また旅だより 28

 

尾仲浩二

 
 

大阪での写真展が終わって次の三重県津での写真展へ
紀伊半島を四日間かけて鉄道でぐるりとまわった。
誰もいない道を歩いているのにずっとマスクをしている自分がいた。
あんなにマスク嫌いだったのに。
これが今年最初で最後の旅。

2020年11月16日 和歌山県周参見にて

 

 

 

 

ハナモモの庭

 

南 椌椌

 
 


© kuukuu

 

2020年12月11日、今日はいつものように、あてどなくめぐり転ぶのではなく、練馬の関町の庭から一歩も出ずに、書き始め、書き終えてみたい。モリカズさんのようにというのは笑止のごとく烏滸がましいけどね。ところで、さっそく寄り道ですが、烏滸がましい、おこがましいの「烏滸」は水際でカーカー鳴き騒ぐ烏の意味から来ているそうです。言わずもがなのことを謙遜ぶってカースカ言う輩のことでしょうか。

それはさておき、数ヶ月を遡る、まめ蔵コロナ休業の卯月はじめ、吉祥寺視察自転車周遊を終えて、庭に帰ると、いきなりハナモモが満開であり、箒状の幹に零れるように咲く純白の花群がそれは眩いのだった。このハナモモの種類は「照手白」てるてしろという。歌舞伎や浄瑠璃の演目として伝わる小栗判官照手姫伝説由来の花桃で、花の色の赤は照手紅、ピンクは照手桃、白は照手白である。

我が家の照手白はまだ樹齢20年そこそこだが、そのひび割れた幹から松脂みたいなゼリー状の樹液がそこかしこに吹き出し、それはそれで好ましいのだ。というのも、いつからか、照手白には亡き母の儚く華やいだ精気が宿るようになり、その樹液は母の乳の匂いがしてあまやかで、さらに母の兄さん、つまり伯父の吐く紫煙の脂が混ざり合って、どこか馥郁たる妄想の芳香を放つようになったのだ。小栗、照手姫とはなんの関係もないが、ときに白く咲く花は、死者の息を吸って育つと聞いたことがある。

伯父といえば生前は清貧寡黙子宝高潔の人で、傾いたようなぼろ屋の門柱の裏には、隠れたように菊の紋が彫ってあった。段ボール専門の回収業、時代風に言えばバタヤさん稼業で、貧しくも高潔というのは圓朝の人情噺めいている。ダンボールうず高く積んだ自転車リヤカー、飄々の咥え煙草の伯父さん、不思議な人だった。生きていれば115歳になんなん。

庭の照手白には、妄想香求めて界隈徘徊する黒白チャップリン、サビのゲンシュウ、茶トラのココア、その名も北の国からクロイタゴロコなんかが、妖し気に擦り寄って来て、媚態にやあにやあとまあ愛らしいこと。

桜散る頃ともなれば、ぽつぽつと乙女の粟粒のような花芽が吹き出し、日ごと夜ごと膨らむつぼみが、我慢出来ずに八重九重の白い花群となって、それは美しいことである。そもそもこの照手白は22年前父の遺した古家を解体して建て直した折、近所の園芸店で6、70センチの苗木を求め植えたもの。今となっては南家小庭で樹高7メートル、帚状のシンボルツリーのようだが、そもそもハナモモはバラ目バラ科モモ属に属するだけあって、生育が早く、3、4年のうちに、小さいながら桃の実を撓わにつけて、あまた熟れて落果するのも早い。齧ってもけっして旨いことはないが、頃合いを見て、果肉を刻んでジャムに煮込むと、これが由来の照手姫らしく気品ある淡桃の芳しさ。自家発酵させたヨーグルトに混ぜ込むと、軽い懺悔の余韻のような味わいを楽しめるわけです。

後先考えずに植え込んだ、トネリコ、ムクゲ、ライラック、ヤマボウシ、レンギョウ、ドウダン、ハナミズキ、ヒュウガミズキ、雑植の木立、ときに風吹けば西向きの庭に慈悲の鳥が羽ばたき、胸騒ぎのする庭で飲むビールは格別で、そんなふうにコロナの夏が過ぎ、秋が過ぎて、さて冬来たりなば、来るべき春は?

 

 

 

muted organ

 

工藤冬里

 
 

矢が刺さる
私たちに矢が刺さる
蜂の巣のように口をあんぐり開けている間に
子供たちは飛んで行ってしまうのだ
夫は無口で
娘は勝気
夫は死んで
BUMPの追っかけをやめた娘と
こぞって屋根に上ってしまう
腐った音を食べ続けてレコード屋になるよりはマシか
ダーツに数人プールに数人
マスクしてhangingaround
ミュートして参加する
ミュートして参加するビジネス
ミュートして参加する家族
てにをはのおかしい緑のバス
Ⅰ-Ⅴ-Ⅳの無いクープラン

 

 

 

#poetry #rock musician

雑魚天

 

工藤冬里

 
 

いずれにしても服のまま運び出され
区別することの必要性を教えられながら
服のまま焼かれただろう
一度だけわざと
というのが成立しない世界を教えられながら
アビフ動画もbanされていくのだろう
国々のプラットフォームを述語とする糾弾は前菜に過ぎない
我々の国などは雑魚の中の雑魚、ジャコ天にされたその他大勢なのである

 

 

 

#poetry #rock musician

致晨泳的人

 

Sanmu CHEN / 陳式森

 
 

前晚Augustine說正寫文章,關於你
風很涼,艱難。
昨天下午在柏樹枝上見到一隻幼鳩,
小小的,灰醜灰醜的;巢中
還有一隻蛋,像是對世界懸而未決。
不相干地想起你,老炳走了好久了。
珂和小鵬走了,小鹏你沒見過。
那天我們在美院邊上的湖南館
打邊爐,你、老炳和陳珂都在
暖暖的光,麻辣麻辣的。
那天小鵬沒來。
骨骼在風中鳴響,一嘴泥就喝多了。
你遠在天海晨泳嗎?

穿過狂暴的警隊,
黑衣的孩子們四散若水。
年初,我和田中去看你,
在金鐘轉地鐵時意外地安靜,
只有一個女孩獨自落淚。
我告訴你芙美子已經走了,
有花,睡在自己的床上。
而荒井還是朝朝酩酊⋯⋯
之後我們去了香港仔的潮州店晚飯
點了菜脯炒蛋,炒學斗,鵝片例牌
骨骼在時間裡疏鬆,疏鬆成灰色的鐵櫃,鐵灰的空氣,塵埃。
在鳴響中碎成海岸的砂礫,
你说没有寄居的螃蟹。
我喝多了,一嘴泥。
骄傲的骨骼逃逸成南方的麂鹿,
追隨着那些流散佛像和書籍⋯

嘿,遠在天海
你還是朝朝晨泳嗎?

 

 

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last great wilderness

 

工藤冬里

 
 

三〇〇万のための水を補聴器で 掬う
泉は一二 、椰子の木が七本あったがそれが何になるだろう
親が死んだとは言わなかった
層が二つあって
どうしようもない荒野まで来ていた
この、死亡欄上の畏怖の念を起こさせる荒野
四〇年で全て入れ替わった
その間、水はずっとあったのだ

 

 

 

#poetry #rock musician