広瀬 勉
東京・青梅滝ノ上町。
西暦2015年弥生蝶人酔生夢死幾百夜
時代はますます閉塞し、すべての人民は投獄された。われわれは牢に入れられたまま労働し、生活することになったのだが、権力者たちの圧政と暴力によって完膚なきまでに打ちのめされ、もはや抵抗する気力すら喪っていたために、奴隷のようにいいなりになっていた。3/1
銀座通りのど真ん中で、黄金いろのウンチが湯気を立てていた。3/2
「こんな格差社会だから、最底辺に生きる人を対象にした、親兄弟4人でせんべい布団1枚に寝るような木賃宿を開きなさい」と、隣の玉ちゃんがせっかく勧めてくれたというのに、断ってしまった。地底人の俺たちには、そんな道しか残されていなかったのに。3/3
ロスに旅行した時、3分で人と溶け合う奇跡を伝授された私は、そのテーブルにいた5名をたちまちアマルガムのように接着してしまったので、多忙な連中が身動きできなくなってしまい、おおいに怨まれた。3/4
僕が駅への階段を降りていたのに、車で送ってやると云うてきかない。
最近発見された「佐々木眞侯維新色好日記」は面白い。数多くの同名の別人物をめぐる凸凹噺もくわしく載せられているからだ。3/5
「君は私たちの子ではない。アフリカの奴隷商人がマラケシ島で売っていた父なし児なんだ」と告げると、息子は「そんなはずはありません。私はお父さんとお母さんの子供です」と言いながら、ラアラアと泣くのだった。3/6
「これを新しい会社のロゴマークにすればいいじゃないか」と云いながら、私はどこかのデザイナーが作った奇妙な図像を示すと、広報の前田さんは小首を傾げた。3/6
久しぶりに北鎌倉まで散歩に行って疲れたので、横須賀線で帰ろうとしたのだが、何台待っても来る電車が中国や韓国やモンゴルの人たちで超満員なので、仕方なくあきらめてまた歩いて家まで戻った。3/7
無名の国の無名の村で開催される「なんちゃらフェス」に招待された私は、なんちゃら航空で現地に到着したのだが、小学生のころ郷里のなんちゃら病院で手術した左肩が激しく痛んでしまい、とうとう1曲も演奏できずに引き返した。3/8
あたいは大丈夫だよ、もう中国語の芝居のセリフは全部頭に入ってる。でも心配なのは、いま連日公演している日本語の芝居のセリフに、その中国語のセリフが紛れ込まないかということなの。3/8
ヨーカ堂で販売していたワンポイントウエアの商標が使えなくなったので、「ワンポイントウエアからキーポイントウエアへ」という企画書をでっちあげ、鍵のマークのワンポイントウエアを提案したら、意外なことにすんなり受け入れられた。3/8
憲法改定の国民投票の会場に行くと、「改定にイエス」と書かれた自動販売機のような投票機械と「ノー」と書かれた機械の2種類が並んでいたが、裏に回ってよく観察すると、電線がつながっているのは「イエス」の方だけだった。3/9
彼女なら銀座の山本ネクタイで働いているはずだよという友人の情報を頼りにその店を訪ねてみると、店長が「先月末に辞めてロスへ行ったよ」と教えてくれた。3/10
広瀬さんチの土地を地元のヤクザがぶんどろうとしていたので、おいらはそれを止めさせようとしたのだが、だんだんヤクザに対抗するのがしんどくなってきたので、とうとう逃げ出したが、その結果、健さんに対する尊敬の念が高まった。3/11
私が熟睡していると、すぐそばで物凄いイビキが聞こえたので、たちまち目が覚めてあたりを見回したが、誰もいない。イビキの主はおそらく私だったのだろう。3/11
反乱軍に捕らわれて鋭い刃に全身を串刺しにされて死んだメソポタミアの王は、彼に逆らった3つの蛮族を呪いながら死んだが、3人の蛮族の長も、王と同じやり方で虐殺された。3/12
私は長い間この街に来たことがなかったが、ふとこの街の大学をまだ卒業していなかったことに気付いた。急いで教務へ行くと3つの教科のレポートと卒論を提出すれば証書を授与するというので、しばらく当地に滞在して長年の懸案を果たすことにした。3/12
いよいよレポートすべき国文学講座が始まる日、キャンパスの入り口で「こっち、こっち」と私に手招きする人がいるので、近寄ってよく見ると今中さんだった。3/13
どうして彼がこんな所にいるのか分からなかったが、今中さんは、「早く、早く。急がないと授業が始まってしまうぞ」と、私の手を取るようにして坂の隣を上昇しているエスカレーターに乗り移った。
ところがそのエスカレーターが鈍速なので、焦った2人が3段跳びの駆け足で飛躍してると、到達まぢかなエスカレーターがちょんぎれて、私たちはまるでだらりの帯のようになった階段の先端に両手でぶら下がって、ひとの助けを呼ばなければならなかった。
ようやくキャンパスの構内に辿りついたが、今中さんは「今日の授業は最後に漢字の書き取りテストがあるから、どうしてもその参考書が必要だ。僕が一っ走り書店に行って買ってくるから、君はここでまってて呉れた給え」と云う。
それきり今中さんはいつまで経っても戻ってこないので、しびれを切らし焦りまくった私は、傍を通りかかった学生に教室の場所を聞くなり、全速力で走りだした。教室に着くと大勢の人が立錐の余地なく詰めかけて授業どころの騒ぎではない。
私の目の前には仏文5年生の怒りのチビ太やイヤミや蝶の好きな多田さん、グラン佐々木、それに六つ子なども勢ぞろいしていて、徒党を組んで階段教室を下りながら全員が黒づくめの犬になってしまって、「なんだ坂、こんな坂」と大声で歌いながら踊り狂うている。
ワン ワン ワン
Wang Wang Wang
ワワン ワワン ワンワンワン
おめえは、なにを舐めてんだ
あんたのお尻を、舐めてんだ
くすぐったいから、やめてけれ
なんだ坂、こんな坂
ワンワン、キャンキャン ワンワンワン
おいらは犬だ あたいは犬だ
秋田犬、津軽犬、岩手犬
阿波犬、越後柴、樺太犬
なんだ犬、こんな犬
紀州犬、高安犬、薩摩犬
四国犬、屋久島犬、縄文犬
お前は、単なる犬に過ぎない
森林狼犬、仙台犬、大東犬
秩父犬、珍島犬、土佐闘犬
そうさ、おいらはただの犬
羽衣之柴、肥後狼犬、豊山犬
前田犬、北海道犬、豆柴犬
犬は犬でも、国産犬
雪甲斐犬、琉球犬、鷹版犬
三河犬、重慶犬、日向犬
そうさ、あたいは Made in Japan
なんだ坂、こんな坂
ワンワン、キャンキャン ワンワンワン
おいらは犬だ あたいは犬だ
すると別の学生の一隊が、「これからは国産ドッグファイトからグローバル・キャット・ファイトの時代じゃ!」と叫んで、ドラえもんやのび太と一緒に真っ白な衣裳に身を包んで「猫じゃ猫じゃ」と歌いながら、講堂の舞台の上で踊りはじめた。
ミャオ ミャオ ミャオ
Myaw Myaw Myaw
ニャ、ニャ、ニャン ニャン
おめえはなにを舐めてんだ
あんたのお尻を舐めてんだ
くすぐったいからやめてけれ
なんだ坂、こんな坂
ニャー ニャー ニャニャン、ミャー ミャー、ミャー
おいらは猫だ あたいは猫だ
ぶち猫、三毛猫、どらの猫
白猫、黒猫、ヒマラヤン
なんだ猫、こんな猫
さび猫、とらねこ、バーミーズ
赤とら、サバとら、純白猫
お前は、単なる猫に過ぎない
赤猫、灰色猫、斑猫
アビシニアン、オリエンタル、バナナブラウン、
そうさ、おいらはただの猫
ペルシャ、ベンガル、ターキシュ
メインクーン、ロシアンブルー、チェシャ猫
猫は猫でも国際品
キジトラ、トビ三毛、縞三毛
マンクス、ボンベイ、コンラート
そうさ、あたいは Made in the World
なんだ坂、こんな坂
ニャー ニャー ニャニャン、ミャー ミャー、ミャー
おいらは猫だ あたいは猫だ
あまりにも革命的な3次元デザイン短歌が次々に生まれてゆくので、私を拉致した入れ墨の大好きなパオパオ族の酋長も驚きあきれて、部族メンバーの全員一致で釈放されることになった。3/13
会社が経営危機に立ち至ったので、経営者が大幅なリストラを行うと宣言した。全員に残留テストを実施して点数の低い若い社員から順番に馘首するというのだが、私はもうなにもかもが厭になって、自分から退職してしまった。3/14
もはや万事休すだ。最後の戦いに敗れたら潔く死んでいくしかない、と深く心に刻んでいたはずなのに、いざ実際に破れてしまうと、腹など切らず草葉に身を隠してでもおめおめと生き延びていきたいという思いが募るのだった。3/15
隣の家のおばさんが、また近所をうろついている。彼女は歩きながらお得意のお仏蘭西語を高唱するので、すぐに所在が知れるのだ。3/16
こないだ青木君がレッド・ツェッペリンのコンサートの切符を呉れたのだが、今日またやって来て「あの切符を返してくれ」と云うので、涙を飲んで返した、3/16
顔だけは相変わらずの安倍蚤糞だったが、その猪八戒のようなお面の下に、いつの間にやら別の怪人が入り込んでいるのだった。3/16
講談社のKさんは、鯛のおすましが出てくると「私はね来月号はカブトムシの形をしたCDを読者にプレゼントしたいんだ。これくらいの大きさのね」と云いながら吸い物の中に指を突っ込んだので、茫然としていると、上司のSさんが「いい加減にしろ」と怒鳴った。3/17
長年にわたって真面目な教員生活を続けていた私だったが、ある日魅力的な人妻に一目ぼれをしてしまい、それからどんどん深入りをしていったのだが、このままではお互いに不幸なことになるといったん別れたのだが、しばらくするとまたズルズルべったりになってしまった。3/18
我われは行軍する際に、上の歯でチチチと舌打ちしたら前進、下の歯で同じようにしたら後退する、という取り決めをしたのだが、その違いがうまく伝わらなかったので、その作戦は失敗に終わった。3/19
ようやく築地までやって来たので、寿司屋でランチをつまんでいると、隣のおやじが「バブルの頃は、ここでシャンパンを8本も空けたんだけどなあ」と焼酎を飲みながらぼやくのを聞いているうちに、嫌気がさして新宿に行くのをやめた。3/19
いくら有名になったり、大金持ちになったり、権力の絶頂に立ったとしても、無理して体を壊して病に冒されてしまえば、そんなものは屁のツッパリにすらならない。そろそろあんたの生き方を変えたらどうだね、と私はナベショウに説いた。3/20
アフリカの新興国とはいえ、複数の国の大使を兼任するのは難しい。それでも私は、しょっちゅう問題を起こしている隣接する2国を、毎日のように行ったり来たりして、ヘトヘトになっていた。3/20
「さあいよいよ戦争だ、これで思う存分人殺しができるぞ」と、二人の若者が期待に胸を膨らませながら、陛下恩賜の三八銃をピカピカに磨いていたのだが、突然、地面が大きく揺れて亀裂が生じ、二人は、そのまま地底深く呑みこまれてしまった。3/21
俄か成金になった私は、友人から「東京湾の埋め立て地を買わないか」といわれたので、早速現地へ行ってみると、見渡す限り泥水が続く敷地が広がっていた。そのうち便意を催したが、最寄りのバラックまで数キロあると聞かされたので悶絶してしまった。3/22
なんたら芸大の人気教授の人寄せ講演「人類の深くて狭い穴について考える」が始まった。サクラで駆り出されていた私は、「ヨオ、大統領!」と叫んで、陰ながら応援していたのだが、案の定開講5分で女子大生の大半が退席して、閑古鳥が何匹も鳴いていた。3/23
最高級の牛肉をグルメする会に出たら、シェフが「ここは肩肉、これは腹肉」などと解説しているはしから、肉全体が次々に復元され、とうとう一頭の巨大な闘牛が誕生した。3/24
社長が「新ブランドの売り出しに最適の媒体計画を大至急作ってくれ」というので、あれこれ考えているのだが、どの媒体を使えばいいのかてんで分からないので、電通の社員が持っている媒体手帳がどこかに落ちていないか、と自転車に乗って探しに出かけた。3/25
突然壇上に押し上げられた私は、なにを言っていいのかてんで分からず、かろうじて「吾輩のこんにちあるは、ひとえに大恩ある○○先生のおかげでありましてえ」と、なんちゃら社交辞典にあるような言葉を口にしたが、その後が続かず絶句してしまった。3/26
聖戦十字軍を代表する戦士として、アラブ随一の女戦士と決闘を挑んだ私は、無残にもあっと言う間に武器を奪われて敗北し、不名誉の代償に彼女の奴隷にされてしまった。3/27
夕方、外で涼んでいると、誰かが庭から勝手に俺の家の中に入ってくるので、「なんだなんだ、おめえは誰だ」と誰何すると、「私はあなたと同姓同名なので、ここへやってきました」という。3/28
そいつはプロの殺し屋で、何度も俺に迫って来たが、あと一歩と言うところで難を逃れてきた。しかし今日はまずい。いかにもまずい。ポケットに手を突っ込んだが、いつものピストルはなく、一羽の鳩しか出てこなかった。3/29
ずっと若いころエイズに罹ったが、体に良いという井戸水を張った水槽に毎朝全身を浸していると、不思議なことに快癒してしまった。その後私はNYで新進アーティストとして成功し、金も名誉も手に入れたので、もう思い残すことはない。いつ死んでもいいと水槽を壊してしまった。3/29
新興住宅街にあるギャラリーを出て、夜の盛り場を彷徨っていると、ベネチアのカーニヴァルで見た顔を白く塗った女たちが、長い列を作って私を待ち構えていたので、その真ん中を通って屋敷の入口に通じる階段を登ってゆくと、真っ暗な部屋があった。「おおい、誰かいないか?」と尋ねたが、返事はない。誰もいなかった。3/29
私が奥菜恵似の少女と仲良くしているの知った吉高由里子の少女が、「デートしよ」といって私を植物園に誘ったので、2人で植物園に行ったあとで動物園に行ったら、猿どもが白昼公然と性交しまくっていたので「こんな不愉快な所はやめて、もっと愉快な場所へ行こう」と2人でラブホへ行った。3/30
本社から越中島の営業部に異動になったが、営業なんかやったことがなく、名刺すら持っていないので、得意先へ行っても上司や同僚の背後に隠れてしまう私を見て、みんな呆れ果てていた。
そんなある日、東映から健さんがやって来て、なんとか組の親分役としてわが社の営業を手伝ってくれるというので、興奮した私は1本の包丁を買って来て、晒しに巻いてスーツの中に忍ばせていた。
ある日みんなで雁首揃えて地方へ出張に行ったら、先を歩いていた健さんが誰かと喧嘩になったので、すっ飛んで行って、そいつのでかっ腹を正宗の包丁でブスリとやったら、上司が「よくやった。これで邪魔者は消えたから、この地区の売り上げは倍増だ」大喜びした。3/30
上等兵の一再ならぬ執拗な苛めに耐えながら、「所詮はこれがおいらの人世だったんだ」と思いつつ、黙って歩き続けていると、いつの間にか元来た地点に戻っていた。3/31
前回のロケット到着の際にはおよそ数キロの誤差があったが、今回は私が特製のグローヴでキャッチしたので、どんピシャリだった。3/31
ママニ
ママニは猫の名前、
わたしの家の飼い猫。
ママニの
右の頬が腫れてるよ、
と麻理が気がついて、
電話で呼ばれた息子の野々歩が
ママニを籠に入れて、
自転車で、
近所の猫のお医者さんに連れいったら、
歯茎が膿んでるって、
治療して帰って来たその翌朝、
ドバッと血を吐いた。
猫のお医者さんの紹介で、
野々歩がママニの籠を抱えて、
麻理と一緒に
タクシーに乗って、
ちょっと遠いが、
設備の整った
太子堂のアマノ動物病院に入院となった。
点滴と輸血でどうにか元気になって、
戻って来た、
その翌日、
野々歩が餌をやろうとしたら、
またまた
ドバッと血を吐いた。
そしてまた
アマノ動物病院に
再入院。
どこが悪いのか。
吐血で体力を無くした
十六歳の老齢のママニには、
麻酔をかけられないので、
内視鏡で胃の中を見ることができない。
うーむ、どうなっちゃうの。
それでも、
輸血と点滴で、
なんとか
持ち直して、
ワンワン、ウーウーと
周りがうるさい病室より
家の方が落ち着くだろうと、
退院した。
だが、
水の器の前では
考え込んでいて飲まない。
餌の器には見向きもしない。
飲まず食わずじゃ、
死んじゃうんじゃないか。
ママニ、
十六歳といえば、
人間の年齢との変換式
24+(猫の年齢-2)×4=人の年齢
によれば、
八十歳だ。
ママニは老齢だ。
老齢で、
血を吐いて
飲まず食わずじゃ
死んじゃうんじゃないか。
麻理が、
ママニが入った籠を抱えて、
通院する。
朝、麻理が連れて行って、
夕方、野々歩が連れて帰る。
昼間、家の中には、
ママニがいない。
そうすると、
寂しいんですね。
小ちゃな生き物だけど、
けっこう、大きい存在。
いやあ、死なれちゃ、
叶わない。
ママニは
もともと野良猫の子。
野良猫の母子の
母親似だったので
ママ似、
ママニと名付けてたのが
1999年の秋、
十六年前のことだった。
今では二人の娘の父親になってる息子の
野々歩がまだ大学一年生だった。
狭い庭に餌を求めてやってくる子連れの母猫、
その子猫たち、
餌をやって、
慣れて、
庭に置いた箱で寝るようになって、
もっと慣れて、
子猫たちは家の中に入ってくるようになった。
秋の、
長くなった陽が射す、
日当たりの良い柱の所の座布団の上で
昼寝する子猫たち。
実は、その前に、
その年の、
春の夜のこと、
この子猫たちの
姉妹の猫が、
生まれたばかりで、
野々歩の部屋の窓の下に落ちていて、
ミュウミュウ
と鳴いていた。
母猫が咥えて移動するときに落としたのだ。
野々歩が拾って、
母親の麻理が掌の上でスポイトを使って、
かわいい、かわいい、かわいいねえと、
牛乳を飲ませて育てた。
成長して、
ノンノと名付けて、
野々歩の高校の先生に引き取ってもらった。
ママニはその姉妹なのだ。
慣れて家の中まで入ってくる野良の
メス猫のママニを捕まえて、
その年の十二月に
避妊手術を受けさせて、
そのまま、
家で飼うことにしたのだった。
あれから、もう十六年が過ぎ去った。
魚を焼いていると、
嗅ぎつけて
素早く寄って来て、
ニャーニャー、
欲しいよおと訴える
ママニ。
帰宅してドアを開けると、
ドアの向こうに座って待っていた
ママニ。
一日一回は庭に出る戸口に来て、
外に出たがる
ママニ。
もともと野良だったからなあ、
と戸を開ければ、
さっと外に出る。
しばらくすると
戸口に戻ってくるが、
なかなか家に入らない
ママニ。
もともと野良だったからなあ、
家猫になって
十六年。
でも野良の記憶は消えないのか。
ママニも
わたしも
今年で、
八十歳だ。
同じく病気の身の上だけど、
病気のママニよりは
わたしの方がまだちょっと元気だ。
水の器の前に来て、
考え込んでいて飲まない。
餌の器には見向きもしない。
飲まず食わずじゃ、
死んでしまう。
病院で教えてもらった
強制給餌だ。
麻理がママニを太股の上に抱いて、
わたしが前足と後ろ足を両手で抑えて、
麻理が注射器で、
こじ開けた口の中に
ペースト状の餌を注入する
ママニは
暴れて、
口を
ガクガクさせて、
餌を飲み込む。
これを繰り返して
10ccを
食べさせるのがやっと。
やっと、やっと、やっと。
死なせたくないけど、
強制給餌は
辛い。
夜中、
トイレに行く時、
ママニはどうしているかと
覗くと、
水の入った器を抱えて
ぐったりとしている。
死んじゃうんじゃないか。
お別れが近いのか。
まだまだ生きていてくれ。
翌朝、
麻理がタクシーで病院に
連れて行って
点滴だ。
そして先生の手慣れた強制給餌。
夕方戻って来ると、
いくらか元気になってる。
よかったなあ、
ママニ、
足を舐めて、
顔を拭って
グルーミングしてる
ママニ。
まだまだ、
大丈夫だ。
それから
点滴と強制給餌のために、
予約したタクシーで、
連日、
アマノ動物病院に
通院する。
すい炎ではないか、
とお医者さん。
消化液が分泌されないから、
食欲が起きない。
なるべく、
好きなものなら何でも
食べさせてください。
と言われて、
麻理は、
ママニが病気になる前から、
ミャオミャオ
と喜んで食べた、
おかか、
そのおかか入りのペースト状の餌を、
手のひらにのせて、
口元に近づけたら、
食べたんですよ。
そう、食べた。
カニカマボコも、
麻理が噛んで、
手のひらにのせると
どんどん食べる。
子持ちししゃも、
少し食べた。
水も
麻理の手のひらからなら
ちょっと舐める。
牛乳も
手のひらから
30ccも
飲んだ。
おしっこもした。
そして、遂に、
十五日振り、
いや、十六日振りで、
ウンコをしたんだ。
これでなんとか、
ママニは
元気になれるか。
猫のお医者さんに通って、
五日目から、
急に良くなって、
よく食べて、
ようやく、元気になってきた。
麻理の記録によれば、
家で、
一日に、
おかか5g
しらす10g
カニかまぼこ32g
子持ちししゃも1匹
ビーフペースト20gを
食べて、
そして
71ccのミルクを
飲んだ。
食べた後、
飲んだ後、
首をしっかりと立てて、
グルーミングしてる。
ママニは
わたしたちの家の飼い猫。
十六歳の老齢。
元気になってきた。
麻理は六十五歳で難病患者だが、
元気。
わたしも八十歳で前立腺癌の患者だが、
まあまあ、元気。
互いに、
まだまだ、まだまだ。
呼応する緑のススに
手のひらが触れる
手の熱が吸いこむ
音読を
ひとつひとつ
球体として丸めこんでいく
声をかけられ
ひとつひとつ
彼はトゲトゲしい
彼女は冷んやりする
この人は八百屋かな
あの人は未亡人なのか
などと
時を忘れ
不在な噛み心地は生まれる
反応が順応に見えるくらい
今この形の緑のススを
受け容れる
球体の容器が
わたしの内で鳴りはじめ
隠し事みたいな養分をつめていく
そのさま
実に愛おしく
その愛おしさを
緑のススに返そうとする
それは
球体の一室となり
わたしの頭上まで浮きあがり
その場で吹いた
風に乗り
自由に失意に暮れはじめる
返そうとするトゲトゲしさを
彼女は冷んやりと弾く
ああ
あなたが未亡人でしたか
しかもあなたはもう向こう岸
じゃあやっぱりわたしが
八百屋でしたか
どうりで顔が泥だらけだ
泥だらけを
水が流したから
わたしは綺麗
わたしは汚れていた
それだけしかわからない
彼方はどうですか?
うさぎは
さびしいと死ぬ
ってのは
うそさ
だけど
おれは
さびしいと
死ぬぜ
あとで
あれは
さびしかったんじゃない
とわかって
おれは
何回も
生き返ったんだ