違うよサクソフォン

 

爽生ハム

 

 

すり鉢っぽい底辺には脳天気な陽気が漂っていて、そこへ向かう彼らの背中の荷物には、引っ掻き傷がついていた。彼らは、目の前の彼の傷を見て徐々に笑顔をつくり、目的をもつくる。傷は、どこかの川のようで生命力を感じさせた。彼の次にくる彼や、その数メートル後方の彼などは、涙のような水滴を浮かべて、興奮していた。たぶん痛いんだろう。私が見る限りは、痛いと名づけるのは非常に簡単だった。彼らの痛みなど、見物するには丁度いい痛みだった。私の手前で蒸発する非常に健全な痛みだった。あまりにも脳天気な陽気だから、もしかして辛いのは私の方なんじゃないかと、余裕綽綽たる名づけ親になってみたりもした。
私は通常の健康では、明くる日を見逃したりはしない。
むかしむかし、名づけられた響きを交換しあって抑揚がついた動物の完成。淋しさとうまくつきあえる巣穴も、そして底も、内在が溜まりすぎて、困り果て。常夏の短パンのように急遽、膝を潮風がノックする。ぐたぐたと恐怖心を芽生えにかかる露出とは別の魂胆の、肌の水は、人を人が汚ないと感じさせるにはじゅうぶんな汁だろうな。目の前の人が怖すぎるって確かに彼は言った。いらだちの解散のために、彼は感情を放つ、放つ、放つわ放つ。いきり勃った塔の女楽は仕切り板を溶かすほどの勢いがあり、私は彼らは硫酸を飲む人と名づけました。
だって傷が喋るんですもの。

 

 

 

岩波文庫版『石垣りん詩集』を読んで

 

佐々木 眞

 

 

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詩集を贈呈された者は、けっして古本屋に売ってはならない。
贈呈した詩人が、回り回って手にすることがあるからだ。
のみならず、それが詩に書かれて、一生物笑いの種にされることもあるからだ。

岩波文庫版の『石垣りん詩集』のなかに、『へんなオルゴール』というへんな詩がある。
「歴程」夏のセミナーに出席した詩人が、見知らぬ紳士からサインを求められる。
それは『表札など』という彼女の代表作のひとつだった。

「サインせよ とはかたじけない」*と喜んだ詩人だったが、開いた扉に一枚の名刺。
見れば「丸山薫様 石垣りん」と自分の筆で書いてある。
敬愛する偉大な詩人に送った詩集が、古本屋に並んでいたというのである。

「ひとりの紳士が1冊の本をひらくと
空0丸山薫さま 石垣りんです。
空0と明るいうたがひびき出す。」*

「どうしてうらんだり かなしんだりいたしましょう。
空0売って下さったのですか 無理もないと
空0それゆえになお忘れ難くなった詩人よ。」*

などと無理やり陽気にふるまおうとするものの、
そのとき彼女のはらわたは、煮えくりかえっていたに違いない。
だからこの詩を書いたのだ。

東京品川の糞尿臭い十坪の借家に、祖父と父と義母と二人の弟と住み続け、
たった一人の女の二本の細腕で、六人の暮しを支え続けた石垣りんは、
毎日のように押し寄せてくる詩歌集を、ただの一冊も捨てなかったのだろう。

詩集を贈呈された者は、けっして古本屋に売ってはならない。
贈呈した詩人が、回り回って手にすることがあるからだ。
のみならず、それが詩に書かれて、一生物笑いの種にされることもあるからだ。

 

空白空白空白空白空白空白空白空白空白*石垣りん『へんなオルゴール』より引用