広瀬 勉
岡山・岡山奉還町。
ご存知の詩の雑誌でざんす。
「現代詩手帖」の1月号っちゃあ、
恒例の「現代日本詩集2016」でざんすね。
機心一転っちゃあ、
特集された、
48人の詩人の、
詩を
全部、
ぜえーんぶっちゃあ、
読んじゃったっちゃあでざんすね。
読んで毎日FaceBookなんかのSNSに、
ちょこっと、
2015年の暮れから2016年の正月に掛けて、
感想を書こうって思っちゃたっちゃあでざんすね。
ちゃったっちゃあ、
そりゃ、まあ、大したことでざんす。
んっちゃあ、んっちゃあ、
ざんす、ざんす、
うふふ、
ハッハッハッ、ハッ。
今までっちゃあ、
好きな詩人とか、
気になる詩人とかの
詩を読むくらいでっちゃあでざんしたが、
特集された詩人の詩を全部読むなんてこっちゃ、
まあ、なかったっちゃあでざんすよ。
それが機心一転したっちゃあでざんすね。
そりゃ、まあ、大したこっちゃあでざんす。
んっちゃあ、んっちゃあ、
ざんす、ざんす、
うふふ、
ハッハッハッ、ハッ。
機心一転ってっちゃあ。
そりゃ、まあ、どういうことでざんすか。
現代詩っちゃあ書かれてるっちゃあでざんすが、
選ばれたり選ばれなかったりっちゃあ、
こりゃまあ、こりゃまあ、でざんす、ざんす。
日本国にはどれくらいっちゃあ、
詩人がおりますっちゃあでざんすか。
ひと月前の「現代詩手帖」12月号っちゃあ、
「現代詩年鑑2016」とあってっちゃあ、
その「詩人住所録」っちゃあ、
1ページ当たりおよそ44名ほどと数えてっちゃあざんす。
それが47ページっちゃあで、
おおよそ2068名くらいが登録されておりますっちゃあでざんす。
いや、いや、
もっと、もっと、
詩人と自覚している人は沢山いるはずっちゃあでざんすよ。
それに自覚してなくてもっちゃあ、
沢山の人が詩を書いているはずちゃあでざんすよ。
んっちゃあ、んっちゃあ、
ざんす、ざんす、
そんでもって、
「現代日本詩集2016」っちゃあ、
48名っちゃあでざんすよ。
91歳のお年寄り詩人から
24歳の若い詩人までっちゃあ、
48名っちゃあでざんすね。
選ばれましてっちゃあ、
おめでとうございますっちゃあでざんす。
んっちゃあ、んっちゃあ、
ざんす、ざんす、
うふふ、
ハッハッハッ、ハッ。
断わっておきますっちゃあでざんすが、
詩人のあっしがここに選ばれなかったっちゃあて、
やっかんでるってんじゃないっちゃあでざんすよ。
機心一転っちゃあ、でざんすね。
機心一転っちゃあ。
んっちゃあ、んっちゃあ、
ざんす、ざんす。
うふふ。
わかってるっちゃあでざんすね。
「現代詩手帖」さんが、
今、活躍してるっちゃあ、
推奨する
数々の受賞歴のあるっちゃあ、
48人の詩人さんっちゃあでざんすよね。
ざんす、ざんす。
つまりで、ざんすね。
48人の詩人さんっちゃあ、
「現代日本詩集2016」っちゃあ、
まあ、今年の日本の詩人の代表ってことっちゃあでざんすね。
選ばれればっちゃあ、
名誉っちゃあ、
嬉しいっちゃあでざんす。
んっちゃあ、んっちゃあ、
ざんす、ざんす。
うふふ。
うふふ。
ハッハッハッ、ハッ。
前置きが長くなりすぎましたっちゃあでざんす。
まあ、まあ、
毎朝の4時に起きてちゃあでざんすね、
作品をぜえーんぶ読んじまってちょこっと感想をっちゃあ、
昨年の12月30日から今年の1月3日までの、
SNSに書いたっちゃあでざんすね。
んっちゃあでざんす。
ざんす。
昨年2015年の12月30日に、
「11人のお爺さん詩人と2人のお婆さん詩人の詩を読んだ。皆さん老いを自覚しながら自己に向き合うか、またそれぞれの詩の書き方を守っておられるのだった。ここだけの話、ちょっと退屈ですね。」っちゃあ、
書いちゃったっちゃあでざんすか。
ざんす、ざんす。
翌日の31日には、
「10人の初老のおじさんおばさん詩人の詩を読んだ。ふう、すげえー、今更ながら、書き言葉、書き言葉、これって現代文語ですね。」っちゃあ、
書いちゃったっちゃあでざんすか。
ざんす、ざんす。
年が明けて1月2日に、
「11人の中年のおじさんおばさん詩人の詩を読んだ。中年になって内に向かって自己の存在を確かめようとしているように感じた。複雑ですね。」っちゃあ、
書いちゃったっちゃあでざんすね。
ざんす、ざんす。
そして1月3日で、
「11人の若手の詩人の詩を読んだ。自己の外の物が言葉に現われきているという印象だが内面にも拘っているようだ。これで「現代日本詩集2016」の48人の詩人の詩を読んだことになる。まあ、通り一遍の読み方だが、書かれた言葉の多様なことに触れることはできた。今更ながら日常の言葉から遊離した言葉だなあと思ってしまった。」っちゃあ、
書いちゃったっちゃあでざんすね。
んっちゃあ、んっちゃあ、
ざんす、ざんす。
幾人かの詩人の詩は頭に残ってるっちゃあでざんすが、
どの詩人の詩がどういう詩だったかっちゃあ、
もう忘れちまったっちゃあでざんす。
申し訳ないっちゃあでざんす。
んっちゃあ、んっちゃあ、
ざんす、ざんす。
うっ、ふう。
ぜえーんぶ、
紙の上に印刷された言葉なんっちゃあでざんすねえ。
現代詩っちゃあ、
書かれた言葉だったっちゃあでざんすねえ。
書かれ書かれ洗練されっちゃあでざんす。
書かれ印刷された言葉で伝わっていくっちゃあでざんすねえ。
その書かれ印刷されるっちゃあでざんすに、
挑戦してるって見えたっちゃあでざんすが、
あっしが敬愛する
吉増剛造さんの
「 Ledburyニ、鐘音(カネ乃於止(、、))ヲ聞(キ)キ、歌(ウタ)比(、)だしていたノハ、誰(タレ)」(括弧内は原文ルビ)っちゃあ、
タイトルの詩っちゃあ、誰も真似できませんぜ。
うん、ざんす、zansu。
イングランドのLedburyっちゃあところで、
聞いた鐘の音に感動なさってっちゃあ、
英語や朝鮮語や万葉仮名やらを混じえてっちゃあ、
Blakeの神話の人物のリントラに託してっちゃあ、
「恋ノ羽撃(キ)ノ、、、、、、
空白空白空白空白空白羽音(ハネ)、
空白空白空白空白空白空白空白緒(ヲ)
空白空白空白空白空白空白空白空白空白、毛(も)、枯(ガ)、零(re(アクセント記号付きのe))、手(te(アクセント記号付きのe)」っちゃあ、
激しいお気持ちっちゃあを、
歌い上げてるっちゃあでざんすねえ。
でもでも、
その誌面にびっくりっちゃあでざんすが、
吉増さんの感動が文字を超えていくっくっくっちゃあが、
言葉の高嶺っちゃあでざんすか、
ただただ驚くばかりっちゃあで、
真意っちゃあが、
解らなかったっちゃあでざんすねえ。
残念でざんす。
んっちゃあ、んっちゃあ
ざんす、ざんす。
うっ、ふう。
こりゃ、
吉増さんっちゃあ、
手にしたペンで書いてるに決まってるっちゃあでざんす。
紙の上っちゃあ、
文字書いてるっちゃあ、
あの繊細な手が見えてくるっちゃあでざんすよ。
それでいいっちゃあでざんすねえ。
んっちゃあ、
ざんす、ざんす。
うふふ。
ハッハッハッ、ハッ。
あっしが尊敬する先生っちゃあ、
藤井貞和さんの詩っちゃあ、
「鳥虫戯画から」っちゃあ、
穏やかなタイトルっちゃあでざんすが、
先ずは
古典短歌を能舞台に置くっちゃあって、
笑っておられるっちゃあでざんす。
そしてっちゃあでざんす。
キーボード打つ手元を見つめながらっちゃあ、
ご自身が書きつつある詩っちゃあ、
詩歌の歴史の流れに置いてるっちゃあでざんすか、
言葉の高嶺を行くっちゃあ、
うっとりさせられるっちゃあ、
なんか苦し紛れって感じでもあるっちゃあ、
ブツブツっと、
書き言葉でつぶやいていらしゃっるっちゃあでざんすよ。
「短歌ではない、
自由詩ではない、
自由を、
動画に託して、
月しろの兎よ、」っちゃあ、
うさちゃんに呼びかけてっちゃあでざんすね。
何やら深刻なことを仰せになってるっちゃあでざんす。
そしてでざんすね。
「あかごなす魂か泣いてつぶたつ粟をいちごの夢としてさよならします。」っちゃあて、
終わっちまうっちゃあでざんすよ。
ウッウッウッ、ウッ。
ウッウッウッ、ウッ。
藤井貞和さんの魂がわかんないっちゃあでざんすねえ。
悔しいっちゃあでざんす。
んっちゃあ、んっちゃあ、
ざんす、ざんす、ざんす。
ウッ、フウー、ふうー。
うふふ。
ハッハッハッ、ハッ。
長谷川龍生老っちゃあ、
「万事 日本は 覚悟せよ」っちゃあ言葉っちゃあ、
頭に残ってるっちゃあでざんす。
谷川俊太郎老っちゃあ、
「知らず知らずのうちに
強面の口調に成っている私の内心
よちよち歩きの子がいるとほっとする」っちゃあて、
お二人とも、
昨年テロ事件があった現実にっちゃあ、
敏感っちゃあでざんすねえ。
んっちゃあ、んっちゃあ、
ざんす、ざんす。
昔あっしと「凶区」の同人だったっちゃあ
天沢退二郎老人っちゃあ、
「半ぺん噺」っちゃあ題で、
中近東の市場で買った赤黒い50個つなぎのはんぺんっちゃあが、
居眠りしてっちゃあ、
時限爆弾じゃあないかと心配したがっちゃあ、
「どれも猫の毛で編んだミニ・サッカーボール」っちゃあ
作り話を作ってっちゃあ、
「我が家ではかわいい孫たちが
あれで遊ぶのを楽しみに待ちこがれてるのさ。」っちゃあ、
退二郎おじいちゃん、お孫さんに囲まれて、
よかったっちゃあでざんすねえ。
さいでざんす。
んっちゃあ、んっちゃあ
ざんす、ざんす。
ハッハッハッ、ハッ。
それからっちゃあでざんすね。
好きな色はオレンジ色だっちゃあて、
オレンジ色のセーターを着てっちゃあ、
「広い道
中ぐらいの道
狭い道
目印は骨、だんだんわかりにくくなる。」ってっちゃあ、
「通りのみなさん
あまり正確ではないが
ぼくのうちへ来る地図だ。」っちゃあ、
かっこいいっちゃあ、
初老の映画監督っちゃあ、
福間健二さんは書いてるっちゃあでざんすが、
言葉が開けてっちゃあ、
ほっとしたっちゃあでざんす。
んっちゃあ、んっちゃあ、
ざんす、ざんす。
うっ、ふう。
あと一人っちゃあ。
気になってるっちゃあ。
ドイツ文学者っちゃあ、
首都大学東京都市教養学部名誉教授っちゃあ、
最早、初老の瀬尾育生さんっちゃあでざんすよ。
もう68歳っちゃあでざんすね。
今回の詩のタイトルっちゃあ、
「『何かもっと、ぜんぜん別の』もの」っちゃあ、
またまたあっしには通り一片で読んだだけっちゃあ、
何のことがかいてあるっちゃあ、
理解できないっちゃあ詩っちゃあでざんした。
繰り返し読んだっちゃあでざんす。
第一行からっちゃあ、
「薄れゆく記憶のなかで濃い色を帯びた瞬間を掘り出す金属の手当ては」っちゃあ、
何だっちゃあでざんす。
それからっちゃあ、
「バルコニーの日差しが斜めになるときは
その窓を開けておいて。滑るようにそこから入ってくる神の切片を/迎えるために。」
「神の切片」っちゃあ、
何だっちゃあ、
わからんっちゃあでざんす。
まあ、まあ、
「だからあんまり速く/歩かないで。きみからきみの輪郭が遅れてしまうよ、あんまり速く/その切りとおし道を過ぎてゆかないで。」っちゃあ、
親しい人に優しく話しかけてるっちゃあでざんすね。
そして、一連跳び越えてっちゃあ、
第三連目っちゃあ、
「『別の人』はよい(傍点ルビ)。わたしは『何かもっと、ぜんぜん別の』ものへ行くのだから。そして
『別の人』もまた『何かもっと、ぜんぜん別の』ものへ行くのだから。
『何かもっと、ぜんぜん別の』ものは、あなたにはあなたの形、わたしにはわたしの形。」っちゃあ、
死ってことっちゃあでざんすか。
そして、そして、
第四連目っちゃあ、
「『つらぬきとおして流れる』ものがその身体を流れ終わった子が、『向こうの部屋』でしずかに眠っている。『つらぬきとおして流れる』ものがその身体を流れ終わった子が、『向こうの部屋』で、瘡蓋のついた小さな鼻孔から、息を終えた沈黙の形で『何かもっと、ぜんぜん別の』ものへ『ながいながい曲がりくねった道(傍点ルビでロング・ロング・アンド・ワインディング・ロード)』をささやき続けている。」っちゃあで、
終わってるっちゃあでざんす。
よくわからんっちゃあでざんすが、
哀悼の詩だったっちゃあでざんすねえ。
悲しみが伝わって来るっちゃあでざんすね。
ざんす、ざんす。
んっちゃあでざんす。
あっしの機心一転っちゃあ、
お読みいただけましたっちゃあでざんしたか、
ご苦労さんでざんした。
はい、おしまいっちゃあ。