由良川狂詩曲~連載第10回

第3章 ウナギストQの冒険~旅路の果て

 

佐々木 眞

 
 

 

そうやって波のまにまにアップアップしていると、いつの間にか犬吠崎の灯台が近付いてきたの。ケンちゃんも知っていると思うけど、坂東太郎の利根川は、この犬吠崎の手前、銚子で鹿島灘に流れ込んでる。

僕は波にもまれもまれている間に、前にもニシン、後にもニシンの大群にとりかこまれたて、どんどん海の浅いところへ、浅いところへとまるでオミコシでかつがれたように近付いてきて、気がついたら突然利根川の河口に入りこんでた。

本当はもっと南に下がって相模川から内陸部へ侵入する予定だったんだけど、もう全身くたくたに疲れ切ってるし、ひょっとしたらこれが相模川かもしれないし、ええい、ままよ、思い切ってさかのぼってみよう。、あとはなんとかなるだろう、と思って全力を振り絞って上流をめざしたってわけ。

うわお!なんという汚さ、なんとにごりににごったヘドの出るような水なんだ!
僕は長かった海水生活に慣れ親しんだ塩漬けの体が、一挙に淡水に触れたために全身を襲ってきた猛烈なめまいと悪寒と吐き気に必死に耐えながら、怒涛のように押し寄せてくる大河の壁を1センチまた1センチと押し返しながら、上流へ上流へとさかのぼっていったよ。

悪戦苦闘6時間、それでも水は少しづつきれいになってきたし、僕の体もようやく淡水に慣れてきたみたい。途中、悪臭ふんぷんで息もつけない霞ヶ浦に迷い込んで、酸欠で窒息しそうになったりみしたけれど、気を取り直して利根川の本流に戻り、埼玉県の南河原のあたりで南に流れ下がる武蔵水路にうまく乗り換えて荒川に移り、支流から支流を辿ってそこからなんとか多摩川へ移って、多摩川からさらに相模川へ移動できないか、と頑張ってみたんだけど、世の中そんなに甘くないや、結局元のもくあみ、ムチャクチャに汚い荒川に放水路にドドッと放り出されて着いたところが東京湾だった。

ハゼとボラとコノシロに聞いた話だけど、東京湾は年々ますます住みにくくなってるんだって。発ガン性や催奇性がきわめて高い有害化学物質のダイオキシン、そのダイオキシンの中でももっとも毒性の強い「2・3・7・8―TCDD」に汚染された魚がウヨウヨ泳いでいるってことを、ぜひ東京都のみなさんに伝えてほしい、ってメッセージを託されたんだけど、僕だって故郷由良川の仲間たちのことを思って気が気じゃなかった。

ダイオキシンによって0.0014pptの濃度で限りなく汚染された東京湾の海水をできるだけ口に入れないように、エラの奥深くためにためこんだ空気を大切に使いながら、4月27日の真夜中に、ベイブリッジを右手に見みながら浦賀水道を通り過ぎ、三浦半島をぐるっと回りこんで、ようやく潮のみれいな相模灘に出たときは、ほっとしたよ。

真夏を思わせる青空の下を、真面目な入道雲がムクムクと湧き起こるのを呆然と眺め、ああ、いずれ僕たちウナギも由良川の魚も遅かれ早かれ死んでしまうんだな、でも、有機物より無機物の方が寿命で長いのはなぜなんだろう、なんてアホなことをぼんやり考えながら、いつものようにお腹を天日で乾かしていたら、マンボウとヤリマンボウが仲良く波の上で昼寝しながら流れていくのに出会っちゃった。

あ、そうそう、ハナオコゼとイザリウオが大喧嘩して、ハリセンボンがあわてて止めに入っているのも面白かったったし、いちばん素敵なのは、なんといってもリュウグウノツカイとしばらく一緒に泳いだことかな……

苦しいことがあまり多すぎて、たまに楽しいことがあっても、すぐに忘れちゃう。
ケンちゃん、幸福はいつも急いで君の傍を通り過ぎるから、手をのばしてしっかりつかまえないと、一生そいつをとりのがしてしまうかもしれないよ。
エヘン、どう、ウナギストって哲学者でしょ。長い旅をしてるとついついいろんな物思いにふけってしまうのさ……

おっといけねえ、そうこうしてるうちに茅ヶ崎だ。
「サザンの桑田君が砂浜で勝手にシンドバッドしてるのが目印だ」とお父さんが教えてくれた、その茅ヶ崎と大磯の間を貫流している相模川に必死でとりついて、またもや逆行に次ぐ逆行、ようやく寒川町にある取水堰に辿りつき、直径2メートルもある太い真っ暗な水道管の中をうねうねうね15キロもうねったんだ。

よおし、これで最後の旅だと気力を振り絞ってようやく浄水場にもぐりこめたと思ったら、大量の塩素をどっさりあびて消毒されて、ほとんど死にかけたんだけど、ナニクソと頑張りぬいて浄水場の裏口からこっそり忍びこんで、送水ポンプと揚水ポンプをつづけざまにさかさまに、ウナギのぼって、ウナギ下り、送水管をつうじて排水池に入って一日中ゆっくり休んだあとは、鎌倉中の真っ暗な給水管の中をあっちこっち匍匐前進しながら、本日ただいまやっとのことでケンちゃんちの水道まで辿りついたってわけ。
ああくたびれた、くたびれた!

ウナギのQちゃんは、いっきに語り終えると、どっと長旅の疲れが出たようで、水盤の中でぐったりと横になりました。

その間にケンちゃんは、2階の勉強部屋から理科や社会の教科書や地図を持ちだして、Qちゃんの大冒険のあとを辿り、これはもしかして人間でいえばマルコ・ポーロやバスコ・ダ・ガマよりすごい大旅行じゃないだろうか。か細い一匹のウナギストにできることが立派な一人前の少年に出来ないわけはない。
よおし、命懸けの大ツアーを敢行したQちゃんに負けてたまるか。由良川の魚たちを救うために、ボギー、俺も男だ。ムク、お前は僕の愛犬だ。何でもしてやるよ! 何でもやってやるよ!と、固く固く心に誓ったのでした。

 

空白空白空白空白空つづく

 
 
 

権柄面のおっさんの顔にちょろい俺っちの顔

 

鈴木志郎康

 
 

俺っち、
新聞紙にざらっと出てた
どこかのおっさんの顔付き見てさ、
頭で突き上がった、
こいつどぎつい奴っちゃって、
感じた瞬間に、
俺っち、
自分に向って、
ほんと、俺っちって、
ちょろいなって、
言っちまってさ、
こん畜生、なんて顔だっちゃ。
おっさんの顔が、
凄え権柄面でよ。
横恣の横紙破りの面構えっちゃ。
こいつの脳味噌に何が詰まってるっちゃ。
俺っち、
自分の顔と比べちまってさ、
鏡で見ると、
ウホホッ、
確かに、俺っちの顔は
ちょろい、
ちょろい、
俺っちって、
ちょろいって、
また、
言っちまったっちゃ。
まあ、呑気なものだっちゃ。
ウホホッっちゃ。

ちょろいって、
明鏡国語辞典には
「考え方ややり方が安易であるさま。見えすいていておろかしい」って、
書いてあるっちゃ。
俺っちの生き方って、
安易は、ウホホッっちゃ。
見えすいてる、
確か、
その通り、その通りっちゃ。
権柄面のおっさんの顔はごついっちゃ。
座敷に通され、
鰻を矢鱈に食ってるんか。
顎で人を動かし、
遠くから目配せで人を自殺に追い込んだって、
邪推したくなる顔っちゃ。
その眼が優しく見えるのが奇怪っちゃ。
やだね、その眼、その顔つき。
俺っちは独立個人っちゃ。
ちょろいっちゃ。
人の為はともかくも、
世の為なんて糞食らえっちゃ。
ちょろいっちゃ。
独りで立ってるって寂しいよ。
ちょろいっちゃ。
俺っち、
それが誇りよ。
自分独りを立てて、詩を書いて来たっちゃ。
詩集の数が、
大したことないけどプライドだっちゃ。
俺っち、
ちょろい顔で、
やってっちゃ。
ちょろい俺っちだから、
詩が書けると、
居直っちゃおう。
ウホホッ、
ウホホッちゃ。
ハッハツハッ。

 

 

 

奴と俺っちとわからんっちゃ

 

鈴木志郎康

 
 

俺っち
いきなり、
奴に脚を引っ掛けられたっちゃ。
土手の草むらに
仰向けにすっ転んで、
奴を見ると、
奴は笑っているっちゃ。
その顔が
なんとも言えない、
いい顔だっちゃ。
こいつは、
俺っちの
友だちだっちゃ。
仲間だっちゃ。
ハハハ、
ハハハ。

俺っち
立ち上がって、
尻の枯れ草を手で払って、
奴に近寄って、
笑ってる顔に、
柔らかく、
拳の一撃をお返ししたっちゃ。
ハハハ、
ハハハ。

俺っちがやられたのは、
俺っちに
隙があったからだっちゃ。
その俺っちの隙に
奴は、
俺っちの仮想敵になって、
その敵意を、
サッと感じて、
試したっちゃ。
敵は常に隙を伺ってるっちゃ。
その予防だっちゃ。
ハハハ、
いい奴っちゃ。

友だちか、敵か、
厄介だっちゃ。
共に生きてるって、
涙流して手を取りあった友だちが、
ある時突然、
手の裏返したように、
敵になっちまうってこと、
現実にあるんだっちゃ。
その心底の、
自己防衛は、
わからないっちゃ。
いや、わかってるっちゃ。
ワッハッハッ、
ハハハ。
奴がいつ手を裏返すか、
わからんっちゃ。
ワッハッハッ、
ハハハ。

 

 

 

大男がガッツイ手にシャベルを持って

 

鈴木志郎康

 

 

俺っち、
どうしていいか、
わからんちゃ。
いい加減な大きさの、
軽いボールだっちゃ。
コロコロ、コロコロ、
坂を転がって行くっちゃ。
コロコロ、コロコロ、コロコロ。
コロコロ、ガッ、
ガッツッ。
鉄のシャベルだっちゃ。
大男だっちゃ。
怒り肩の大男が現れたっちゃ。
大男はガッツイ手でシャベルを掴んで
地面に穴をけっぽじって、
ボールを埋めたっちゃ。
コロコロを、
忘れろっちゃ。

俺っち、
どうしたらいいか、
わからんっちゃ。
コロコロっちゃ。

 

 

 

長い柄のハンマーを空想してゾクゾク

 

鈴木志郎康

 

 

ハンマー、
ハンマー、
ハンマー、
柄の長いハンマー。
それで、
人の頭を、
前からでも後ろからでも、
力いっぱい、
ぶん殴れば、
人の頭蓋骨は破壊されて、
死ぬに決まってるっちゃ。
柄の長いハンマー、
思っただけで、
身がゾクゾク。

人を殺すっちゃってこと。
地球上じゃ、
毎時毎秒、
焦眉の至る所で、
人は殺されてるっちゃ。
昨日ロンドンでテロリストに、
四人の人が車で轢き殺されたっちゃ。
テロっちゃ、
戦争っちゃ、
処刑っちゃ、
殺人っちゃ、
人は殺されてるっちゃ。
愛知の用水路で、
全裸の女性の遺体が見つかったっちゃ。
俺っち、
殺されるのは、
やだね、やだ、やだ。
人を殺しちゃいけねっちゃ。

俺っち、
長い柄のハンマーを
持ったことないっちゃ。
俺っちんちにゃ、
柄の長いハンマーは
無いっちゃ、
無いっちゃ。
人を殺しちゃいけないっちゃ。
ハンマー、
ハンマー。
ゾクゾク。

俺っちのこの部屋は、
すっごく平穏無事。
三度の食事に、
アローゼン顆粒1g呑んで、
五回のうんこ。
詩も書いてるっちゃ。
ゾクゾク。

 

 

 

♪パパパ~横浜の県民ホールでモーツァルトの「魔笛」を視聴して

音楽の慰め 第14回

 

佐々木 眞

 

 

西暦2017年の3月19日、私は横浜の県民ホールで、モーツァルト最晩年のオペラ「魔笛」を鑑賞しました。

王子パミーノと夜の女王の娘パミーナ、鳥刺しのパパゲーノとその恋人パパゲーナが、魔法の笛と愛の力で数々の試練を乗り越えて結ばれる「夢幻秘教劇」で、その最大の聴きものは夜の女王の2つのアリア、それからパパゲーノとパパゲーナによって歌われる「パパパの二重唱」です。

前者の超絶技法も凄いけれど、後者のまるでこの世のものとも思えない純真無垢な歌声を耳にすると、薄命の天才が夢見た人類の楽園が、いまそこに花開いているような気がして、いい演奏に出会うと思わず涙があふれ出るのです。

その日も私はひそかに「パパパ」を楽しみに、横浜の山下公園のすぐ傍の会場までやって来ました。

私にとって生涯忘れがたい感動的なチェリビダッケと読響の一期一会のコンサートは、この県民ホールで行われたのですが、あれからおよそ半世紀の歳月が流れたのだと思うと感無量でした。

さて当日の演出・装置・照明・衣装は勅使河原三郎という人でしたが、全体的にはこのオペラの本質をわきまえない小賢しい仕事ぶりでがっかり。終演後にブーが出たのは当然といえましょう。

照明・衣装・装置はさすがに小奇麗でしたが、ドラマの狂言回しに伊東利穂子というバレリーナを起用し、主要な歌手を差し置いてほぼ出ずっぱりでオペラのあらすじを説明させたり、音楽に合わせてやたらくねくれと踊らせたりするのは、いったいどういう了見なのでしょう。鑑賞の妨げになること夥しいものがありました。

かつて亡きニコラス・アーノンクールとクラウス・グートのコンビが、2006年のバイロイトの「フィガロの結婚」で舞台にケルビーノの分身ケルビムを登場させた時にも感じたことですが、「魔笛」の主人公は、あくまでもモーツァルトの音楽なのです。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。下手に余計な演出をしないほうが観客の心に届くのです。

装置は天井から吊るされた大中小の金属製のリングが、舞台転換に合わせてさまざまに組み合わされるというスタイルでしたが、以前どこかのワーグナーの「ニーベリングの指輪」で見たような気がする既視感の強いもので、まあ可もなく不可もないというところでしょうか。

さて肝心の音楽ですが、初めて耳にした神奈川フィルのフルートの名演には唸らされました。以前同じこの舞台で演奏したオトマール・スイトナー指揮のベルリン国立オペラの室内楽なアンサンブルには及ばないものの、神奈川フィルは、N響のような官僚的なオーケストラと違って、やる気と適応力、そして管弦楽の高い技術と合奏能力を兼ね備えていたのはうれしい驚きでした。

問題は指揮者です。このオケの首席の川瀬賢太郎という1984年生まれの若手指揮者は、バロック時代の音楽、しかもオペラを、ロマン派の乗りで振っているようで面喰いました。
有名な「魔笛」の序曲を重苦しく響かせるのは構わないが、テンポがいかにも遅すぎるし、遅くしたからといって、クレンペラーのような秘儀的な壮重さが醸し出されていたわけでもない。第1幕全体がそんなペースですから、歌手はきっと歌いにくかったに違いありません。

ところが休憩をはさんだ2幕に入ると、なぜだかテンポが速くなりました。
もとより「疾走する悲しみ」と称される作曲家の音楽ですから、早いところで早くてもいっこうに構わないけれど、フリーメイソンの神聖な儀式の音楽を、まるでドボルザークのスラブ舞曲のすたすた坊主のように通り過ぎてもらっては困るのです。
現代詩と違って、古典音楽にはそれにふさわしい形式と表現方法があるということを、この人は誰からも教わらなかったのでしょう。

いま世界中のオーケストラが資金難に陥り、ギャラの高い中堅以上のベテランを敬遠して若手指揮者を抜擢しているのですが、同じ若手でも、ちゃんとした音楽的素養と伸びしろのある前途有為な人材を登用してもらいたい、と思ったことでした。

歌手については夜の女王を歌った高橋維選手が素晴らしかった。たった2曲でオペラ全体の出来栄えを左右する重要な役どころですが、立派に重責を果たしていました。
パミーナの幸田浩子は、やはり高音部で声を張り上げると斑があり、終始部で音程がふらつく癖がありますが、弁者&神官の小森輝彦という歌手よりは遥かにましでした。
ザラストラの清水那由太、タミーノの金山京介、パパゲーノの宮本益光、モノスタトスの青柳素晴、三人の侍女と童子は、二期会合唱団の面々ともども健闘していたと思います。

最近は主に東欧から二流三流の歌劇団がやって来て、かなり高額な料金で円をかっさらって行くけれど、あんなのに比べたらこちらのほうが遥かにレベルは高いと私はなんでも鑑定団いたした次第です。

とまあかなり辛口の感想になってしまいましたが、この「魔笛」の演奏はオペラの複雑な性格もあってなかなか難しい。私もこれまで国内外の公演を実演、録画録音を含めて数多く見たり聞いたりしてきましたが、これこそ最高というものにはまだお目にかかっていません。

強いて挙げればヴォルフガング・サバリッシュ指揮N響が1991年10月29日に上野の文化会館で公演した「魔笛」でしょうか。主要な歌手はクルト・モルなどの外国人、演出は江守徹、衣装はコシノ・ジュンコ、照明は吉井澄男などの日独共同制作でしたが。

私はサバリッシュもN響もあまり好きでもないし、高く評価もしていないのですが、この一期一会の名演、とりわけパパゲーノとパパゲーナの「パパパの二重唱」にはいたくいたく感動したことでした。

 

*「パパパの二重唱」
https://www.youtube.com/watch?v=FZkLDInGzEQ

*夜の女王のアリア「復讐の炎は」
https://www.youtube.com/watch?v=dpVV9jShEzU

 

 

 

夜中のつぶやき詩を書いてやるっちゃ

 

鈴木志郎康

 

 

俺っち、
息をしてるっちゃっ、って。
夜中に目が覚めちまってね。
変な夢っちゃ。
俺っち、
ごろんと小肥りの
体躯だっちゃ。
ほっ、
生きてるっちゃ。

部屋の薄明かりに、
あと何年生きるのかねえ。
今日また右太ももを痛めちゃってさ。
二本杖でも歩けないっちゃ。
八十一年と十ヶ月生きたなあ、
同じ思いっちゃ。
テーブルの上には
一つ灯りが点いてるっちゃ。
まだまだ、
小肥りで、
詩を書くっちゃ、ってね、
思って、また眠ったね。

夜が明けてみれば、
夜中の、
部屋の薄明かり、
なんて当てにならない。
小肥りっちゃ。
ウッヒョッヒョ、ヒィー、アハハ。
また、これ。
いや、それ。
これ、これ、それ、それ。