マジカル・ミステリー・デンタル・ツアー

 

佐々木 眞

 
 

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歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと*
ああ歯が痛い、歯が痛い。

歯が猛烈に痛みます。
この痛みは、なんなのだ? 虫歯かブリッジか歯槽膿漏?
それとも心臓からの悪しき便りか。
痛い痛い、歯が猛烈に痛いんだ。

我慢に我慢を重ねていたけれど、左の奥歯がひどく傷むので、
無理矢理頼んで押しかけたのは、横須賀大滝町の沖本歯科。
皇太子さんにそっくりの顔をした温厚な先生が
「佐々木さん、どうされましたか?」

と、私の名前を呼びながら、顔を下から覗きこみました。
まず患部周辺をレントゲンで撮影したあと、奥歯の臼歯の治療が始まります。
虫歯がすでに神経に達しているので、麻酔をかけて神経を取ることになったのですが、
どういう訳だか、麻酔がなかなか掛からない。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

先生のピンセットが患部に触れると、
その都度ピリリ、ビリリとシビレエイにやられたような痛みが走ります。
沖本先生は「痛かったら左手を挙げてください」とおっしゃるのですが、
ピリッときても、なかなか手をパッと上げられない。

そんな時、いつも考えるのは脳に障がいのある息子のこと。
「痛かったら左手を挙げてください」なんていわれて、どうするんだろう。
「ハイ!ハイ!ハハイ!」と答えはするものの、
困って、おびえて、パニクってしまうのではなかろうか。

しかし変だぞ。今日はおかしい。
私は昔からいともたやすく麻酔が掛かるのですが、
今日はいったいどうしたことか?
掛かり方がぜんぜん弱いのです。

すると先生は、慌てず騒がず「しょうきガスを使ってみましょう」とおっしゃいます。
「正気?」
「いや笑気です。これを両方の鼻の穴から注ぎ込みますと、しばらくすると頭がぼんやりしてきますからね」といって他の患者さんのところへ行ってしまいました。

ひとりぼっちで取り残された私の頭は
次第にぼんやりしてきましたが、
これまでいろいろお世話になった歯医者さんのことが
突然私のくたびれ果てた脳裏に浮かんできました。

どういう風の吹きまわしか1960年代の終わりにリーマンになった私が、慣れないスーツ姿で通い始めた会社は、神田鎌倉河岸にありました。
その神田では伊藤歯科がいいというので、私が神田駅に近いその歯医者を訪ねますと、そこには老若2人の伊藤先生がいて、私は若い方の伊藤先生にあたりました。

若先生といっても既に中年で、医者というより英国風の紳士のような知的な風貌が印象的です。他方老先生は70代を過ぎて、もう米寿になんなんとする温和なお年寄りで、医者というより、春風駘蕩たる落語家のようなこの方が、名医と謳われていたことが後になって分かりました。

ある日のこと、酷い虫歯になった私は、奥歯の神経を抜くことになりました。
物慣れた手つきで麻酔を掛け終わった若先生は、さっきからピンセットのようなものを握りしめて、穴の奥にひそんでいる細い糸のようなものを引っ張りだそうとするのですが、これがなかなかうまく行きません。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

白いマスクの上の額からは大粒の汗が浮かんで、
それが瞼の上に落ちてきます。
若先生はだんだん苛立ってきたようです。
いきなりマスクをはずすと、大きな声で叫びました。

「困った、困ったあ! こんな細かい神経は今まで一度も見たことがない。困った、困った! いやあ、参った、参ったあ! 佐々木さん、ぼく、どうしましょう」
歯医者に「どうしましょう」と言われても、私はどうする訳にも行きません。
ちらっと向こうを見ると、大先生は知らん顔をして女性の患者と楽しそうに話しています。

いやしくも大都会の街中で開業している医師が、
そんな捨て鉢な台詞を患者に向かって吐いていいものでしょうか。
大学でも講義しているというインテリゲンチャンの若先生は超理論派かもしれないが、
大先生に比べると、技術で劣る不器用な人だったのでしょう。

同じ伊藤歯科なのに、
どうして大先生に治療してもらえなかったのか。
どうして眼高手低の若先生に当たってしまったのか。
私はその時ほど恨めしく思ったことはありません。

さて。
時と所は変って、1970年の原宿竹下通り。
ここは平成末期の現在とは違って、真中あたりに鰐淵晴子さんのお父さんのバイオリン教室があるくらいで、朝から晩まで閑古鳥が鳴いていました。

そうして。
原宿駅からその竹下通りを歩いて、
明治通りに出たすぐ右側に、
その歯医者さんはありました。

ドアを開けると、そこはたったひとつだけの座席と必要最低限の設備しか備えていない、
狭い狭い部屋である。
まるで西部劇に出てくる散髪屋のような空間に、汚れた白衣を無造作にはおった年配の男と、唇が妙に赤い妖艶な看護婦が控えておりました。

無精ひげをはやし、よねよれのネクタイを巻いた男は、医師というより流れ者。
医師というならドク・ホリディといった風情で、もうもうと煙をあげて両切りのピースをふかしています。
彼の机の上には、テネシー特産ジャック・ダニエルのボトルがでんと置かれていました。

若づくりのおねいさんは、
看護婦というより、飛鳥公園前のバーのホステスのような婀娜な風情で、
私が入室する直前まで、この怪しい中年医者とクチャクチャガムを噛みながら
イチャイチャイチャイチャ××××××××していた模様です。

二人がペッペッとガムを捨てたのを合図に、治療が始まりました。
男は、いきなり目の前にぶら下がっている器具を私の口腔に突っ込むと、ガリガリやりはじめましたが、その乱暴なこと。
ウイスキーと香水が入り混じった猛烈な口臭が私の鼻を襲います。

そういえば、こういう治療の光景を、むかしどこかで見たことがある。
それは浅草の木馬座という名のしがない大衆劇場。
若き日の「野火」の映画監督が、自作自演したお芝居「電柱小僧の冒険」!
そこに出てきた、満洲帝国大学のマッドサイエンス教授の人体解剖実験でした。

破竹の勢いでたちまち治療を終えたマッドサイエンス教授は、
「はい終了」
といいながら、なにやら白い物を抛り投げ捨てると、それは見事に部屋の隅に置いてあった白い衛生箱にスポンと収まりました。

あっけに取られてその不思議な光景を眺めていた私は、
おねいさんが鳴らすレジの
「チーン!」という音に送られて歯科を出たのですが、
痛みは治まるばかりか、ますます激しくなる一方です。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

痛くて痛くて眠れない一夜が明け、私は頬っぺたを押さえながら、
同じ原宿の千駄ヶ谷小学校交差点の近くの山下歯科を訪ねました。
ここは名医として定評があったのですが、いつも超満員で長く待たされるので、物好きな私はそれを敬遠して、あえて初めてのマッドサイエンス歯科に走ったのでした。

「ありゃ、ありゃ、これは何だ?」
といいながら山下先生がピンセットでつまんで白い物を目の前に突き付けました。
「驚いたなあ、脱脂綿が入ってますよ」
昨日マッドサイエンス教授が放り投げたのは、脱脂綿の残りだったのです。

名人、山下先生の仕事は、素早い。
私の治療がだいたい終わったので、いつの間にか隣の患者さんに麻酔の注射を打とうとしています。
するとその男はいきなり子供のような悲鳴を上げて、こういいました。

「先生、先生、その注射は、お隣の佐々木さんに打ってくれませんか?」
「佐々木さん、ご無沙汰しています。私からのお中元をどうぞお受け取りください」
驚いて男の顔を良く見ると、
なんとイラストレーターの安東さんではありませんか。

「冗談じゃない。そんなお中元はお断り。安東さんも、余計なことをいわないでください。頼みますよ」と私が慌てふためくのを知ってか知らずか、
山下先生は、ぶっとい注射針を、安東さんの奥歯の根っこにグサリと差し込みました。
カラカラカラと悪魔の笑いを高らかに響かせながら。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

 

空空空空空空空空空空空空空空空空空空*「天理教御神楽歌」より引用