駿河昌樹
世の中を舐めてかかってはいけないとか
世間を馬鹿にしてはいけないとか
そんなお説教をチラ見せする人がいまでもたまにいるし
大上段から振りかぶって投げつけてくる
陳腐な絵にかいたような精神的老人型もいるが
フクシマ以後ではなく
フクシマの原発事故処理の徹底的なゴマカシ以後
いわゆる「世の中」や「世間」の痴呆状態は露呈されたわけで
フクシマ以後「世の中」や「世間」を馬鹿にしないことは野蛮である
とアドルノめかして言い切っておきたいとさえ思う*
「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」と記した後
「物象化は精神の進歩をみずからのさまざまな要素のひとつとして前提としていたが、こんにち物象化は完全に精神を呑み込もうとしている。自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている限り、批判的精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできないのである」
とアドルノは続けたが
思えばなんと
いまのニッポンは
自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている人人人……
ばかりではないか
とうに精神の死んでいる人人人……が
桜を見てまわったり
夕日のなかで家族的観照に感傷的に浸っていたり
あれはスゴイ!だれはスゴイ!
ステキでしたよぉ!
これってホントおいしい!
どんどん素晴らしいビルが出来てきますねぇ!
とんでもない才能に脱帽するしかないです!
なんとしても新たな風を政治に!
などなどの空言キャッチボールや空言胞子撒き散らし遊びを
しているだけ
それだけ
まぁ
よほどの天才的な発明でもなされないかぎり
数百年は死の放射能出っつづけのフクシマを抱えて
子子孫孫
天文学的負債を背負って滅びに向かっていくだけのニッポン列島人だから
しょうがないと言えばしょうがなくて
たゞたゞ精一杯の明るさを
けなげに
はかなげに
あらんかぎりの心のちからを出し切って装って
太宰治が『右大臣実朝』に書いた
「平家ハアカルイ、アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。
「人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
なんて
読んだことも読む気もないだろう気やすさで
読書量の徹底的な少なさで
文字情報と文字情報リテラシーの少なさで
視野のしやわせ…おっと、違った、しあわせな狭さで
行くんですね
逝くんですね
がんばってね
ちょっとはアドルノとかも見てみてね
ルカーチの物象化概念を敷衍したともいえる
アドルノの物象化論は
マルクスの商品化論と
ヴェーバーの合理化論を継承していて
そのあたりをまとめておさらいし直せば
フクシマの原発事故処理の徹底的なゴマカシ以後状況を
もっとポップに言い換えればフクシマゴマカシを
超克する精神や方法論を導き出せるきっかけになるかもしれないから
見てみてね
とにかく
なんとか
自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている人人人……
であるのは
やめていこうよ
あらゆることにもっともっと正しく不満になって
もっともっとあたふたして
じぶんなんてすっかり失って
こころここにあらずでとりみだしてばかりの
あらまほしき姿にしっかりとなって
そんな状況なんだから
正真正銘真正の火宅なんだから
*アドルノ『プリズメン』
「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である。物象化は精神の進歩をみずからのさまざまな要素のひとつとして前提としていたが、こんにち物象化は完全に精神を呑み込もうとしている。自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている限り、批判的精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできないのである。」