芦田みゆき
大きな鳥をつかまえた
鳥はあたしの腕のひとかかえほどあって
嘴を閉じ
荒々しく息をしている
鳥を抱きつづけることは
あたしをひどく弱らせた
鳥の頭内に次々と去来する
空に関する鮮明な妄想が
あたしの汗となり
流れ落ちていく
渡る
渡るということ
向こうがわへおもむくということを
かんがえていた
みるみる暮れかける河川敷の
奥行き知れなくなる時分
荒川大橋を渡る
渡ったのだとおもう
かえって
川口へ行ってきたよと話すと
母は
そう、と応え
ややあって訊く
どうだった?
そうね、変わってしまったとも言えるし
ああこんなふうだった
あの頃のままというところもあるよ
バスの本数は前よりもっと少なくなって
工場だったところはたいてい
配送センターみたいなものになっているけど
化学工場も残ってる
バス停の名前もね
工場街って
でも
あの社宅の一画はまるっきり跡形なくて
三十年以上経つんだもの
無理もないね
ふたつの川に挟まれた
町、といえるのか商店もない地区
今はもうない会社に勤めていた父と母と私
2DKで過ごした頃の
梛木の橋を渡ってバスに
川沿いを走るバスに乗って
ふた月前 秋彼岸
尾道の港ぎわキャリー持ち上げ
大丈夫ですか荷物大きいんですがと問うと
運転手さんは
空いてますからこのとおりと笑う
座席は片側ビニルシートで覆われ
折り畳み自転車の持ち込み待機態勢
母と私を乗せ高速バスは
くるりと海に背を向け
中国山地へ駆けのぼってゆく、のではなかった
新幹線の駅の高みをピークに
まっさかさま まぶしい
海をふみこえ
しまなみ海道
向島因島生口島大三島伯方島大島と
つなぐ橋ななつを渡りきれば今治
今治に着く
父かたの伯父と伯母、従兄の家族が待つ
今治に
パズルのピースをぶちまけた
床ではなくって海原
脊椎動物の背骨のかけらとかけらを順ぐりに
縫いあわせる橋梁のゆあんゆよん
潮目を往き来する水軍漁るひとみかん農家汐汲み干すひと
領地をわかつ樽流し
真鯛も章魚も穴子もでべらがれいも
波をきりわける境界線なんて知らない
太古から
まして私そして母
隣の香川で生まれ育ったって
初めてよと母は
今治へ
速度をあげるバスの窓から
橋のアーチを島影をフェリーだろうか船を
さんざめく秋まひるの光でつかまえようと
デジカメ構え
お城の石垣が海に迫る町高松で
出会ったふたり
二十三歳の父が渡ったのは
この橋ではない
むろん
二十二歳の母が渡ったのも
船で渡って父は行った東京へ
船で渡って母は行った東京へ
オリンピックを控え首都高もなく空はまだ広かった東京へ
会社員として洋裁師の卵として
松山でなく高松でなく
大阪でも神戸でもなく
東京へ
(TOKYOへ)
だのに暮らしたのは
東京のへりを滑り落ちたところ
産業機械メーカーの経理部勤務とお針子のふたり
まず川崎そして川口と
東京を突っ切って
梛木の橋の停留所でバスを降りる
川幅の狭い芝川を渡ると左右は工場
錆びた鉄の色正体のわからないにおい
まっすぐ行けば荒川の土手危ないから一人で行っちゃ駄目
手前の角を左折すると片側に古びた洋館日暮れにはこうもり
その先に
三階建て二十四世帯の家族寮奥に独身寮も
広場の草取りが手間だからと鋳物用の砂を入れさせたのは
父だったか
草いっぽんの緑もない窓はまだアルミサッシではなく
行き交うトラックに舞い上がる砂ほこりを免れなかった
「あんな場所
ひとの住むところじゃない」
言い放った中学の担任は社会科教師
水を汲み上げて調べたのだと
青ざめた母つめよることもできず憤りをかかえて
父にはそのまま伝えたのだろうか
二十年あまりを働きづめに働き
たおれた父
今治ではなく郷里の川之江に戻って眠った
骨になって
一家の墓に
カロウシという言葉がなかった頃
あれを労災と言わないなら何を労災と呼ぶのかと
心をとがらせるきっかけを子に与えた生き方
おれは悔いはないが
お前たちがふびんだと言い置くくらいなら
他に途はなかったのか
なんの咎もなく命は尽きる
海を渡って橋もないのに
船で渡って東京へ
ナンノタメニナンノタメニナンノタメニナンノタメニ
なんのためにと呟きながらこみあげてくるものを
のみこみながらバスは
バスは芝川沿いの道を折り返し
荒川大橋を渡る
東京へ赤羽へ
土手にのぼればひろやかな空のもと対岸にみえる町へ
いえこれは
しまなみ海道
大山祇神社のある大三島からは今治
樹齢二千六百年と伝えられる楠のねじれた幹
八方へさしのべられる枝ごとのしなやかさ
来たことがあったろうか父は
尋ねようとしてではなく
ふりむけば母は
デジカメの電池を入れ替えている