町の定食屋さん

 

みわ はるか

 
 

ご無沙汰しております。すっかり本格的な冬を迎えて、こちらはどかっとした雪が何度か降りました。
ちらちらと降る雪はなんだか可愛らしいですが、山のように降る雪には少し嫌気がさしてしまいます。

わたしの住む町は以前にも何度かお伝えしたかもしれませんがとても田舎で、一面に山や田んぼ、お茶畑が広がっています。そんな中にもいくつかご飯屋さんがあって、わたしの大好きな場所があります。今日は少しだけ紹介したいと思います。

メイン道路から外れたところにあるそのお店は深い緑を基調とした外観で、注意して見ていないと通り越してしまうほど背景に馴染んでいます。決して派手ではなくひっそりとたたずんでます。そこに初めて入ったきっかけは通勤の途中の道にあったからというなんともない理由でした。よく見るとそこの駐車場はお客さんの車でいっぱいでした。恐る恐る扉を開けてみると、天井は高く窓も適度にあり日の光がいい感じでさしこんでいます。木材で作られた4人掛のテーブルと椅子、カウンター、座敷にテーブルがそれぞれいくつかありゆったりと時間を過ごせるつくり。お店の至るところにその季節の植物の写真、地元で採れる野菜やお菓子の陳列、手作りの飾り物。たくさん飾ってあるのに各々の自己主張が強く
ないせいかほどよいかんじでそこに在るのです。なんとも言えない幸福な気分になれます。

メニューは豊富で定食や飲み物の種類は20を越えています。魚や揚げ物お野菜と好き嫌いが多い人でも必ず欲しいものを食べられます。モーニングもあり1日中楽しめます。始めに何を頼んだかはすっかり忘れてしまいましたがその味に感動したことは今でもはっきりと覚えています。味噌汁はよく出汁がとってあり、小皿の煮物を優しい味で、もちろんメインも素晴らしく美味しい。店内がお客さんでたくさんなのもうなずけます。店員さんは皆黒のエプロンをつけていて若い人から年配の人まで生き生きと働いてみえます。土日だけ顔を見る若い男の子が少し恥ずかしそうにお膳を運ぶ姿は微笑ましい。家族経営なのかな、親族かなと勝手に想像を巡らせています。

すっかり虜になったわたしはここ数年、月に数回仕事帰りに寄るようになりました。メニューはほぼ制覇したのではないかなと思っています。つい先日はお会計の際に「いつもありがとうございます。」と優しい笑顔で声をかけていただき温かい気持ちになりました。こちらこそいつもいい時間を過ごさせてもらって感謝したいくらいなのに。馴染みのお客さんにもそれ以上根掘り葉掘り聞いてこない姿勢にも配慮が感じられます。

社会に出るということ、生きていくということ、いろんな世代の人と関わっていくこと。いいことばかりではなく、不快な気持ちになったり腹立たしく相手を憎んでしまうこともあります。自分が情けなくて情けなくて涙を流す日もあります。そんなどんなときもいつも同じ場所にひっそりとたたずむそのお店に癒されたくてまた足を運びます。そんな場所がみんなにあればいいなと思うのです。

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 22

 

昨日も
長い電車に乗って帰ってきた

暗い
多摩川を渡った

新丸子の
夜道を帰ってきた

ペルトを聴いてた
佇ちどまる

佇ちどまっていた

いつだったのか
日野の駅で

雪の降るのを見ていた

朝まで
見ていた

雪はゆらゆらと降りてきた
いくつも

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 21

 

今日も

新丸子の
夜道を帰ってきた

老いた姉妹のいるウィンドウのまえで
佇ちどまる

貨幣は
この老女たちを買うことができるのか?

特別な者たちを
貨幣は低い場所に引き摺り落とす

無い言葉を抱け
亡き者たちを抱け

貨幣は亡き者を買うことができない

 

 

 

そらを呪わない

 

長田典子

 
 

捨てられました
ごみでした
わたしはごみでした

くびちょんぱ
くびちょんぱ

めじろが
かわづざくらの
はなくびに
黒いくちばしを突き刺し
蜜をすっていきます

かわづざくらは
ちるまえに
はなくびごと
落ちていきます
捨てられます

くびちょんぱ
くびちょんぱ

しぬしぬしぬしぬ
しぬしぬしぬしぬ

わたしは
捨てられました
わたしはごみでした

はなくびは
かれくさのうえで
濃いピンク色のくちを
大きく
あけて

ああああああああ
しぬしぬしぬしぬ

ああああああああ
いいいいいいいい
ししししししししてしてしてして
るるるるるるるる

かわづざくらは
あおそらを見上げます

きょうは
とても
はるめいて
おひさまきらきら

ああああああああ
しぬしぬしぬしぬ

くびちょんぱ

ごみはしぬの

ああああああ
いいいいいい
ししししししてててててててて
るるるるるる

あのひとを
あいしている

きょうは
とても
はるめいて
おひさまきらきら

かれくさの
うえ

くびちょんぱ

捨てられました
ごみでした
わたしはごみでした

くびちょんぱ

ごみはしぬの

めじろは
翡翠色の羽根をふくらませて
さぁっと
つぎの木に飛んでいきました

しろい眼の淵を
もっと もっと
しろくしろくし

きょうは
とても
はるめいて

おひさまきらきら

あいしている にくたらしい
にくたらしい あいしている

しぬしぬしぬしぬ
しぬしぬしぬしぬ
しぬしねしぬしね

そらを 呪う
そらを 呪わない

ああああああああ
がががががががが
DADADADADADADADA
GAGAGAGAGAGAGAGA

おひさまきらきらきら

“Rejoice and love yourself today” (今のあなたを受け入れて愛してあげて)

“I was born to survive”(生き抜くために生まれてきたのよ)

ががががががががだだだだだだだだ
GAGAGAGAGAGAGAGA

“Be a queen”(女王でいてよ)
“Whether you’re broke or evergreen”(破産してようが富があろうが)
“You’re black, white, beige, chola descent”
(黒人だろうが白人だろうがベージュだろうがメキシコ系の混血だろうが)

わたしごみだろうがおひさまきらきらはなびらきらきら

“You’re Lebanese, you’re Orient”(レバノン人だろうが東洋人だろうが)

“Whether life’s disabilities”(障害があって)
“Left you outcast, bullied or teased”(のけものにされ、いじめられ、からかわれても)

“I was born to survive”(生き抜くために生まれてきたのよ)

ああああああああ
おうおうおうおう
そそそそそそそそ
らららららららら

“No matter gay, straight, or bi”
(ゲイだろうがストレートだろうがバイだろうが関係ない)
“Lesbian, transgendered life”(レズだろうがトランスジェンダーだろうが)

わたしごみだろうがおひさまきらきらはなびらきらきらきら

“I’m on the right track baby”(それが正しい道だよベイビー)

“I was born to survive”(生き抜くために生まれてきたのよ)

DADADADADADADADA
GAGAGAGAGAGAGAGA
はなびらきらきらはなびらきらきら

ああああああああ
おうおうおうおう
そそそそそそそそ
らららららららら

あのひとを
あいしている

そらを

呪わない

 
 

空白空白空白空白※英文はすべてLady GAGA “Born This Way”より引用

 

 

 

俺っちの「プアプア詩」が学術論文に引用されちまったよ

 

鈴木志郎康

 
 

おどろいた、
おどろいた。
へえ、そんなことあるのって、
おどろいた。
成城大学教授の高名康文さんの
フランス文学の
学術論文に、
俺っちが昔書いた
プアプア詩が引用されているちゃっ。
驚きだっちゃ。

教授の高名康文さんから、
論文が掲載された
東京大学仏語仏文学研究会の
「仏語仏文学研究」第49号の抜刷が、
俺っちのところ送られて来たっちゃ。
フランス中世の旅芸人詩人の
「リュトブフの仮構された『私』によるパリ」。
ぱらぱらっと開いて、
青い付箋のページを見ると、
俺っちの昔の詩「続私小説的プアプア」が引用されていたっちゃ。
おどろいたね。
おどろいたっちゃ。
フランス文学の学術論文ですよ。
ハハハ、
学術論文ですよ。

フランスの中世の詩と
日本の現代の俺っちの詩を
高名康文さんが結んでくれたってわけさ。
嬉しいね。
ウッフフ、
それがさ、
結ばれたってところってのが、
ちょっとややこしい。
詩作の上で、
「私」って存在が、
増殖し、交換可能になるって、
そこを、
高名さんは読み取ってくれたってわけさ。

リュトブフっていう詩人は
「シャンパーニュ地方から」
「評価と名誉を追い求め」
パリに学びにきた学生だったが、
「不幸に関する詩」では、
「おのれを結婚や賭博でしくじった
愚か者として、
その失敗を面白おかしく」
語ってるってこっちゃ。
そのおのれを語るってところで、
リュトブフは
「私」っていう存在を、
仮構してるって、
高名教授は考察してるっちゃ。
それで、
その「私」が
増殖し、
交換可能になるってっこっちゃ、
こっちや、こっちや。
どういうことなんじゃ。

彼の「冬の骰子賭博」って詩には、
「賭け金を作るために、
服を質に出してしまって、
裸同然で過ごしている」
憐れな自分のことを書いてるってっこっちゃ。

「神は私にはほどよく季節を恵んで下さる。
夏には黒い蝿が私を刺し、
冬には白い蝿が〔=雪〕が私を刺す。」

先ず、ここには
自虐的に語られた
「私」がいる、
ところが、その後、
「骰子の誘惑に耳を貸す者は
愚か者であるという一般論が、
主語を三人称にして
展開されている。」ってことで、
つまり、
「私」が
三人称に置き換えられたってわけじゃ。
そして更に、
「二人称の相手に対して、
〈毛織物屋でツケが効かないのなら、
両替商に行って素寒貧だと言ってみろ、
信用貸ししてもらえたらいいね。〉と、
『おまえ』の
愚かさをからかっている。
ここでの『私』は『彼』、『おまえ』と
交換可能な存在になっているということである。」
というこっちゃ。
こっちや、こっちや。

ここでの、
その「私」の
「あり方は、
1960年代の日本の
現代詩、たとえば、
鈴木志郎康の
『プアプア詩』を
連想させる。」
となって、
「続私小説的プアプア」
の引用になるってわけさ。

「走れプアプアよ
純粋もも色の足の裏をひるがえせ
今夜十一時森川商店の前を歩いていると
妻と私とプアプアの関係が夜のテーマになった
妻は私ではなく私は妻であるプアプアでありプアプアは妻であり妻はプアプアではない
妻は靴を買いプアプアは靴をぬぎ妻は大陰唇小陰唇に錠を下ろしてキョトキョトキョトキョトキョトと大気盗んで駆け込むのにプアプアは開かれたノートブックの白いパラパラ」

わあ、懐かしい。
プアプア詩にお目にかかるのは、
いや、まったく、
久しぶりざんすねえ。
確かに、
「私」が妻になったりプアプアになったりで、
「私」が増殖しているっちゃ。
この「私」ってのが詩法を求めて身悶える厄介な奴なのさ。
その「私」が詩にすがりついて、
エロスと生命力を求めて、
妻やプアプアになり変わろうとして、
失敗したってわけじゃ。

失敗、
失敗、
失敗。
人生の失敗を語ったリュトブフと
詩作の失敗を書き連ねる俺っちが、
バッサリと重なっちゃったってわけっちゃ。
失敗を切り抜けようと、
つぎつきと詩を書き、
「私」を語って、
「私」を増殖させてるってこっちゃ。
俺っちは、
ウッ、ウッ、マア。
そんで生き延びて来たってわけさ。
ワッ、ハッ、ハッ、
ハハハ、
ハハハ、
ハハハ。

 

注 括弧「」内引用は高名論文による。


リュトブフ

 

 

 

冬の夜の植物園

 

サトミ セキ

 
 

肺が凍るので深く呼吸してはだめだよ
咳をしながら
χ(カイ)はわたしの頬に触れて言った
長く青白い指が乾いている
バタン と震える大きな音がして
真後ろであたたかい部屋の鉄扉が閉まった
扉の音がしばらく反響している
暗く広いアパートの階段室
ぱちん
天井灯のスイッチを入れた
掃除をされない灯は ろうそくの炎の色
階段の壁の高いところに
両手をあげた人の形をした大きな染みがある
ゆらゆら動く わたし自身の影のように
一階へと下りてゆく
中庭に出ると
寒気が空からわたしをめがけて突き刺してくる
土が固い
だれかの足跡の形のまま 凍っていた

街灯が点き始める
午後四時
今晩は植物園に行く

一年でいちばん暗い街を歩く
植物園へ
行く時はいつもひとりだった
いつも冬至の夜に許され わたしは植物園に行く
冬至の夜にだけ開く通用口をくぐると
目の前に輝いている 光のパビリオン
わたしの為にだけ開かれている
ガラスの大温室

ここでは冬至にもミツバチが交尾をしている
メガネが曇る あたたかな緑の息を吹き掛けられたように
人間はいないのに 生き物の気配がみっしり満ちて
ブーゲンビリアが巨木に絡まる
熱帯雨林の匂いを深く呼吸する
植物の粒子が毛穴から侵入する
乾いていたのだ わたし
流れ始める水
額を汗がゆっくり伝い落ちる

掌に落ちた雫を見て
ふいに思い出した
この巨大な温室に住んでいる気象学者のことを
人には見えないらしい ちいさな彼
セラスナニの花が垂れ下がる
古木材のベンチに座って
いつも彼は ラテン語で書かれた植物図鑑を開いていた
ガラスの大温室のお天気は 彼が支配しているのだ
空0(大温室の中は地球を模しているから
空0ここは南アメリカ大陸)
高い声、くちごもるmの響きを思い出す
M、Me、Mexico
彼の声を真似てつぶやくと
突然
メキシコ産フェロカクタスの太い棘が
わたしの頬を突き刺した

したたる
血かと思えば
ああ 雨だ
雨が 温室中に降っている
食虫植物の袋が 濡れている
見上げると
ふんわりした雲が ひとつ
遠いガラス天井の下に 浮かんでいる
小さな水雫 小さな氷粒 その集合体が雲
雲の粒同士がくっついて大きくなり
浮いてられずに落ちてくる それが雨
小さな雨粒だとゆっくり
空0ダイヤモンドのような大粒は 素早く
ミツバチは雲を舐める
仙人掌も雨からできている
空0(雲はふたたび水になり
空0まわりまわって君をかたちづくるのだ
空0体の九割はH2Oだからね)

内側をぬらすもの
外側にしたたるもの

午前零時に温室の灯は一斉に消えた
今年はちいさな彼に会えなかった
通用口の目立たない扉をあけて 真夜中の街へ出る
吐く息が六角形の結晶になって
溶けない灰色の雪の上に降り積もる
きらきら きらきら
わたしの全身は 翠色の凍れる雲になって
ゆっくり
一歩ずつ
春を待つχの部屋にもどっていく

 

 

 

甘栗の窪み

 

萩原健次郎

 

 

空0泡吹くか。驚いた。眼前の幼い老女が泡吹いた。幼
いと書いたのは、正しい。まるで子どもだ。ニッキ水
が欲しいと泣き喚き、手足を両生類のようにばたつか
せた。それは赦せる。ひととき瞬時、逝っていたのだ
ろう。身の部分、半身が彼岸へと入神し、昇天し、半
身だけが、目に見えてぷよぷよし、あとの半身は、硬
直していた。
空0体内から滲み出た液体は、泡小僧となって、微小な
天使となり、飛び交っている。蝿だ。よろしい、蝿
だ。数ミリの体長だが、緑金のハレーションは、綺麗
やなあと、そのときかたわらの爺が呟いた。爺も昇天
していた。全身、昇っていた。

空0数世紀前のことが、水で書かれている。透明な文字
は見えない。柔らかな和紙の、筆が辿った後が皺にな
っている。皺の谷筋を追えば、文字は判読できる。

空0わたしは さびてしまった ありの いしゅだ
空0せいかくには、あしの なえた あしゅだ

空0はりつけだ ころがりおちたものは
空0くりだ

空0た(せ)かい とおい そらに きのみをなげろ

空0甘栗に群がる、蟻の亜種。彼(あ)の世のことだとして
も、蠱惑。亜種とはどんな形をしているのだろうか。
灰色の体躯。金属の尖端を鋭く磨き上げた、脚。
空0嫌だ嫌だと言う、蟻の亜種を岩の窪みにできた、雨

水溜りに捕獲しようとする。らららと言いながら。そ
こで泳いでいなさいと。匕首のような脚は、遊泳に適
さないだろうなどと思いながら、放つ。栗、空から還
ってきた。甘栗、溶ける。蝿の緑金溶ける。雨は、清
浄ではない。有害物質も混ざっている。寂々、降る。溜
まる。
空0文書の体裁を思い出す。

空0恋ふひとの死んだ半身甘辛く

空空空空空空空空空空神の艶書の水茎の皺

空0と付ける。

空0わたしも、幼稚園に通っていた。そのころの恋心を
眼中で反芻していた。
空0遠泳していた。

 

空空空空空空空空空空空空空空空空連作「音の羽」のうち

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 20

 

貨幣も
焦げるんだろう

貨幣も燃やせば燃えるんだろう

新丸子の
夜道を帰ってきた

夜道では
老いた姉妹のいるウィンドウのまえで

佇ちどまる

それから
黄色い花のまえで佇ちどまる

過ぎ去るものと
佇ちどまるものと

それを包むものが世界にはある

 

 

 

長尾高弘著「頭の名前」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

かつて鎌倉の青砥橋という田舎に「青砥」という地元の主婦が運営している精進料理の店があって、贔屓にしていた。

それは安くて美味しい料理もさることながら、部屋の壁に私の大好きな画家、熊谷守一の書が掛かっていたからだった。

良寛に似ているようで、もっと純朴な「五風十雨」を飽かず眺めていると、お店の人が、守一95歳の書「一去一来」も見せてくださった。

最晩年の枯れた書体が、背景の軸物の薄茶色や床に活けられた秋海棠と映えて、まことに情趣深いものがあった。

熊谷守一の猫の絵などは、誰が見たって本当に素晴らしい味わいを持っていて、それこそわが国を代表する最高の芸術家といえようが、それを支えているのは彼の中の卓抜な観察者であった。

あるとき彼は、地面をうろちょろしている蟻を丸一日じっと見つめていたが、「長い間疑問に思っていたが、とうとう分かった。蟻は左の二番目の足から歩き始めるんだね」と語ったそうである。

この小さな詩集に収められている16の作品は、どれも比較的短く、私が知る作者の風貌のように、表現は質朴にして平明そのものである。そしてその多くは日常の茶飯事を主題にしている。

しかしそのいずれの中にも、私は熊谷守一流のアリへの視線を感じる。

身近な素材を腰を折って熟視し、そこからささやかな、しかし自分にとってはとても大切な知見をそっと引き出す、作者独自の方法とその見事な達成を、私はあきらかに認めたのである。

 

 

 

濃紺のセーターの闇はね、濃かったっちゃ。

 

鈴木志郎康

 
 

みなさんはそれぞれ、
異なった日々を過ごしているんだよね。
俺っちはこの冬、
セーターを着て過ごしているっちゃ。

今日はね。
濃紺のセーターを着たってわけっちゃ。
左の厚ぼったい袖に左手を通し、
右の厚ぼったい袖に右手を通し、
もこもこの毛編みの中に、
頭を潜らせたっちゃ。
グウーン、
潜り抜けた一瞬の闇は、
濃かったっちゃ。
赤いセーターとは違うのよ。
濃い闇だっちゃ。
顔を出したら、
いつもの俺っちの部屋だったが、
眺めがちょっとだけ
違っていたっちゃ。
違っていたっちゃ。
ズンズン、
グウーン、
グウーン。

この違いはなんじぁね。
ああ、普段はそれが見えないっちゃ。
そうして一瞬一日と年を重ねちゃった。
ズンズン、
グウーン、
グウーン。