ゲオルク・ショルティの「神々の黄昏」

音楽の慰め第17回

 

佐々木 眞

 
 

 

ゲオルク・ショルティ(1912-1997)は、ハンガリー生まれの指揮者です。後年は英国に住んでロイヤルオペラの総監督を務めたので、女王陛下から称号を賜り、かの国ではサー・ジョージ・ショルティと呼びならわされていました。

彼はリスト音楽院でピアノ、作曲、指揮を学びましたが、1942年にはジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝し、名ピアニスト兼指揮者として国際的に活躍するようになりました。

私は80年代の初めにNYのカーネギーホールで彼が手兵のシカゴ交響楽団を振ったショスタコーヴィチの交響曲第5番を聴きましたが、文字通り血沸き肉踊る、唐竹を真っ向真っ二つに割ったような豪快な演奏でした。

おそらくマジャールの血を引いているのでしょう、その精力的な顔つきと、その特異な風貌にふさわしいエネルギッシュな指揮ぶりは、どんな凡庸なオーケストラをも激しく鼓舞して、その最善最高の演奏を引き出していくのです。

シカゴ響を世界最高のオケのひとつに育てたショルティは、そのように指揮も見るからに精力的でしたが、あちらのほうもお盛んで、ある日曜日に自宅にインタビューに来た30歳以上年下の美しいBBCの女子アナ、ヴァレリー・ピッツ嬢と一目ぼれで再婚し、たちまち可愛い子をなしたのでした。

そんなショルティの代表的な録音といえば、有名なマーラーの交響曲全集もさることながら、やはりステレオ初期の1958年に、有名な名プロデューサー、ジョン・カルショー率いるデッカのチームによって録音されたワーグナーの「ニーベルングの指輪」全曲にとどめをさすでしょう。

世界的にはトランプ、日本的には安倍蚤糞という史上最悪の暗愚指導者が、世界と日本を滅茶苦茶にしている今月今夜の音楽の慰めとして、最もふさわしいのは、その「指輪」の終曲「神々の黄昏」でありましょう。

「ジークフリートの葬送曲」が流れる中、ブリュンフィルデの放った火は、神々の居城に燃え移り、主神ヴォータンも、えせ指導者のトランプも、その愚かな忠犬安倍蚤糞も焼け死んでしまいます。

天下一品のウィーンフィルのオケの咆哮をものともしないジークフリートのヴォルフガング・ヴィントガッセン、ブリュンフィルデのビルギット・ニルソンの絶唱は、文字通り歴史的名演奏と申せましょう。

 

 

 

ふるさと

 

車窓から

景色の
流れるのをみて

帰った

ふるい友たちと会った
あどけない

俤が年老いた顔々に残っていた

みなで
歌をうたった

うさぎおいしかのやま
こぶなつりしかのかわ

景色が流れるのを見て帰った
景色が流れるのを見て帰った

景色が流れた
あどけない

 

 

 

森を往く

 

狩野雅之

 
 

この道を往く。やがて行き止まりになる小径を行く。新緑に覆われた仄暗い砂利の道を往く。復りは同じ道を戻れないことを知っているが、歩を進めないわけにはいかないのだ。しかしきっと、そこにも空はある、蒼い空と白い雲がある。

 


森を往く 01

 


森を往く 02

 


森を往く 03

 


森を往く 04

 


森を往く 05

 


森を往く 06

 


森を往く 07

 


森を往く 08

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 37

 

朝になった
雨はあがった

ゴンチチのロミオとジュリエットを聴いてた

ロミオは毒を飲んだ
ジュリエットは短剣を刺した

35年の生を売る
労働を売る

友人たちに

お元気でといった

よい一日をと
いった

貨幣に外部はあるのか
自己利益に外部はあるか

 

 

 

ひかり、のぞみ、こだま

 

道ケージ

 
 

どうしたのだろう
新緑のひかる木の梢
若葉の準備に浮き立つ辺り
白い布?が干されている

どうしてだろう
その下をあたふたと
灰色の制服の男たちが
駆けずり回っている

どうするのだろう
手に手に黒いビニール袋をもち
すばやく屈み
また走る

のぞみの鼻先に
キリンのような
鮮血が

垂れた布?からは
ぬらぬらした
何かが垂れてきている
落ちてきたのは
…眼球だった
下の茂みをもう見られないね

ぼくらはこちら側で
ディズニーからの帰りなのだ
止まった列車を乗り換える
こだまに

今、男が白い腕を
ビニールに入れたところだ
子供のけたましい叫び声のこだま
先ほどの絶叫と変わりはしない
ホームを変える人たちは
いらだち

高架の奥の青空は
どうということもなく光り
小さな振動を伝える
ひかりが入ってくる

奥のビルの窓に
肉塊が張り付いているのを
発見した係員が
手を振って合図している

瞬間の決意
瞬間の痛み
瞬間の後悔

のぞみの切っ先に
赤い霧がひかり
こだます

架空地線に
こびりついたものは
いつも取り除けない

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第13回

第5章 魚たちの饗宴~綾部大橋

 

佐々木 眞

 
 

 

―――そして、あれから3年。
いまふたたびケンちゃんは、寺山の山頂に立って、由良川を眺めています。
寺山に向かって、南をめざして真っすぐ流れてきた由良川は、寺山の麓で90度向きを変え、西に向かってゆるやかに曲がっていきます。

右折して1キロほど下流へ行ったところに綾部大橋がかかり、その橋げたのたもとには、いつも大きなコイやフナがゆったりと泳いでいます。
ケンちゃんがウナギを生け捕りにした井堰はその大橋から50メートル下流で、幅70メートルの大河がせき止められて苦悶する地響きのような唸り声は、もちろんここ寺山の頂上までは伝わってきません。
井堰からそう遠くない場所にあるてらこの屋根も、小さく左手に小さく見えています。
ほら、露台の上に登ったおばあちゃんが、鉢植えのサボテンに水をやっているのが見えるでしょう。

このいつも変らぬ懐かしい風景を眺めているうちに、、ウナギのQちゃんの訴えが錐のように鋭く突き刺さりました。

――そうだ、一刻も早く悪い奴らを退治しなくちゃ。

ケンちゃんはせっかく登ったばかりの寺山をいっきに駆け下り、てらこまでフルスピードで戻ってくると、お店の入り口のところに置いてある自転車に飛び乗って綾部大橋まで全速力でペダルを踏み続けたのでした。

由良川を眼下に一望する大橋に立ったケンちゃんは広い水面いっぱいに太陽を受け、ギラギラと輝く大河をじっとにらみつけました。

――この川のどこかに奴らがいるんだ。でもどうやって奴らを発見したらいいんだろう。
それより、いったい奴らって何者なんだ?ま、いいや。とりあえず水に入って敵情視察といこう。

ケンちゃんは、あっという間にパンツいっちょうになると、スニーカーをはいたまま、綾部大橋の欄干のてっぺんまでするすると猿のように登りつめ、エイヤっと気合もろとも10メートル下の清流めがけて飛び込みました。

ドッボーーン!

体のまわりに次々にラムネのようにおいしそうな泡が、一斉に舞い上がります。
冷たい水の底からゆっくりと浮上してきたケンちゃんは、抜き手を切ってすいすい泳いでゆきます。
川の中ほどまで進むと、ケンちゃんは大きく胸いっぱいに空気をすいこみ、ついでに由良川の水もがぶりと飲み込んでから、潜水に移りました。

緑色のキンゴモが茂っているところを、おお気色悪いなあ、とゴボゴボ言いながら通り過ぎ、さらに深く深く5メートルほど潜っていくと急に水温が下がり、どんどん光量が減っていきます。
深みから水面の方向を見上げれば、お日様が何かに腹を立てているのか、それとも何者かに怯えているのか、ぶるぶる震えながら大きくなり、小さくなったりしながら、点滅しているのが見えました。
ケンちゃんは、さらに深く潜ります。潜りながら上流へ上流へと泳いでゆきます。
川ははじめのうちは冷たかったけれど、だんだん暖かくなってきました。まわりの様子がくっきりと見えます。

川底の岩や小さな石の傍らにへばりついてエサをあさっている小心者のヨシノボリが、上眼づかいに未知の侵入者を心配そうに見守っています。
下くちびるをとがらせたムギックが、不機嫌そうにチエッと舌うちをしています。
赤紫色のギギが、その近所では20センチくらいの黒紫色のナマズがひげをピクピク動かしながら、お互いに寄り添うようにして泳いでいます。
ギギの背びれや胸びれに触るとひどいめにあいますから、注意しましょうね。

気がつくと、いつの間にかケンちゃんの右隣りをすました顔して泳いでいるのは、35センチくらいのコイでした。
ケンちゃんを感情のまるでない左目でちらと眺め、スイと先に行ってから、ちょっと後ろを振り返り、尾ひれをひらひら動かしたのは「ついて来い」という合図でしょうか。

ケンちゃんは、コイのあとをつけて、ゆっくり平泳ぎでおよいでいきました。
すると不意に、いままでついそこを泳いでいたコイの姿が、見えなくなってしまいました。
ケンちゃんは、息をとめてデングリガエリをしたりながら、キョロキョロとコイの行方を探し求めました。

あ、いたいた。

コイは、本流をかなりはずれて川岸の方へ向っています。
いつの間にか川底にゴロゴロ横たわっていた巨岩が少なくなり、いろんな形をした小石に変わっているようです。
砂の色も濃茶から次第にうすい黄土色に近づいてきました。
もうちょっとで由良川の左岸にすれすれのところ、水深2メートルくらいのところまでやってきたときでした。
突然ケンちゃんは、コイが高飛び込みをやるような姿勢で深いほら穴の中へ消えてゆくのを目撃しました。

ためらわずケンちゃんも、あとに続いてその穴に潜り込みました。
およそ千畳間くらいの広さだったでしょうか。その大きなほら穴は……
不思議なことに天井のどこからまばゆいカクテル光線が縞模様になってふりそそぐその穴の底には、見渡す限り由良川の魚という魚たちが、熱海のハトヤの大宴会場のように長方形に整然と座りこみ、プランクトン醸造酒でグビグビと1杯やったり、「ポスト・ポスト構造主義以降の哲学上の諸問題」を青筋立てて論じ合ったり、飲みかつ食い、食いかつ論ずる思い思いの円卓の大饗宴をやっている最中でした。

フナ、コイ、ウナギ、ハヤ、アユ、ナマズ、ギギ、ドジョウ、ヨシノボリ、ドンコ、カワヤツメ……その数は何千か何万かめのこ算で勘定することすらできそうにありません。
だってみんな三々五々忙しく動き回っているんですもの。
こんなにたくさんの淡水魚を一堂に集めた水族館なんて世界中探してもどこにもないでしょう。
よく見るとQちゃんくらいの大きさのウナギもいましたが、Qちゃんの姿は見当たりません。いまごろは津軽海峡のあたりを通過しているのでしょうか?

千畳敷のアクロポリスのような大広間を、大声をあげて叫びながら、さしつさされつ、立ち座りつ、思い思いに遊泳していた魚たちの間から、黒い大きな影が浮かび上がりました。見るとサチュロスのように立派でちょっとユーモラスな風采をした一匹の巨大なタウナギが、ゆらゆら立ち泳ぎしながら全員に静粛を求めています。

「レディーズ アンド ジェントルメン。ビー・クワイエット、プリーズ!」

それでも知らん顔して大騒ぎしているみんなの方を振り向いて、

「シー、シー、静かにするんだあ、静かにせんかあ」

と、ナマズおやじが怒鳴りました。

 

 

 

午後に雨になる

 

朝には
モコのおなかが鳴るので

腹巻させて
ソファーで添寝した

モコのおなかには毛が無いからか

晴れた空の
燕たちを見上げた

モコを置いて浜辺にでかけた

波は繰り返し打ち寄せ
雨になる

夕方
変哲先生の句を読む

あかぎれの娘ブロマイド一枚買いにけり *

 
 

* 小沢昭一「変哲 半生記」岩波書店より引用しました

 

 

 

朝になる

 

朝になった
朝には

西の山の頂が

朝霧に
隠れてる

雀の声も
ハクセキレイの声も

まだ
聴こえない

朝には
モコと散歩する

朝には
燕たちの飛ぶのをみている

川面の上を飛んでた
曲線を曳いてた

佇ちどまって
見上げた

朝になる

ひとびとも朝になる