小島芳子

 

加藤 閑

 

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小島芳子の弾くハイドンのピアノ・ソナタ(ロ短調、hob.XVI32)を聴く。
フォルテピアノの演奏ということもあって、当然音は軽く、余韻があるとは言えない。この曲は、ハイドンのソナタの中では取り上げられることの多い作品だけれど、現代ピアノの演奏に慣れていると、最初は薄っぺらで物足りない演奏と感じることがある。たとえば一時よく聴いていたリヒテルのライブ録音と比べると、それは歴然としている。しかし、すでに大家となっているリヒテルは、この曲はこう弾くんだと言わんばかりに演奏する。もちろんそれは聴く者に安心と心地よさを与えるのだが、ある意味では充足してしまっている。

小島芳子の演奏はちがう。演奏しながら常に音楽に問いかけ、考えながら、あるいは対話をしながらピアノを奏でている。そんな印象をつよく受ける。だから、決して流麗に音楽を聴かせるというものではない。しかしこの演奏からは奏者の音楽への献身が伝わってくる。その真摯さは、聞き手にも同じ真摯さで音楽に立ち向かうように促しているかのようだ。こういう演奏をするピアニストは多くはない。

今、わたしの手元には、この人の演奏したCDが6枚ある。ソロ演奏のベートーヴェン初期ピアノ・ソナタ集、ハイドンのピアノ・ソナタ集、鈴木秀美との共演で、ベートーヴェンのチェロ・ソナタ集3枚(1枚はシューベルトのアルペジオーネ・ソナタを含む)、そしてチェロとピアノの小品集「ロマンス」。これらの録音を聴くと、一度はコンサートで直接聴いてみたいという思いにとらわれる。しかしそれはかなわぬことだ。小島芳子は2004年5月に43歳の若さで亡くなっている。

 

インターネットで検索すると、『小島芳子のサイト』というのがある。小島の死後、家族の手で立ち上げられたサイトで、「はじめに」と題された挨拶文では、道半ばで世界から消滅した芳子の記録を人々の目に触れる形で残して置きたいとの思いが綴られている。この文章には、父親の小島順の署名があり、日付は5月23日、死のわずか2日後である。

さらにサイト内には、同じ小島順の名前で「闘病生活」というページが設けられており、2002年8月の骨折の治療で肺癌が発見されたときから、昭和大学藤が丘病院での手術、郡山トータル・ヘルス・クリニックへの転院を経て、2004年5月21日の死、22日の火葬に至るまで、実に克明な、かなりの量におよぶ文章が掲載されている。父親としてできるだけ冷静に、客観的にすべてを書き留めたいという意志と、娘である小島芳子を失った無念さが、ひしひしと伝わってくる文章だ。日付は5月24日。娘を看取って火葬に付すという人生の大事件のさなかの3日間にこれを書き記すのは大変なことだと思う。あるいは逆に、いわば普通の状態でない時間の中にあったから書けたのかもしれない。ここには、「はじめに」で「世界から消滅した芳子」という表現がとられていたように、この事件をまだ娘の「死」としては受け入れられない父の苦悶がある。そう思ったとき、結婚間近の娘を交通事故で亡くした別の父親の話を思い出した。

 

鹿嶋敬は、10日前に結納式をすませたばかりの娘をボリビアでの交通事故で失った。彼は死んだ娘を絵でよみがえらせようと、写実画家の諏訪敦に娘の肖像画を依頼する。NHKの「日曜美術館」は、この様子を「記憶に辿りつく絵画~亡き人を描く画家」というタイトルでとりあげた。(2011年6月26日放映。翌年2月にはアンコールの再放送もされたから視聴者の評判もよかったのだろう)

番組は、娘、鹿嶋恵理子(当時30)を亡くした両親が、写真ではできない娘の再生を諏訪に託すところから始まる。この番組にしては、作品や作家の紹介は少なく、それよりも娘をよみがえらせたいと願う両親と、その困難に立ち向かう画家の物語に重点が置かれている。

ちょうどこの頃、諏訪市美術館で諏訪敦展『どうせなにもみえない』(2011年7月28日~9月4日)が開かれ、それにもこの作品は展示された。日曜美術館で紹介された両親のデッサンや、手を描くために諏訪が京都の佐藤技研に製作を依頼した鹿嶋恵理子の義手、絵画制作時に両親から提供された衣服などもいっしょに展示された。これらはすべて、図録を兼ねて発行された同タイトルの画集(求龍堂)にも掲載されている。

正直言って、作品としてみた場合の「恵理子」は、会場のほかの作品と比べると見劣りがする。肖像画として見ると、成山画廊オーナーの成山明光や日本画家松井冬子を描いた作品の存在感に比ぶべくもないし、人物像として見ても、展覧会タイトルとなった「どうせなにも見えない」をはじめとする、画家の表現意識を具現化させた絵とならべると作品として弱い印象は否めない。

しかし、諏訪敦は肖像画「恵理子」とともに、クライアントの鹿嶋敬の思いも、実在しない人物を写実絵画で表現するための時間や努力も、その試行錯誤をふくめた一切をひとつの作品として展示した。もちろんそこには、展覧会に先立って放映された「日曜美術館」と、展覧会の後も書物として残る画集も、あたかも時間の流れを誘う架け橋のように存在している。こうして「恵理子」は、他の作品と伍して展覧会の一角を占めているのだ。

 

家族の死は、特に若い家族を失うということは、残された家族に特別の、嘆きや哀悼を超えるほどの気持ちを喚起させる。それはしばしば、その死をどうしても受け入れ難い気持ちにさせる。子を亡くした親が、いつまでも子ども部屋をそのままにしておくのも、そうした心の表れだろう。『小島芳子のサイト』にもそれを感じる。すでにリンク先には存在しないサイトもいくつかある。父親自身も、サイト開設後の発信は、一周忌にあたって「一年たって」という短い文章で芳子の墓を紹介したにとどまっている。

パソコンから離れて、わたしはもう一度CDを手にとった。「わたしの演奏を聴いてほしい」彼女自身もそれをいちばん望んでいるに違いない。小島芳子の残したディスクは、数は多くないけれどどれもみな質の高い演奏だ。特にソロのハイドンとベートーヴェンはフォルテピアノの特質が音楽を引き立てている。作曲家の生きた時代に、次々と新しい音楽の要求にこたえていった楽器の清新さを感じ取ることができる。

鈴木秀美と組んだベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集にもそれはあるけれど、それ以上に、ここではもっと音楽の幅が広くなっている。鈴木秀美という才能と出会ったことで、小島芳子の演奏の奥行きも増しているようだ。とりわけ、最初に出た1番、2番を収めたCDは素晴らしい。若いベートーヴェンの音楽がいま生まれたばかりのように新鮮にあふれ出てくる。いっしょに収められた変奏曲も同様で、これらの曲がこんなに魅力的に聞こえたのは初めてだった。3番以降の演奏も悪くはないが、これらの曲は、曲想からいってロストロポーヴィッチやフルニエの重厚さに比べると一歩譲る感がある。むしろシューベルトのアルペジオーネ・ソナタが、ピッコロ・チェロとフォルテピアノの音がうまく調和しているようで美しい。

わたしたちは、音楽(の録音)を聴くときに、演奏家の生死を云々することはない。小島芳子の演奏はこれからも聴き継がれるだろう。しかし、それと遺族が故人を悼む気持ちはまったく別のことだ。音楽と違って、その気持ちは他者と共有できるものではない。あくまでも個人の胸のなかに、忘れられない部分と忘れていく部分が葛藤を繰り返しながら、ふかく沈んでいくように思える。

 

 

ザビーネ・マイヤー

 

加藤 閑

 

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吉田秀和の『私の好きな曲』の三番目には、モーツァルトのクラリネット協奏曲イ長調K622がとりあげられている。その書き出しは、ブラームスの調べ物をするうちにクラリネット五重奏曲にぶつかったら、モーツァルトの同じ編成の室内楽がひびいてきたというもので、それに続けて次のように書いている。

「両者の違いは、もう、どうしようもない。ブラームスの曲の、あの晩秋の憂愁と諦念の趣きは実に感動的で、作者一代の傑作の一つであるばかりでなく、十九世紀後半の室内楽の白眉に数えられるのにふさわしい。けれども、そのあとで、モーツァルトの五重奏曲を想うと、『神のようなモーツァルト』という言葉が、つい、口許まで出かかってしまう。」

こう書かれると、たしかにそうかも知れないと思ってしまう。だが、神とは何だろう。人知を超越した作曲の才能をモーツァルトが有していたということか、あるいは一種宗教に近い高潔さをこの曲に感じるということなのか、いま一つはっきりしない。吉田秀和はしばしばこういう書き方をする。彼は、豊かな音楽の知識と教養に裏打ちされた評論家であると同時に、いや、もしかしたらそれ以上に、言葉による表現を実践する文学者なのだ。彼が、みずから表現の素地を形成するにあたって影響を受けたとする交遊録に登場するのが、中原中也であり、大岡昇平であり、富永太郎といった、詩人や小説家であるのも頷ける。

文章を読み進むと、「神のようなモーツァルト」という言い方は、この章の主題であるクラリネット協奏曲が、モーツァルト最晩年の作品であり、洗練されたかなしみともいうべき精神性を獲得している曲であることを語るための伏線だったことが分かってくる。ピアノ協奏曲第27番ロ長調K-595と並んで、しばしば「天上の音楽」と称される曲であれば、それをつくった人が「神のよう」であるのは当然のことである。

吉田秀和が、常に読者を意識しながら文章を書いているのも、彼がいわゆる「音楽評論」ではなく、「読み物」を目指していたからではないかと思うことがある。いつぞやは、グレン・グールドがシューベルトの最後のソナタ(第21番ロ短調、D-960)を弾いている夢で目が覚めたという文章を書いていた。クラシック音楽の愛好家でグールドに関心を持っている人なら絶対に考えずにはいられないこと(それこそ夢のまた夢)を寝覚めの夢として書くことで、音楽評論の立場から一歩退いてみせるのは、心憎いばかりだ。

わたしもはじめはモーツァルトの曲に惹かれた。クラリネットに弦楽四重奏という編成が同じであるため、この二曲は1枚のCDにカップリングされることが多い。最初よく聴いていたのはアルフレート・プリンツの演奏したディスクで、その頃はモーツァルトが終わるとブラームスは聴かずにプレーヤーを止めていた。しかし、何度か続けて聴くうちに、ブラームスの曲に心を奪われるようになった。神の高みよりも人間の猥雑さの方が面白いと思ったのだろうか。

ふたつの五重奏曲の楽譜を開いて見ると、「神」と「人間」の違いがよくわかる。モーツァルトの方はどのページを開いても見た目に大きな違いはなく、音符も適度に散らばっていてすっきりそしている。(わたしは音楽の勉強をしたわけではないので、ここでは純粋に視覚的な意味で楽譜を見た印象を言っているにすぎない)そして、クラリネットと弦楽四重奏があたかも会話をするように、旋律を交互に演奏するようなかたちが全編にわたって続いている。

一方、ブラームスの方はというと、音符の密度の薄いばらけた感じのページや、やたらと細かな音符が絡み合っているページが順不同に出てくる感じで、なるほど人間の世界とはこういうものだと改めて実感させられる。クラリネットと弦楽器も、対話をするかと思えば一緒に同じ旋律を奏でたり、あるいは喧嘩をしたりといった塩梅で、モーツァルトよりよほど落ち着かない。しかし音楽を耳で聞いてみると、楽譜を見較べたときほど違う性質のものだとは思えないから不思議だ。そういう意味では、あの単純に見える楽譜でこれほど深みのある音楽を聞かせるモーツァルトは、やはり神に近いのかもしれない。

吉田秀和の『私の好きな曲』のせいでわたしはあまりに「神」と言いすぎてしまった。実際、「神のようなモーツァルト」という言葉は、あの本の中でもっとも印象深い忘れられない文句だった。しかし、ふたつの五重奏曲を繰り返し聴いたり、楽譜を眺めたりしていると、やはり二曲の間に横たわる時間というものを考えないわけにはいかない。モーツァルトのクラリネット五重奏曲の成立が1789年。ブラームスのそれは1891年。わずか100年あまりと言うこともできるが、産業革命が起こって世界の変化の車輪がにわかに加速していく時代の100年である。精神や表現の世界にも大きな変化が生じることに何の不思議もない。二つの楽譜の印象の違いは多分この100年に起因している。

ブラームスのクラリネット五重奏曲は、ザビーネ・マイヤーとアルバン・ベルク弦楽四重奏団のCDを聴くことが多い。有名曲だから録音は多いが、演奏はこれが傑出していると思う。ザビーネ・マイヤーは、カラヤンがベルリン・フィルの首席奏者にしようとしたが、楽員の総スカンをくって実現しなかったことで一躍有名になった人。美人だけれど唇が薄く(クラリネットやオーボエの奏者で唇の厚い人というのはあまりイメージできない)、ちょっと酷薄な印象を与える顔立ちだ。

一緒に演奏しているアルバン・ベルク弦楽四重奏団がまた上手い。ウラッハはもちろん、ライスターなどかつての名人のディスクでは、クラリネットが強すぎると感じることがあったが、この録音では、(当たり前のことだが)5人でひとつの曲をつくっているという印象に終始する。強音も弱音も、その移り変わりも、あくまで自然に流れる。それでいて聞き終わった後の充足感は他のどの録音にも負けない。この曲に関する限り、当分わたしにとってのベスト盤は動かないような気がする。

実は、わたしはザビーネ・マイヤーについては、これ以上のことはほとんど知らない。たくさん出ているディスクも、聴いたのは数点にすぎない。その中にはアルバン・ベルクとの共演盤の8年前に録音されたウィーン弦楽六重奏団とのブラームスの演奏が含まれている。そしてそのディスクには、ブラームスのクラリネット五重奏曲からさらに100年近くの歳月を経て書かれたもう一つのクラリネット五重奏曲収められている。

作曲者はユン・イサン(尹伊桑)。彼は生涯に二曲クラリネット五重奏曲を作っているが、これは1984年に書かれた最初の方。昔「オーボエ協奏曲」を聴いたときもそうだったけれど、彼の曲は聴き手に「耳を澄ませ」と命じるかのようにはじまる。しかし聴いてみると、わたしの感覚では、ブラームスよりもモーツァルトに近い。近いけれど、多分、神はもういない。

クラリネット五重奏曲はブラームス最晩年の作品のひとつだ。遺書まで書いて生涯の店仕舞いをしようとしていた彼の前に、ミュールフェルトというクラリネットの名人があらわれた。ブラームスは彼の演奏に触発されて、二曲のクラリネット・ソナタと、ピアノとチェロによるクラリネット三重奏曲と、そしてこの五重奏曲を書いたのだった。いずれ劣らぬ名曲揃いだが、やはり五重奏曲が素晴らしい。ブラームスの音楽に対して、よく哀愁とか諦観とかといった評言がつかわれるけれど、この曲はそうした彩りに満ちている。

何日か前、わたしはたまたま一人だった。夏の夕暮れの芝生が眼の前にあった。ふと子供じみたことがしたくなって、芝生のうえに仰向けに寝転んで空を見上げた。暗みかけた空を雲や鳥たちが横切って行った。そのときわたしは、青い空に無数の黒い線や影が広がっていることに気がついた。ちょうど傷だらけのガラスを顔の前に置いて空を見上げているような感覚だった。それが自分の眼についた傷だとわかったとき、こんなに眼を傷めるほどの時間をもう生きてしまったのだという思いが急にこみあげてきて、すぐには立ち上がることができなかった。眼は空いたままなのに、空はどんどん暗さを増していくのだった。

 

 

カティア・ブニアティシヴィリ

 

 

加藤 閑

 

422冬瓜(途中)3

 

なかなか一度では覚えられそうにない名前のピアニストだけれど、顔はすぐに覚えられる。美人だからだろうか。ピアニストに限らずこのごろの女流演奏家には美人が多い。天は惜しげもなく二物を与える。

2枚のソロ・アルバムが出ている。ショパンとリスト。ジャケットの写真は前者の方がいい。

大写しだし表情ももの憂げであまりピアニストらしくない。

この写真と、自分にとってはショパンの方に親しみがあるのを理由にショパンを買った。悪くないけれど、ラジオで聴いたときの方がインパクトがあった。

 

今年の3月、車の中のFMで初めて聴いた。ラジオをつけたときはちょうどショパンのスケルツォの1番と3番をやっていた。演奏会の録音なのだろうけれど、その紹介の部分は聞かなかった。

特に1番は息をのむ速さ。このひとは緩急の移り変わりを鮮やかに弾きこなす。指の早くまわることといったら、しかもそれを聴衆にひけらかすような、得意気なピアニストの表情まで見えるような演奏。リヒテルの「ソフィア・ライブ」でシューベルトの即興曲を聴いたときのことを思い出した。あのディスクではリヒテルもこれみよがしにピアノの音を切るように引いていた。「どうだ、上手いだろう」と言わんばかりに。

カティア・ブニアティシヴィリは1987年グルジアの生まれだから、まだ25、6歳の若さということになる。十代のころから活躍はしていたらしいけれど、ディスクデビューということを考えると、決して若くはない。どちらかというと成熟した女性のピアニストとして現われたという印象が強い。

CDで聴いてみると、スケルツォの1番も特別に演奏時間が短いというわけではない。それでも速さに圧倒されるように感じるのは、速いところとゆっくりしたところの差を際立たせるような演奏のせいだろうか。

 

1ヶ月ほど経って、また帰りの車でブニアティシヴィリの演奏を聴く機会に恵まれた。この日は昨年11月にサントリーホールで行なわれたクレーメルの室内楽演奏会の録音だったが、ピアノがカティア・ブニアティシヴィリというので聴いてみる気になった。プログラムは、フランクのピアノ三重奏曲(第一楽章のみ)、フランクのヴァイオリン・ソナタ、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」というもの。このなかでは、有名なフランクのヴァイオリン・ソナタがもっともブニアティシヴィリの特徴が発揮されるだろうと思ったが、実際聴いてみるとその通りだった。特に第二楽章の冒頭など、リズムをためて実際以上の速度を感じさせる独特の弾き方が効果をあげている。

彼女のピアノを聴くと、いつも「命」について考えてしまうのはどうしてだろう。今年に入って、かつての同級生やいっしょに同人誌を出した仲間を3人続けて失った。だからわたし自身が「命」というものに敏感になっているのかもしれない。年をとってくると、それは生とか死とかとは少し違うものに思えてくる。もっと「存在」というものに近い、わたしをわたしたらしめている力のようなもの。それを女流ピアニストの演奏に見出したいと願っているのはわたし自身かもしれない。

ブニアティシヴィリのピアノを聴いていると、激しいピアニストの動きが見えるようだ。わたしは彼女の演奏を直接見たことはない。それなのに全身全霊で鍵盤に向かい、指どころか拳で、腕全体で、最後には自らの体を打ちつけるように演奏する様子がまざまざと見える。