芦田みゆき
記憶しているのは
白くおおきな部屋
光は青白く
まっすぐに
ゆるやかに
あたしを刺す
赤ん坊のあたしは
両手両足をばたつかせ
懸命にことばを発するが
誰かがひゅうひゅうと吸い上げ
あとかたもなく
消えてなくなってしまった
ひりひりと疵が痛むとき、夜のデパートの屋上へとむかう。
エレベーターの扉があき、
過剰な光が流れる廊下を渡り、
重いガラスの扉を押すと、
まだらな闇が降りてくる。
あたしは闇をまとって、植物が売られているコーナーに行く。
工事が始まっている。
たくさんの植木鉢や、あいだに置かれた石像たちは端に片づけられてしまった。
代わりに白い布を被った何かがあちこちに置かれている。
あたしは自販機でコーンスープを買って、建物に沿って並べられたベンチに腰掛ける。
目を閉じると夏の喧騒がよみがえる。
あたしは生まれてはじめてデモに行った。とけて消えてしまいそうな暑い夜。国会の脇にある木では蝉が鳴き、子どもたちは小さなライトを持ってカブトムシをつかまえていた。みせて?と声をかけると、あの木にいたの、と後ろの木を指さす。この、子どもたちの未来を守るために、あたしは来た。前に進んでいくと、赤ちゃんを背負い、荷物とプラカードを持った若いお母さんがコールを叫んでいる。あたしは人人の手ばかりを見ていた。どの手も白く美しかった。
目を開けると、闇が濃くなっている
さぁ、帰ろうか、と隣のベンチをみると、一冊の本が置き忘れられている。手に取って開いてみると、とても古いロシア語の参考書だった。あたしは本を元のベンチに立てかけて、エレベーターへ向かった。
よく知った道だった。
だから、あの日のあたしは地図を持っていない。
日差しは強く、道は白く、幾度も同じ場所を通過するたびに、あたしはあたし自身をあちこちに置いてきているような気がした。
魅惑する景観。揺らぐ花、異国の雑貨、まだ入ったことのないレストラン。
あぁここだと角を曲がると、あるのは光ばかりだ。
よく知ったはずの光景は白く塗りつぶされ、ゆるゆると流れはじめる。
そして次第に、あたし自身も白くなってゆく。
あたしは思い描く。
この道の先にたたずむ、見慣れた店の入り口。珈琲の香り。店内の喧騒。裏庭の立像たち。
いつまでたってもそこへの入り口はみつからず、
歩きながらあちこちに置いてきた無数のあたしは、
迷子に気がつくのだ。
奇妙な体験をした。
あたしはハーフ判カメラ-OLYMPUS-PEN-を持って、電車に乗り、知らない土地に降り立った。
止むかと思っていた雨は、さらに激しくなり、濡れて黒光りした町は湿気に満ちていた。
あたしと
風景と
フィルムに映し出されるはずの光景
すべては取り乱したかのような雨に打ちつけられ、塗りつぶされ、やがて、溶けていった。
しかも溶けた町は魅惑的な姿で、あたしを手招きするのだ。
おいで、ひとつになろうよ。
あたしは駆け寄り、いったい何が映っているのか、いないのか、暗すぎるのか、明るすぎるのか、ぶれているのか、静止しているのか、何もわからないまま、夢中でシャッターを切った。
カメラは、壊れてしまった。
深夜、あたしは眠れない。
目をつむると、写真が次々と降りてくる。
まだ見ぬ無数の写真が、現れては消え、現れては消える。
シャッターのリズムに合わせて重ねられたり、散ったりを繰り返す平板な写真たち。
失われた界面。
波立つ町。
あたしは、溶けた町に溺れていった。