闇が傷になって目を開く

 

長田典子

 

 

平日の午後
アッパーイーストのデパートに買い物に出かけた帰り
59丁目の地下鉄ホームで電車を待っていた
買ったばかりのシーツの入った重たい紙袋を下げて
ぼんやり立っていた
とつぜん早口のアナウンスが流れ
連続殺人犯が地下鉄を乗り継いで逃走中だと告げる
ちょうど滑り込んできた電車に
他の乗客とともに乗り込む
ばったり犯人に出くわしたら運が悪いだけ

わたしたちは わたしは
いつ血まみれになって殺されても不思議ではないのに
何事も起きていないかのように
電車に揺られていた

電車は
追いかけているのか
追いかけられているのか
殺人犯を 殺人犯に
わたしたちは わたしは

殺るぞぉ! 殺ってやるぞぉ!! と夜遅くになって父が
一升瓶を振り上げて ふたりだけしかいない母屋の廊下を追いかけてきたのは
大人になってからのことだった
父に代わって社長だった母も亡くなり
もう赤字続きの商売を閉じてほしいと懇願したときのこと
逃げ場を失い咄嗟に
警察に電話するから!と叫んだら
父は ふいに肩を落とし
一升瓶を脇に置いて
茶の間でテレビを見始めた
なによりも体裁を重んじる人なのだ

グランドセントラル駅で下車すると
いつものように 改札口で
ピストルを脇に挿した警察官が所持品の検査をしていた
コンコースでは
迷彩服の兵士たちが随所に立ち
無表情で銃を構えていた
いつものように

アパートに帰り
備え付けのベッドに買ったばかりの赤いシーツをかけながら
TVをつけてNY1のニュースを見ると
タイムズスクエア駅の構内で犯人が捕まったと報じられていた
わたしの部屋から歩いて10分のところ
遠くで起こった血まみれの連続殺人事件は自宅近くまでやってきていた
シーツの皺を手で伸ばしながらわたしは
わたしの血まみれの思い出を
広げていた

小学生だった朝
妹が犬のように縄で縛られて池の中に座らされていた
血のように涙を流して泣いていた
夏休みの宿題をまだ終えていないお仕置きだと
父は縄の端を持ちながら
池の淵に立って
笑っていた
わたしはどうしたらいいのかわからなくて
茫然として見ていた
あのとき
もしわたしが銃を持っていたら
銃を
持っていたら
父を撃っただろうかわたしは
無表情でわたしは
撃ったのだろうか………

2週間前の早朝
打ち上げ花火のような音で目が覚めた
2時間後のニュースで発砲音だったと知った
アパートのすぐそばで殺人事件が起きたのだ
居合わせた大柄のゲイの男が興奮気味にカメラに向かって喋っていた
近くのファーマシーの化粧品売り場でよく見かける人だった
それでも日常は続き
事件のことはすぐに忘れて
学校に出かけた

夜中に
父の怒鳴り声がした
からだを叩きつけるような鈍い音が2階まで聞こえ
ぎゃぁあああ!!殺されるうっ!!という
母の叫び声が何度も響いていた
あのときも
わたしは小学生だった
走って行って母を助けるべきだったのにわたしは
人形のように身を固くして
息を潜め布団を被って隠れていたのだわたしは
翌朝 台所に立つ母の背中におそるおそる
だいじょうぶ?って聞くと
振り向いた母の顔は痣だらけのお岩さんのようで
ボクシングでボコボコにされて鼻血の噴き出した選手のようだった
離婚したいと言ったら
箒の柄でからだじゅうを何度も殴られたと
力なく言った
ブラウスの袖口から出ていた腕も痣だらけで
ところどころミミズのように腫れあがっていた
あのとき
もしわたしが銃を持っていたら
銃を持っていたら
父を撃っただろうかわたしは
無表情でわたしは
撃ったのだろうか………

撃たなかった
かもしれないのだ
父を わたしは
自分の命を守るためだけにわたしは
先に弱い者を撃ったのかもしれないのだわたしは
わたしはわたしはわたしは………

通っている語学学校は
歴史的な建造物のウルワースビルの一角にあり
そこで勉強してるなんて なんだか鼻が高いのだ
ただし華麗な装飾が施されたエントランスを通り越した脇に
学生専用の入り口はある
中は現代そのもの
水色の絨毯が基調の教室は清潔で明るい
どの教室もガラス張りのドアから中の様子が見えるようになっている
プレゼンテーションで母国の歴史的な一場面を発表するとき
中国人の国費留学生は南京大虐殺を取り上げた
数々の残虐な映像がスクリーンに映し出され
わたしは たったひとりそこにいるニホン人として
前を見ることができずに 居場所を失い
休み時間に
ひとりのニホン人として謝りたいと伝えるのが精一杯だった
宗教や習慣の行き違い
出身国がからむ国際関係から
一触即発の事態は
教室のなかでも起こりうる日々

新しい赤いシーツの皺を
伸ばし
伸ばしながら
広げる広がってしまう
わたしの
血まみれの思い出………

就職した総合商社を8か月で辞めて
貯金をもとに公務員試験の勉強を始めたころ
父は失望のあまり しつこく罵った
よー 知ってんかぁ おめぇみてぇなのをよぉ 人生の落伍者ってゆーんだ
この人生の落伍者!
失敗したら次は何を言われるのかが怖ろしくて
プレッシャーで体重が38キロになっていた
あんた人のこと言えんのかっ、家族ほおって長い間どこ行ってたんだ!
震えながら全身で口ごたえすると
さらに逆上して髪の毛を鷲掴んできた
親に向かって生意気な口ききやがって
ばかやろー 出てけ! このやろー
いい気になりやがって
きたねぇ顔みせんな このブスっ!
おめぇみてぇなバカ見たこたねぇや!!
あのときも
壁に後頭部を何度も打ちつけられた
腕や肩に父の指の跡が痣になっていくつも残った
父の手に
抜けたわたしの髪の毛がどさっと絡み付いていた
後頭部が赤く腫れて血が出てきた
試験に受かったら次は
この家からいちばん遠い場所に行ってやると思っていた
父は父で
代々受け継がれた土地を失うばかりで
体裁を繕うこともできなくなって地獄を見ていたのかもしれないが
わたしはわたしで
自分を生きている価値のない人間だと思わずにはいられなくて
ほんとうは 毎日
死にたいと思っていた思い続けてきた
枕元に父の工具箱から盗み出した大きなスパナを置いて眠っていたのは
むしろ殺して欲しかったのかもしれない………

ついこのまえ
ウサマ・ビン・ラディンが暗殺されたというニュースが
全米に速報で流れアメリカ人を歓喜させたが
人が殺されて歓喜するという思考がわたしにはわからない
タイムズスクエアに近いアパートには
夜中までUSA!USA!という群衆の歓声が聞こえ続け
外国人のわたしは深い恐怖に陥った

地球の裏側の
老人施設で父が赤ん坊のように
ぼんやりと昼食を与えられている時間に
わたしはベッドにもぐりこむ
枕元には
もう武器は置かない
置いてはいない
のだけれど

わたしがもし銃を持っていたら
わたしはどっちを撃つだろう
自分よりも強い者か
自分よりも弱い者か

闇が傷になって目を開く