、近寄ってよく見ると、今中さんだった。3/13

どうして彼がこんな所にいるのか分からなかったが、今中さんは、「早く、早く。急がないと授業が始まってしまうぞ」と、私の手を取るようにして、坂の隣を上昇しているエスカレーターに乗り移った。

ところが、そのエスカレーターが鈍速なので、焦った2人が3段跳びの駆け足で飛躍してると、到達まぢかなエスカレーターがちょんぎれて、私たちは、まるでだらりの帯のようになった階段の先端に、両手でぶら下がって、ひとの助けを呼ばなければならなかった。

ようやくキャンパスの構内に辿りついたが、今中さんは「今日の授業は最後に漢字の書き取りテストがあるから、どうしてもその参考書が必要だ。僕が一っ走り書店に行って買ってくるから、君はここで待ってて呉れ給え」と云う。

それきり今中さんは、いつまで経っても戻ってこないので、しびれを切らして焦りまくった私は、傍を通りかかった学生に教室の場所を聞くなり、全速力で走りだした。教室に着くと、大勢の人が立錐の余地なく詰めかけて、授業どころの騒ぎではない。

私の目の前には、仏文5年生の怒りのチビ太や、イヤミや、蝶の好きな多田さん、グラン佐々木、それに六つ子なども勢ぞろいしていて、徒党を組んで階段教室を下りながら、全員が黒づくめの犬になってしまって、「なんだ坂、こんな坂」と大声で歌いながら踊り狂うている。

ワン ワン ワン
Wang Wang Wang
ワワン ワワン ワンワンワン

おめえは、なにを舐めてんだ
あんたのお尻を、舐めてんだ
くすぐったいから、やめてけれ

なんだ坂、こんな坂
ワンワン、キャンキャン ワンワンワン
おいらは犬だ あたいは犬だ

秋田犬、津軽犬、岩手犬
阿波犬、越後柴、樺太犬
なんだ犬、こんな犬

紀州犬、高安犬、薩摩犬
四国犬、屋久島犬、縄文犬
お前は、単なる犬に過ぎない

森林狼犬、仙台犬、大東犬
秩父犬、珍島犬、土佐闘犬
そうさ、おいらはただの犬

羽衣之柴、肥後狼犬、豊山犬
前田犬、北海道犬、豆柴犬
犬は犬でも、国産犬

雪甲斐犬、琉球犬、鷹版犬
三河犬、甲斐犬重慶犬、日向犬
そうさ、あたいはMade in Japan

なんだ坂、こんな坂
ワンワン、キャンキャン ワンワンワン
おいらは犬だ あたいは犬だ

すると別の学生の一隊が、「これからは国産ドッグファイトからグローバル・キャット・ファイトの時代じゃあ!」と叫んで、ドラえもんやのび太と一緒に真っ白な衣裳に身を包んで「猫じゃ猫じゃ」と歌いながら、講堂の舞台の上で踊りはじめた。

ミャオ ミャオ ミャオ
Myaw Myaw Myaw
ニャ、ニャ、ニャン ニャン

おめえはなにを舐めてんだ
あんたのお尻を舐めてんだ
くすぐったいからやめてけれ

なんだ坂、こんな坂
ニャー ニャー ニャニャン、ミャー ミャー、ミャー
おいらは猫だ あたいは猫だ

ぶち猫、三毛猫、どらの猫
白猫、黒猫、ヒマラヤン
なんだ猫、こんな猫

さび猫、とらねこ、バーミーズ
赤とら、サバとら、純白猫
お前は、単なる猫に過ぎない

赤猫、灰色猫、斑猫
アビシニアン、オリエンタル、バナナブラウン、
そうさ、おいらはただの猫

ペルシャ、ベンガル、ターキシュ
メインクーン、ロシアンブルー、チェシャ猫
猫は猫でも国際品

キジトラ、トビ三毛、縞三毛
マンクス、ボンベイ、コンラート
そうさ、あたいはMade in the World

なんだ坂、こんな坂
ニャー ニャー ニャニャン、ミャー ミャー、ミャー
おいらは猫だ あたいは猫だ

あまりにも革命的な3次元デザイン短歌が次々に生まれてゆくので、私を拉致した入れ墨の大好きなパオパオ族の酋長も驚きあきれて、部族メンバーの全員一致で釈放されることになった。3/13

会社が経営危機に立ち至ったので、経営者が大幅なリストラを行うと宣言した。全員に残留テストを実施して点数の低い若い社員から順番に馘首するというのだが、私はもうなにもかもが厭になって、自分から退職してしまった。3/14

もはや万事休すだ。最後の戦いに敗れたら潔く死んでいくしかない、と深く心に刻んでいたはずなのに、いざ実際に敗れてしまうと、腹など切らず、草葉の陰に身を隠してでも、おめおめと生き延びていきたい、という思いが募るのだった。3/15

隣の家のおばさんが、また近所をうろついている。彼女は歩きながら、お得意のお仏蘭西語を、般若心経のように高唱するので、すぐに所在が知れるのだ。3/16

こないだ青木君がレッド・ツェッペリンのコンサートの切符を呉れたのだが、今日またやって来て「あの切符を返してくれ」と云うので、涙を呑んで返した。3/16

顔だけは相変わらず猪八戒そっくりの安倍蚤糞だったが、その醜い能面の下に、いつの間にやら別の怪人が入り込んでいるのだった。3/16

講談社のKさんは、鯛のおすましが出てくると「私はね、来月号はカブトムシの形をしたCDを読者にプレゼントしたいんだ。これくらいの大きさのね」と云いながら、吸い物の中に指を突っ込んだので、茫然としていると、上司のSさんが「いい加減にしろ」と怒鳴った。3/17

長年にわたって、生真面目な教員生活を続けていた私だったが、ある日魅力的な人妻に一目ぼれをしてしまい、それからどんどん深入りをしていったのだが、このままではお互いに不幸なことになる、と思っていったん別れたのだが、しばらくすると、またズルズルべったりになってしまった。3/18

我われは行軍する際に、上の歯でチチチと舌打ちしたら前進、下の歯で同じようにしたら後退する、という取り決めをしたのだが、その違いがうまく伝わらなかったので、その作戦は失敗に終わった。3/19

ようやく築地までやって来たので、寿司屋でランチをつまんでいると、隣のおやじが「バブルの頃は、ここでシャンパンを8本も空けたんだけどなあ」と焼酎を飲みながらぼやくのを聞いているうちに、嫌気がさして新宿に行くのをやめた。3/19

いくら有名になったり、大金持ちになったり、権力の絶頂に立ったとしても、無理して体を壊して病に冒されてしまえば、そんなものは屁のツッパリにすらならない。そろそろあんたの生き方を変えたらどうだね、と私はナベショウに説いた。3/20

アフリカの新興国とはいえ、複数の国の大使を兼任するのは難しい。それでも私は、しょっちゅう問題を起こしている隣接する2国を、毎日のように行ったり来たりして、ヘトヘトになっていた。3/20

「さあいよいよ戦争だ、これで思う存分人殺しができるぞ」と、二人の若者が期待に胸を膨らませながら、陛下恩賜の三八銃をピカピカに磨いていたのだが、突然、地面が大きく揺れて亀裂が生じ、二人は、そのまま地底深く呑みこまれてしまった。3/21

俄か成金になった私は、友人から「東京湾の埋め立て地を買わないか」といわれたので、早速現地へ行ってみると、見渡す限り泥水が続く敷地が広がっていた。そのうち便意を催したが、最寄りのバラックまで数キロあると聞かされたので悶絶してしまった。3/22

なんたら芸大の人気教授の客寄せ講演「人類の深くて狭い穴について考える」が始まった。サクラで駆り出されていた私は、「ヨオ、大統領!」と叫んで、陰ながら応援していたのだが、案の定開講5分で女子大生の大半が退席して、閑古鳥が何匹も鳴いていた。3/23

最高級の牛肉をグルメする会に出たら、シェフが「ここは肩肉、これは腹肉」などと解説しているはしから、肉全体が次々に復元され、とうとう一頭の巨大な闘牛が誕生した。3/24

社長が「新ブランドの売り出しに最適の媒体計画を大至急作ってくれ」というので、あれこれ考えているのだが、どの媒体を使えばいいのかてんで分からないので、電通の社員が持っている媒体手帳がどこかに落ちていないか、と自転車に乗って探しに出かけた。3/25

突然壇上に押し上げられた私は、なにを言っていいのかてんで分からず、かろうじて「吾輩のこんにちあるは、ひとえに大恩ある○○先生のおかげでありましてえ」と、なんちゃら社交辞典にあるような言葉を口にしたが、その後が続かず、絶句してしまった。3/26

聖戦十字軍を代表する戦士として、アラブ随一の女戦士と決闘を挑んだ私は、無残にもあっと言う間に武器を奪われて敗北し、屈辱と不名誉のどん底に沈んだのみならず、彼女の奴隷にされてしまった。3/27

夕方、外で涼んでいると、誰かが庭から勝手に俺の家の中に入ってくるので、「なんだなんだ、おめえは誰だ」と誰何すると、「私はあなたと同姓同名なので、ここへやってきました」という。3/28

そいつはプロの殺し屋で、何度も俺に肉薄して来たが、あと一歩と言うところで難を逃れてきた。しかし今日はまずい。いかにもまずい。ポケットに手を突っ込んだが、いつものピストルはなく、一羽の鳩しか出てこなかった。3/29

ずっと若いころエイズに罹ったが、体に良いという井戸水を張った水槽に毎朝全身を浸していると、不思議なことに快癒してしまった。その後私はNYで新進アーティストとして成功し、金も名誉も手に入れたので、「もう思い残すことはない。いつ死んでもいい」と思って、水槽を壊してしまった。3/29

新興住宅街にあるギャラリーを出て、夜の盛り場を彷徨っていると、ベネチアのカーニヴァルで見た顔を白く塗った女たちが、長い列を作って私を待ち構えていたので、その真ん中を通って、屋敷の入口に通じる階段を登ってゆくと、真っ暗な部屋があった。「おおい、誰かいないか?」と尋ねたが、返事はない。誰もいなかった。3/29

私が奥菜恵似の女と仲良くしているのを知った吉高由里子似の女が、「デートしよ」といって私を植物園に誘ったので、2人で植物園に行ったあとで動物園に行ったら、猿どもが白昼公然と性交しまくっていたので「こんな不愉快な所はやめて、もっと愉快な場所へ行こう」と2人でラブホへ行った。3/30

本社から越中島の営業部に異動になったが、営業なんかやったことがなく、名刺すら持っていないので、得意先へ行っても、上司や同僚の背後に隠れてしまう私を見て、みんな呆れ果てていた。

そんなある日、東映から健さんがやって来て、なんとか組の親分役としてわが社の営業を手伝ってくれるというので、興奮した私は1本の包丁を買って来て、晒しに巻いてスーツの中に忍ばせていた。

ある日、みんなで雁首揃えて地方へ出張に行ったら、先を歩いていた健さんが、誰かと喧嘩になったので、すっ飛んで行って、そいつのでかっ腹を正宗の包丁でブスリとやったら、上司が「よくやった。これで邪魔者は消えたから、この地区の売り上げは倍増だ」と大喜びした。3/30

上等兵の一再ならぬ執拗な苛めに耐えながら、「所詮は、これがおいらの人世だったんだ」と思いつつ、黙って歩き続けていると、いつの間にか元居た地点に戻っていた。3/31

前回のロケット到着の際にはおよそ数キロの誤差があったが、今回は私が特製のグローブでキャッチしたので、どんピシャリだった。3/31

 

 

夢は第2の人生である 第29回

西暦2015年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

前線で戦う兵士たちは全員ワイヤレススピーカーを装着していたので、強力な敵軍に遭遇して奮闘苦戦する現場の状況が、ここ司令塔でも手に取るように分かったが、彼らはけっして「天皇陛下万歳」とか「お母さん!」とか無駄な言葉は口にせず、次々に無言で玉砕していった。4/1

カーマイケル氏は、日本軍占領下の南洋諸島で諜報活動に従事していたそうだが、それがいかに危険で困難を極めた命懸けの業務であったかについて、我が軍に捕えられてからも縷々語り続けるのであった。4/2

久しぶりに展覧会に行ったら、畳10帖敷きくらいの大きさの絵が会場狭しとぶら下がっていたが、不思議なことに私らは、その絵を貫いて歩くことができた。聞けば画用紙に描かれた原画を、最新の4D技術を用いてプロジェクターで投影しているという。4/3

奇妙な人形が現れでたので、そいつをクリックすると「4年間だうもありがたう」と言いながら、深々とお辞儀をして消え去った。4/4

夕方になったが、まだ試合は続いた。12回裏2死満塁。すっかり日が落ち、暗くなった球場で私が放ったライナーは、左翼手のグラブを掠めてなおも空高く舞いあがり、やがて見えなくなった。4/5

W氏にぱったり出くわした。この人は、日本一の広告会社に勤務していたとき、クライアントの営業を担当していたが、なにか不祥事を起こして首になり、傘下の小さな会社に飛ばされたはずだが、ちょっと挨拶しただけで、逃げるように去って行った。4/6

当社のキャンペーン「ライフ・イズ・ビューチフル」が、世界各国のみならず国連の年間共同キャンペンとして採用された、という速報を知った私は、早速社長に報告しようと社内を探し回ったのだが、「1か月前から行方不明になっている」と専務が言うので、唖然としてしまった。4/7

すでに私を含めて2人のカンフーが雇われていたが、ステージ全体がおよそ30mもあり、演者1人が3.5mを動くとすれば、少なくともあと6人の少林寺拳法の名手が必要だった。4/8

私たちは平君の案内で、泉佐野の辺りをのんびり歩いていたのだが、突然、平君が「われ何処に行かん!」と叫んで、大阪支店に向かっていっさんに走り去ってしまったので、クマゼミたちが大声で鳴き喚いた。

それから路に迷ってしまった私たちは、ようやく大阪平野を見渡す峠への獣道を発見して小躍りしたのだが、麓へ下ってゆく路のいたるところに、夥しい黄金いろの雲古がてんこ盛りになっているので、それらを踏まずに歩くのはとても難しかった。4/9

やがて私たちは小汚い大学に辿りついたが、その大学に勤務していたさる外国人非常勤講師は、「おいらはそんな就活指導なんか絶対にやんないぞ。そんなギャラなんかもらってないもんね」と、不平たらたらでキャンパスをのし歩いていた。4/9

異常な金融緩和政策ゆえに、銀行ではどんどん金を貸してくれるのだが、ベンチャービジネスに対しては、例外なく渋い顔をするので、IT企業の若手経営者たちは、美貌で知られているネット銀行の女性CEOに多額の貢物をして、数千万円の融資を受けていた。4/10

彼らは情報交換と称して、その美人CEOが経営し、支配人も兼任している銀座の超高級クラブに、夜な夜な出入りをしていた。その毎月の飲食費ときたら、借金の利子の数十倍に上っていたのだが、そんなことなど忘れたように、毎晩セッセセッセと通いつめていたのだった。4/10

私は水の中の映画館で、2本の映画をみた。1本は馬を殺す映画で、もう1本はありきたりのボーイ・ミーツ・ガール物だったが、スクリーンと座席の間に色とりどりのたくさんの魚が泳いでいるので、くわしい内容は最後まで分からなかった。4/11

松下表具屋の店先を覗き込むと、橋本画伯と表具師の間にいる青白い幽霊のような男が、2人の両肩に手を置いているのが見えたが、この謎の人物は、後ろにぶら下がっている橋本画伯の日本画の中から抜け出してきた若侍だった。4/11

火星社書店でエロ本の立ち読みをしていると、口の中がザワザワする。鏡の前で口を開いてよく調べてみると、大臼歯の詰め物が取れた痕から、1本の鮮やかな緑色の若葉が伸びていたので、私は口を大きく開けたまま暮らそうと決めた。4/11

どんどん記憶が失われてゆく。よほど困ったときには、庭に備え付けてある碾臼に頭を擦りつけながら、ごんごん碾いていると、いつの間にか忘れ去られていたわが親しき思い出が、ハラハラと踊り出てくるのであった。4/12

なぜか村の祭りの余興の審査委員長に指名された私が、12組の演目の中から、かねて思いを寄せていた娘のひな踊りを最優秀賞に選ぶと、村人の大多数が異議を唱え、あまつさえ投石を始めたので、身の危険を感じた私は、娘の手を引いて海辺に走った。

渚にもやってあった小舟に飛び乗って海を漕ぎ出すと、村人たちも2艘の船で後を追ってくる。懸命に櫂を操ったが、さして遠くに行かないうちに追いつかれ、私たちは奇怪なお面を被った村人たちの櫂で散々打たれ、血まみれになって海に投げ出されてしまった。4/12

この野球チームには、1軍と2軍の間に「かみつき屋」と称される連中がいて、試合中も練習中もたえず真剣勝負を挑んでくるので、我われ1軍の選手も、一瞬たりとも息が抜けなかった。4/13

その港には、巨大な張りぼての女たちが三々五々憩うていた。その顔を良く見ると、目や鼻や眉毛はなく、その代わりにカスリーンとかジェーンとかキティとか女性の名前が両目の辺りに大書してあった。ここはなんと台風の基地だったのだ。4/14

彼女と遠距離恋愛をしていたのだが、交通費が莫迦にならないので、超廉価の携帯を買うて来て、なんちゃらかんちゃら話していたら、「これから上京するので、そのまま繋ぎっぱなしにしておいてね」と彼女が言うてきた。4/15

その収容所では1日2回食事が給されたが、弱った病人や老人は、それさえ食べきれず、みんなが食堂から引き上げたあとも、毎回1人や2人は食卓にうつ伏せになったままの者がいた。彼らは、私たち料理人の手で迅速に処理された。4/16

俺が捕虜をわざと逃がしてやったことを、相棒はひどく気にしていたが、俺は「その責任は全部おいらが取るから、お前は心配するな」と何度も言い聞かせた。俺はすでに覚悟を決めていたのだ。4/17

あれから3年、今夜は故郷の町の温泉祭りだ。ムショから出たばかりの俺は、裾までからげた両脚を温水が流れる小川に浸しながら、3年前に俺をチクッて監獄に送った密告野郎がやってくるのを、今か今かと待ち構えていた。4/17

同窓会というものに初めて出かけてみたが、私が誰かも分からないようだし、出席者の名前を聞いても誰ひとり見分けることができないので、焦っているうちに彼らの顔がとろけ出して、まっしろけののっぺらぼうになってゆく。4/19

早朝、長身の若い娘がわが家のポストに何かを入れて立ち去ったので、2階から降りて調べてみると、写植の紙焼きでした。その日の午後、私が筋違橋の辺を歩いていると、その娘が桜映社という看板の写植屋で働いている姿が見えました。4/20

軽く助走してから、ホップ、ステップ、ジャンプの三段跳びをやってみた。すると私の体は、まるでツバメのように軽々と宙に浮き、しばらくは着地しなかったので焦ったが、いったいいつの間にこんな軽業を身につけたのか、と我ながら訝しく思った。4/21

脳の具合が悪くなって入院していた私は、治療のために良いとされるフルメタルジャケットを着せられたたまま、主治医の診察を受けるために、深夜の病院の廊下に並んでいたのだが、その長い長い列は、いつまで経っても縮まらないのだった。4/21

その病院では、だんだん水不足が深刻になってきたが、神明社の階段の下を歩いてきた者だけが、水道のコックを捻ると1杯の水が出ることが分かったので、この参道も、朝から真夜中まで押すな押すなの大行列だった。4/21

けれども、容態が悪化して身動きできなくなってしまった私が、山口君と茂原さんに頼んでコップ2杯の水を枕元に持ってきてもらった直後に、誰が神明社詣でをしても、もはや水道からは一滴の水も出なくなってしまった。4/21

今回の試験は、1平方キロもある広大な原っぱで行われることになった。原っぱのあちらこちらに置いてある回答箱の中に、氏名と番号を書いた問題用紙を入れるのだが、問題の数はあまりに多く、原っぱはあまりにも広大なので、私たちはたちまち汗まみれになってしまった。4/21

7万円のプレーヤーと10万円のアンプで、ジャズやクラシックのLPをかけて、会社の全部のフロアに大音量で流していると、いろいろ文句をいう奴が出て来たので、叩きのめしてやりました。ざまあみろ。4/22

栗の木の林に入ると、大きなカブトムシがちょうど目の高さに止まっていたので、私はこれを耕くんに取らせようか、健ちゃんに取らせようか、それとも卓ちゃんに取らせようか、あるいは亮ちゃんに取らせようか、または陽子ちゃんに取らせようか、ひろくんに取らせようかと、迷いに迷った。4/22

そこへ辿りつくためには、どうしてもこの急な坂を登りつめなければならないのだが、坂道のいたるところに、悪臭を放つ糞尿やら、泥や、雑多な塵が堆く積み重なっているので、私は蝸牛の歩幅ほども前進できない。4/23

「バブルの時に、僕のような者にもちょっとしたお金が入ったので、渋谷の坂の下の地下を走っている道を1本買って、「渋谷日不見」と名付けたんだけど、こないだ渋谷の地下街で迷子になったときに、そのことを思い出したんだ」

「んで、渋谷も大規模再開発で繁盛しているようだから、この道をシブヤヒミズと改名して、僕の専門の音楽CDや、楽譜や、ふぁっちょんや雑貨や飲食などを精選した地下名品街をつくったらいいんじゃないかと思うんだけど、どうかしら?」と、坂本教授が聴きとり難い声で呟いた。4/24

四方八方から打ちだされるひょろひょろミサイルを、毛むくじゃらの両の腕を水車のように振り回しながら、ひとつのこらず叩き落としてやった。なにを隠そう、私はキングコングだ。4/24

どんな気に入らんことがあったのか知らんけーのお、女衆が家の司に刃向かって、全員で首を吊って死んでしまおうとしたらしかが、いざとなると、蛮勇の振るいどころがのうなってしもうたとみえて、けっく泣く泣く元の鞘に戻ったげな。4/26

誰かがすぐ傍で生々しい呼吸をしているので、ハッと飛び起きたら音が消えた。それはどうやら私の呼吸音だったようだ。4/27

夕方そろそろ雨戸を閉めようかと思っていたら、応接間のガラス戸が開かれていて、白い顔がこちらを覗いていたので驚いた。しばらくすると、その顔の持ち主は姿を消したが、どうやら長男と同じ障がいを持つ娘らしい。4/27

教授から中世の宗教曲「ハルレ・ミサ」曲の歌詞を朗読せよ、と命じられた私は、急いで自分のテキストや楽譜を調べたが、どこにもないので、隣の女子学生から借りた教科書を見ながら、らあらあラテン語を呟きはじめたら、教授が「もういい」と制止したけれど、大声で叫び続けた。4/27

この公団での私の仕事は、はっきりいってほとんどなかったので、私は朝9時に出勤すると直ちに自宅にとんぼ返りして、朝寝してから再び出勤し、公団の食堂でランチを食ってから、公園のベンチでたっぷり昼寝して、かっきり午後5時に帰路につくのであった。4/28

てんでお金がないものだから、私は第一詩集「赤と黒のサンバ」を自分のパソコンで編集・印刷して、道行く人に配ろうとしたが、通りすがりの一人のインディアン、もとい、赤黒い顔をした先住民だけが、恭しく一礼をして受け取ってくれた。4/29

巨大な体躯を誇るそのビッグピープルの内部には、無数の賢いリトルピープルが住んでいて、阿呆な大家が莫迦げたことを仕出かさないように、日夜監視しているのだった。4/29

しょんべんをしたくなったので、ある大学に忍び込んだら、古くて狭くて暗い教育学部であった。トイレが見つからなかったので1階に降りると、若々しい女子大生が嬌声をあげて戯れていたので、「もはや自分の青春は終わったのだ」と言い聞かせていると、「お前は胆汁質だな」という野太い声が聴こえた。4/30

 

 

 

初めて買ったレコード

音楽の慰め 第11回

 

佐々木 眞
 
 

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久しぶりに書棚を整理していたら、古いレコードが出てきました。

確かこれは私が1970年代の初めに、横浜の弘明寺の小さな楽器店で初めて買ったクラシックのレコードです。

当時フィリップスというレーベルの廉価版に「フォンタナ」という1枚1000円のシリーズがあり、私はその中から旧ソ連のピアニスト、スヴャストラフ・リヒテルが演奏するバッハとモーツァルトのピアノ協奏曲を選んだのでした。

オーケストラは、バッハはソビエト国立交響楽団、モーツァルトはソビエト国立フィルハーモニー管弦楽団、指揮はいずれも旧東ドイツ出身のクルト・ザンデルリンクという人でした。

生まれて初めて買ったLPを大事に抱え、急な坂を登り下りして。墓地を前にした狭いアパートに辿りつき、これも買ったばかりのステレオ・セットとのプレーヤーの上にレコードを乗せ、バッハのピアノ協奏曲第1番BWV1052を聞いた時の驚きは、いまも忘れることはできません。

この曲は、冒頭からいきなりピアノとオーケストラが全力で疾走するのですが、その悲愴な響きは私の心をまるごと鷲摑みにして、地獄に道連れにしていくようでした。

ああ、これがクラシックというもんか。なんて暗くて重々しいんだ。夢も希望もない音楽だなあ。でもこれは今の俺の気持ちにぴったりだなあ。

そう思いながらレコードをひっくり返して、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番を聞くと、これがまた陰々滅滅たる序奏です。ようやくピアノが入って来ても、私の疲れた心はますます重苦しくなる。

なるほど「降れば土砂降り」がクラシックなのか。聞けば聴くほど悲しい憂鬱な気持ちになるなあ。でもでも、これは今の俺の気持ちにぴったりだなあ、と思えました。

いまでこそ分かりますが、偶然とはいえこの2曲は同じ二短調の曲でしたから、「元気はつらつ、さあいくぞ!」という活発で陽気な世界とは正反対の、死にたくなるような悲愴で厳粛な気分に満ち満ちていたのです。

当時私は2歳になった長男の脳に不治の障がいがあると知ってかなり落ち込んでいましたから、これはそんな退嬰的な気分にまさにぴったりのレコードだったに違いありません。

 

空白空白空白窓を開ければ墓場が見える。二短調協奏曲は死の歌ならずや? 蝶人