熊野の天然水

 

佐々木 眞

 
 

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久しぶりに親友の北嶋君と芝居を観た後で、彼の家でチャーハンでも食べようということになって、2人でスーパーで買い物をしてから本町通りを歩いていた。

すると本町4丁目の足立茶碗店から、高山彦九郎そっくりの顔をした背の高い若者が飛び出してきて、「ほらよ、これが「熊野の天然水」だ。遠慮せずに持ってけよ」といって、北嶋君に水が入った大きなビニール袋を渡した。

北嶋君は、「ぼくは、君が誰だか知らないし、知らない人から物をもらってはいけないとカントも語っているから、要らない」と断ったのだが、足立彦九郎があまりにもしつこく「持っていけ、持っていけ」とヤクザのように強要するので、さすがの北嶋君も根負けして、その重いビニール袋を受け取った。

仕方なく2人で荷物をいっぱいぶらさげ、大汗かいて北嶋君の家にたどり着き、一歩玄関の中に入ると、驚いた。
玄関も、リビングも、キッチンも、寝室も、書斎も、トイレや浴室の中まで「熊野の天然水」で一杯なのだ。

1LDKに立錐の余地なく立ち並ぶ500mlのペットボトルの大群は、モダンアートのインスタレーションのようでもあり、巨人の胃袋の内壁にびっしりとへばりついたポリープの森のようでもあった。
おまけに北嶋君のビニール袋の中には、「熊野の天然水」しか入っていない。

「北嶋君、これはいったいどうしたわけだ」と尋ねると、カントの読みすぎで青ざめた顔付きの哲学青年は、上がり框にどっかりと腰をおろして、事の次第を語ってくれた。

「実はさっきの足立君は、僕と同じこのマンションに住んでいるんだが、中上健次の水呑み婆が出てくる小説を読んでから、水呑み教の虜になってしまったんだ」

「その小説では、熊野の聖水を飲むと体毒をきれいにしてくれる、という妄想に取りつかれた連中が出てくるんだが、これに一発でいかれてしまった足立君は、毎晩僕の部屋にやって来て「熊野の天然水」の押し売りをするようになってしまったんだ」

「ぼくは昼間の仕事だって大変なのに、夕方家に帰れば、足立君が、「聖なる水をガブガブ飲めば健康になって幸せが訪れる」と、真夜中まで力説する。仕方なくぼくが「熊野の天然水」を口にすると、飲めば飲むほど下痢するばかり。明け方まで、しょちゅうトイレに行きっぱなしさ。これから、いったいどうなるんだろう。ぼくは、人世に疲れ果てたよ」

北嶋君の嘆かいは、さらに延々と続いたのだが、もはや私は、この親友をなんと慰めてよいのか分からなかった。