鎌倉橋

 

道 ケージ

 
 

雨の
鎌倉橋の交差点で
死んだS君と会う
とても急いでいるらしく
フードをかぶって
こっちには目もくれず
走り去った

鎌倉といっても鎌倉ではない
東京大手町のビル街
そのはずれ

死んでも働いているのか
近頃
死んだ人と会うことが多いのは
どういうことだろう

オヤジとはしょっちゅう
といってもいいぐらい
オヤジの禿げ頭が
「ああ、そうかねぇ」

交差点を過ぎ
首都高下
暗い日本橋川
これが鎌倉橋
上から水漏れのように降り注ぐ音
逆? いや逆じゃない

躑躅の大刈り込みが
真っ二つ
血液図のような横っ腹を見せ

橋桁に空襲の跡が
胃壁の腫瘍のよう
しつこさにかけては
Sのマルクスなみ

これからどこへ行くか
忘れてしまう
黒い人たちは皆忙しそうで
誇らしげだ

 

 

 

午後

 

萩原健次郎

 
 

 

ぼくはいつもぶらさがっているなにか、姿形が判然としないもの
を遠くから見つめている。眼の端に揺れている黒い塊。生き物な
のかそうでないのか。いや、実在していないものをそこにあるか
のように錯視して、気にしているのかもしれない。生きているも
のであれば、少しは身を動かすのだが、それは、ただ風を受けて
ぶらぶらしているだけなのだ。

近づいていく。惹かれているのでもない。黒い塊とぼくの引力と
か重力だとかの関心の間で、強いられて塊の真下まで歩いていく。

――なああんだ、
と思った瞬間に、ぼくは彼岸の人になっている。

ぼくの生などという代物は、だれかの対象なのであって、ぼくが
なにかを対象にしようなどと思うことはないのだ。

川岸を歩いて、すこし先になびいている桜の古木の下まで行き、
そこを通過していく。

無音。
――ぴーぴーぴー
鳴っている。

音があるのに、それもまた覚ることもなくぼくを通過していく。
鳥もまた、彼岸の生の懸命なのだろうから、ぼくの対象にはなら
ない。

すべての行いを不信に思ったとしても、もう埒外の懸命だろうが
と言いかけて誰にも語らない。

午後と決めた人はだれなのか。

真昼を過ぎたら、枯れていく。ぼくは対象として捨てられる。

――みんないっしょに

季節はずれの、狂院の盆踊り。
いつのまにか、終わっている。

 

空白空白空白空白*西東三鬼に
空白空白空白空白空白空白空狂院をめぐりて暗き盆踊  の句がある。

 

 

 

家族の肖像~「親子の対話」その20

 

佐々木 眞

 
 

 

お父さん、山手線ぐるぐる回ってるね。
うん、回ってるよ。
内回り、外回りですお。
うん、そうだね。

お母さん、マンゾクってなあに?
良かったなあと思うことよ。
余はマンゾクじゃ。

お父さん、将棋は攻めるんでしょう?
なるほど、攻めるのかあ。

お母さん、さまようってなあに?
あっちへ行ったり、こっちへ行ったりすることよ。
さまよう、さまよう。

「アーメン」は、祈ることでしょう?
そうだね。

お父さん、勝浦旅行でお土産買ってきますよ。
そうですか。ありがとう。

「そんなもんうけとれねえ」、とシュウがいいました。
なにそれ?
「風のガーデン」だお。

お母さん、どうも、ってなに?
どうもありがとう、のことよ。
どうも、どうも。

お母さん、バージョンてなに?
いろんな版のことよ。

お父さん、おはよう!
おはよう、耕君。

お母さん、ご飯の支度をしてください。
ハイハイ。

ときめくって、なあに?
どきどきすることよ。

お母さん、今日キノコご飯にして。
わかりました。

あした図書館行って、ファミリーマート行きます。
わかったよ。

お父さん、虫歯の英語は?
ううううう

お父さん、高いは高橋の高?
そうだね。

ぼく、ウチワ好きですお。
そうなんだ。
ウチワ、暑い時あおぐものでしょ?
そうだよ。
ぼく、ウチワ好きですお。

お父さん、必死は?
一生懸命なことだよ

お父さん、ワサビは畑だよ。
そうだね、ワサビ畑でできるんだね。

お母さん、とおりゃんせって、通ってくださいのこと?
そうですよ、♪とうりゃんせ、とうりゃんせ、こーこはどこのほそみちじゃ。
とうりゃんせ、とうりゃんせ。

お母さん、スーパーヒーローってなに?
すごい中心人物のことよ。

ぼく、お母さんとお父さん、信じていますよ。絶対信じていますよ。
ほんと?
ケンも信じていますよ。

松島さん泣いていたよ。
うん、泣いてたよねえ。悲しかったんじゃない。

お父さん、落ち着くの英語は?
カームダウンかな。
落ち着く、落ち着く。

嫉妬はうらましがることでしょ?
うん、まあそうだね。

♪らららラララララ。森のくまさんだお。

いとしの耕君、いとしはどんな字?
愛だお。
あったりい!

お母さん、今後ってなに?
これからのことよ。

ぼく、国語大辞典好きですお。
そうなんだ。

お母さん、甲子園てなに?
野球場よ。
甲は申すにちょっと似てるよねえ。
そうねえ。
でもちょっと違うよねえ。
そうねえ。

無くなる電車、廃車でしょ?
うん、まあそうだね。

「家に鴨」でアヒルでしょ?
そうだね。

お父さん、回数券買った?
買ったよ。

連佛さん、録画した?
したよ。

ぼく、ハスとサトイモとクワイ好きですお。
お母さんもよ。耕君、おばあちゃんちのクワイ見ましたか?
ぼく、見たよ。

お母さん、やりたい放題ってなに?
好きなことばっかりやることよ。耕君やりたい放題なの?
違いますよお。

 

 

 

「言葉なき歌」の方へ

さとう三千魚著「浜辺にて」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

 

2013年の10月にツイッターで「さとう三千魚」という人の詩を見つけた私は、とてもよいと思い、お願いしてfbの友達に加えてもらいました。

すると翌年の7月のある日、さとうさんから、「自分が主宰するweb詩誌「浜風文庫」になにか書いてみませんか?」というお誘いを頂き、うれしくてうれしくて、得たりやおうとばかりに「夢日記」を連載させてもらったのが、そもそものはじまりでした。

佐藤ではなく「さとう」とひらいた名前と、そのアイコンの優しく柔らかなイメージから、なんとなく少女のようなイメージを懐いていたのですが、それは私の勝手な思い違いで、実際にお目にかかった「さとう三千魚」選手は、スーツをきちんと着こなした立派な社会人であり、隆とした男性詩人でありました。

そのとき、さとうさんは、「毎日毎日大工がかんなくずを削るように毎日毎日詩を書いていきたい」とおっしゃたので、「それは凄い。それってまるで詩の修行僧ではないか!」と思ったのですが、この直観は当たらずとも遠からずだったといえましょう。

さて、肝心の詩集の話です。

作者の前の詩集「はなとゆめ」(無明舎出版刊)は、どちらかといえば薄い本でしたが、今度の詩集はものすごく部厚かったので、とても驚いた。
部厚いけれども、非常に軽い。そして使われている紙が、昔懐かしい藁半紙のような柔らかい紙だったので、またまた驚いた。

私はイギリスのペンギン・ブックスから出ている<THE PENGUIN Guide to Compact Discs>というクラシック音楽CD批評の部厚いカタログが大好きで、毎年丸善か紀伊國屋で購入して、夏の昼寝の枕に使っていたのですが、まさかそんなスタイルの詩集が登場するとは夢にも思わなかったなあ。

桑原正彦画伯による、邯鄲の夢のようにほのかなタッチの表紙の絵も、今回の「浜辺にて」という表題にぴったりです。

この本を開くやいなや、たちまち作者が愛してやまない故郷の海の光景が広がってくる。
青空を飛ぶ雲、寄せては返す波の音……
白い渦が泡立つ浜辺からは、磯ヒヨドリやカモメたちの鳴き声が聞こえてきます。

愛犬モコと一緒にそれらに見入り、大いなるものと一体になっている作者は、もしかするとこの世の人ではないかもしれぬ。
自然と永遠に溶け込んでいる存在、実在と非在を行き来する夢幻のような存在、作者の言葉を借りれば、「この世の果てを生きるしかない」存在かもしれません。

ふだん一個の生活者として暮らしている私たちは、言葉を持たない。
持たないけれど、四六時ちゅう、「ない」言葉を発している。
人間界も自然界も、全世界が「ない言葉」で満ち満ちている。
その「ないはずの言葉」にじっと耳を傾け、観取し、共感し、随伴する言葉を発する人が、さとう三千魚という詩人なのでしょう。

中原中也には「言葉なき歌」という詩があり、メンデルスゾーンにも同名のピアノ作品がありますが、この詩集のいたるところから聞こえてくるのは、作者みずからが言う「コトバのないコトバ」、言葉以前の言葉、言葉の果ての言葉、なのです。

父母未生以前のなんじゃもんじゃ珍紛漢紛蒟蒻問答はさておき、今度の詩集には楽しい仕掛けと言葉遊びがちりばめられています。

それはまず、日付のある日録ドキュメンタリー風の展開です。
かんなくずを削るように、「日にひとつのコトバを語ろう」と作者は言う。

次に作者が採用したのは、なんとツイッターの「楽しい基礎英単語」から自由に引用されたさまざまな英単語を枕詞にして、そこからおのずと引き出される思い出や森羅万象への想念を、間髪を容れず即興的に書き綴るという大胆不敵なライヴポエム手法です。

たとえば、2013年10月29日の<fish 魚>という項目の詩は、こうです。

 

ひかりの中で揺らめいていた

明るい川底の
小石のうえの魚たちは揺らめいていた

コトバは
なかった

すべてだった
すべてだとおもった

水面に太陽が光っていた
水藻がゆらゆらと揺れていた

丸い眼をしていた
魚たちにコトバはなかった         (引用終わり)

 

ここには、一匹の魚になって魚たちと合体している少年がいる。
そうしてこの世で生きることの意味、世界の、宇宙の摂理を一瞬で体得した一人の元少年がいる。

さらに私たちは、百科全書的な言葉遊びを超え、宇宙の本質をみつめ、事物を自分の目と言葉で再定義しようとする一人の哲学者の心意気をも感じ取ることができるのではないでしょうか。

最近作者が熱海駅で倒れたという突然の報は衝撃でしたが、前途有為な詩人の一日も早い回復と新たな飛翔を願ってやみません。

 

*「浜辺にて」(らんか社刊)
https://www.amazon.co.jp/%E6%B5%9C%E8%BE%BA%E3%81%AB%E3%81%A6-%E3%81%95%E3%81%A8%E3%81%86%E4%B8%89%E5%8D%83%E9%AD%9A/dp/4883305031/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1499088428&sr=1-1

*「はなとゆめ」(無明舎出版刊)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%A8%E3%82%86%E3%82%81_%E8%A9%A9%E9%9B%86-%E3%81%95%E3%81%A8%E3%81%86%E4%B8%89%E5%8D%83%E9%AD%9A/dp/4895445887/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1499088428&sr=1-2

 

 

 

空っ梅雨

 

正山千夏

 
 

たれこめた灰色の雲たち
薄日が肩をあたためて
そこになかった体温を思い出させる
気だるい歌にも飽きた
ただひきずるように重い足取りが
わざと遠回りして
陽の当たる電車に乗ったのだった

暑苦しく吹き出す緑たち
それでも束の間の地上滞空時間
今日は地下には潜りたくない
シートに腰掛けてスマートフォンと心中していく人びと
エスカレーターに乗って欲望と心中していく私
終点で降りると
今日は歌いたくない駅なのだった

 

 

 

俺っち、ぽかーん。

 

鈴木志郎康

 
 

俺っち、
ぽかーん。
庭に紫陽花が咲いている。
ぽかーん、
ぽかーん。

二〇一七年六月二十六日
朝から、
テレビの前のベッドに、
横になって、
ぽかーん、
ぽかーん。
中学三年十四歳の
ブロ棋士
藤井聡太四段が、
前人未到の29連勝の記録を更新するかって、
こっちゃ、
こっちゃ。
俺っち、
ぽかーん。

夜の九時回って、
テレビの速報ってこっゃ。
藤井聡太四段が、
十一時間の対局の末
増田四段に勝ったってこっゃ、
29連勝達成ってこっゃ。
こっゃ、
こっゃ。
テレビ、
新聞、
大騒ぎっちゃ。
地元は地元で、
盛り上ってるってこっゃ
こっゃ、
こっゃ。
俺っち、
ぽかーん、
ぽかーん。

 

 

 

ゲオルク・ショルティの「神々の黄昏」

音楽の慰め第17回

 

佐々木 眞

 
 

 

ゲオルク・ショルティ(1912-1997)は、ハンガリー生まれの指揮者です。後年は英国に住んでロイヤルオペラの総監督を務めたので、女王陛下から称号を賜り、かの国ではサー・ジョージ・ショルティと呼びならわされていました。

彼はリスト音楽院でピアノ、作曲、指揮を学びましたが、1942年にはジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝し、名ピアニスト兼指揮者として国際的に活躍するようになりました。

私は80年代の初めにNYのカーネギーホールで彼が手兵のシカゴ交響楽団を振ったショスタコーヴィチの交響曲第5番を聴きましたが、文字通り血沸き肉踊る、唐竹を真っ向真っ二つに割ったような豪快な演奏でした。

おそらくマジャールの血を引いているのでしょう、その精力的な顔つきと、その特異な風貌にふさわしいエネルギッシュな指揮ぶりは、どんな凡庸なオーケストラをも激しく鼓舞して、その最善最高の演奏を引き出していくのです。

シカゴ響を世界最高のオケのひとつに育てたショルティは、そのように指揮も見るからに精力的でしたが、あちらのほうもお盛んで、ある日曜日に自宅にインタビューに来た30歳以上年下の美しいBBCの女子アナ、ヴァレリー・ピッツ嬢と一目ぼれで再婚し、たちまち可愛い子をなしたのでした。

そんなショルティの代表的な録音といえば、有名なマーラーの交響曲全集もさることながら、やはりステレオ初期の1958年に、有名な名プロデューサー、ジョン・カルショー率いるデッカのチームによって録音されたワーグナーの「ニーベルングの指輪」全曲にとどめをさすでしょう。

世界的にはトランプ、日本的には安倍蚤糞という史上最悪の暗愚指導者が、世界と日本を滅茶苦茶にしている今月今夜の音楽の慰めとして、最もふさわしいのは、その「指輪」の終曲「神々の黄昏」でありましょう。

「ジークフリートの葬送曲」が流れる中、ブリュンフィルデの放った火は、神々の居城に燃え移り、主神ヴォータンも、えせ指導者のトランプも、その愚かな忠犬安倍蚤糞も焼け死んでしまいます。

天下一品のウィーンフィルのオケの咆哮をものともしないジークフリートのヴォルフガング・ヴィントガッセン、ブリュンフィルデのビルギット・ニルソンの絶唱は、文字通り歴史的名演奏と申せましょう。