Pandemický Pieces

 

工藤冬里

 
 

『tar』、或いはMonster Hunter Orchestra
指揮者にとってのモンスターはオーケストラだがハンターはモンスターの格好をした観客だった
オーケストラにとってのモンスターは観客だが、ハンターは指揮者なのだった
観客にとってのモンスターはハンターの恰好をした指揮者だが、ハンターはオーケストラだった
ハンターとモンスターとの闘いを誰もが担うが勝利できないのはそのためだ

 

『Pandemický Pieces』
去年水上音楽堂でやったパンデミッキーな仕事をそのままピアノで再現してみました
https://stand.fm/episodes/646589f806cfda46b91150f2

 

 
『Helmut Berger, 29 May 1944 – 18 May 2023』
よくDOLL主催のビデオコンサートで観たけどその頃の映像はもう転がってない。
https://youtu.be/xKg87SBFsEs
彼は70年に2本目のB級ドリアン映画に出たのであった。84年のに出ればもっと良かっただろう。
池袋で万引きの師匠だった戦旗派のナカジョーさんは彼にちょっと似ていた。敏子さんを公然と口説くので周りが困っていた。いずれにせよあの曲の前半のように皆半分タイハイしていたのだ。

 

 
『Aaron Boulogne (11 August 1962 – 20 May 2023)』
「ぼくはちいさな騎士なんだから
天にかけて恐れてはいけないって教わった
だから地にかけて父さんに会いに行く」
と解釈してみた
https://stand.fm/episodes/646c7d315dcad4ce4eaf7ee8
 

 
『Invisible Shark (2023)』
コージーがまたサメ映画放出したぞ
https://youtu.be/Eu5wxxzH7Lw

 

新しき枕に替へて寝ねたれば夢見枕と人は言ふなり

 

『Kenneth Anger 3 Feb 1927 – 11 May 2023』
真のデカダンとは?というのが、いまはそうでもないけど、あの頃はテーマだった。わたしだけ?というアルバムのジャケはこれを念頭に置いているとすぐ分かった
馬場に行けばいつでも上映していたのは今考えれば、考えなくても、ハッテン場だった
40年経っても、水は生きている、などと踊っているな
Eaux d’artifice https://youtu.be/yUO6Q9RQPG0

 

 
石垣は三支点を確保しながら積んでいく。佐田岬の緑泥片岩の積み上げはコツウォルズに劣らず見事なものである。隙間に手を翳すと蛇が出るよと脅されたものである。蛇の石垣の下から温泉が出たこともある。僕は石垣にセメンを詰めるのは反対である。隙間を作って生き物のアパートにしてやるべきである。

 

『アートで田んぼ』
https://youtu.be/zjJdRKSKSZM

 

 
すごい雨と言っても
水がすごいのか
音がすごいのか
それは近さなのか
大きさなのか
多さなのか
速さなのか
珍しさなのか
全部なのか
いや
言葉の惰性なのだ
雨なんてすごくない
所詮水の粒だ
粒の水はすごい

 

 
『アル中女の肖像』
冒頭飲むことは生きることで生きることは飲むことみたいなナレーションが流れて金子を思い出しその後は致死量ドーリスのタベアさんの表情を見ているだけで良くて最終的には壁崩壊前の表現としてよく引き合いに出されるHeroesやベルリン天使の詩よりも成功しているのではないかと思えた

 
『フリーク・オルランド』
宝塚を寺山修司が演出して松本俊夫が撮ったようなものだと思った

『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』
ドリアン・グレイというとキム・フォーリーの「ロックンロールのドリアン・グレイ」https://youtu.be/OuXXhTAuxj8が思い浮かび浦島太郎みたいな結末なのかと予想していたがドリアンの部屋の鏡が意図的に銀色に曇らされていて竜宮城だけの映画と知れた

ベルリン三部作まとめ
いかにもドイツっぽいかなしい大道具でファスビンダー組の妹バンド、みたいな先入主を確認する体験だったがただ執拗な男女入れ替わり強迫はオッティンガーだけのものでそれが今観るべき映画として選ばれた大きな理由なのではないか
 

 

こんな時にいやこんな時逆流
https://youtube.com/shorts/8AEITyiPaLo?feature=share

土砂降りに青梅踏みたる硬さ 哉

 

『小説家の映画』
小説家が映画を撮ると映画の人よりも遥かに指示が細かい、というセリフのある홍상수の映画を観て、各トラックごとに音質を決めるのが当たり前と思っていた頃の聖蹟桜ヶ丘のオープンリールのスタジオを思い出した。
「歌うラッパー」的な非常にメタな構造をもっているが、あくまでも小説的な一人称の処理が主題であり、LGBTQをだしに使った恋愛映画ともいえる。

 

水半ば澄んで晴れ間の暑さ 哉

 

雨でミモザが根本から倒れて出入りできなくなったんで土建屋を呼んだところ

 

 

 

#poetry #rock musician

おと ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 43     riou 様へ

さとう三千魚

 
 

ひろばでは
水の

流れる
音を聴いた

アンデスの

笛の
音も

聴いた
桜は

どんな
音がするの

花びらが
流れていく

たくさん

 

 

***memo.

2023年6月4日(日)、静岡駅北口地下広場での即興詩イベント、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」第十四回で作った43個めの詩です。

タイトル ”おと”
好きな花 ”桜”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

9丁目

 

塔島ひろみ

 
 

川が海に向かって流れている
貨物列車が荷物を積んで北へ走る
川と線路に挟まれて
9丁目は動かないでそこにあった
ずっと前からそこにあった
公園も店もない 家だけが
日々の暮らしだけがそこにあり
ヒトが自転車を洗っている
土に 名前のない草が茂り 名前のない花が咲き
ネコがいる
大きな目で 前足をギュッと握って
甲の毛は汚れ 
木のように動かない
何をつかんでいるのか
甲を引っ掻いても開かない
血が流れる
土に染み込む 
ヒトが自転車を洗い終わる
外階段をのぼり 自転車を2階のベランダに干している
空に向かって干している
9丁目に来た
橋を渡って9丁目に来た
足を引きずって9丁目に来た
何も持たずに 誰にも言わずに
9丁目に来た
ヒトが ヒトと 話している
私の知らない言葉で
鳥の言葉で
羽はないのに
鳥の言葉で話している
風が吹く
片足を使えないネコが 木のようにそよぐ
名前のない草花たちも 風にそよぐ
貨物列車がまた走っていく
その音を聞いた
前足は爪が伸びて
ここまで歩いて 泥だらけで
その前足を静かに握ると
歩けなくなった
虫の一匹もキャッチできない
9丁目で
名前のない花のそばの地面の上で
見えない何かを抱きながらすわりこみ
北へ運ばれていくモノたちの音を
私は聞いた

 
 

(5月某日、奥戸9丁目で)

 

 

 

はな ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 42     youko 様へ

さとう三千魚

 
 

鼻は

人の
顔の

まんなかに
あるね

花は
こころの

まんなかに
ある

ぽっと

咲いていた
灯っていた

ダリア
わたしの花

 

 

***memo.

2023年5月27日(土)、しずおか一箱古本市の会場「水曜文庫」での即興詩イベント、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」第十三回で作った42個めの詩です。

タイトル ”はな(華)”
好きな花 ”ダリア”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

浜風の志郎康さん 001

 

さとう三千魚

 
 

「浜風文庫」は、今年、2023年6月8日で、開設して11年を迎えます。
最初期から浜風文庫を支えてくれたのは詩人の鈴木志郎康さんでした。

志郎康さんとの出会いは、いまから40年以上も前のことです。
わたしが小沢昭一さんの芸能座という劇団の研究所演出部研究生を辞めた頃、
東京の江戸川橋の小さな工場で働きはじめながら東中野の新日本文学会の文学学校に通いはじめた時からでした。

そこに志郎康さんがいたのです。
詩人の志郎康さんや阿部岩夫さん、他にも小説の先生もいらして、わたしは志郎康さんの詩の教室に通ったのでした。

小さな木造の学校の教室に詩の生徒が10人ほど集まり、作品を提出して、生徒全員から批評をもらい、最後に志郎康さんの講評をいただくという仕組みでした。

仕事で疲れた体や頭でやっと書き上げた詩を提出すると志郎康さんの厳しい講評が頂けるので、ハラハラしながらも楽しい教室でした。

帰りには東中野の居酒屋で反省会をしてから帰るのも楽しかったのです。

最初の頃は志郎康さんの講評が厳し過ぎたのか生徒がどんどん少なくなったような記憶があります。それで生徒が居なくなるのは困るので志郎康さんの講評はすこしだけ優しくなったようでした。

さて、そんな志郎康さんの生徒であるわたしは仕事や生活に忙しく、なんとか時間を工面して詩を書いていたようです。

その頃わたしは志郎康さんのプアプア詩に感染していてプアプア詩の真似っこの詩を書いていました。
美智子妃殿下の詩とかをプアプア調で書いていたのです。でもプアプア詩は志郎康さんの詩であり、わたしはわたしの詩を書かなきゃ意味がないと思うようになりました。その頃に文学学校で知り合った来栖徹さん、中村登さんや神田典子さん福島素子さん疋田春水さん住友浩さん、それから外の世界の加藤閑さん、奥村真さん、井上弘治さんなどといくつかの詩の同人誌を作ることになりました。

わたしは小さな頃から詩を書いてきましたが現代詩と出会ったのは志郎康さんと会えたからなのでした。
でも、わたしの先生である志郎康さんは「先生」と呼ばれるのが嫌いな先生でした。
だからわたしは「志郎康さん」と呼ぶのです。
志郎康さんは浜風文庫にたくさんの詩を送ってくれました。
それらの詩が書肆山田から詩集として出版された時、わたしはとても嬉しかったのです。

その志郎康さんが、昨年、2022年9月8日に亡くなりました。
87歳でした。

わたしはぼんやりしてしまいました。
いまも、すこしぼんやりして生きています。
わたしは鈴木志郎康という詩人を追いかけてきたのです。
わたしのようなボンクラ詩人と違って志郎康さんはほんとの詩人だったのです。

これからは、
浜風文庫に頂いた志郎康さんの詩を読んで、
わたしなりに志郎康さんの詩を理解し紹介していきたいと思います。

今回は、
志郎康さんから浜風文庫に最初にいただいた詩、
2014年2月14日に浜風文庫に公開された「さあ、詩のテーマは東京都知事選!」という詩です。

 

「さあ、詩のテーマは東京都知事選!」
https://beachwind-lib.net/?p=1556

 

「権力者のあり方の地層ってのが、うーん、
 民主主義を多数決で踏みつぶす全体主義の足取りの始めじゃねえか、」

 

この続きはまた後で!

 

・・・

 

外から、
帰ってきました。
続きを書いてみます。

志郎康さんの9年前のこの詩を読んでほぼ現在の政治状況を言い当てているなと思ったのでした。

「民主主義を多数決で踏みつぶす全体主義の足取りの始めじゃねえか」

という言葉にこの10年間の日本国の姿が見えてくるように思えたのでした。
この東京都知事選は、猪瀬直樹知事の徳洲会からの献金事件での辞職に伴い、舛添要一、宇都宮健児、細川護熙、田母神俊雄、ドクター・中松、マック赤坂などなどの各氏が立候補し、舛添要一氏が大差で東京都知事に当選した選挙でした。

 

   この選挙は、
   都知事を選ぶっていうだけじゃなくて、
   権力者のあり方の地層ってのが、うーん、
   民主主義を多数決で踏みつぶす全体主義の足取りの始めじゃねえか、
   とか
   個人主義を歴史意識で縛り上げる国家主義が誇らしく腕組みしてるんじゃねえか、
   とか
   って思えちゃってね、いや、まあ、詩人さん、先走るなよ。
   都知事選は現実よ、ゲン、ジ、ツ。
   ってやんでぃ!
   いやー、思った通りで、
   暮らしの安泰が第一ね。
   世間様は怖い。
   いやいや、わたしの子どものころにゃー
   国の安泰ってことで、
   鬼畜米英、撃ちてし止まむって、
   世間様はみんな同じ顔して、 白い割烹着とカーキ色の国民服で、
   万歳しちゃっていたじゃん、
   ってやんでぃ!
   ってやんでぃ!
   古くさい体験の繰り言は止めにしな。
   時間は止まっちゃくれないよ。
   さあさあ
   東京の200万の世間様を
   お迎えするのは全く違う夢舞台ってところじゃん、
   お父さんお母さんおじさんおばさんお兄さんお姉さん
   取り戻された國の輝く世界一の東京とやらで
   おもてなしの絆で結ばれた手を合わせ
   どんな五輪ダンスを踊るのやら、
   マスコミに揺さぶられた詩人の杞憂の妄想ってやつですよ。
   ってやんでぃ!

       「さあ、詩のテーマは東京都知事選!」より引用

 

志郎康さんは「国家」という制度がいかに「個」を縛り上げて踏みにじるかを子どもの頃からの体験として実感しているのだ。戦中の学童疎開、栄養失調による脚気、東京大空襲、戦後の混乱、などを生き延びて「国家」という制度の嘘と理不尽を痛く体験したのだったろう。

この詩で語られる「国家」や「安泰」や「世間様」や「東京五輪」に、
一人の個人として対峙しようとしているのだ。
一人の個人として生きることが志郎康さんの詩なのだ。

「ってやんでぃ!」
「逃げるなよ」

と志郎康さんは言っている。
志郎康さんは「一人の詩人」として生きようとしている。

その志郎康さんは、昨年、2022年9月8日に亡くなりました。

わたしは、ぼんやりしてしまいました。
いまも、すこしぼんやりして生きています。

そして「ボンクラ」という言葉を思い至りました。
「ボンクラ」というのは「ぼさっとしていて鈍い人。ぼんやりしている人、様子。」というような意味だそうです。
わたしは子どもの頃から一人でぼんやりと流れる雲を眺めていたのです。
そしてぼんやりと佇んでいたのです。

「一人の詩人として生きてみなよ。」

志郎康さんは、
志郎康さんの詩によって、
わたしのようなボンクラに、そう、言ってくれていたと思えるのです。

志郎康さん、
ありがとうございました。

わたしはわたしの詩を書いて生きてみます。

 

2023年6月1日  さとう三千魚

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

まいにち ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 41     miyuki 様へ

さとう三千魚

 
 


目覚める

ぼんやりと
思う

幸は
あるの

どこに
あるの

百日草が
咲いた

赤や
ピンク

黄色の

百日草が咲いた

 

 

***memo.

2023年5月27日(土)、しずおか一箱古本市の会場「水曜文庫」での即興詩イベント、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」第十三回で作った41個めの詩です。

タイトル ”まいにち”
好きな花 ”百日草”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

受難

 

たいい りょう

 
 

あとどれくらい 苦しめば
本当のわたしの言葉を
紡げるのだろう

わたしは どこまで 
不幸せになれるのだろう

わたしは どこまで 
苦難に耐えられるのだろう

鏡は 本当のわたしを壊すだけで
何も 応えてはくれない

美しい人生の音色を奏でるのに
俗世の穢れた目は いらないだろう

裏切りは 本当のわたしの言葉を
紡ぐのに 幸いなり

偽物は 美言を弄し
本物は 沈黙する

石を投げよ
わたしは 罪人なり

わたしは ことばの十字架に架けられ
受難に見舞われんことを
幻覚に見る

死は まだ わたしのもとに
黒い死者を送ってはいない