人間として存在するということ

 

みわ はるか

 
 

渋谷のNHKへ行った。
一般の人でも入れる所だ。
毎朝テレビで見ているアナウンサーや気象予報士の人がここにいるのかと思うと不思議な気持ちになった。
建物は想像よりも大きくて、中もとてもきれいだった。

昔からテレビは好きだった。
でも小さいころはNHKがついているとすぐチャンネルを変えるような人間だった。
時は不思議なもので、数年前からは朝は必ずNHKで夜もだいたいNHKのニュースやドキュメンタリー番組を好んで見るようになった。
朝ドラは毎日録画して夜見るのがささやかな楽しみになっている。
バラエティ番組やドラマは今ではほとんど見なくなってしまった。
旬の人たちに疎くなってしまった。
ニュースが始まるときのアナウンサーの顔が好き。
でももっと好きなのは大役を終えて最後に画面に向かってお辞儀をした後、もう一度顔を視聴者の方へ戻した時の顔が好き。
仕事に誇りをもって充実しているあの表情がものすごくかっこいい。
組織の一員として社会に存在していることに充実感を感じている印象が素敵だ。
テレビだからそう写って見えるのかもしれないけれどそれでもいいと勝手に思った。
あの顔や表情の変化を見るとわたしも頑張りたいと思えるから。

人の顔の表情というのは不思議なもので人目見ればなんとなく自分のことを受け入れてくれているのかどうか分かる。
何かを報告しようと思ったり、話したいとこちらが思っていてもなんだか拒絶されたような目や口角を見ると萎縮してしまう。
それでも伝えなければならないときは心の中でえいっと勇気を出して伝える。
それで冷たい反応であったときは自分が何か気に障るようなことをしたのか、それともこの人はこう人なのかとぐるぐる考えを巡らせる。
最終的には疲れてしまうのであまり考えないようにしようと自分を納得させる。
でもどこかで、頭のどこかでそれはずっと残り続けるような気がする。

組織に属している人には色んなライフステージの人がいる。
新卒で初めて社会に出たまだあどけない人、中堅どころでまさに旬な人、子供がいて育児や家事に追われながらも仕事をこなす人。
出身地も性格も環境も趣味もみんなばらばらだ。
だからお互いの理解がきっと必要なんだろうけれど、文字に書いたようにそんな簡単なことではないと感じる。
社会は結構難しい。
もういいやーって思ってしまうこともある。
なーんにも考えなくていい環境に行ってしまいたいと思うこともある。
そんな時は思い出すようにわたしはしていることがある。
わたしは特に高校・大学と先生に恵まれてきたと思っている。
学生時代、唯一社会人の人と毎日接することができた職業だった。
分からない問題に対して嫌な顔せず本当に一生懸命教えてくれた。
将来について迷った時親身になって耳を傾けてくれた。
そんな人たちに卒業まで見守ってもらって、どうして自分だけ社会に貢献せずにいられようか。
そんなことはわたしにはできない。
わたしのこれからの夢は卒業時と変わらず社会に恩を返すこと。
人間として存在している意味を社会に貢献することで見出すこと。
そのために何ができるか、今一生懸命考えている。

心身ともに健康的な状態で、社会に認められるような環境に身をおいた人間にわたしはなりたい。

 

 

 

 

塔島ひろみ

 
 

公園ゴミの集積所に、彼女はバラバラに落ちている
アルミ缶に混じって 誰も彼女に気づかない
廃業した砂屋の、雑草が生えた土砂山の脇にも、落ちている
私はそれを跨いで駅へ急ぐ
途中で転び、立てなくなった彼女が向かうのをやめた駅へ
私は急ぐ
変電所の角で男が細かいものを掃き、集めている
胴体から取れた首だけの彼女は
今日も作り笑顔で笑っていた
眩暈がするのだと
笑いながら彼女は言った

駅前のプランターに花が咲いた
ピンクのペチュニアが満開だ
高齢の女が座り込んで 絵を描いている
ホームを目指す通勤者が一斉に駆けあがる階段を
女は上らず、汚れた路上に座り込んで
花の咲く白いプランターに絵を描いている
(芸術家だろうか?)
期待して数人の人が足を止めた
出来上がったのは百均の茶碗の模様のような ありふれたバラの絵
綺麗に咲き誇るペチュニアの下で、紛いもののバラが安っぽい花びらを開いていた

雨が降った

傘をさして駅へ向う
水たまりを飛び越すと、彼女がいた
ああ今日も、バラバラになって落ちている
崩れかけた土砂の脇で
お地蔵様のようにいつもと変わらない作り笑顔の病的な首が
空を見ている
雨がドブドブと降りかかるのに
瞬きもしないで 空を見ている

急行も止まらない下町のちっぽけな駅の階段口は
傘を持って急ぐ人々で混乱していた
ペチュニアは昨日からの雨にやられて半分しおれ、
その下ではバチバチと打ちつける雨にビクリともせず
茎も持たない首だけのバラが2輪、
空に向かって咲いている
8時12分発の羽田空港行きに間に合わねばならない私たちは
傘をバサバサやりながらその脇をお構いなしに駅に向かって疾駆する
電車が入線し、私は慌てて改札口に定期をかざす

彼女は花だ

落ちているのではなく 咲いているのだ

強く、静かに、咲きながら地蔵のように彼女はそこにあるのだと

押されるように電車に乗り込む私はだから、
気づかない

ドアが閉まった

京成立石駅の白いプランターの前で遮断機が上がる
8時12分発の羽田空港行きはもうずいぶん先へ行ってしまった
花たちはそれを見ていない 空を見ている
そしてすぐ次の電車に急ぐ人の群がやってきた

 
 

(6月26日 京成立石駅南口で)

 

 

 

花でも鳥でもなかった *

 

高速バスで

帰った

深夜に
帰ってきた

金色の犬が待っていた

蕩尽して
空になった

なにもない
なにも残ってない

泥の中に

女が歌っていた
ちあきなおみを歌った

米沢の生まれだといった
“花でも鳥でもなかった” *

歌っていた

泥の中から見ていた

遠くを
見ていた

いつか
生きていて

きみに会えればと思います

 

* 工藤冬里 詩「(宝のある所は池であった)」より引用

 

 

 

(宝のある所は池であった)

 

工藤冬里

 
 

宝のある所は池であった
水は濁りににごり
いのりの影さえ映らなかった
花でも鳥でもなかった
膿んだ毒は全身に回った
ボーダーを着た女にとっては
遠近法などどうでも良かった
斜めのストライプのネクタイは
ネクタイではなかった
デザインはもうどうでも良かった
ただおかしみがあった
土が土に戻るだけなので
死んだら嫉妬もない
ひとごろしのエンターテインメントの中で
ぐっすり眠るには濁りが必要なのだ

 

 

 

マンモグラヒィ~

 

正山千夏

 
 

今年もマンモグラヒィ〜受けてきた
ただでさえないおっぱいを
下敷きばりに薄っぺらくのばされて
今朝は左右のおっぱいが
思春期のように痛むわたくしです嗚呼

日本人の半数ががんになるこのご時世
ヒトゲノムの解読は進み
がんが不治の病でなくなるのも
あと数十年?
わたくしの生きてるうちにそうなりそう

がん細胞はウィルスや細菌とはちがい
もともと体の中にあった細胞から発生する異常な細胞だと
ふつうの細胞は臓器やら器官やら組織やら
いろいろなモノになるのに
がん細胞は何にもならないんだよと

聞いたわたくしは思った
それって体が死へと向かっていく
最初のプロセスのところなんじゃないか
それをもうすぐ食い止めることができるようになるのだとしたら
人類はとうとう
ひとつの死を克服することに成功するのですね

わたくしは想像する
がんが不治の病でなくなる世界
人類は
今度は何が原因で死ぬのだろう
さらにもっと恐ろしい不治の病が現れるのかな嗚呼

高度な人工知能が仕事のほとんどをこなし
大変便利になった世の中
働き方改革は難航しているけれど
いつかそのうち完成するのでしょう
人類が産業革命以来ずっと追求してきた
豊かな時間のその先で

不死になるわたくしが
したかったことって何
有り余る時間をもって
したいことって何
今朝は左右のおっぱいが
思春期のように痛むわたくしです

 

 

 

ひとすじの

 

ヒヨコブタ

 
 

夢みたものはちいさな幸福で
願ったものはちいさな愛
だった
いつも、いつからか

どこか儚げなのに
このことばはわたしから離れない

独りにしない、独りだとまず思わない
わたしが
というのはここにあるのかもしれない
たとえどう見られようとも

独りを感じるのはとても容易く
とても淋しいものだと
過去のわたしは
いう

いつからかきれいな嘘をつくことになれていた
他者が納得するだろうことを並べて
生き延びるためだとしたら
よくやったともいえるのか

この輪のなかにあんたは入れないと
子どもの遊びにもある残酷さ
入れないという子達の気持ちを想像する
待って
わたしは
入りたくないのといわない
強情に
入りたくないと
いわずに

輪のなかにいないでいるひとが
たくさんいたことに
いつか気がついた
いないと決めたひとの年月も歳もさまざまに
そのひとたちを
ときどき思い出す

懸命に生きていることは変わらない
誰もがそうだろうに
なにかをはじきだすことに
意味を感じられずに
きた

うつくしいと思うことも
そうでないと放つことも
自由なら
わたしは
うつくしいと感じることができるしゅんかんを
切り取っておく
ふりかえるとき
そこに誰がいるか
こころはいつも躍る
ことばもひとも
じぶんに留めて
もうすこしだけ泳いで
夢みたばしょにいつかたどりつけますようにと
今日も
大切なことを切り取って
いる

 

 

 

ある晴れた日に

 

佐々木 眞

 
 

ある晴れた日に
私は遠いところへいくだろう
ギフチョウ タンポポ ホトトギス
滑川のカワセミやウナサブロウに別れを告げて

ある晴れた日に
私は遠いところへいくだろう
大好きな君たちやお世話になったみなさんに
深い感謝を捧げながら

ある晴れた日に
私は遠いところへいくだろう
まだいったことはないけれど
なぜだか懐かしいあの場所へ

ある晴れた日に
私は遠いところへいくだろう
たとえその日が土砂降りだろうと
私の心は青空だ

 

 

 

あなたはフレームだけになった *

 

ゴミ出しに
いった

モコといった

ブーゲンビリアの赤い花が咲いてた

いつも
モコはついてくる

昨日
工藤冬里の

詩の中に

羊がでていた

“羊という字はリスカを想わせる” *

そう
書かれていた

此の世には
リストカットをするヒトも

いる

しないヒトも
いる

“見えない人が見えるようになり” *
“見える人が見えないようになるために” *

とも
書かれていた

たくさんのヒトたちがいま殺されているだろう

どうなんだろうか
イマジン

団塊たち

どうなんだろう
若者たち

今朝は
モコとゴミ出しにいった

帰って

ソファーに
座って

イマジンを聴いた

“あなたはフレームだけになった” *
“あなたはフレームだけになった” *

眼鏡を
外して

いつまでもきみの裸をみていたい

 

* 工藤冬里 詩「めがね屋」より引用

 

 

 

世界で一番美しい光景

 

辻 和人

 
 

2つの丸い目
最初きょとん
次にぐわって感じ

良かった、元気にしてた
帰りの小田急線は空いていて
真っ暗な窓の外は回想に耽るのにもってこい
実家へ様子を見に行ったんだ
大ケガして排尿・排便が困難になったレド
腰はおしめで巻かれてる
肛門の周辺の神経が麻痺してるからウンチを貯められない
作られたウンチはポロポロお尻の穴から零れて床に落ちちゃうから
おしめをすることに決めたんだ
おしめを嫌がったのはたった1日
早くも運命を受け入れた
白い異物が巻きついた新しい体を受け入れた
おしめの布を上手に避けて体を舐め舐め
それがずっと昔からのやり方であるように舐め舐め
取り替える時もじっとしていて
頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を細める
細くしなる目尻が、今
電車の窓枠に置いたぼくの左手を
にゅくにゅく這って、消えた、よ

レドと言えば思い出す
2009年11月14日(土)
ちょっと寒い夜
2つの丸い目が光った

祐天寺のアパートでかまっていたノラ猫たちが次々いなくなった
レドもその一匹
猫嫌いの誰かが捕獲機を仕掛けたんだ
ファミは何とか助けて実家の家猫にしたけど
他の猫たちはみんないなくなってしまった
それが2009年の初夏
でね
あきらめきれなくてね
夜な夜な街を彷徨って猫路地を見つけては
いなくなった猫たちを探してた
秋に入る頃は半ば以上諦めてて
探すっていうより
「探す自分」の亡霊みたくなってた
亡霊になるって変な気分
歩いてるのに足の感覚なくって
道路をすーっと漂ってる
亡霊になりきってしまえば
目的喪失して移動だけ
すーっすーっ
そんな気楽さがあって
どうてもうういやって
ちょっと心地よかったな
それがだよ

2009年11月14日(土)
ちょっと寒い夜、駅近くのマンションの駐車場で
目的喪失したいつもの調子で停めてあった車の下を覗き込んだら
2つの丸い目が光った
きょとん
背を丸めて座ってた
きょとん
目が合った
イチ、ニィ、サン、シ、……
ぐわっ
目の光が強い閃光に変化して
ぼくもそいつも凍りついた

レド、レド
レド

閃光の中で
ウググゥー
ウググゥー
走り寄ってきた
強い力で膝にぶつかってきた
さっきまで亡霊だったぼくは
途端、亡霊でなくなった
膝に登ってきたものの頭を撫でて
うーん、人間のぼくの方がだな
衝動的に
うん、なんでかなー
レドの片耳を軽く噛んだんだな
うん、噛んじゃった
耳には三角形のカット
ぼくが受けさせた不妊手術の印だ
汚れた白い毛が舌に残ってぺっと吐き出した
膝に伸びた爪がぐいぐい食い込んで痛かったな
ウググゥー、唸りながら
ぼくの顎に何度も鼻先を強く突きつけてくるから痛かったな
痛いまま
閃光の中で抱き合っていた、な

それからさ
毎晩レドの好きなお刺身かなんかを持って
深夜のマンションの駐車場を訪ねたさ
この地域のエサやりさんの保護を受けていたらしく
レドはエサには困ってなくてむしろ丸々太ってた
エサを巡って他の猫とケンカしたんだろうね
レドの背中には小さな嚙み傷が幾つかあったさ
このままアパートに連れて帰るとまた同じことが起きるから
しばらくここで面倒をみようって思ったさ
だけどそうはいかなかったさ
ある日、帰ろうとするとどこまでもどこまでもついてきたさ
いつもは「帰れ」という怒ったみたいな仕草をするとビクついて駐車場に戻るのに
その日は何度「帰れ」をやってもついてきたさ
帰れ、帰れ
ビクッと立ち止まっても
少しするとトトトッとついてくる
仕方なくアパートに連れてきちゃったさ
そしたら大変さ
部屋に入れろっ部屋入れろって
ガラス戸に体をガンガンぶつけてきたさ
その音のうるさいことうるさいこと
実家にまた助けを求めたさ
「すいません、ファミの他にもう1匹家に置いて欲しい猫がいるんだけど」
そうして連れてきた猫レドが
はい、今は白いおしめ巻いて
人間の横でくつろいでるってさ

もうすぐ登戸だな
南武線に乗り換えだな
府中本町から武蔵野線で西国分寺、中央線に乗り換えて40分
ゴトンゴトン
小田急線はしんとしてて

だから
美しいってどういうことか?
なんてことゴトンゴトン考えてしまう
コンサートに行って名曲を聴いて
春になって桜が咲いて
「ああ、美しいなあ」って感じますよね
大抵の「美しいもの」は
準備がそれなりに整った上でそう感じる
だけど
その最中はどうってことなかったり
或いは無我夢中でわけがわからなかったりしても
後で「ああ、美しい」ってくることがある
いわゆる美化って奴
子供の頃の思い出なんかが代表格
想像力で増幅されるから最強

今、ぼくの頭の中で
ちょっと寒い夜
2つの丸い目が光ってる
最初きょとん
次にぐわって感じ
世界で一番美しい光景
ぼくにとっての
最強の
増幅されてく増幅されてく

 

 

 

めがね屋

 

工藤冬里

 
 

羊という字はリスカを想わせる
白と紫を基調とした挿絵の中の 海鞘色した私達は捲られ
さまざまな色かたちの眼鏡の フレームだけが残された
だから「眼鏡のドクターアイズ 新居浜店」の手持ち無沙汰なあなたは
白と紫を基調とした余白の中で
今はあっても将来なくなるもの を拭いているのだ
あなたはあなたの若さを差し出す
規約より原則に従順な羊として
見えない人が見えるようになり
見える人が見えないようになるために
私達の海鞘色の頁は捲られて
もはや死はなく
あなたは フレームだけになった嘆きと叫びと苦痛を 拭く