萩原健次郎
空0私の位置などどうでもいいが、この一角に迷い込ん
だ哀れを描いてほしい。殴り書きでもいいので、誰か
の記憶にとどめていてほしい。
空0まくなぎの阿鼻叫喚をふりかぶる 三鬼 *
空0文章は、なにかの哀れと刺し違える。悲哀もまた惨
めな鼻歌となって唄われる。
空0そういうことね
空0そういうことだ。
空0私は、諭される浮標であって、白昼の海の中で、も
がいている魚に似た心持ちで、ただ、この濃暗い谷を
彷徨っている。そこに、羽虫、しかもまだ生まれたば
かりの夥しい数の虫が、眼前に直立するなんて。
空0眼で殺めたいと、あははは はは。鼻の孔を塞ぎた
いと、木屑を詰めて、手削ぎ、足削ぎ、あははは は。
空0一月十日の午後には、そういえばいつまでも午後だ
ねえ。川の水はいつまでも一定量で、気持ち悪いぐら
いに、緩い傾きで、ただ急登の道と並行して街の方向
に流れている。
空0レント、レント、アダージオ、遅いと哀しいのは、
なぜか。
空0鍋の中では、いままさに味噌が混ぜいれられて、獣
の脂と甘い液が溶けだして、そこに野菜やら、揚げや
ら、茸らの具が入り、煮立っている。
空0具が入り 不具の鼻孔も眼球も、喜び始めているの
に、午後は、いつまでも午後で。旋律は、川沿いに、
どちらの方向にも流れることはなく、澱んでいる。
空0わたしの位置は、どこか。
空0感じている、その瞬間から頭を刈られる、この切な
い位置を、少しずつずらしていく、まあるくて重たい
世界は、生か。
空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空(連作のうち)