豊島ゆきこ歌集「りんご療法」について

 

 

写真-275

 

 

大風が近づいているのでこの休日の海は少し荒れていた。
休日には静岡に帰って海を見ている。

以前は小舟を浮かべて一人釣り糸を垂れていたが、
東北の震災以来、舟は出していない。

海というのは荒々しいときがある。
ヒトの手に負えないときがある。

小舟で浮かんでいると小舟が木の葉のように思える時がある。
春の海などは突然に荒れるので怖い目に会う。

大風のときに小舟で海に出るなどは、馬鹿者だろう。
自然は恐ろしい。

大風の近づいている休日の夕方に、
窓から西の山に日が暮れて空気が青くなるのを見ていた。
ラ・モンテ・ヤングのインド音楽のようなピアノを聴いていたのだった。

そして、豊島ゆきこさんという女性の「りんご療法」という歌集を読みはじめていた。だいたい女性は苦手だ。女性はわたしにはわからない生き物なのだ。その女性の書いた短歌というものを読みはじめてみたのだった。

 

夏に逝きし胎の児あればいきいきと電車で遊ぶこの子を眺む
「おさかなの死」を尋く吾子に世をめぐるいのちを話すさんまほぐしつつ
夢のなか魚となれるか熟睡の子の手の先がひらひらするは

 

やわらかい触手のようなことばたちであるなあと、
思ったところで犬のお風呂を仰せつかり、犬とお風呂に入って、それからビールを飲み、焼酎を飲み、ソファーで犬と寝てしまった。深夜に目覚めて、部屋にもどり、もう一度、この豊島ゆきこという女性の「りんご療法」という歌集を読みはじめたのだ。大風の雨がはげしく降っている。

 

ものかげに水引の花咲くような秋の一日も店を守れり
画家になる夢の代はりに亡き祖父が育てし店よその店を継ぐ
疲れ果て着のまま眠るわが顔よりそつと眼鏡をはづす指あり
つやつやのりんごたくさんスライスし煮詰むればたのし りんご療法

 

どうもこの女性はわたしの理解がとどかない女性とは異なるかもしれないと思いはじめたのだった。普遍性が底にある、といったら良いのだろうか、利他的な基準があり信頼に足る、といったらいいのだろうか。うまく言えないのだが・・・・。

 

亡き祖父にその手を曳かれ夏に逝きし児もこの年の祭見に来よ
生涯を捧げし店の玻璃越しに山車をみていき死のまへの祖父
火に焼かれ槍に突かるる迫害を畏れぬ<神>を人ら持ちしか
つみぶかきもの女にてたはむれに十字架を飾る、心臓をかざる

 

どうも、死のほうからこの世をみている構えがあるのである。
死が底にあるのだろう。大切なものを失ってみてはじめてこの世が見えてくるのだろう。かなしみは簡単には埋まらない。
ますます、雨が強くなってきた。明日は新幹線が動かないかもしれない。

 

玻璃一枚隔てて人の営みのすこし向こうに水仙の伸ぶ
自らの手になる般若心経の書のある居間に眠るごと逝きし
秋の日のはかなきものは夏目雅子写真集なるたわわの乳房
ヨルダンかガンジスか仄暗きその河周作がいま渡りゆく
野分けのあとの陽差しまろまろ頬に受け花をかかげて死者に逢いにゆく
枇杷の花あえかに咲ける帰り道みづみづとわが細胞は呼吸す
丸ごとのキャベツざくつと切るときにしぶき立つ霧明快に生きむ
生老病死もなき世界青み帯ぶる画像のなかをマリオが跳ねる
その姿みにくけれども眼のやさし子育て恐竜マイアサウラは
かなしみは億年のちも変わらざり牙剥きて肉食竜が草食竜おそふ
はじめて「花」に逢いたる恐竜の恍惚いかに白亜紀の末
いつもいつも小首傾げてわれを見る十姉妹よとほき記憶伝えよ
葉を刻み相撲放送聞きをればとほき夕べの祖父母の気配

 

どうもこの女性はに大きなものに行きあたっているように思える。
大きなものとはかつてブッタが行きあたったものと近しいだろう。
この世界の無常ということか。この世界はまるごと流れているのだろう。
おんなも、性も、血縁も、まるごと流れていて、あてにできないのだろう。

 

グラビアの中のキッチン輝けど世にあらぬもの良妻も賢母も
斎場のさくら二本ひんやりと咲き満ちてをり見るひとなしに
八重ざくら青葉のなかに咲きいでてゴッホ的なる塊をかかぐ
ぢりぢりと灼けつく夏の道ひとつ地図なきままに歩みはじめぬ

 

大変に厳しい場所にこの豊島ゆきこさんという女性は佇っていると思えます。
大変に厳しいからこそ女性でありつつ女性をを越えて大いなるものの傍に佇っているのだろうと思います。

雨がすこし優しくなりました。
朝、新幹線が動いていたらわたしは勤めに出かけていきます。