michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

致 本來無一物野郎
本来無一物野郎に寄せて

 

Sanmu CHEN / 陳式森

 
 

雲很遠,海岸線
準備讀詩的人
站在站前的廣場,等
人群來去,而我
岩塊的流域,再來
一節。空無
物,同時打開每一
無。思緒,我響應風
流水,響應Bach
激流中的磐石。
一和所有,都先於我
而我只是復述。

 
 西貢,五月的雨中

 
    .
 

雲很遠,海岸線
 雲の遙かな、海岸線に
準備讀詩的人
 詩を読もうとしている人
站在站前的廣場,等
 駅前広場に立って、
人群來去,而我     
 人々の往来を待ち受けている、そして私は、
岩塊的流域,再來
 岩の流域から、
一節。空無
 もうちょっといってみるか。すっからかんな
物,同時打開每一
 もの、それを同時に開いていけばまたまた
無。思緒,我響應風  
 無だ。思うに、私は風と響き合い、
流水,響應Bach
 流れる水と、Bach この 
激流中的磐石。
 激流にも流されぬ巨石と響き合う。
一和所有,都先於我
 一そしてすべて、みんな私に先立つもので
而我只是復述。
 ただ私は繰り返して述べるのみだ。

 
西貢,五月的雨中
 サイクンにて、五月の雨の中で

 
 

日本語訳:ぐるーぷ・とりつ

 
 

 

 

 

まっしぐら

 

道 ケージ

 
 

まっしぐら
まっしぐらだ
しぐらって何だ
なんだなんだ

くじらかな
くじらのしんせき
しぐれてまっしぐら
海雪分けいる
よけいに白い

らくだだろ くろらくだ
だらくしたんだ
ぐらぐらしてさ
こぶ、重いってさ

グラだよグラだクリグラだ
でっかいケーキを落としてさ
まっ、しんでしまったという話だな

 

 

 

声を漕ぐ

 

野上麻衣

 
 

ぷかぷかと浮かぶ
雲みたいな声は
本人ではなく
だれかのいるほうから
聞こえてきた

(声はその人が持っていなかった)

まず椅子を用意する
声が座れるように
ぜんぶで8つ
どちらかあまってしまっても
かさなってゆくから
心配ない

(声は椅子に座りたがらない)

それから
舟をくみ立てる
泡はからだに沿って音をたてる
そのかたちをたどり
水面を漕いでゆくことにした

(声は舟に乗ってくれるだろうか)

2メートル先
水の中で声がする

ぷぅーと吹かれたラッパのように
からだがふるえる
ずっと手のひらにあった
ひとの、声

 

 

 

食欲もなくなるコラール *

 

さとう三千魚

 
 

夕方の鐘が鳴った

西の光が
明るい

障子には
白木蓮の葉を青くひろげて

葉の影が
揺れている

朝には
雨はあがり

女は灰色の
車で出掛けていった

モコと
ふたり

見送った

雲が流れていた
サラダを馬のように食べた

それから
一日

冬の毛布を洗った
ベランダの物干しに掛けた

ディキンスンの詩をコピーした
たくさんコピーした

どこにも出掛けなかった
高橋悠治のピアノを聴いていた

風が吹いていた
雲が流れていた

 
 

* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代」”スポーツとあそび” より

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

文字をめぐる形而上的現象学

 

駿河昌樹

 
 

本を読むことや
なにか書きつけることについて
もっとも核心的なことを
たいていの人はわかっていない

文字は
否応なしに
人を無私にする

なにかを読んでいる人というのは
名前や履歴や肉体のある誰それではすでになく
読むということの発生場や瞬間でしかない

書いている人も同様で
おそろしいほど抽象的で
非物質的な現象そのものとなっている

文字をめぐる形而上的現象学こそ
まず考究されるべきで
いわゆる文芸的鑑賞や批評は
二の次三の次にされねばならない

文芸形而上学者の
モーリス・ブランショのような人が
いくらも必要とされる所以である

 

 

 

逆さ虹

 

工藤冬里

 
 

難波中タピオカ詰んでアタオカがッ

引き換えの飛行機の低空

コークのひとが出したリックさんの新作がDon’t Think と言うんだけどtwiceが付かないからそもそもくよくよするのは考えるからであって考えなければこの悩みもないんじゃないか、というメッセージと受け取った。失敗して苦しんでいる皆さん、これを聞いて考えないで生きよう。シュール越えだなこれは。

ギリギリまで他のことで頭を満たしておき、疲労困憊して気絶するように寝ないと頭を襲われてしまう。

decadeの特色を前世紀から辿ってみると、2020年代は真の意味でリアルタイムの時代なのではないかと思う。つまりすべての制作が今の言葉でなされていっていることを量として引き付けて実感しながら急いで片をつけていく。漫若勇咲「『私のはなし 部落のはなし』の話」を読んでそう思った。

なんというか、すべてが嘘くさいとか言ってる場合じゃなくて、ほんとうしかなくて、たくさんの風船があるように思うけれどもそれは錯覚で、一つしかない中の、その密度で決まる、みたいな。その力を重力とはもはや言わない、とか。

目玉に映った風景はまだ選択されていない

家ではない家が建ち並んでいるこうした状況にあって
すべて倒壊するという言い方もまた

シェバのジュヌスだな
https://youtu.be/80_ydUz6CI0

其処此処にその木の形に藤の花
花のない体も藤に被われり
藤の花被って木々に形あり
娘役界面として着る藤の花
体のない藤が着物となっている
山々は娘となった藤だらけ
形から更に垂れたるwisteria
藤の花着てしまった木の末路 哉
着るもののない始まりにwisteria
wisteria未来にも在り逆さ虹
形なき未来を被えwisteria
wisteria恐怖と希望は垂れ下がる
藤棚を管理するノイズツイート
mumble bee hawkwindの振動で
蜂は房藤空木とだけ呟く

何が揺れ何が揺れなかったか分かれ今日の神戸の逆向きの虹

これな

空が白くて息ができない

avatarも靨と言ひつ笑ふのはavatarとしての月のあたくし



凶暴な
猪が出た
と放送
あり散歩止め
られたので寝る

猪は
うちの畑で
ごろごろし
てたと隣の
人が言ってた

 

 

 

#poetry #rock musician