michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

夢は第2の人生である 第47回

西暦2016年神無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

隣にいた家族がなかなか戻って来ないので、ああやっぱりなあ、と諦めていたのだが、しばらくすると、あの皆殺し殺人ゲームで殺されなかったとみえて、無事に戻ってきたので、驚いた。10/1

「あんたがたは、今何を作っているんだ?」と尋ねられたので、右手を出して「こんな指輪だよ」というと、興奮して「すぐ欲しい」と騒ぎだしたので「横高で売ってるよ」と教えてやった。10/1

村人たちは、慰安旅行に行こうと朝早く公民館に集まったが、いつまで待っても矢沢夫婦だけが来ないので、見に行くと、2人は激しく性交を続けていた。10/1

弟子を連れてスケッチに出かけたのだが、彼は誤ってお城の堀に転落してしまった。すぐに助け出そうと思ったのだが、私はその時、脳裏に浮かんだ幻影を定着しようとアトリエに引き返したために、彼は溺れ死んでしまった。10/2

もう秋か。久しぶりに大学へ行った私は、今年もまた試験はおろか授業さえ出ていないことを思い出し、これでは何年かかても卒業できないのではないか、と冷汗を流した。10/4

人生の調子を整えるべく、神様は時々私に任意の昔をもう一度生き直すように強いることがあった。万年筆にスポイトでインクを注ぎ込むようにして。10/5

一夜にして山と成った一夜山めざして、私は一晩中走った。10/6

私は持っていたCDを、雨水が溜まったところに落としてしまった。すると一緒に歩いていた長男は、自分のせいだと思いこんでいきなりその水たまりに飛び込み、ずぶぬれになりながら探そうとするので、私はその余りにもストイックな態度に深くうたれた。10/7

権謀術策を凝らして、私は、とうとうその小さな島の王になった。10/8

今年入社した私たちは、新規も中途もまじえて全員が寮に閉じ込められ、訳のわからぬ研修を受けたのだが、私は同室の若くて超美人のねいちゃんを毎晩可愛がっていたから、ちっとも文句はいわなかった。10/9

マイケル・J・フォックスの娘という人を遠くから眺めていると、日産の広報嬢が「あの人どうですか?」というので「いいですねえ」と答えると、「彼女、なかなか評判がいいんですよ」と宣うた。10/10

会社が物置に使っている部屋が、なかなかに趣があるので、私たちは、時々この部屋で寝泊まりしていた。ある日そこで端坐していたら、いきなりブルトーザーがつっ込んできて、私は大けがをした。10/11&12

私たちは、その詩人が生まれた町を訪ねて、研究発表の材料にしようと思っていたのだが、同行した女性たちの観光気分に妨げられて、何の成果も得られず引き揚げようとしたとき、上空に人力飛行機が現われた。10/13

かつて私が下宿していた家を訪ねたら、猛烈なゴミの集積の中に、乞食のようなおばはんがいて、ニヤリと不気味な笑みを浮かべたが、それはあたかも私の来訪を知っていたような表情だった。10/15

平行棒のように伸びた木の枝をつたって、上へ上へとましらのように登ってゆく2人の男を見よう見まねで真似て、木の頂上にたどり着くと、村の女たちに歓声と共に迎え入れられたが、あの2人の男は見当たらない。いったいどこへいったのか? 10/16

大好きなポネルの演出で、モザールの「フィガロ」をビデオで視聴したのだが、いつもと違って全然面白くない。途中で再生をやめてクレジットをよく見たら、ポネルではなくパネルと書いてあった。10/18

海底の穴の中で、大きな魚と隣り合わせた小さな貝の私は、懸命にいろいろお世辞をいうてその場を取り繕うとしたのだが、とうとうぱくりと喰われてしまった。10/19

逆風が吹き始めたので、「朝まだきひんがしの空を見上げれば」という歌を詠んだのだが、どうしても下の句が出てこなかった。10/20

買ってきた外付けHDDが、「早く早く私をレコーダーに取り付けてください」と枕元で囁き続けるので、結局朝まで一睡もできなかった。10/22

バスに乗っているのは荷物ばかりだったが、駅に着くと、男たちが一斉に乗り込んできて、荷物の中の朝顔に水をやるのだった。10/23

深い谷底を流れる急流に転がり落ちた私だったが、そのままどんどんどこどこ流されて、とうとう海にそそぐ緩やかな大河に至った。10/24

おばはんは、私が大事にしている英国製の高級スピーカー、ロジャースを小脇に抱えると、いきなりナタを振るってメリメリと壊し始めたので、「なんてことするんだ、このおオタンコナす!」と怒鳴りつけると、「おら、薪にしようと思っただけずら」と平然としている。10/25

そこいらに自転車や自動車を停めておくと、すぐに警察がどこかへ持って行ってしまうので、油断も隙もならない。10/26

明日はこの鎌倉石の掘削現場を離れて、江戸城の再建工事に加わると決まっているのに、私は弟子たちの衝撃と離反を懼れて、まだなにも喋ってはいなかった。10/27

前夜私は、どこかで会社の貴重な資料が入ったカバンを無くしてしまい、終電に遅れて義父の家に泊めてもらった。夜が明けると私は、義父の車に乗せてもらって会社に向かった。10/28

ヤフオクで見事に落札したのに、いつまで経っても出品者から連絡がないので焦っていると、私が落札したはずの商品が、いつのまにか再び出品されているので、いったいこれはいかなる仕儀かと、私はまたまた焦った。10/30

会社のPR誌で短歌を募集したが、誰も応募しなかったので、金メッキした安時計が段ボール一杯ぶん残ってしまったので、社員全員に配ったが、まだまだ大量に残っている。さてどうしたものか。10/31

仲間たちと登山中に遭難したオラッチは、誰かの助けを求めたが、たまたま風邪を引いていたので、ついでに風邪薬も持ってきてくれと頼んだ。やがて捜索隊が到着して、仲間は全員救助されたが、風邪薬の入荷は5日後になるというので、私だけは5日後に救助された。10/31

 

 

 

俺っちの「プアプア詩」が学術論文に引用されちまったよ

 

鈴木志郎康

 
 

おどろいた、
おどろいた。
へえ、そんなことあるのって、
おどろいた。
成城大学教授の高名康文さんの
フランス文学の
学術論文に、
俺っちが昔書いた
プアプア詩が引用されているちゃっ。
驚きだっちゃ。

教授の高名康文さんから、
論文が掲載された
東京大学仏語仏文学研究会の
「仏語仏文学研究」第49号の抜刷が、
俺っちのところ送られて来たっちゃ。
フランス中世の旅芸人詩人の
「リュトブフの仮構された『私』によるパリ」。
ぱらぱらっと開いて、
青い付箋のページを見ると、
俺っちの昔の詩「続私小説的プアプア」が引用されていたっちゃ。
おどろいたね。
おどろいたっちゃ。
フランス文学の学術論文ですよ。
ハハハ、
学術論文ですよ。

フランスの中世の詩と
日本の現代の俺っちの詩を
高名康文さんが結んでくれたってわけさ。
嬉しいね。
ウッフフ、
それがさ、
結ばれたってところってのが、
ちょっとややこしい。
詩作の上で、
「私」って存在が、
増殖し、交換可能になるって、
そこを、
高名さんは読み取ってくれたってわけさ。

リュトブフっていう詩人は
「シャンパーニュ地方から」
「評価と名誉を追い求め」
パリに学びにきた学生だったが、
「不幸に関する詩」では、
「おのれを結婚や賭博でしくじった
愚か者として、
その失敗を面白おかしく」
語ってるってこっちゃ。
そのおのれを語るってところで、
リュトブフは
「私」っていう存在を、
仮構してるって、
高名教授は考察してるっちゃ。
それで、
その「私」が
増殖し、
交換可能になるってっこっちゃ、
こっちや、こっちや。
どういうことなんじゃ。

彼の「冬の骰子賭博」って詩には、
「賭け金を作るために、
服を質に出してしまって、
裸同然で過ごしている」
憐れな自分のことを書いてるってっこっちゃ。

「神は私にはほどよく季節を恵んで下さる。
夏には黒い蝿が私を刺し、
冬には白い蝿が〔=雪〕が私を刺す。」

先ず、ここには
自虐的に語られた
「私」がいる、
ところが、その後、
「骰子の誘惑に耳を貸す者は
愚か者であるという一般論が、
主語を三人称にして
展開されている。」ってことで、
つまり、
「私」が
三人称に置き換えられたってわけじゃ。
そして更に、
「二人称の相手に対して、
〈毛織物屋でツケが効かないのなら、
両替商に行って素寒貧だと言ってみろ、
信用貸ししてもらえたらいいね。〉と、
『おまえ』の
愚かさをからかっている。
ここでの『私』は『彼』、『おまえ』と
交換可能な存在になっているということである。」
というこっちゃ。
こっちや、こっちや。

ここでの、
その「私」の
「あり方は、
1960年代の日本の
現代詩、たとえば、
鈴木志郎康の
『プアプア詩』を
連想させる。」
となって、
「続私小説的プアプア」
の引用になるってわけさ。

「走れプアプアよ
純粋もも色の足の裏をひるがえせ
今夜十一時森川商店の前を歩いていると
妻と私とプアプアの関係が夜のテーマになった
妻は私ではなく私は妻であるプアプアでありプアプアは妻であり妻はプアプアではない
妻は靴を買いプアプアは靴をぬぎ妻は大陰唇小陰唇に錠を下ろしてキョトキョトキョトキョトキョトと大気盗んで駆け込むのにプアプアは開かれたノートブックの白いパラパラ」

わあ、懐かしい。
プアプア詩にお目にかかるのは、
いや、まったく、
久しぶりざんすねえ。
確かに、
「私」が妻になったりプアプアになったりで、
「私」が増殖しているっちゃ。
この「私」ってのが詩法を求めて身悶える厄介な奴なのさ。
その「私」が詩にすがりついて、
エロスと生命力を求めて、
妻やプアプアになり変わろうとして、
失敗したってわけじゃ。

失敗、
失敗、
失敗。
人生の失敗を語ったリュトブフと
詩作の失敗を書き連ねる俺っちが、
バッサリと重なっちゃったってわけっちゃ。
失敗を切り抜けようと、
つぎつきと詩を書き、
「私」を語って、
「私」を増殖させてるってこっちゃ。
俺っちは、
ウッ、ウッ、マア。
そんで生き延びて来たってわけさ。
ワッ、ハッ、ハッ、
ハハハ、
ハハハ、
ハハハ。

 

注 括弧「」内引用は高名論文による。


リュトブフ

 

 

 

や、やよ、ゆけゆけ2度目の処女!~長田典子詩集「清潔な獣」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

 

これは著者が2010年に出したおそらく現時点では最新の詩集で、イントロ的な「蛇行」以下、全部で10篇のかなり長めの作品が収められています。

そして詩の進行具合は、「初めは処女のごとく、終りは脱兎の如し」、あるいは「一点突破全面展開」という疾風怒濤の展開となり、全編を通じて作者が自作自演する、なにか気宇壮大な物語、詩小説が眼前で物語られているような、横隔膜がうんと広がったような、なんだか愉快な気持ちになるのです。

私はこの一カ月を除いて、詩集なんかほとんど読んだことがなかったから、よく分からないけど、ふつう詩集では、「わたし」という主体が、世界の中心にデンとましましていて、その「わたし」の行動や思いの数々が、縷々るるると述べられていくわけです。

でもこの詩集では、「わたし」が作者本人を思わせる妙齢の女子であったり、うら若い乙女であったり、清潔な獣であったり、老いたる要介護の母親であったり、イケメンの男子であったり、まるで怪人20面相のように自由自在、神出鬼没に変容するのです。

「自分ファースト」ではないけれど、自分の内部に、他者が蛇のように自由に出たり入ったりする詩のメタモルフォセス自律運動に、詩の奔放さ、弾力とリベラルさというものを、つよく感じました。

シェークスピアに、All the world’s a stage,and all the men and women merely players.という有名な言葉があるそうですが、作者にとってはAll the word’s a stage,and all the men and women merely players.なのではないでしょうか。

この詩集全体が、まさにその格好の舞台になっていて、どことなく物哀しいヒロインは、自分と他人と全世界をば、なんとか光彩陸離たるものに塗り替えてやろうと、一世一代の独りカタリ芝居を見せてくれるようなおもむき。

私がいたく気に入ったのは「いったいii 」というタイトルの、マルキュウ(東急109)の洋服が大好きな貧乳ギャルの場外乱闘です。

そのめくるめくノンストップしゃべくり捲り大騒動&はちゃめちゃ行状記、この言葉と肉体の超高速ラップに、いったい誰が追従できるというのでしょうか。

私は思わず、
「や、やよ、ゆけゆけ2度目の処女!」
と、大向こうから声をかけたくなりました。

そしてその後から押し寄せる「カゲロウ」、「世界の果てでは雨が降っている」、「湖」における、大蛇がうねるような勁い構想力と、その細部を織りなす挿話の繊細さに感嘆しない読者はいないでしょう。

 

 

 

冬の夜の植物園

 

サトミ セキ

 
 

肺が凍るので深く呼吸してはだめだよ
咳をしながら
χ(カイ)はわたしの頬に触れて言った
長く青白い指が乾いている
バタン と震える大きな音がして
真後ろであたたかい部屋の鉄扉が閉まった
扉の音がしばらく反響している
暗く広いアパートの階段室
ぱちん
天井灯のスイッチを入れた
掃除をされない灯は ろうそくの炎の色
階段の壁の高いところに
両手をあげた人の形をした大きな染みがある
ゆらゆら動く わたし自身の影のように
一階へと下りてゆく
中庭に出ると
寒気が空からわたしをめがけて突き刺してくる
土が固い
だれかの足跡の形のまま 凍っていた

街灯が点き始める
午後四時
今晩は植物園に行く

一年でいちばん暗い街を歩く
植物園へ
行く時はいつもひとりだった
いつも冬至の夜に許され わたしは植物園に行く
冬至の夜にだけ開く通用口をくぐると
目の前に輝いている 光のパビリオン
わたしの為にだけ開かれている
ガラスの大温室

ここでは冬至にもミツバチが交尾をしている
メガネが曇る あたたかな緑の息を吹き掛けられたように
人間はいないのに 生き物の気配がみっしり満ちて
ブーゲンビリアが巨木に絡まる
熱帯雨林の匂いを深く呼吸する
植物の粒子が毛穴から侵入する
乾いていたのだ わたし
流れ始める水
額を汗がゆっくり伝い落ちる

掌に落ちた雫を見て
ふいに思い出した
この巨大な温室に住んでいる気象学者のことを
人には見えないらしい ちいさな彼
セラスナニの花が垂れ下がる
古木材のベンチに座って
いつも彼は ラテン語で書かれた植物図鑑を開いていた
ガラスの大温室のお天気は 彼が支配しているのだ
空0(大温室の中は地球を模しているから
空0ここは南アメリカ大陸)
高い声、くちごもるmの響きを思い出す
M、Me、Mexico
彼の声を真似てつぶやくと
突然
メキシコ産フェロカクタスの太い棘が
わたしの頬を突き刺した

したたる
血かと思えば
ああ 雨だ
雨が 温室中に降っている
食虫植物の袋が 濡れている
見上げると
ふんわりした雲が ひとつ
遠いガラス天井の下に 浮かんでいる
小さな水雫 小さな氷粒 その集合体が雲
雲の粒同士がくっついて大きくなり
浮いてられずに落ちてくる それが雨
小さな雨粒だとゆっくり
空0ダイヤモンドのような大粒は 素早く
ミツバチは雲を舐める
仙人掌も雨からできている
空0(雲はふたたび水になり
空0まわりまわって君をかたちづくるのだ
空0体の九割はH2Oだからね)

内側をぬらすもの
外側にしたたるもの

午前零時に温室の灯は一斉に消えた
今年はちいさな彼に会えなかった
通用口の目立たない扉をあけて 真夜中の街へ出る
吐く息が六角形の結晶になって
溶けない灰色の雪の上に降り積もる
きらきら きらきら
わたしの全身は 翠色の凍れる雲になって
ゆっくり
一歩ずつ
春を待つχの部屋にもどっていく

 

 

 

甘栗の窪み

 

萩原健次郎

 

 

空0泡吹くか。驚いた。眼前の幼い老女が泡吹いた。幼
いと書いたのは、正しい。まるで子どもだ。ニッキ水
が欲しいと泣き喚き、手足を両生類のようにばたつか
せた。それは赦せる。ひととき瞬時、逝っていたのだ
ろう。身の部分、半身が彼岸へと入神し、昇天し、半
身だけが、目に見えてぷよぷよし、あとの半身は、硬
直していた。
空0体内から滲み出た液体は、泡小僧となって、微小な
天使となり、飛び交っている。蝿だ。よろしい、蝿
だ。数ミリの体長だが、緑金のハレーションは、綺麗
やなあと、そのときかたわらの爺が呟いた。爺も昇天
していた。全身、昇っていた。

空0数世紀前のことが、水で書かれている。透明な文字
は見えない。柔らかな和紙の、筆が辿った後が皺にな
っている。皺の谷筋を追えば、文字は判読できる。

空0わたしは さびてしまった ありの いしゅだ
空0せいかくには、あしの なえた あしゅだ

空0はりつけだ ころがりおちたものは
空0くりだ

空0た(せ)かい とおい そらに きのみをなげろ

空0甘栗に群がる、蟻の亜種。彼(あ)の世のことだとして
も、蠱惑。亜種とはどんな形をしているのだろうか。
灰色の体躯。金属の尖端を鋭く磨き上げた、脚。
空0嫌だ嫌だと言う、蟻の亜種を岩の窪みにできた、雨

水溜りに捕獲しようとする。らららと言いながら。そ
こで泳いでいなさいと。匕首のような脚は、遊泳に適
さないだろうなどと思いながら、放つ。栗、空から還
ってきた。甘栗、溶ける。蝿の緑金溶ける。雨は、清
浄ではない。有害物質も混ざっている。寂々、降る。溜
まる。
空0文書の体裁を思い出す。

空0恋ふひとの死んだ半身甘辛く

空空空空空空空空空空神の艶書の水茎の皺

空0と付ける。

空0わたしも、幼稚園に通っていた。そのころの恋心を
眼中で反芻していた。
空0遠泳していた。

 

空空空空空空空空空空空空空空空空連作「音の羽」のうち

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 20

 

貨幣も
焦げるんだろう

貨幣も燃やせば燃えるんだろう

新丸子の
夜道を帰ってきた

夜道では
老いた姉妹のいるウィンドウのまえで

佇ちどまる

それから
黄色い花のまえで佇ちどまる

過ぎ去るものと
佇ちどまるものと

それを包むものが世界にはある

 

 

 

長尾高弘著「頭の名前」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

かつて鎌倉の青砥橋という田舎に「青砥」という地元の主婦が運営している精進料理の店があって、贔屓にしていた。

それは安くて美味しい料理もさることながら、部屋の壁に私の大好きな画家、熊谷守一の書が掛かっていたからだった。

良寛に似ているようで、もっと純朴な「五風十雨」を飽かず眺めていると、お店の人が、守一95歳の書「一去一来」も見せてくださった。

最晩年の枯れた書体が、背景の軸物の薄茶色や床に活けられた秋海棠と映えて、まことに情趣深いものがあった。

熊谷守一の猫の絵などは、誰が見たって本当に素晴らしい味わいを持っていて、それこそわが国を代表する最高の芸術家といえようが、それを支えているのは彼の中の卓抜な観察者であった。

あるとき彼は、地面をうろちょろしている蟻を丸一日じっと見つめていたが、「長い間疑問に思っていたが、とうとう分かった。蟻は左の二番目の足から歩き始めるんだね」と語ったそうである。

この小さな詩集に収められている16の作品は、どれも比較的短く、私が知る作者の風貌のように、表現は質朴にして平明そのものである。そしてその多くは日常の茶飯事を主題にしている。

しかしそのいずれの中にも、私は熊谷守一流のアリへの視線を感じる。

身近な素材を腰を折って熟視し、そこからささやかな、しかし自分にとってはとても大切な知見をそっと引き出す、作者独自の方法とその見事な達成を、私はあきらかに認めたのである。

 

 

 

濃紺のセーターの闇はね、濃かったっちゃ。

 

鈴木志郎康

 
 

みなさんはそれぞれ、
異なった日々を過ごしているんだよね。
俺っちはこの冬、
セーターを着て過ごしているっちゃ。

今日はね。
濃紺のセーターを着たってわけっちゃ。
左の厚ぼったい袖に左手を通し、
右の厚ぼったい袖に右手を通し、
もこもこの毛編みの中に、
頭を潜らせたっちゃ。
グウーン、
潜り抜けた一瞬の闇は、
濃かったっちゃ。
赤いセーターとは違うのよ。
濃い闇だっちゃ。
顔を出したら、
いつもの俺っちの部屋だったが、
眺めがちょっとだけ
違っていたっちゃ。
違っていたっちゃ。
ズンズン、
グウーン、
グウーン。

この違いはなんじぁね。
ああ、普段はそれが見えないっちゃ。
そうして一瞬一日と年を重ねちゃった。
ズンズン、
グウーン、
グウーン。

 

 

 

高橋啓介著「なんとかして」を読んで歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

大人になっても子供の心を失わない人がいるなどと世間ではよくいいますが、そんな人実際にはなかなかいませんよね。少なくとも私が知る限りでは。

しかしこの本の最初の2つの詩を読んだだけで、このタカハシさんという人は、もしかするとそういう稀有な魂の持主ではないかしら、と誰もが思うのではないかしら。

「疑似体験」は、次のような3行からはじまります。

 

きれいなきみをおもいながらベッドにはいる
つかれたからだにかわがながれ
きりのおもいにひかりがさす

 

1日の闇雲で五里霧中の労働にくたぶれた若きリーマンに、ようやっとやすらぎの夜が訪れた、というわけです。

ちょっと話が飛びますが、いま京都の伏見でお医者さんをやっている私の弟は、少年時代に、「兄ちゃん、わいらあ毎晩きょうはどんな夢を見れるんかと思て、楽しうてしょうがない」などと申しておりましたが、まあそんなところでしょうか。

で、次の3行がこうなります。

 

ぼくの×××は
△△△することで
それをあらわし
きみの○○○○はどうだ

 

どうですか。分かりやすいパズルですね。
というか、分かり過ぎるほど単刀直入な突っ込みが、作者の人世への明朗闊達な楽天性をおのずから表明しているようです。

以下、好きな女の人をしたなめずりしながら料理していくタカハシさんの「疑似体験」が続いて、あっという間に終わってしまうまるで童話のような短い詩ですが、じつに率直で、真っ正直で、健康的でしかも純乎としている。
私はお酒は飲めませんが、ウイスキーでいうとピュアモルトというところかしら。

ともかくこの詩集は、冒頭からこんな感じで始まるのですが、2番目の「木になるたのしみ」では、タカハシさんは、なんと本当に葉緑素になり、樹木になりきってしまうのです。

世の中にこれに近い人はいますが、絶対にこんな人はいない、と断言できます。
誰か、なんとかしてあげてください。

そうして驚いたことに、私はそんなタカハシさんの、ちょっとした知り合いなんです。
どうだ、参ったか。
ザマミロ。

 

 

 

ビリジアンを探して

 

芦田みゆき

 
 

2017.1.29
深夜、目をつむると、見知らぬ光景が次々を現われ、あたしは息苦しくて眠れない。その光景は、闇から湧き上がり、強烈な光となって眼前に広がる。そして消滅し、また、新たな光景が湧き上がる。
街のあちこちは、今日訪れた場所にとてもよく似ているが、よく見ると何もかもが異なっていて、細部は欠落している。記憶を切り刻み、失われた部分を想像で編み上げた新しい街。そこで、ビリジアンは全体に宿る。