夢は第2の人生である 第48回

西暦2016年霜月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

私が乗った船が遭難して沈没しそうになったので、SOSを発信すると、「遭難マニュアルをよく読め」という返信があったので、読んでいるうちに、船は沈んでしまった。11/1

私は理科部長に部活の時間と場所を訊ねたのだが、教えてくれない。どうやら私は、部長に嫌われているようだ。11/1

僕らのパーティーは、豪華ホテルの一室で開かれていたが、隣の大広間では、集英社の大パーテイが同時に開催されており、ちらとそちらを見ると石井さんの姿もあったが、あの人たちは家族同伴でやって来ているようだった。11/1

町内でいつも面白い話をしている、おじいさんがいて、「わしの名前はシュニッツエルじゃ。誰かわしの話を記録しておいてくれないか。あとで1冊の本になれば、皆の衆が喜んで読んでくれるだろうからな」と語った。11/3

雛段の真ん中よりやや右側が、彼女の定位置で、ここで美しきヒロインは、くつろいで飲み食いしたり、客とおしゃべりしたり、調子に乗ると、その場でセクスしたりするのだが、だんだん疲れて嫌になって来ると、右端の個室に退くのである。11/4

久しぶりに会ったオオミチ君が、「会社のノルマで追い詰められているから、この中元セットを買ってくれ。1個1500円だ」というので、10セット買ったら、とても喜んでくれた。働くのって大変だ。11/7

男子学生たちはみなホモだったので、女子はみな老学生の私の部屋に押し寄せたが、いくらなだめすかしても、肝心の一物が物の訳に立たないので、頭に来て、全員立ち去ってしまった。11/8

おりしも、そのマンションでは、子供たちと大人の女性テームとの野球大会が開催されていた。11/9

買ったばかりの冷蔵庫からかなり離れたところで、その家の息子が、なにやら懸命に工事をしていた。窓際に佇んでいる彼女に近づこうとしたが、彼女が待っているのは、私ではないと分かったので、そのままにして別れてしまった。11/10

長い間隣国に占領されていた私たちは、ようやく解放された後も、彼らに対して屈折した感情を長く懐いていた。11/11

課長が出張先でレンタカーを借りて、ものすごいスピードでぶっ飛ばしたために、事故ってしまった。幸い怪我はなかったが、車は大破してしまった。クワバラ、クワバラ。11/12

疲労困憊した私は、もうすべてにおいて投げやりになって、国家機密事項を平文のウナ電で全世界に発信してやった。いい気味だった。11/15

夕方、会社から帰ろうとエレベーターを降りたら、ナベショーがお客さんに「すんまへん、こんな時間に来ていただきまして」と謝っていた。この男は、大物ぶっていつでもダブルブッキングしているから、こういうことになるんだ。11/16

その男は、いい女だと思うと、ダンスに誘ってチークダンスをするのだが、彼奴は踊りながら、膨らんだ局部をやたらとこすりつけるので、女たちは、嫌がってたちまち逃げ出してしまうのだった。11/16

砲撃を受けると、そのたびにコンクリートのフロアが崩れ落ちる。次の砲弾がどこに落ちるか分からないので、運を天に任せて、思い思いの場所に佇んでいると、目の前でドカンという音がして、私らは最上階から地下室まで猛烈な勢いで落下していった。11/17

ダリ展の隣で開催されている展覧会は、奇妙だった。会場はだだ広いのに、何ひとつ展示物も説明パネルがない。にもかかわらず、ダリ展より高い入場料を取られるので、みんな頭に来ているのだ。11/19

ちょっと油断していると、野良猫と野良犬と野良詩集が家じゅうに氾濫して、足の踏み場もない。そこで私は、我が家を犬猫詩集叩き売りショップにすることに決めた。11/19

我われの明日の計画を、カーテンの向こうで盗み聞きしている奴がいたので、妖刀村正をギラリと引き抜いて、グサリと突き刺すと、アベノシンタロウが朱に染まって斃れていた。ザマミロ、ふてい野郎だ。11/20

長い間行方不明になっていたクラタ氏が、突然この世に戻ってきたのだが、無気力そのものだし、眼はいつも死んだ魚のようだし、どうも様子が変だ。11/21

「恒例の社長年頭訓示によると、最近のわが社の業績は非常に好調らしい」、と海の底で立ち泳ぎしながら、時々あくびして、常務が教えてくれたが、本当にほんとだろうか。11/21

あるい夏の日に、黄色いワンピースを着た痩せた女がやって来て、挨拶抜きに「ポコペン」というたので、私はなにもいえずに、その場に立ち尽くしていた。

その翌日、ブーベリックという男がやって来て、やはり挨拶ぬきに「ポコペン」というのだったが、私が彼と一緒に村のあちこちを散歩していると、村人たちもいつしか「ポコペン」「ポコペン」と挨拶するようになってしまった。11/22

ある朝、関東平野を3.1で揺らしながら、地震は、「今度は6.0だぞ」と脅かすのだった。11/23

その男は、「私は、生涯で2度もサルガッソーの海で死にかけたことがある」と語った。11/25

原発事故による放射性物質で汚染されたというのに、この病院では、いつもと同じように安気に無警戒に業務を続けているのだが、それは病院長をはじめ首脳陣がどのように対応したらいいのか、てんで分からないからだった。11/27

小津監督が、新しい映画のエンデイングの音楽のために、大太鼓を買って来たのだが、実際に使ってみると、うまくいかなかったので、ヤオフクに出したが、誰も応募してこないいようだ。11/28

滔々と落下する千尽の滝壺を茫然と眺めていたら、隣に立っていた女が、私を背後から抱きかかえたまま、青い水底へ飛び込んだ。女は、大蛇のような両腿で、私の下半身をがっちりと締めあげ、両手を背中に回して身動きできないようにしてから、私の唇に舌を差し込んだ。11/29

私とセイさんが、どの席に座ればよいのかを巡って、その料亭の女将と若女将が喧嘩し始めたので、私らは、いつまでたっても座ることができなかった。11/30

 

 

 

木村迪夫詩集『村への道』をじっくりと読んだ

 

鈴木志郎康

 
 

 

詩集『村への道』(2017年2月20日書肆山田刊)は山形で農業を営むわたしと同い年の老いた詩人の詩集だ。詩人木村迪夫さんは、山形県上山市の牧野部落に住んで農業をやるかたわら詩をかいている。いや、傍らではなくて農業も詩作も木村さんに取っては同様に生きて行く上で欠かせないものであろう。「あとがき」に「わたしに詩を書かせたのは、明治生まれの文盲の祖母であった」と書いている。祖母は二人の息子、その一人は木村さんの父親、が戦死したのを知って、「三日三晩蚕室にこもって号泣した」のちに「三日後に蚕室から出て来た祖母は、次のようなうたをうたい出した。

 

ふたりのこどもをくににあげ
のこりしかぞくはなきぐらし
よそのわかしゅうみるにつけ
うづのわかしゅういまごろは
さいのかわらでこいしつみ

にほんのひのまる
なだてあかい
かえらぬ
おらがむすこの
ちであかい」

 

と「蚕飼いの労働歌にかえて」歌ったということだ。息子を戦争で奪われた母親の心情と思いがストレートに伝わってくる歌だ。この祖母の歌を書き留めたのが孫の木村迪夫さんなのだ。少年の迪夫くんは祖母が「おれに字が書けたら、戦争で犠牲になったこの悲しみ、苦しみを書き残して死にたい」と口ぐせのように言うのを聞いていた。そして「おれには字が書ける。祖母の思いをおれが引き継がねば」と決意したと言うことだ。詩人木村迪夫さんの詩の原点がここにあると思う。
それから木村さんは詩を書き続けた。『村への道』の最後ページにある「同じ著者によってー」を見ると、その他に15冊の詩集を出して『村への道』は81歳になった詩人の16冊目の詩集で二十篇の詩が収められている。詩集の三分の二あたりに「わが死地」という詩がある。その詩には自分が生まれ育った村に対する気持ちが語られて、最後に

 

「わが死地は
この村以外に無いと
心に決めて
久しい

すると
何故か 急に
わが村が
美しく見えてくる」

 

と書かれている。一連目には、

 

「少年期から
青年期にかけて
——にくしみのふるさとーーであった」

 

と書かれ、二連目には、

 

「労働にあけくれる日々——
早くから
村脱出の夢を抱いて寝た」

 

と書かれて、そして三連目四連目には、

 

「村と人との温くみを覚えるようになったのは
四十歳か
五十歳か
ずい分と歳を取ってからのことだ

そのわが村落も
いまは人かげも無く
農業後継者も無く
見渡すかぎり田野や
畑野も
荒れ始めようとしている」

 

と書かれて、「わが死地は」の次の連に続くのだが、その間に空間を取って、いきなり

 

「——TPPが 追いうちをかけるーー」

 

という一行が書かれている。TPPのことはよくわからないが、農産物の輸入が増大して国内農業が縮小し、農業者の意欲が減退して離農者が増えると言われている。つまり、TPPによって農業が壊滅的になるということだ。木村さんはそんな壊滅すると予想されている自分が生まれ育った農村を死地と決めて愛情を深めていると言うのだ。
詩集『村への道』は そういう生まれ育った農村を愛しむ気持ちを持って書かれた詩集と思われるが、その前半の詩には自分のことと村の生活が書かれ、後半には牧野部落のことが語られている。最初の詩「夜の野へ」には自分自身を見つめ直すところが語られている。夏の暑苦しい夜、部屋から走り出て村道を経て畦道へ駆け抜けると、自分の思い出の影が草に足取られて転ぶ。そこで「いまは亡き詩兄K氏がうたってくれた」詩を思い出すのだ。この詩兄K氏は農村の貧しい現実に対して言葉で闘った黒田喜夫ということで、その詩は黒田さんが木村迪夫のために書いてくれた詩ということだ。

 

「土地のない男は流れ去る
けれども少しだけ土地のある男は
必ず死ぬ 獣を映す眼の脂の色よ」

 

「土地のある男は必ず死ぬ」の男は牧野で農業を続けて来た木村さん自身のことと受け止められるが、その後の「獣を映す眼の脂の色よ」はわたしにはどうもよくわからないけれど、猛々しく生きろということなのだろうか。木村さんは「不帰の村への想いをおこしてくれ」と黒田さんに呼びかけて、曼珠沙華の花を添え、草むらに寝転がってまどろんでしまい、明け方に目覚めるが、頭には東北の有名詩人の宮沢賢治や有名歌人の齋藤茂吉を嫌う黒田喜夫の詩の一節が残っている。その木村さんの眼の前には村全景が迫って、「あれた桑の老木の森」が眼に止まるのだ。木村さんは自分の先行きが見えない農村に生きる多少は名が知られているが、牧野の草むらに寝転がる無名の詩人として生きて行くことを自覚しているのであろう。

次の「吹く、春の風が」では、トラクターに乗り春風に向って畑を耕しながら、「おれは 現役の百姓なんだ/おれは まだまだ若いんだ/勇気は十分に残されている」と自分を励ましている。この詩は「集落(むら)は/春/農夫(ひと)も/春」と終わり、農業をやり続ける自負が感じられる詩だ。

三つ目の詩の「少年期——遥かなる歳月の彼方に」では子供の頃を回想している。稲刈り後の田圃で三角ベースの野球をして、球が沼田に落ちた時、「(還らない父さんの声だけが、なぜかボールのように/弾んで、ぼくの耳に返ってきた)」ということで、父親の戦死が少年の木村さんの心を占めていたと思われる。働き手の男のいない農家はそれだけ収入にも響いていたことだろう。詩の後半には、夜になると「星空ばかり眺めて」「炎となって燃える音のする星を見付け/ぼくは/その星を/〈未来星〉と名付けた」という。そして現在の木村さんはこの星に「この村の行く末を」問いかけるのだ。

四つ目の「夏の花」は、「こころやすい美人の同僚に促されて/会議のあと/役所の地下通路で買った/鉢植の」ハイビスカスの花に、沖縄に行った時にその赤い色に「身の内の還らない血の色を見た」という思い出や、梅雨のはげしい雨の後に同じような雨上がりに娘さんを嫁に出した時の思いを寄せて、今は夫婦二人だけの暮らしになったと慨嘆する作品だが、木村さんには後継者がいないことを暗に語っている。

五つ目の詩には「稔りをはしる声」というタイトルで、稲が稔って来た時のその稔りを稲を作って来た者が全身で受け止めたこみ上げてくる感慨が歌われている。

 

「なおもしとぶるしずくの
早い沈みの時刻(とき)の際で
おう
おう
おう と
さけびの声を挙げ
暮れゆく宙天に木霊し
稔りをはしり やがて地に還る
部落(むら)と
農夫(ひと)との
影の
たたずみ」

 

とこの詩は終わっている。

 

七つ目の「眠れ/田んぼよ」は、雪の積もった田んぼを前に、自分たちが黒く日焼けしながら細心の注意を払って稲を育てて来たこと、また田んぼを流れる水が村の歴史を物語ることを思って、今は田んぼも村人も春を控えて静かに深く眠れと語りかける詩だ。最後に「ふたたびの春の/醒(めざ)めのために (死ぬなよ)」と締めくくられているところに木村さんの郷土愛が感じられる。

八番目の詩は「遥かなる詩人たちへ」と題され詩で、スーツを着て電車に乗って講演に行き、黒田喜夫や祖母のこと、また木村さんの家の隣に住み着いて稲や牧野部落の歴史を独特の映画に作った小川紳介のことを話し、帰って来てはしゃいだ気持ちに水を掛けて畑に走り、自分は農民なのだと自覚したと語られている。

九番目の詩は「煌めく日々の終わりに」というタイトルで、五十数年前に夫婦になってから、日中には乗用草刈機で草を刈り、夕方には四十数年前に植えた巴旦杏の樹を伐り、夜になると深い闇が満たす部屋で仰向けに寝ると、老いてもなお「見果てぬ夢を追いつづける」という日常が語られている。

十番目は「雑草(くさ)のうた」だ。雑草は田んぼや畑には害となる植物だから農民は殺草剤を撒いて枯らしたり鎌で刈ったりする。木村さんは「吹く、春の風が」ではトラクターに乗って畑の草刈りすると、また「煌めく日々の終わりに」では乗用草刈機で草を刈ると書かれている。この詩では、その刈り捨てる雑草の名前を一つ一つ挙げて、雑草を自分の身に引き寄せて「雑草に/安息の季節はあるか/きらめく鎌の刃先に/眠りの村の/未来は映ってみえるか」と語っている。稲と心を共にし、また雑草とも心を共にする木村迪夫さんがここにいる。

十一番目は「枕頭詩篇 Mさんへの手紙」という詩。「Mさん」が誰方か分からないが、表現者の木村さんが敬愛して近況を素直に告げることのできる友人なのだろう。その友人に向かって、表現者としての木村迪夫が姿を現している。風邪をひいて寝ていて胃は完治していると言われているのにその胃が痛む。寝床の中で十五、六年前に山形県トータルライフ研究会が刊行した写真集『風と光と夢』に見入ってしまう。その頃は自分もまだ若く、そこに写っている女性たちのはつらつとした姿に村の未来が映し撮られているようで、生きる意欲が湧いて来るのを感じる。枕元には古典となった近藤康男編著『貧しさからの解放』と大牟羅良著『ものいわぬ農民』が置いてある。『貧しさからの解放』は戦後の農山漁村の貧困の現実と背景を指摘して貧しさからの解放を示したといわれる本であり、『ものいわぬ農民』は著者が古着の行商として戦後の岩手県を歩き農民の本音と農村の現実を生々しく綴ったといわれる本だ。木村迪夫さんは死ぬまで勉強しようという気概を持っているのだ。そういう木村迪夫は奥さんから

 

「お父さんは大した才能も能力も無いけれど
いい友だちをいっぱいもっていて
幸せだね
一番だね」

 

と励まされている、というが、外は「めずらしく大雪で」、部屋に寝ていると自分の老いを感じないではいられないというわけだ。この詩は「死期はまだ先なのだから」という言葉を繰り返して終わっている。

十二番目にあるのは「別れのブログーー追悼 立松和平さん」というタイトルの散文だ。これは立松和平が亡くなる前の年に木村迪夫さんについて書いた文章のようだ。木村迪夫さんが「ものいう農民」であること、「がっしりした体躯」と「鋭い目つき」の持ち主であること、「一生懸命働いてきた 出稼ぎにいって金を貯め 農地を買い足してきたのだった 米中心の経営にし減反になるとその部分を転作にしてなんでもつくってきた だが村の人口は減るばかりだ 村では農業後継者のいる人はほとんどいず 自分と妻とが頑張れるうちはなんとか農業はつづけるが それ以上はもう無理だ というのである」ということ、「『この頃 詩が書けなくてな 悲しくなってくるのは そのこともあるのさ』 木村さんは いきなりこういった 悲しみの深さが 私などでは想像するよりも深いのかもしれない 『詩は特別なものだろうけど 詩が書けなくてなったら 木村さんではなくなってしまうよ 詩は書かなくちゃ 』私はこう返しただが 二十年ぶりの再会はなんだか悲しかった 一〇〇万人のふるさと 二〇〇九年 夏」と書かれて立松さんの文章は終わっている。この散文によれば、木村迪夫さんは農業でも表現者としても、後継者がいないまた詩が書けないという危機的状況にあるのだなあと分かったような気になって来る。

この後、十三番目の「夏の彼方へ」と十四番目の詩集の題名なっている詩の「村への道」へと続いて行き、この詩集のクライマックスになるのだ。「夏の彼方へ」は梅雨時に「膝丈までのびた」雑草が雨に濡れてじっと立っているのを見て、

 

「こころが重すぎて
歩けそうにもなくなるが
やがてくる再びの真夏日の
その日まで
耐えて待つ覚悟をする

栽培(つくる)ことを止めて久しい
ぶどうの棚の下の雑草の
その靭さをわが身に置き換え
現実(あらわ)な降りの激しさの
梅雨(あめ)のなかに
性懲りもなく
わたしは
屹立(た)つ」

 

と危機的な状況にあってもそれを受け止めて、独立して屈することなくこの状況を生き抜いて行くというわけだ。単に「立つ」ではなく「屹立」という言葉を使って状況の厳しさに立ち向かう気持ちを表していると思える。
「村への道」は一読してした時に妙な気持ちになった。詩の二行目の「冬の河を遡(のぼ)ってきた農夫の姿がある」のこのいきなり出てくる「農夫」は一体何者なのかということだ。それまでの詩の農夫は木村さん自身か牧野部落の農夫だったが、わざわざ「冬の河を遡ってきた」この農夫は現実の農夫ではない。

 

「百年の孤独のような凍えから解放された
農夫は
この先の百年の村のかたちを眼のうちに
黄色にけぶる空と地のはるかな接点を
歩きはじめる」

 

という過去から未来に向かって歩き始める永遠の農夫なのだ。木村迪夫さんが厳しい状況に耐えた果てに考え出した農夫と言えよう。その農夫が「ゆっくりと/村へとつらなる道の坂を/越える」のだ。木村迪夫さんはこの農夫を出現させた。ここがこの詩集のクライマックスだと思う。わたしの理解の及ぶところではないが、次の詩の「わが死地」を読んだところからすると、この農夫は農村愛の化身とでも言えないだろうか。その農夫が牧野部落にやって来ると予言するようにこの詩は終るのだ。

そして十五番目の詩は「わが死地」だ。「わが死地は この村以外ないと 心に決めて ひさしい すると 何故か 急に わが村落が 美しく見えてくる」とこれまでの郷土への複雑な思いが吹っ切れたような心境になったということだ。

十六番目の「わが青春の記」はがらっと変わって散文とわずか四行の行分けの言葉がついた作品になっている。一九六五年前後の元気だった青年学級のことが書かれ、「一九六一年からわたしは、上山市東部青年学級の専任指導員を務めるようになっていたが、六五年の初頭に入っても青年たちの熱気はまだまだ衰えることはなかった」ということだ。詩人の「真壁仁先生にきてもらい」宮沢賢治のことを話してもらったりした。そして「学習会が終わったあとは、皆んなでスクラムを組み、ロシア民謡を声高らかに歌った。
ああ なつかしの
仲間たちよ
青年学級の 仲間たちよ
いまも元気でいるか」
で終わっている。最初にざっと読んだとき、あれれ、なんでこんなこと今更書いているかと訝しく思ったものだった。木村さんは若い頃、村からの脱出願望を持っていたのではなかったのか。それなのに若い仲間を組んで歌っている。そうか、そんなふうにして村に住み続けたのだ。それから続く三篇の散文を読み、中国で戦死した父親に呼びかける詩を読み、最後の「牧野部落」という散文を読み終えて、敢えて、散文を連ねて詩集を終えるということがなんとなく分かった気がしたのだった。

十七番目は「稲穂」というタイトルの五つの小節からなる散文だ。最初に「しかし米価がいかに低かろうと、豊作はやはり喜ばしいものである。稲穂を抱える両腕におのずから力が入り、笑みがもれる。鼓動が高なり、やがて心が静まる。稲作農家としての至福のときである。」と書かれ、木村さんに取っての稲の意味合いが語られている。二節目には、そういう稲作農家の集まりである牧野部落のシンボルマークが募集によって稲穂になったことが語られている。三節目は、牧野部落の夏祭りには農婦(おんな)たちが稲穂の図柄の法被を着て踊り稲穂の旗がはためき、「これこそ、縄文紀以来の伝統に生き、未来へと生き継いでいこうする村だとの、こころ根ではあるまいか。」と語られ、稲穂のシンボルマークから縄文へと思いが伸びて行く。四節目では、真壁仁の作品の「稲の道」の引用だ。「友だちが持ってきてくれた野生の稲の穂一本/芒(のぎ)がひどく長くて/そのはじっぽに/縄文紀の光がきらっと見える」「揚子江をくだった奴が/黒潮にのっておれたちの列島へ渡って来た」と縄文紀の稲の渡来がメコン川の稲の穂を手にした感動を持って語られている。五節目はその詩を受けて、秋の稲刈りが済んだあと、「稲の道」を暗唱しながら、「昆明の奥地から、この牧野の原に至り着くまでの、道のりの長さを、はるかな年月のわたり。」をしきりに思うということだ。農民であり詩人の木村迪夫さんはここで視線をぐーんと高い処に持ち上げて生活の場である牧野部落を遥かに見ることになったわけである。これこそ農村愛のなせるところではないか。

十八番目は「敗戦」というタイトルで、牧野部落の人たちが敗戦をどう受け止めたかを部落の会議録を引用して語った散文だ。「一九四五年の、牧野部落総会記録誌を、読む。『敗戦』を牧野部落では、どう受け止め、どう対処したかが気にかかった。」と書き始められ、十月十七日から翌年の三月までの連続した六回の会議録が引用されている。そこには外地派遣の家族の懇談会、疎開学童の帰郷、甘藷の提出、人口調整、農業調査などの件が記載され、十月三十日の「進駐軍ニ對スルカツ亦日本人ノ道義ノ高揚ニ關シ其ノ筋カラノ旨令ノ報告」とか、更に十一月十七日の「終戦ノ時局ニ對シ戰爭中ノ責任上辭職ノ件 協議ノ結果會長以下役員一同総辭職スル事ニ決定 常會ニ計ル事」とか、そして翌日の十八日の「會長以下役員一同総辭職ノ件常會ニ計リ 協議ノ結果今迄通リ務ムル事ニ決セリ」とかなど、また翌年の二月十七日の「新圓切替ニ關スル件」とかの議事録に、村人たちが生活の場で敗戦を受け止めていた様子が伺える。木村さんはこの会議録の中の「外地派遣ノ家族一名宛出席懇談会開催」という項目に注目して、こうしたことで、「『戦果大ナリ、ワガ皇軍奮闘セリ』の虚偽の報しか、聞かされてこなかった」村人たちは敗戦の実態を理解したのだろうと指摘している。そして最後に「結果として、陸軍軍人、一般国民合わせて三百万人の犠牲者を出したと厚生省が発表したのは、二年も経ってからのことである。」と付け加えて散文は終わっている。この懇談会で木村さんの祖母は木村さんの父親の戦死を確認したということであろうか。

いよいよ終わりに近付いて十九番目は、「祈り大地」という詩だ。「敗戦から七十年/父親の果てた中国への想いは/わたしの心から長い年月消え去ることはなかった」と書き始められている。「父親の死地」は「余家湾という静かな農村」ということだ。少年の頃に別れた父親の心優しい面影を七十年忘れることはなかった。そして遂に木村さんはその余家湾に行って、父親の霊に呼びかけるのだ。

 

「母親の眠る
まぎの村へ

祖母が悲しみと怨念のうたをうたって逝った
あなたには遠くなつかしい
まぎの村へ

おやじよ
七十年ぶり親子ともども

ニッポンへ帰ろう

まぎの村へ帰ろう

いまも緑濃い大地へ
そして田圃へ 出よう
畑へ行こう

ふたたび戰爭の無い
まぎの村の未来へ
一緒に
帰ろう」

 

木村迪夫さんの心の叫びだ。それは祖母、母、父とその子の自分という一家が揃って牧野という土地に葬られたい、そこで家族揃って永遠を過ごしたいという切なる願いであろう。土地と家族というところに木村迪夫さんの思いは至ったのだ。牧野という土地に深い愛情を感じるようになったからこそ、父親が亡くなった元の戦地にまで行って、父親の霊を呼び戻そうとしたと言えよう。
さて、最後のニ十番目の作品は「牧野部落」と題されたニ節からなる散文だ。牧野には「わたしが子供のころ、多くの雑木林が残っていた。原生林そのままで生い茂っていた。」と、つまり〈樹海〉でマギノの語源は「紛(まぎ)れ野」からと言われるということだ。そして、その雑木林がドングリなどの植生の限界地だと語られ、河岸段丘の一帯は水も豊富で、ドングリの実や鮭鱒も取れただろうし、多くの縄文人も集まってきていただろうと想像できるというのだ。そしてここで一転して切り返して、「このように地域的にも、歴史的に豊かな牧野部落を、若い時分わたしは、住み良い部落などとは一度も思ったことは無かった。」と書き進め、遅れて湿った狡猾で貪欲で小権力構造に組み込まれた人々の村社会と決めつけて、「『いつかこの村から脱出してやる』その思いだけを増殖させながら、少年期から、青年期を生きてきた。」と一節目を書き終えている。そしてニ節目に入るとこの脱出願望を支えていた村の否定すべきところが一挙に肯定されてしまうのだ。「原生林のように、静かで少しばかり寂しくてもいい。そこに住む人びとの心が美しくなどなくてもいい。狡猾で、貪欲で、ときには卑猥で、村うちの生き死の噂の絶えない、部落であっていい。これからも永い年月、生きつづけて欲しい。わたしたちが死んだあとも、小さな歴史を地深く刻みつづけて欲しい。」で終わっている。木村迪夫さんは変わったのだ。今まで否定すべきとしていたものごとを肯定して、こだわっていた自分を滅却してしまった。一節目から二節目に飛躍的に変わった心の変化の理由は語られていない。想像するに、その変化は村を脱出することなくそこで生活し続けてきて、村に愛着が生まれ、その土地をわが死地と決めたからであろう。最近は木村さんにお会いしてないが、容貌や身体つきもきっと変わったことでしょう。でも、その変わり目をきちんと一冊の詩集にしたというところで自分と向き合う詩人の木村迪夫さんは変わっていないと思えるのだ。

「あとがき」を読むと、木村迪夫さんの詩歴の一端が語られている。祖母の歌を書き留めたときから、男手の無い極貧の農民として「このまま一介の土百姓として虫けらのごとく地中に埋もれて生涯を終わりたくないと念じた。自己主張のできる、言葉を持つことができる人間として生きねばならないとも決意した。」という意識で詩を書き始めたという。そして七十年、現代詩に託して、反戦への思いと政治に翻弄されて来た「東北の農民の、怒りと悲しみを表現しようと努力してきた。」ということだ。今や、「そんなわたしを、人々は農民詩人と呼んでくれる。しかし、わたしは、真実、農民詩人としての枠を超えた、普遍的な詩人でなければならないと念じている。」と言うだ。
普遍的な詩人というのは、この詩集の最初の詩「夜の野へ」で木村さんのために黒田喜夫が「宮沢賢治が嫌いだ、斎藤茂吉が嫌いだ」と書いた有名な人物のことではないだろうか。詩を書けば、誰でもできるだけ多くの人に読んで貰いたいと思うが、詩を書くわたしには実はそれはどうでもいいことに思えるのだ。まあ、敢えて言ってしまえば、わたしには普遍的なんて糞喰らえざんすよね。そこで、まあ、普遍的な詩人を目指す木村さんに、この詩集をじっくりと読ませていただいたお礼に、余計なことですが、軽口を滑らせれば、木村さんの身の周り普遍的な詩の素材はいっぱいありますよって言いたいですね。牧野部落のドングリ、木村さんが作っているお米、耕している田圃や畑そのもの、その土そのもの、空気、風、そんなものごとを対象にするのでなく、主役にして、そのときどきの気分に乗せて心を込めて上手い言葉で書けば、普遍的な詩ってものは出来るんじゃないですか。でも、木村迪夫は牧野部落に根ざして生活する詩人であって欲しいですね。わたしは木村迪夫の姿が見えている「吹く、春の風が」とか「稔りをはしる声」とか「眠れ/田んぼよ」なんかが、それと木村さんが夜中に田んぼに走って行く「野の夜へ」も好きですね。

一冊詩集をこんな風にじっくり読むなんてことは何十年振りのことだった。木村迪夫さんとは面識がある。牧野部落の木村さんの家にも行ったことがある。木村さんの家の隣の小川プロを尋ねた時も木村さんとお会いした。でも、ここ暫くはお会いしてない。木村さんもわたしも1935年生まれで同い年なのだ。そして、わたしは学童疎開で牧野部落の上山市の隣の赤湯温泉に疎開させられて、栄養失調になったということもあって、へんな言い方だが、親しみを感じていた。送っていただいた詩集は読んで来た。今回も『村への道』を貰ってさっそく読んだが、「わが死地」には惹きつけられたが、詩集全体では散文で終わっていたりしていてよく理解できなかった。そこでまあじっくり読んでみようという気になったのだ。読んで、木村迪夫さんがなんか、いやしっかりと自分の心の変化を語っているのが分かって、木村さんはよかったなあとひとり頷いている。

 

 

 

鈴木志郎康著「新選鈴木志郎康詩集」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

1980年に思潮社から出版された12冊目の詩集です。

ここには「家庭教訓劇怨恨猥雑篇」「完全無欠新聞とうふ屋版」「やわらかい闇の夢」「見えない隣人」「家族の日溜り」「日々涙滴」から抜粋された92の詩篇と2つの詩論、富岡多恵子氏の鋭い詩人論、清水哲男氏の誠実な解説がぎっしりと充満していて、最近少しずつ現代詩を勉強しはじめた私にとっては、大いに勉強になりました。

「家庭教訓劇怨恨猥雑篇」の「グングングン! 純粋処女魂、グングンちゃん!」や「完全無欠新聞とうふ屋版」の「爆裂するタイガー処女キイ子ちゃん」などは、それ以前の「プアプア詩」の前衛的パンクてんこもりの続編として、読めば読むほどに血沸き肉踊るような破壊的な喜びを覚えました。

でも、もう先輩の皆さんにとっては周知の事実なのでしょうが、
そんな詩人の作風は、3番目の「やわらかい闇の夢」で、突然その世界がうって変わります。

まあ、豹変ですね。

あのシュトルムウントドランクの日々は限りなく永遠に続いて、“戦後日本を代表する世界遺産”になるかと思われたのに、さらば真夏の太陽の黄金の輝きよ。それは余りにも短かった。

「ああ、なんて勿体ないことをしてしまったんだ!」

と、思わず私は叫んだほどでした。

そんな門外漢の私の歯軋りなどおいてけぼりにして、詩人は、さながら東洋のボードレールのように、

「もう秋だ。お嬢さん、おうちに帰りな。往来の言葉蹴り遊びはもう終わったぜ」

とでも言いたげに、ひそやかに別の歌を呟きはじめるのです。

深夜鏡の前で自分の裸体を見つめながら“裸の言葉、裸の心”という奴を探し求めるように、とうとつと独語しながら、いわゆるひとつの内省的な思索を繰り広げるようになるのです。

あたかもベートーヴェンの「第9」の合唱が入るところで、すっくと立ち上がったバリトンが、能天気なはやとちりの管弦楽をさえぎって、

「おお友よ、その調べではない。もっと別の歌をうたおうではないか」

と叫ぶように。

けれどもそれは、耳に心地よい歌ではありません。「狂気がバタバタしている」物音です。

新しい自分、新しい詩を求める詩人が、自分の心臓に向かって蛇入する血まみれの即物音。
まるで自分の胸に聴診器を当てながら、病根を探ろうとする医者のモノローグのような肺腑の言が、ここにはドクドク刻まれているようです。

さて、自ら求めて人為的な“冬の時代”に突入した詩人が、その後どのような紆余曲折を辿りつつ「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」の現在にまで至ったのか?

不勉強な私はてんで知らないのですが、いろいろ有為転変があったにもかかわらず、詩人の心底の底の底では、あのプアプアちゃんの純粋桃色小陰唇の幻影が、いまなおプアプアと浮遊しているのではなかろうかと睨んでいるのですが。

 

空白空白プアプアちゃんグングンちゃんとキイ子ちゃん3人揃って爆裂するや 蝶人

 

 

 

幻の名機「KEF104ab」を探して

音楽の慰め 第13回

 

佐々木 眞

 
 

 

しばし呆然とその場に佇んでいた私が気を取り直して「ね、清水君、で、このスピーカーいくらするの?」と尋ねると、「中古とはいってもまだ比較的新しいですから、ま新品の半額の五万円ですね」という返事が返ってきました。

今だってそうですが、70年代のはじめの五万円は相当な物入りです。
私は3日間悩みに悩んだすえに、この欲しくて欲しくてたまらなかったスピーカーを涙を呑んで諦めたのでした。

あの運命の夜から幾星霜、2017年の1月に入ったある寒い夜、何気なくヤフオクをチエックした私は、なんとあの曰くつきの名器KEF104abが競売に付されているのを見つけたのです。

横浜のリサイクルショップが出品していたそのスピーカーは、もちろん年代物の中古品です。70年代にクラシックファンから好評を博したKEF104abは、しばらくすると製造中止になり、今ではこういう形でしか入手できなくなったのです。

今や棺桶に片足をっ込んでいる後期老齢者の私に、突然あのスピーカーから迸り出る朗々たるチャイコスキーの弦の奔流、そして管弦楽に抗して連打されるティンパニーの猛虎のごとき咆哮が生々しく甦りました。
「よおし、この千載一遇の機会を逃してなるのものか」
私は万難を配して、この幻の逸品をものにするぞ、と決意しました。

しかし気になるのは財布の中身です。
リーマンを止め、フリーライターを止め、大学の教師を辞め、年金生活に入った私が自由にできる金額は、ほんのわずかなものです。
1000円から始まった競合入札が、どこまで高みにせり上がるのか。
私は毎晩ネットでその金額が上がるのを、はらはらどきどきしながら見詰めていました。

ラッキーなことにこの物件は、横浜保土ヶ谷区にあるその会社での「現物手渡し」が条件になっていました。
通例では全国から殺到する競合者と張り合わなければなりませんが、これだと恐らく横浜市内か神奈川県下に在住している人に限られてくるでしょう。

私は車を運転できないので、その会社まで電車で行き、横浜市のタクシー会社に予約して決められた日時に現地で待ち合わせ、トランクの中に2台のスピーカーを入れて自宅のある鎌倉に向かえば、八千円ほどの費用で賄えることが分かりました。
交通費込みで3万円ならなんとかいけるな、と私は踏みました。

そして、いよいよその決戦の夜がやってきました。
ライバルは6人くらいに絞られ、締め切り寸前の値段は、1万7000円と思いのほか低い。これなら楽勝と思い、私はあと締め切りまであと1分の段階で2万2000円を張り込み、「見事落札おめでとう!」の知らせを心待ちにしていたのです。

ところが、ところがです。なんと、なんと落札終了時間が過ぎた後で2万2500円をつけ、最後に笑った奴がいたのです。
2人のライバルがデッドヒートを繰り広げているのを知った出品者が、終了時間を延長して落札価格の引き上げを図ったに違いありません。

ああ、なんということだ!
ヤフオクで煮え湯を飲まされたことは、これまでも何度かありましたが、今月今夜の敗北はじつに手痛い。
かくて幻の銘器KEF104abで、ムラビンスキー&とレニングラードフィルハーモニー管弦楽団の交響曲第5番を半世紀ぶりに耳にして涙にむせぶ奇跡は、うたかたの夢まぼろしと消え去ったのでした。

 

 

 

町の定食屋さん

 

みわ はるか

 

 

ご無沙汰しております。すっかり本格的な冬を迎えて、こちらはどかっとした雪が何度か降りました。
ちらちらと降る雪はなんだか可愛らしいですが、山のように降る雪には少し嫌気がさしてしまいます。

わたしの住む町は以前にも何度かお伝えしたかもしれませんがとても田舎で、一面に山や田んぼ、お茶畑が広がっています。そんな中にもいくつかご飯屋さんがあって、わたしの大好きな場所があります。今日は少しだけ紹介したいと思います。

メイン道路から外れたところにあるそのお店は深い緑を基調とした外観で、注意して見ていないと通り越してしまうほど背景に馴染んでいます。決して派手ではなくひっそりとたたずんでます。そこに初めて入ったきっかけは通勤の途中の道にあったからというなんともない理由でした。よく見るとそこの駐車場はお客さんの車でいっぱいでした。恐る恐る扉を開けてみると、天井は高く窓も適度にあり日の光がいい感じでさしこんでいます。木材で作られた4人掛のテーブルと椅子、カウンター、座敷にテーブルがそれぞれいくつかありゆったりと時間を過ごせるつくり。お店の至るところにその季節の植物の写真、地元で採れる野菜やお菓子の陳列、手作りの飾り物。たくさん飾ってあるのに各々の自己主張が強くないせいかほどよいかんじでそこに在るのです。なんとも言えない幸福な気分になれます。

メニューは豊富で定食や飲み物の種類は20を越えています。魚や揚げ物お野菜と好き嫌いが多い人でも必ず欲しいものを食べられます。モーニングもあり1日中楽しめます。始めに何を頼んだかはすっかり忘れてしまいましたがその味に感動したことは今でもはっきりと覚えています。味噌汁はよく出汁がとってあり、小皿の煮物を優しい味で、もちろんメインも素晴らしく美味しい。店内がお客さんでたくさんなのもうなずけます。店員さんは皆黒のエプロンをつけていて若い人から年配の人まで生き生きと働いてみえます。土日だけ顔を見る若い男の子が少し恥ずかしそうにお膳を運ぶ姿は微笑ましい。家族経営なのかな、親族かなと勝手に想像を巡らせています。

すっかり虜になったわたしはここ数年、月に数回仕事帰りに寄るようになりました。メニューはほぼ制覇したのではないかなと思っています。つい先日はお会計の際に「いつもありがとうございます。」と優しい笑顔で声をかけていただき温かい気持ちになりました。こちらこそいつもいい時間を過ごさせてもらって感謝したいくらいなのに。馴染みのお客さんにもそれ以上根掘り葉掘り聞いてこない姿勢にも配慮が感じられます。

社会に出るということ、生きていくということ、いろんな世代の人と関わっていくこと。いいことばかりではなく、不快な気持ちになったり腹立たしく相手を憎んでしまうこともあります。自分が情けなくて情けなくて涙を流す日もあります。そんなどんなときもいつも同じ場所にひっそりとたたずむそのお店に癒されたくてまた足を運びます。そんな場所がみんなにあればいいなと思うのです。

 

 

 

夢は第2の人生である 第47回

西暦2016年神無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

隣にいた家族がなかなか戻って来ないので、ああやっぱりなあ、と諦めていたのだが、しばらくすると、あの皆殺し殺人ゲームで殺されなかったとみえて、無事に戻ってきたので、驚いた。10/1

「あんたがたは、今何を作っているんだ?」と尋ねられたので、右手を出して「こんな指輪だよ」というと、興奮して「すぐ欲しい」と騒ぎだしたので「横高で売ってるよ」と教えてやった。10/1

村人たちは、慰安旅行に行こうと朝早く公民館に集まったが、いつまで待っても矢沢夫婦だけが来ないので、見に行くと、2人は激しく性交を続けていた。10/1

弟子を連れてスケッチに出かけたのだが、彼は誤ってお城の堀に転落してしまった。すぐに助け出そうと思ったのだが、私はその時、脳裏に浮かんだ幻影を定着しようとアトリエに引き返したために、彼は溺れ死んでしまった。10/2

もう秋か。久しぶりに大学へ行った私は、今年もまた試験はおろか授業さえ出ていないことを思い出し、これでは何年かかても卒業できないのではないか、と冷汗を流した。10/4

人生の調子を整えるべく、神様は時々私に任意の昔をもう一度生き直すように強いることがあった。万年筆にスポイトでインクを注ぎ込むようにして。10/5

一夜にして山と成った一夜山めざして、私は一晩中走った。10/6

私は持っていたCDを、雨水が溜まったところに落としてしまった。すると一緒に歩いていた長男は、自分のせいだと思いこんでいきなりその水たまりに飛び込み、ずぶぬれになりながら探そうとするので、私はその余りにもストイックな態度に深くうたれた。10/7

権謀術策を凝らして、私は、とうとうその小さな島の王になった。10/8

今年入社した私たちは、新規も中途もまじえて全員が寮に閉じ込められ、訳のわからぬ研修を受けたのだが、私は同室の若くて超美人のねいちゃんを毎晩可愛がっていたから、ちっとも文句はいわなかった。10/9

マイケル・J・フォックスの娘という人を遠くから眺めていると、日産の広報嬢が「あの人どうですか?」というので「いいですねえ」と答えると、「彼女、なかなか評判がいいんですよ」と宣うた。10/10

会社が物置に使っている部屋が、なかなかに趣があるので、私たちは、時々この部屋で寝泊まりしていた。ある日そこで端坐していたら、いきなりブルトーザーがつっ込んできて、私は大けがをした。10/11&12

私たちは、その詩人が生まれた町を訪ねて、研究発表の材料にしようと思っていたのだが、同行した女性たちの観光気分に妨げられて、何の成果も得られず引き揚げようとしたとき、上空に人力飛行機が現われた。10/13

かつて私が下宿していた家を訪ねたら、猛烈なゴミの集積の中に、乞食のようなおばはんがいて、ニヤリと不気味な笑みを浮かべたが、それはあたかも私の来訪を知っていたような表情だった。10/15

平行棒のように伸びた木の枝をつたって、上へ上へとましらのように登ってゆく2人の男を見よう見まねで真似て、木の頂上にたどり着くと、村の女たちに歓声と共に迎え入れられたが、あの2人の男は見当たらない。いったいどこへいったのか? 10/16

大好きなポネルの演出で、モザールの「フィガロ」をビデオで視聴したのだが、いつもと違って全然面白くない。途中で再生をやめてクレジットをよく見たら、ポネルではなくパネルと書いてあった。10/18

海底の穴の中で、大きな魚と隣り合わせた小さな貝の私は、懸命にいろいろお世辞をいうてその場を取り繕うとしたのだが、とうとうぱくりと喰われてしまった。10/19

逆風が吹き始めたので、「朝まだきひんがしの空を見上げれば」という歌を詠んだのだが、どうしても下の句が出てこなかった。10/20

買ってきた外付けHDDが、「早く早く私をレコーダーに取り付けてください」と枕元で囁き続けるので、結局朝まで一睡もできなかった。10/22

バスに乗っているのは荷物ばかりだったが、駅に着くと、男たちが一斉に乗り込んできて、荷物の中の朝顔に水をやるのだった。10/23

深い谷底を流れる急流に転がり落ちた私だったが、そのままどんどんどこどこ流されて、とうとう海にそそぐ緩やかな大河に至った。10/24

おばはんは、私が大事にしている英国製の高級スピーカー、ロジャースを小脇に抱えると、いきなりナタを振るってメリメリと壊し始めたので、「なんてことするんだ、このおオタンコナす!」と怒鳴りつけると、「おら、薪にしようと思っただけずら」と平然としている。10/25

そこいらに自転車や自動車を停めておくと、すぐに警察がどこかへ持って行ってしまうので、油断も隙もならない。10/26

明日はこの鎌倉石の掘削現場を離れて、江戸城の再建工事に加わると決まっているのに、私は弟子たちの衝撃と離反を懼れて、まだなにも喋ってはいなかった。10/27

前夜私は、どこかで会社の貴重な資料が入ったカバンを無くしてしまい、終電に遅れて義父の家に泊めてもらった。夜が明けると私は、義父の車に乗せてもらって会社に向かった。10/28

ヤフオクで見事に落札したのに、いつまで経っても出品者から連絡がないので焦っていると、私が落札したはずの商品が、いつのまにか再び出品されているので、いったいこれはいかなる仕儀かと、私はまたまた焦った。10/30

会社のPR誌で短歌を募集したが、誰も応募しなかったので、金メッキした安時計が段ボール一杯ぶん残ってしまったので、社員全員に配ったが、まだまだ大量に残っている。さてどうしたものか。10/31

仲間たちと登山中に遭難したオラッチは、誰かの助けを求めたが、たまたま風邪を引いていたので、ついでに風邪薬も持ってきてくれと頼んだ。やがて捜索隊が到着して、仲間は全員救助されたが、風邪薬の入荷は5日後になるというので、私だけは5日後に救助された。10/31

 

 

 

や、やよ、ゆけゆけ2度目の処女!~長田典子詩集「清潔な獣」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

 

これは著者が2010年に出したおそらく現時点では最新の詩集で、イントロ的な「蛇行」以下、全部で10篇のかなり長めの作品が収められています。

そして詩の進行具合は、「初めは処女のごとく、終りは脱兎の如し」、あるいは「一点突破全面展開」という疾風怒濤の展開となり、全編を通じて作者が自作自演する、なにか気宇壮大な物語、詩小説が眼前で物語られているような、横隔膜がうんと広がったような、なんだか愉快な気持ちになるのです。

私はこの一カ月を除いて、詩集なんかほとんど読んだことがなかったから、よく分からないけど、ふつう詩集では、「わたし」という主体が、世界の中心にデンとましましていて、その「わたし」の行動や思いの数々が、縷々るるると述べられていくわけです。

でもこの詩集では、「わたし」が作者本人を思わせる妙齢の女子であったり、うら若い乙女であったり、清潔な獣であったり、老いたる要介護の母親であったり、イケメンの男子であったり、まるで怪人20面相のように自由自在、神出鬼没に変容するのです。

「自分ファースト」ではないけれど、自分の内部に、他者が蛇のように自由に出たり入ったりする詩のメタモルフォセス自律運動に、詩の奔放さ、弾力とリベラルさというものを、つよく感じました。

シェークスピアに、All the world’s a stage,and all the men and women merely players.という有名な言葉があるそうですが、作者にとってはAll the word’s a stage,and all the men and women merely players.なのではないでしょうか。

この詩集全体が、まさにその格好の舞台になっていて、どことなく物哀しいヒロインは、自分と他人と全世界をば、なんとか光彩陸離たるものに塗り替えてやろうと、一世一代の独りカタリ芝居を見せてくれるようなおもむき。

私がいたく気に入ったのは「いったいii 」というタイトルの、マルキュウ(東急109)の洋服が大好きな貧乳ギャルの場外乱闘です。

そのめくるめくノンストップしゃべくり捲り大騒動&はちゃめちゃ行状記、この言葉と肉体の超高速ラップに、いったい誰が追従できるというのでしょうか。

私は思わず、
「や、やよ、ゆけゆけ2度目の処女!」
と、大向こうから声をかけたくなりました。

そしてその後から押し寄せる「カゲロウ」、「世界の果てでは雨が降っている」、「湖」における、大蛇がうねるような勁い構想力と、その細部を織りなす挿話の繊細さに感嘆しない読者はいないでしょう。

 

 

 

長尾高弘著「頭の名前」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

かつて鎌倉の青砥橋という田舎に「青砥」という地元の主婦が運営している精進料理の店があって、贔屓にしていた。

それは安くて美味しい料理もさることながら、部屋の壁に私の大好きな画家、熊谷守一の書が掛かっていたからだった。

良寛に似ているようで、もっと純朴な「五風十雨」を飽かず眺めていると、お店の人が、守一95歳の書「一去一来」も見せてくださった。

最晩年の枯れた書体が、背景の軸物の薄茶色や床に活けられた秋海棠と映えて、まことに情趣深いものがあった。

熊谷守一の猫の絵などは、誰が見たって本当に素晴らしい味わいを持っていて、それこそわが国を代表する最高の芸術家といえようが、それを支えているのは彼の中の卓抜な観察者であった。

あるとき彼は、地面をうろちょろしている蟻を丸一日じっと見つめていたが、「長い間疑問に思っていたが、とうとう分かった。蟻は左の二番目の足から歩き始めるんだね」と語ったそうである。

この小さな詩集に収められている16の作品は、どれも比較的短く、私が知る作者の風貌のように、表現は質朴にして平明そのものである。そしてその多くは日常の茶飯事を主題にしている。

しかしそのいずれの中にも、私は熊谷守一流のアリへの視線を感じる。

身近な素材を腰を折って熟視し、そこからささやかな、しかし自分にとってはとても大切な知見をそっと引き出す、作者独自の方法とその見事な達成を、私はあきらかに認めたのである。

 

 

 

高橋啓介著「なんとかして」を読んで歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

大人になっても子供の心を失わない人がいるなどと世間ではよくいいますが、そんな人実際にはなかなかいませんよね。少なくとも私が知る限りでは。

しかしこの本の最初の2つの詩を読んだだけで、このタカハシさんという人は、もしかするとそういう稀有な魂の持主ではないかしら、と誰もが思うのではないかしら。

「疑似体験」は、次のような3行からはじまります。

 

きれいなきみをおもいながらベッドにはいる
つかれたからだにかわがながれ
きりのおもいにひかりがさす

 

1日の闇雲で五里霧中の労働にくたぶれた若きリーマンに、ようやっとやすらぎの夜が訪れた、というわけです。

ちょっと話が飛びますが、いま京都の伏見でお医者さんをやっている私の弟は、少年時代に、「兄ちゃん、わいらあ毎晩きょうはどんな夢を見れるんかと思て、楽しうてしょうがない」などと申しておりましたが、まあそんなところでしょうか。

で、次の3行がこうなります。

 

ぼくの×××は
△△△することで
それをあらわし
きみの○○○○はどうだ

 

どうですか。分かりやすいパズルですね。
というか、分かり過ぎるほど単刀直入な突っ込みが、作者の人世への明朗闊達な楽天性をおのずから表明しているようです。

以下、好きな女の人をしたなめずりしながら料理していくタカハシさんの「疑似体験」が続いて、あっという間に終わってしまうまるで童話のような短い詩ですが、じつに率直で、真っ正直で、健康的でしかも純乎としている。
私はお酒は飲めませんが、ウイスキーでいうとピュアモルトというところかしら。

ともかくこの詩集は、冒頭からこんな感じで始まるのですが、2番目の「木になるたのしみ」では、タカハシさんは、なんと本当に葉緑素になり、樹木になりきってしまうのです。

世の中にこれに近い人はいますが、絶対にこんな人はいない、と断言できます。
誰か、なんとかしてあげてください。

そうして驚いたことに、私はそんなタカハシさんの、ちょっとした知り合いなんです。
どうだ、参ったか。
ザマミロ。

 

 

 

薦田愛著「流離縁起」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

この詩集を読んでいるうちに、私の脳裏にはひとつの奇妙な映像が湧き起こってきた。

それは、ひとつの巨大なコクーンである。

青空のただ中に、青白い繭が、まるで最新型の雲のように、ぽっかり浮かんでいる。

近寄ってよく眺めてみると、そのとても薄くて半透明な表皮の奥に、一人の女性のシルエットが透けて見える。

それは、素晴らしく美しい眺めだ。
なかにいるのは、知的で謎めいた女性のようだ。

その外貌は、平成の御世にまだ生き続けるという和泉式部や清少納言、あるいはまだ誰も会ったことのない小野小町という名の女性を思わせるのであるが、その正体は謎に包まれている。

いつのまにか空はたそがれ、黄金いろに光り輝くコクーンの中で、彼女は踊り始める。
出雲阿国のように不可思議な舞を、舞い始まる。

踊りながら彼女は、真っ赤なルージュを塗りたくったうすい唇の間から、真っ白な、細くて長い長い糸を吐く。

するとその糸は、私たちが知らない国の言葉、まだ誰も読んだことのない物語の言葉になって、繭の中に織り込まれてゆく。繭の内壁に、どんどん繰りこまれていく。

孤独な舞は、いつまでも続き、白い糸は、果てしなく吐き続けられ、折り重なった糸は、どんどん彼女を覆う。

やがて地上から最後の光線がふつりと消え、世界中が深い闇に閉ざされると、踊り歌う女も、巨大なコクーンも、街も、うたかたのように姿を消してしまった。