芦田みゆき
2018年明けましておめでとうございます。
新しい年になりました。
元日は冷たい風やたまに降るしとしとした雨を家の窓から眺めていました。
近くに有名な神社があるためか、朝も早くからぞろぞろと人が同じ方向へ歩いていました。
わたしはというと、あいにく体調をくずしてしまったので、初詣や初売りにも行かず暖かい部屋でぬくぬくと過ごしておりました。
お正月、みなさんはどのように過ごしたのでしょうか。
わたしが思い出すお正月はまだおじいちゃんもおばあちゃんも元気だった頃のお正月。
それを少しここに書き留めておきたいと思います。
父親と祖父は人を呼ぶのが好きでした。
12月の末には必ずお餅つきをしていました。
従兄弟家族はもちろんのこと、その友達、近所の人もたくさん来ていました。
機械ではなく本物の杵と臼でつくのです。
それは想像以上に大変で特に男の人がメインでつきます。
20臼くらいを1日がかりでつくのです。
つきたてのおもちはやわらかく、きな粉、あんこ、大根おろしのいずれかにつけて食べます。
保存用のお餅はお鏡さん用の丸いもの、きれいに角を作った四角のものをそれぞれ上手に作ります。
お餅とお餅がくっつかないように専用の粉を端にはつけます。
それを各家庭で焼き餅やお雑煮にするのですがそのおいしいこと。
市販のものはもう食べられません。
正月三ヶ日のいずれかには従兄弟家族たちと家ですき焼きをしました。
お正月だからと特別に買った少し豪華な牛肉。
ネギや椎茸、豆腐とともにぐつぐつと煮込みます。
キラキラしている溶いた卵につけて口に運ぶまでのどきどきした時間は幸福な瞬間でした。
生卵はあまり好きではなかったけれどすき焼きだけは特別でした。
最後に手伝わされる洗い物でさえもあまり嫌だとは感じなかったのはすき焼きの魔力でしょうか。
今はもうこの行事はなくなってしまいました。
あの頃から考えれば驚くほどみんな年を重ねました。
戦隊ものごっこで遊んでくれた従兄弟のお兄ちゃんは結婚して子供が産まれ家を建てています。
あんなにパワフルだった叔母さんと叔父さんは今では家にある小さな畑で家庭菜園をしながら静かに生きています。
妹は仕事の関係で遠くに住んでいます。
年に2、3回しか帰ってきません。
弟はインターンシップや就職活動でとても忙しそうです。
あのころ飼っていた犬は2代目の犬になりました。
みんなで一緒に食事をするためのあの大きなテーブルは部屋の端で寂しそうに収まっています。
きっともうこのテーブルが活躍する日はないでしょう。
いつかゴミとして処分される日が来るのかもしれません。
みんなあのころよりも随分年を重ねて自由に生きています。
今まで続いていたことがなくなることに違和感は感じたけれど、不思議と寂しさは感じませんでした。
自然と疎遠になること、自然とあったものが消えていくこと、それは悪いことではないような気がします。
今年もどうかいい一年でありますように。
浜風文庫では2017年11月11日〜12日に、
「蓼科高原ペンションサンセット」にて「詩の合宿」を行いました。
さとうの発案で参加者各自にて自身の詩と他者の好きな詩を各1編を持ち寄り、
各自の声で朗読を行うこと、
また、その後に、
各自がタイトルを書いた紙をくじ引きしてそのタイトルで15分以内に即興詩を書くこと、
そのような詩を相対化しつつ再発見するための遊びのような合宿を行いました。
参加者は、以下の4名です。
長田典子
薦田 愛
根石吉久
さとう三千魚
会場は浜風文庫に毎月、写真作品を掲載させていただいている狩野雅之さんの経営されている「蓼科高原ペンションサンセット」でした。
大変に、美味しい料理と自由で快適な空間を提供いただきました。
大変に、ありがとうございました。
今回は、合宿の一部である即興詩を公開させていただきます。
(文責 さとう三千魚)
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尖る麦茶、ビシ、ビシ
尖る蜜柑、ピチ、ピチ
尖る骨、ガラ、ガラ
平目の目は上を向いているからね
だけど骨は尖っているんだ
知らなかったね
平目はおべんちゃら言いながら
ほんとは尖っているんだ
尖れ、尖れ、尖れ
平目よ、尖れ!
おべんちゃら言うな、尖れ!
いや、尖るな。
俺の箸が捌いて骨を数える
骨の数だけ空を突き刺す!
麦茶を突き刺す!
蜜柑を突き刺す!
平目よ、
雨の中に立ってろ!
※長田典子さんには即興詩の制作前に以下の詩を朗読されました。
長田典子さんの詩「世界の果てでは雨が降っている」
鈴木志郎康さんの詩「パン・バス・老婆」
朝いちばんの光をつかまえるのは俺だ
ぬれやまない岩肌をわずかにあたためる
月の光をつかまえるのは
我先にと走りだす低俗なふるまいなど
しない俺の尻の色をみるがいい
みえないものに価値をおく輩も近ごろ
ふえているときくが
俺はゆるすことができない断じて
そっとふれてくるお前が誰だか知って
はいるがふりかえりはせずに
くらがりの扉をあけにゆく
ひとあしごとに
たちのぼる
くちはてた木の実のにおい
世界はめくれてゆく
俺のてのひらによって
紅あかと腫れあがる
初々しさにみちて
※薦田 愛さんには即興詩の制作前に以下の詩を朗読されました。
薦田 愛さんの詩「しまなみ、そして川口」
河津聖恵さんの詩「龍神」
ビーナスライン
雨の中に
光って
どこへ行ったか
南の空が明るく
西の空は暗かった
雨の中に
立っている女だった
立ってろと
サトウさんが言った
※根石吉久さんには即興詩の制作前に以下の詩を朗読されました。
根石吉久さんの詩「ぶー」
石垣りんさんの詩「海とりんごと」
明け方には
嵐だった
朝になったら晴れてしまった
それから
車のガソリンを満タンにした
52号を走ってきた
八ヶ岳を見た
下着をせんたくした
※さとう三千魚は即興詩の制作前に以下の詩を朗読しました。
さとう三千魚の詩「past 過去の」
渡辺 洋さんの詩「生きる」
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あなたは2%ぐらいしか、私に見せてくれないのね
と、いつか言った人が 何だか今にも死にそうだ
深夜 窓のない暴走車に乗っている
スピードも落とさずに曲がるたび
母の体が砂のように ザザー ザザーと スライドする
川っぷちに行きますから
同乗する男性がマスク越しにこっそり囁き
まもなく車は ガタンガタンガタンと、何か凸凹の道に入って停まった
エンジン音が止み 静かになった
外に出ると 知らない土手下の荒れ地である
星がキラキラと輝いている
私は母をかき集め
真冬の風にしんみりと守られながら
マスクの男たちに助けられながら ここに 母を捨てた
私の嘘がキラキラと輝いて 母を照らす
母はとてもきれいだった
寝台の上に残っていたと、運転手が私に砂粒を渡してきて
車はあっという間に行ってしまった
数えると 2%ぐらいの母である
一緒に歩いて家まで帰る
まるで昨日までと同じ 母のように
まるで昨日までと同じ 私のように
(2017.12.18 江戸川病院救急センター処置室前で)
学期の最後の授業はパーティになり
話がひとめぐりすると
PCを起ち上げユーチューブで
それぞれの故郷の民謡や歌謡曲を聴きあうことになった
カザフスタン、トルコ、タイランド、コリア、ジャパン、チャイナ、サウジアラビア…
このクラスの学生たちは
全員アジア出身なのに
くすくす笑うのだ
はじめて出会った旋律の
ふしぎさ に 居心地のわるさ に
インターネットで瞬時に世界中に発信されるポップスや
ヨーロッパのクラッシック音楽には慣れているのに
ふかくじつな
波
揺れ
オーロラ
よせては おしかえす 旋律
馬を食べます
犬を食べます
鯨を食べます
豚を食べます食べません
牛を食べます食べません
鶏を食べます
蛇を食べます
今ここで ピザやポテトチップスや野菜サラダなど
それぞれの神に赦されたものを食べて 飲んで
ニューヨーク流のパーティを楽しんでいます
ほんとうにつらい時はきっと
故郷の味を食べたくなるのでしょう
わたしはジャパンレストランに行って鍋焼きうどんを食べて心を温めます
食べるだけで励まされるのです
聴きたくなるでしょう故郷のこぶしのきいた音楽を
わたしは昭和の時代の歌謡曲を聞いて涙ぐんでしまうのです
聴くだけで魂が揺さぶられます
波
オーロラ
揺れのある
ふかくじつな 旋律
宇宙の羊水の流れにのって
西へ東へ南へ北へ
意識は流れて浮遊する
混じって 絡まって 枝となって分かれ
分かれてしまって
それぞれの 空で 揺れる
また混じって 絡まって 枝となり………
そうやって
枝の先に立っているから尖るのでしょう
くすくす笑うのでしょう
幹に降りて根っこまで遠くいにしえまで覗き込むことができたなら
居心地の悪さも受け入れられるでしょうか
馬を食べます
犬を食べます
鯨を食べます
豚を食べます食べません
牛を食べます食べません
鶏を食べます
蛇を食べます
野蛮でしょうか
もってのほか、でしょうか
この味がわからないとは気の毒に、と思うでしょうか
どの動物も知能は高いのです
いにしえ人は動物を大切に頂戴しました
余った毛皮は
衣服や靴として
歯や骨はアクセサリーや楽器として役立てました
わたしはネパールでヤクの歯と骨で作られたネックレスを買いました
今もジャパンの抽斗に大切にしまってあります
赤いセーターの上に着けるのが好きです
どんな動物も
人のように知能は高いのです
いにしえ人はそれをありがたく頂戴しました
21世紀のマンハッタン
窓の外は四六時中クラクションが鳴り響いています
ピザやポテトチップスや野菜サラダなど
それぞれの神に赦されたものを食べて 飲んで
わたしたちはニューヨーク流のパーティーを楽しんでいます
ユーチューブでそれぞれの国の民謡や歌謡曲を聴き合います
カザフスタン、トルコ、タイランド、コリア、ジャパン、チャイナ、
サウジアラビア……
似ているようで似ていない
波のようなうねりは
やはり似ているのですどこかで聞いたことがあると感じます
似ているから違うところが気になって居心地が悪いのではないでしょうか
似ているとかえってわからなくなるつらくなることがあるのです
それでわたしはコリアンと喧嘩をしてしまいました
いにしえ人は唄ったでしょう
獲物をしとめ家路につくとき
収穫のとき食するとき
それぞれの枝の先から分かれ目まで降りて行って幹を降りて根まで行って
遠くいにしえまで覗き込むと
400万年くらい前の子孫は
アフリカにいたんですね
ぜんいん
そこから始まったのだから
枝の先っぽで
こうやって
自分たちの存在の遠さに驚きたい
遠い存在の出会いを喜びたい
何百万年の旅の果てで
あした目覚めるために食べる
たとえば馬
たとえば犬
たとえば牛
たとえば豚
たとえば鯨
たとえば鶏
たとえば蛇
を食べることは
野蛮ではありません
助けられて生きていく
ジャパンでは小学校の給食によく鯨肉が出ました
嫌いだったけど一生懸命食べました
いにしえ人は唄ったでしょう
少しずつ違うゆらゆらゆれる節のある歌を唄ったでしょう
うなるような歌唱法になるのは魂の輝きと強さでしょう
人の感情って実はさほど変わらないのではないのでしょうか
狩りに出かけては襲われて人は動物に命を奪われたでしょうそれは与えたのです
荒れた海で人は命を海に奪われたでしょうそれは与えたのです
与え与えられているのです同じ生きとし生けるものとして
ある日マンハッタンのマーケットに安くて大量の肉が並んでいるのを見て
とつぜん吐き気がして肉類を食べたくなくなりました
嫌悪するようになりましたベジタリアンになりました
そういうとなんだか文化人みたいだけど
ただ肉を食べる自分を気持ち悪いと思ってしまっただけなのです
3か月ぐらい過ぎたら身体に力が入らなくなり体力不足が身に沁みました
肉をまた食べ始めました吐き気はしませんでした
美味しいと思いました
ありがたく頂戴することにしました
だけどわたしはどうやって
動物たちにお返しをしたらいいのだろうと思いました
パーティで
話がひとめぐりすると
ユーチューブで
それぞれの国の懐かしい音楽を披露しあうカラオケをする
枝の先っぽから遠い人を見ている近い肌を感じている
居心地が悪いのにどこかで聞いたことがあると感じている
実はきのう夢を見ました
茶色い洞窟の中にいました袋の中のような場所でした
円筒形のトンネルを走っていくと明るい出口が見えました
舗装されていない赤い道をいっしんに走りました
旋律がみぞおちに
どどろく
胃袋にひびく
だけどわたしはどうやって肉のお返しをしたらいいのでしょうか
とどろいてくる旋律ユーチューブからの
オーロラ
波
ゆらゆら
ほんとうは野蛮なのではないでしょうか
いまユーチューブを聞いているわたしは
いにしえ人からは遠すぎて
どうやって肉のお返しをしたらいいのかわからないのです
ほんとうは野蛮なのではないでしょうか
ゆらゆら
ゆら
ゆら
ここに穴がある
泣いてばかりで
いつもそこに
ナミダを落としてばかり
ただそれしか
術を知らなくて
でもさすがに
近ごろ気付いた
落ちたナミダは
穴にたまり
時には溢れ出すことも
あったけど
必ずいつかは干上がり
そして穴は
埋まらないまま
そこにある
穴を埋めたいのなら
崩すしかないのかもしれない
なにを
どうやって
もう、流すナミダも
阿呆らしい
かと言って
一向に枯れないなにかを
持て余しながら
まだ
ナミダでなにかが埋まるものと
幻想を抱くことは
許されますか
穴は穴のままでいることは
許されますか
ひとを送るときに
しないと決めていることをするひとに
さよならをいう
けれども
あなたには言えないね
少しずつずれて
少しずつ噛み合わない日々
歯がゆさに落ち着かなくなるひとを
見ながら
今年見送った大切な友に
こころで話す
こころで話すのをゆるされるのは
あなたのような存在なのだろうか
エゴでしかなくとも
すがって泣きたくなるときに
離れていく目の前のひとのことを
こころで
相談しながら
おもう
いつかいくどこかで
輝くその笑顔に安らぎを
15年ほど前に欠けてしまった前歯に詰め物をしている。
先っぽだけなので見た目にはそんなに目立たないのだけれど、やっぱり気になるので詰め物をしている。
その詰め物が定期的に取れてしまうので、歯医者にその都度行っている。
先日、生まれた時からずっと通っていた歯医者さんが引退してしまった。
仕方なく新しい歯医者を探してそこに行くようになったのだが、未知の空間へ足を踏み込むのは勇気がいる。
椅子の上でわたしのまぬけな顔をのぞかれる。
知らない人にまじまじと見られる。
こんな恥ずかしいことはない。
年配の歯科衛生士さんにライトで照らされた口の中を すみからすみまでチェックされる。
あーーー帰りたい。
そんなわたしの歯医者デビューはなんとか無事に終わった。
慣れるまでには時間がかかりそうだけれど、当分ここに通うつもりだ。
社会福祉協議会という組織がある。
そこが募集している勉強を教えるボランティアに参加している。
月に数回程度、小学生や中学生の子と学校の宿題や参考書の問題を一緒に解いている。
自分も学生に戻ったような気がして思った以上に楽しい。
それにやっぱり人の役にたてるのはうれしい。
自分のことより誰かの笑顔を見るために生きていけたらなと思うようになったのはいつからだろう。
そんなに遠い昔ではないような気がする。
にこにこと笑顔でわたしの参加を受け入れてくれたスタッフの方に感謝している。
あるとき、いろんな種類の果物のジュースが差し入れにと置かれていた。
そこには「お一人様3缶までどうぞ」ときれいな字で書かれていた。
わたしは甘いものがそんなに得意ではないので、できるだけ甘そうでないものを3缶とも選んだ。
子供たちも思い思いのものを選んでいた。
その中に「お姉ちゃんが桃が好きだから桃にしよう。」と言って桃の缶を手にしている子がいた。
はっとさせられた。
その年で誰かのために無意識に物事を考える姿に脱帽した。
彼女のえくぼができたその笑顔はきらきらと輝いていた。
これといった趣味のないわた しだけれど、唯一保育園のころからずっと好きなものがある。
それは活字をおうことだ。
読書が大好きなのだ。
学生のころ、テスト明けは友達と買い物に行くことと同じくらい図書館にこもることが約束になっていた。
読みたい本がありすぎて時間が足りない。
その中で最近興味をもっているのが作家綿矢りささんの作品だ。
史上最年少で芥川賞をとった作品「蹴りたい背中」は圧巻だ。
生きにくい中学校のクラスの様子が丁寧に描かれている。
出過ぎる杭は打たれてしまうのか。
そんなこと気にせず一匹狼で生きている人間は負けなのか。
ただなんとなく過ぎていく毎日に妥協して過ごすのか。
自分が誰かのターゲットになら ないようにただびくびくして生きていくのか。
何が正しいのか今でもわからないけれど、そんな世界を視覚化させてくれるこの作品が純粋に好きだ。
闇の中からすくいあげたような文章を書く人が好き。
ただ生きているだけでは表面に出てこない感情や行動を文字にしてくれる人が好き。
メールで文章の最後に必ず「。」をつけてくれる人が好き。
一人称が「僕」の人が好き。
文学に救われてきました。
これからもきっとそうです。