Les Petits Riens ~三十五年もひと昔

蝶人五風十雨録第5回「九月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 

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1981年9月30日 水曜 くもり
長男の運動会のために会社を休む。障がい児なれど学友に混じってさほど目立たず見事に溶け込んでいる様子に感嘆。50メートル走も完走。先生に感謝。

1982年9月30日 木曜
キャプテンシステムへの入力、大半が終了。電通の羽賀氏、大奮闘。“なまけものウエア”のアイデアが浮かびくる。

1983年9月30日 金曜 小雨
TCC授賞式。新見氏およびホンダの茨木氏を識る。「宣伝会議」の講師を依頼される。

1984年9月30日 日曜 はれ
妻は福祉まつりバザーなれど余は自宅にて仕事&リラックス。

1985年9月30日 月曜
渚画廊で藤本泰子展、ムパタのような作風なり。映画「キリングフィールド」みる。

1986年9月30日 火曜 はれ
麻布フィンランド大使館脇のスマッシュに日高氏を訪ね、式田氏と共にJ.バーキン来日時のイベント企画を練る。夜第3回ネクストアパレル研究会にてポストDCを論ず。出席者16名。

1987年9月30日 水曜 くもり 寒
ジャン・ルノワールの「演技指導」、「ピクニック」「牝犬」をみる。素晴らしい。これに比べれば夜のオーストラリア映画「普通の女」はうわっつらだけの作品なり。

1988年9月30日 金曜
INの来年度のテレビCMについて池田ノブオ、電通と打ち合わせ。イラストを変更し曲はブルーハーツの「キスしてほしい」。小学館「マフィン」創刊。「女性自身」は天皇写真逆ネガ使用で発売中止。「サンデー毎日」は天皇死亡事故で責任者更迭さる。

1989年9月30日 土曜 くもり
連載中の「ル・クール」誌11月号の原稿を書く。

1990年9月30日 日曜 台風
台風20号来襲し、家の裏の崖より濁流流れ落ちる。夜6時、遂に床下浸水、一家総出1時間がかりで汲みだす。日朝国交回復の動きあり。

1991年9月30日 月曜 小雨
はてさて余はこれからどうすればいいのだろう。アフリカで頭がいっぱいの小黒氏からはつれない返事。されどディスクガレージの市川氏は親切なり。同社の蓮沼選手とあれこれ話す。

1992年9月30日 水曜 くもり
永代にてINブランドのショップ打ち合わせ。

1993年9月30日 木曜 東京はれ 広島くもり
新装なった羽田をANA12時発、雨の広島空港に到着。郊外のアルパーク天満屋、駅前のキリンヤをみて、夕方姫路の安ビジネスホテルに泊る。新幹線にて相生付近を走行中約5分間狭心症の発作起こりしが、懐中のニトロ2錠飲みて事なきを得たり。

1994年9月30日 金曜 はれ
風強く空気生温し。朝永代のIN店長会にて、スタッフを叱咤激励す。上野へ行きてアンデスのシカン発掘展で逆立ちで埋葬されし王をみる。はじめて国立科学館を訪れ、ゼロ戦や縄文時代の母子の死体、南極犬ジロ、忠犬ハチ公の剥製に接したり。

1995年9月30日 土曜 はれ
放送出版にてアパレル産業の昨今についてレクチャーしたが、うまくいかなかった。池田社長、渡辺氏などと会食し、3万円頂戴す。渋谷にてフォーレ室内楽4枚組買う。ヤクルトが優勝す。

1996年9月30日 月曜 雨
本日で9月も終わり、恐るべき10月がやってくる。昼はニットウイークの亡霊、夜は妹の電話に悩まされる。

1997年9月30日 火曜 晴れ
会社を休みて上野の冷泉家至宝展をみるが、大したことなし。藝大大浦食堂で昼食。これも大したことなし。横浜桜木町に行き、県立博物館(元の横浜正金銀行)にて藤沢遊行寺蔵の一遍上人絵巻をみる。

1998年9月30日 金曜 曇り時々小雨
次男無事に上海から帰国す。杭州、蘇州、寧波にも行ったらしい。余は川崎さいか屋、新宿小田急を訪ねたり。長男は明日も休むという。

1999年9月30日 木曜 晴れ 暑し
電通の古川取締役を訪ねる。外から仕事をもらわず社内から業務委託契約を貰いなさい。そのほうが迷惑にならない、と助言される。東海村で原子炉事故。中日優勝す。

2000年9月30日 土曜 曇り時々小雨
ムクの散歩を兼ねて、ガマの穂を取りに行く。次男は熊野へ旅行しているとか。図書館へ行ったが休み。御成小、二小で運動会。

2001年9月30日 日曜 曇りのち雨
従弟の卓、亮泊る。みなで朝ごはん。それから2人は、次男と一緒に近所のおばあちゃんチの蜂の巣を退治し、お昼はパスタをたいらげてから南浦和に帰り、次男は綾瀬に戻っていきました。

2002年9月30日 月曜 終日雨なり
講義の準備をする。小泉内閣の改造人事で竹中が金融庁兼務となる。不良債権への資本注入反対論者の柳澤も入閣したがどうなるか。イチロー打率4位。雨中カナカナが鳴いている。

2003年9月30日 火曜 はれ
新宿で文化講義、1日3コマで疲労困憊。大船で途中下車して茶色の靴3100円、ユニクロでパンツ1900円買う。

2004年9月30日 木曜 晴れ 暑し
台風一過。東京工芸大へ行く。大リーグ、イチローあと2本、松井30号。

2005年9月30日 金曜 はれ
松井22号。次男と太刀洗い散歩。アブラゼミ鳴く。美術館にて篠原有司男展。グロテスクな生命力漲る。長男は源平池の蓮をじっと見つめる。

2006年9月30日 土曜 くもり
まだアブラとミンミンが鳴いている。夜、月下美人が2つ咲いた。

2007年9月30日 日曜 雨
昨日から急に気温が下がり、11月頃のそれである。日本人フリー記者が殺された。

2008年9月30日 火曜 雨
米国における企業救済法が拒否され、史上最大の株安。余波は全世界へ。4年振りに浄明寺の歯医者へ行く。欠けた歯を継ぎ、歯石を磨いて4300円。少し高いのではないか。

2009年9月30日 水曜 小雨
妻と栄プールで泳ぐ。ユニクロで長男のジャージを買う。噛むと歯が痛い。サモアの首都パゴパゴでM8.2の地震あり。

2010年9月30日 木曜 雨
妻と横浜石川町へ行き、次男のアトリエを訪ねる。中華街の聘珍樓で5千円のフルコースを食す。楽しきこと限りなし。

2011年9月30日 金曜 晴れたり曇ったり
駅前の東急ストアや傘屋で買い物をする。文芸社より依頼あり。

2012年9月30日 日曜 大風
夜半にかけて台風17号名古屋に上陸し、本土を北上す。

2013年9月30日 月曜 晴れたり曇ったり
妻は前歯を治療している。皮膚が猛烈にかゆいそうだ。可哀想なり。

2014年9月30日 火曜 快晴
改装工事9割方終る。なかなかしゃれた感じに仕上がった。数日前に元社会党の土井たか子氏子死去。85歳なりき。

2015年9月30日 水曜 晴
朝、なおも油蝉が鳴いていた。妻と庭の草を取る。安倍蚤糞、NYで「一本でもニンジン、三本足す三本は合計六本の矢」なる阿呆莫迦音頭を唄って安保理国入りをアピール。懲りない男なり。「ロジャーズ」の左スピーカーが故障したので同じく英国製のKEFに取り替えようとするうちに日が暮れた。

 

気違ひが出刃包丁を持ち長月尽 蝶人

 

 

 

夢は第2の人生である 第30回 

西暦2015年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

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私は親分に会って杯を返すと、その足で丘を登って、宿敵の組の親分をドスでぶすりと殺った。5/1

いつもと同じように、ユニクロのパンツ一枚で会社に行くと、先輩も同期も後輩も、社員の全員が見ないふりをして、私から遠ざかっていくのだった。5/1

我われは極めて限られたメンバーでクーデターを成功させたのだが、軍の首脳部は、その影響が内部に及ぶことを懼れて、我われを遠島に隔離した。5/2

ある目立ちたがり屋のデザイナーが、「もう一度だけ自分のショウをプロデュースしてくれませんか」と懇望するので、仕方なく引き受けたのだが、彼奴は東コレの本番で猫の首をちょんぎるというあざとい演出に打って出たので、私は即座に彼奴の仕事から手を引いた。5/3

「もう少しで宿屋に着くが、あっしはこの先輩とここで一杯やっているから、あんたがたは道を急ぎなせえ。今まで3人でやってきたのが、あんたたち2人になっても大丈夫でがんしょう」と、私は茶店に腰を下ろしながらいった。5/4

海を超え、野山を越え、川を渡って、魔術師が世界中からこのデラシネ村に集まって来た。「つい先ごろ亡くなったばかりの母親を、この世に呼び戻した者には、なんなりと望みの物を与えるであろう」と。この国の独裁者が言明したからだ。5/5

「もうそろそろドラちゃんがやってくる頃よ」と妹がいうので、辺りを見回すと、首から下がちょん切れた愛らしいドラ猫が、空中を飛びながら近づいてきて、私と弟と妹の足元にじゃれつくのだった。5/6

マガジンハウスのMさんに呼び出されて銀座を歩いていたら、欲しかった着物があったので、それを買って「じゃあここで失礼します」と挨拶したら、「いやいや、ここであなたに帰られたら困る。今から社まで来てほしいんです」という。5/7

言われるがままについて行くと、旧知のK氏とO氏が、社の2階のカフェに座っていたので驚いていると「実は来年新雑誌を創刊することになったので、あなた方3人が協力して立ち上げてほしい」と言うので、またまた驚いた。5/7

「しかし私はもう古稀で、棺桶に片足をつっ込んでいる隠居の身だから、そんなの無理です」と辞退すると、М氏は「実務は全部2人がやるので、あなたは何もしなくて結構です。ただひとつお願いががります。今すぐその着物を返して、創刊パーティ用のフォーマルウエアを買ってきてください」と言うのだった。5/7

最新型の水陸両用艇で、逆巻く海に乗り入れた私たちだったが、猛烈な大波をまともに食らった航海士は、嵐の海に投げ出され、代わりに舵を取ろうとした私の頭の上から、大量の海水が襲いかかって来た。5/8

土砂降りの真夜中に、六本木のインクステックに行ったが、誰ひとり客はいなくて、天井からぶら下っているモニターには、時折思い出したように泡立つノイズが点滅していた。5/9

雨がざんざん降りのカフェバーで、電通総研のSという男のO脚の秘書と仲良くなった私は、ライオネル・リッチーの武道館コンサートへ行ったりして様子を見てから、今夜こそは落としてやろうと土曜の夜に待ち合わせをしたが、O脚女はいつまで経っても姿を見せなかった。5/9

「ハイハイ、今日はみんなを元気な良い子にしてあげようね」と言いながら、作男の亀次郎は、風邪を引いて熱を出している私以外の子供を、まるで甲羅を裏返しにした亀の子のように、澪標の上に仰向けにしていった。5/10

せっかく治ったと思った風邪がぶりかえして、咳は出るし熱もあるのだが、暮しのために無理に働いていたら夜中に倒れた。すぐに救急車を呼んだが、どうも不吉な予感がしたので「子どもと家のことは何卒よろしく」と言いながら家内の背なをそっと抱いた。5/11

案の定、湘南鎌倉病院に急ぐ救急車の中で、私の頭はぐんぐん伸びて、まるでカラフルなシルクハットを10個積み重ねた状態になったのであった。5/11

鯉元という女が、私のギャラをピンはねして逃亡していたことが分かった。5/16

午前1時20分に目が覚めたので、トイレで用を足していると、誰かが階段を下りてきたようなので、水を流してから振り返ったが、誰もいなかった。5/16

私の乗った潜水艦が寄港すると、いつもは隣り合わせに係留されていた僚艦がいないので、その訳を聞くと、私たちの後で出港したまま連絡がないという。そういえば昨日魚雷で撃沈した謎の潜水艦がそれではなかったか、と私たちは嫌な予感に襲われた。5/16

神経質なその監督は、「庭で蝶が死んでいる冒頭のシーンから、ラストの今朝の朝食のシーンまで、そのすべてを撮り直せ」と大声で喚いているのだった。5/15

辰巳組の親分が、「さあAをやるんか、Bをやるんか、はよう決めんかい。決められんかったら、2人ともワシがやっちまうぞ」と脅かすので、仕方なく「A」と答えるや否や、Aは私の目の前で消されてしまった。5/15

いくつもの夢のような物語を夢見ながら、それぞれにふさわしいタイトルをつけようと焦っているうちに、突然咳が出て、ことごとく闇に消え去ってしまった。5/16

はじめて渡世人になってみようかと思ったのだが、すでにこの世界に身を染めていた2人の兄が「止せ止せ」ととめるので、2か月ほど観察してからのことにしようと思った。5/17

湾内にはたくさんの人間魚雷が浮かんでいたので、私は次々に試乗してみたのだが、以前乗っていたのと同じかたちの「回天」はとうとう見つからなかった。あれは死出の旅路に最適の座り心地だったのに。5/18

展覧会が迫っているのに作品が出来ないので、仕方なくせんべい布団を出品したのだが、同じことを考える奴はいるもので7人家族全員の布団を連作と称してぶら下げた人にグランプリを攫われた。なんでも子供の寝小便が激賞されたそうだ。5/19

「さあみんな今日は良いお天気だから部屋の布団をリッシンベンしよう。知らない間にダニやバイキンが巣くっていると良くないからね」と言いながら、寮長は密かに最高齢の私の追い出しを図っているようだった。5/20

竹内君とパッタリ会った。昔の会社のリストラ仲間であるが、風の噂で独立して事業を始めたと聞いていたので「調子はどう?」と尋ねたのだが、娘さんと一緒だったせいか言葉を濁したので、もしかするとうまく行っていないのかもしれない。5/21

突然雷が鳴って猛烈な雨が降って来た。この村にひとつだけの貴重な図書館が崩壊するといけないので、私は職員に大至急戸締りをするように命じた。5/21

「3文主義」を唱えるわが病院では、1人3円で3分間の診療を行っているために朝から晩まで最貧階級の人々が門前に市をなして詰めかけるのだった。5/22

私はただ一人天守閣に籠って孤塁を死守していたのだが、敵が高い梯子を掛けて、唯一の進入路である小窓から顔をのぞかせたので、私は槍を突いては撃退していたのだが、小半時してからとうとう白旗を掲げて降参した。5/23

「寺子屋小僧、寺小屋小僧」と莫迦にされ続けていたので、なんとか独学で大学院に入学できたときには、ざまあみやがれ、これでようやくおいらも一人前だぜと空に向かってうそぶいたことだった。5/24

長い世界漫遊の旅から帰国してみると、投資会社の社長が絶好の物件を前に何もしないで指をくわえているので、「全財産をはたいてすぐにこれを買いなさい」とアドバイスしたら、一気に相場に火がついて、彼は億万長者になりあがってしまった。5/24

私はふとしたきっかけで知り合った夫婦と交際するうちに、艶めかしいその夫人の怪しい魅力の虜となって、さながら蟻が蟻地獄の擂鉢に落ち込んでいくように沈み込んでいった。5/25

私がジャイアンツの青木のように粘りに粘って四球を選んだおかげで、次の打者は初球をヒットすることができたんだ。5/26

私は突然、自分がまだ卒論を書いておらず、履修すべき単位がいくつも残っていて、つまりは大学を卒業していないことに気づいて、焦って、急いでキャンパスに駈けつけたのだが、生憎真夜中で扉は締まっていて誰もいないのだった。5/27

S社の商売は、手が込んでいた。中古品の安い机を大量に並べておいて放火して、「ここには昔有名な大寺があった」と主張して、各方面に働き掛けてその再建の仕事を自社に引っぱってくるのである。5/28

「あんたの企画書はなかなかよく出来ている、と大手商社のMさんが褒めていたよ。早速フォローしてみたらどうだね」と専務がいうので、私はすぐに出かけようとしたのだが、肝心の企画書の中身をすっかり忘れてしまっていることに気付いた。5/29

小学館の梅沢さんの好意で、私は病気の妹の付き添いでその病院に寝泊まりすることが出来たが、妹の病が癒えたらただちに二等兵として戦場に派遣されるに違いないと思うと、夜もおちおち眠ることができなかった。5/30

今日は、私の家系の最初から四代目の祖先が亡くなった命日である。彼はそのもっと遠い祖先の時代から引き続いて時の権力者と激烈に戦ってきたのだが、それらの詳細については誰にも語らずに、さほど長くもない生涯を閉じたのである。5/30

会社は今日で御仕舞なのに、それを知ってか知らずか大道君が、アメリカの海外研修から帰国したばかりの女子からおみやげをもらって「ありがとう」とお礼を言っているのを聞きながら、私はタクシーに乗り込んだ。

運転手に「駅前の食堂に行ってね」と告げたまま、座席に寝転んで曇り空を眺めていると運転手が突然私の手をつかんで「お客さん冗談はやめてくださいよ」と言うので、握りしめていた左手を開けると、100円玉が4つだけ入っていた。5/31

 

 

 

夢は第2の人生である 第29回 

西暦2015年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

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前線で戦う兵士たちは全員ワイヤレススピーカーを装着していたので、強力な敵軍に遭遇して奮闘苦戦する現場の状況が、ここ司令塔でも手に取るように分かったが、彼らはけっして「天皇陛下万歳」とか「お母さん!」とか無駄な言葉は口にせず、次々に無言で玉砕していった。4/1

カーマイケル氏は、日本軍占領下の南洋諸島で諜報活動に従事していたそうだが、それがいかに危険で困難を極めた命懸けの業務であったかについて、我が軍に捕えられてからも縷々語り続けるのであった。4/2

久しぶりに展覧会に行ったら、畳10帖敷きくらいの大きさの絵が会場狭しとぶら下がっていたが、不思議なことに私らは、その絵を貫いて歩くことができた。聞けば画用紙に描かれた原画を、最新の4D技術を用いてプロジェクターで投影しているという。4/3

奇妙な人形が現れでたので、そいつをクリックすると「4年間どうもありがたう」と言いながら、深々とお辞儀をして消え去った。4/4

夕方になったが、まだ試合は続いた。12回裏2死満塁。すっかり日が落ち、暗くなった球場で私がはなったライナーは、左翼手のグラブを掠めて空高く舞いあがり、やがて見えなくなった。4/5

W氏に、ぱったり出くわした。この人は、日本一の広告会社に勤務していたとき、クライアントの営業を担当していたが、なにか不祥事を起こして首になり、傘下の小さな会社に飛ばされたはずだが、ちょっと挨拶しただけで、逃げるように去って行った。4/6

当社のキャンペーン「ライフ・イズ・ビューチフル」が、世界各国のみならず国連の年間共同キャンペンとして採用された、という速報を知った私は、早速社長に報告しようと社内を探し回ったのだが、「1か月前から行方不明になっている」と専務が言うので、唖然としてしまった。4/7

すでに私を含めて2人のカンフーが雇われていたが、ステージ全体がおよそ30mもあり、演者1人が3.5mを動くとすれば、少なくともあと6人の少林寺拳法の名手が必要だった。4/8

私たちは平君の案内で、泉佐野の辺りをのんびり歩いていたのだが、突然平君が「われ何処に行かん!」と叫んで、大阪支店に向かっていっさんに走り去ってしまったので、クマゼミたちが大声で鳴き喚いた。

それから路に迷ってしまった私たちは、ようやく大阪平野を見渡す峠への獣道を発見して小躍りしたのだが、麓へ下ってゆく路のいたるところに、夥しい黄金いろの雲古がてんこ盛りになっているので、それらを踏まずに歩くのはとても難しかった。4/9

やがて私たちは小汚い大学に辿りついたが、その大学に勤務していたさる外国人非常勤講師は、「おいらはそんな就活指導なんか絶対にやんないぞ。そんなギャラなんかもらってないもんね」と、不平たらたらでキャンパスをのし歩いていた。4/9

異常な金融緩和政策のために、銀行ではどんどん金を貸してくれるが、ヴェンチャービジネスに対しては、例外なく渋い顔をするので、IT企業の若手経営者たちは、美貌で知られているネット銀行の女性CEOに多額の貢物をして、数千万円の融資を受けていた。4/10

彼らは情報交換と称して、その美人CEOが経営し支配人も兼任している銀座の超高級クラブに、夜な夜な出入りをしていた。その毎月の飲食費ときたら、借金の利子の数十倍に上っていたのだが、そんなことなど忘れたように、毎晩セッセセッセと通いつめていたのだった。4/10

私は水の中の映画館で、2本の映画をみた。1本は馬を殺す映画で、もう1本はありきたりのボーイ・ミーツ・ガール物だったが、スクリーンと座席の間に色とりどりのたくさんの魚が泳いでいるので、くわしい内容は最後まで分からなかった。4/11

松下表具屋の店先を覗き込むと、橋本画伯と表具師の間に、青白い幽霊のような男が2人の両肩に手を置いているのが見えたが、この謎の人物は、後ろにぶら下がっている橋本画伯の無人の日本画の中から抜け出してきた若侍だった。4/11

火星社書店でエロ本の立ち読みをしていると、口の中がザワザワする。鏡の前で口を開いてよく調べてみると、大臼歯の詰め物が取れた痕から、1本の鮮やかな緑色の若葉が伸びていたので、私は口を大きく開けたまま暮らそうと決めた。4/11

どんどん記憶が失われてゆく。よほど困ったときには、庭に備え付けてある碾臼に頭を擦りつけながら、ごんごん碾いていると、いつの間にか忘れ去られていたわが親しき思い出が、ハラハラと踊り出てくるのであった。4/12

なぜか村の祭りの余興の審査委員長に指名された私が、12組の演目の中からかねて思いを寄せていた娘のひな踊りを最優秀賞に選ぶと、村人の大多数が異議を唱え、あまつさえ投石を始めたので、身の危険を感じた私は、娘の手を引いて海辺に走った。

渚にもやってあった小舟に飛び乗って海を漕ぎ出すと、村人たちも2艘の船で後を追ってくる。懸命に櫂を操ったが、さして遠くに行かないうちに追いつかれ、私たちは奇怪なお面を被った村人たちの櫂で散々打たれ、血まみれになって海に投げ出されてしまった。4/12

この野球チームには、1軍と2軍の間に「かみつき屋」と称される連中がいて、試合中も練習中もたえず真剣勝負を挑んでくるので、我われ1軍の選手も、一瞬たりとも息が抜けなかった。4/13

その港には、巨大な張りぼての女たちが三々五々憩うていた。その顔を良く見ると、目や鼻や眉毛はなく、その代わりにカスリーンとかジェーンとかキティとか女性の名前が両目の辺りに大書してあった。ここはなんと台風の基地だったのだ。4/14

彼女と遠距離恋愛をしていたのだが、交通費が莫迦にならないので超廉価の携帯を買うて、来てなんちゃらかんちゃら話していたら、「これから上京するのでそのまま繋ぎっぱなしにしておいてね」と彼女が言うてきた。4/15

その収容所では1日2回食事が給されたが、弱った病人や老人はそれさえ食べきれず、みんなが食堂から引き上げたあとも、毎回1人や2人は食卓にうつ伏せになったままの者がいた。彼らは、私たち料理人の手で迅速に処理された。4/16

俺が捕虜をわざと逃がしてやったことを、相棒はひどく気にしていたが、俺は「その責任は全部おいらが取るから、お前は心配するな」と何度も言い聞かせた。俺はすでに覚悟を決めていたのだ。4/17

あれから3年、今夜は故郷の町の温泉祭りだ。ムショから出たばかりの俺は、裾までからげた両脚を温水が流れる小川に浸しながら、3年前に俺をチクッて監獄に送った密告野郎がやってくるのを、今か今かと待ち構えていた。4/17

同窓会というものに初めて出かけてみたが、私が誰かも分からないようだし、出席者の名前を聞いても誰ひとり見分けることができないので、焦っているうちに彼らの顔がとろけ出して、まっしろけののっぺらぼうになってゆく。4/19

早朝、長身の若い娘がわが家のポストに何かを入れて立ち去ったので、2階から降りて調べてみると、写植の紙焼きでした。その日の午後、私が筋違橋の辺を歩いていると、その娘が桜映社という看板の写植屋で働いている姿が見えました。4/20

私は軽く助走してからホップ、ステップ、ジャンプの三段跳びをやってみた。すると私の体は、まるでツバメのように軽々と宙に浮き、しばらくは着地しなかったので焦ったが、いったいいつの間にこんな軽業を身につけたのか、と訝しく思った。4/21

脳の具合が悪くなって入院していた私は、治療のために良いとされるフルメタルジャケットを着せられたたまま、主治医の診察を受けるために、深夜の病院の廊下に並んでいたのだが、その長い長い列は、いつまで経っても縮まらないのだった。4/21

その病院では、だんだん水不足が深刻になってきたが、神明社の階段の下を歩いてきた者だけが、水道のコックを捻ると1杯の水が出ることが分かったので、この参道も、朝から真夜中まで押すな押すなの大行列だった。4/21

けれども、容態が悪化して身動きできなくなってしまった私が、山口君と茂原さんに頼んでコップ2杯の水を枕元に持ってきてもらった直後に、誰が神明社詣でをしても、もはや水道からは一滴の水も出なくなってしまった。4/21

今回の試験は、1平方キロもある広大な原っぱで行われることになった。原っぱのあちらこちらに置いてある回答箱の中に、氏名と番号を書いた問題用紙を入れるのだが、問題の数はあまりに多く、原っぱはあまりにも広大なので、私たちはたちまち汗まみれになってしまった。4/21

7万円のプレーヤーと10万円のアンプで、ジャズやクラシックのLPをかけて、会社の全部のフロアに大音量で流していると、いろいろ文句をいう奴が出て来たので、叩きのめしてやりました。ざまあみろってんだ4/22

栗の木の林に入ると、大きなカブトムシがちょうど目の高さに止まっていたので、私はこれを耕くんに取らせようか、健ちゃんに取らせようか、それとも卓ちゃんに取らせようか、あるいは亮ちゃんに取らせようか、または陽子ちゃんに取らせようか、ひろくんに取らせようかと迷いに迷った。4/22

そこへ辿りつくためには、どうしてもこの急な坂を登りつめなければならないのだが、坂道のいたるところに、悪臭を放つ糞尿やら泥や雑多な塵が堆く積み重なっているので、私は蝸牛の歩みほども前進できない。4/23

「バブルの時に、僕のような者にもちょっとしたお金が入ったので、渋谷の坂の下の地下を走っている道を1本買って、「渋谷日不見」と名付けたんだけど、こないだ渋谷の地下街で迷子になったときに、そのことを思い出したんだ。
んで渋谷も大規模再開発で繁盛しているようだから、この道を「シブヤヒミズ」と改名して、僕の専門の音楽CDや、楽譜や、ふぁっちょんや雑貨や飲食などを精選した地下名品街をつくったらいいんじゃないかと思うんだけど、どうかしら?」と、坂本教授が聴きとり難い声で呟いた。4/24

四方八方から打ちだされるひょろひょろミサイルを、全部この毛むくじゃらの両腕を振り回しながら叩き落としてやった。私はキングコングだ。4/24

どんな気に入らんことがあったのか知らんけーのお、女衆が家の司に刃向かって、全員で首を吊って死んでしまおうとしたらしかが、いざとなると、蛮勇の振るいどころがのうなってしもうたとみえて、けっく泣く泣く元の鞘に戻ったげな。4/26

誰かがすぐ傍で生々しい呼吸をしているので、ハッと飛び起きたら音が消えた。それはどうやら私の呼吸音だったようだ。4/27

夕方そろそろ雨戸を閉めようかと思っていたら、応接間のガラス戸が開かれていて、白い顔がこちらを覗いていたので驚いた。しばらくすると、その顔の持ち主は姿を消したが、どうやら長男と同じ障がいを持つ娘らしい。4/27

教授から中世の宗教曲「ハルレ・ミサ」曲の歌詞を朗読せよ、と命じられた私は、急いで自分のテキストや楽譜を調べたがどこにもないので、隣の女子学生から借りた教科書を見ながら、らあらあラテン語を呟きはじめたら、教授がもういいと制止したけれど、大声で叫び続けた。4/27

この公団での私の仕事は、はっきりいってほとんどなかったので、私は朝9時に出勤すると直ちに自宅にとんぼ返りして、朝寝してから再び出勤し、公団の食堂でランチを食ってから、公園のベンチでたっぷり昼寝して、かっきり午後5時に帰路につくのであった。4/28

てんでお金がないものだから、私は第一詩集「赤と黒のサンバ」を自分のパソコンで編集・印刷して道行く人に配ろうとしたが、通りすがりの一人のインディアン、もとい赤黒い顔をした先住民だけが、恭しく一礼をして受け取ってくれた。4/29

巨大な体躯を誇るそのビッグピープルの内部には、無数の賢いリトルピープルが住んでいて、阿呆な大家が莫迦げたことを仕出かさないように、日夜監視しているのだった。4/29

しょんべんをしたくなったので、ある大学に忍び込んだら、古くて狭くて暗い教育学部であった。トイレが見つからなかったので1階に降りると、若々しい女子大生が嬌声をあげて戯れていたので、「もはや自分の青春は終わったのだ」と言い聞かせていると、「お前は胆汁質だな」という野太い声が聴こえた。4/30

 

 

 

夢は第2の人生である 第28回 (特別付録・夢中詩「平成犬猫歌合戦」)

 

佐々木 眞

 

西暦2015年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

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時代はますます閉塞し、すべての人民は投獄された。われわれは牢に入れられたまま労働し、生活することになったのだが、権力者たちの圧政と暴力によって完膚なきまでに打ちのめされ、もはや抵抗する気力すら喪っていたために、奴隷のようにいいなりになっていた。3/1

銀座通りのど真ん中で、黄金いろのウンチが湯気を立てていた。3/2

「こんな格差社会だから、最底辺に生きる人を対象にした、親兄弟4人でせんべい布団1枚に寝るような木賃宿を開きなさい」と、隣の玉ちゃんがせっかく勧めてくれたというのに、断ってしまった。地底人の俺たちには、そんな道しか残されていなかったのに。3/3

ロスに旅行した時、3分で人と溶け合う奇跡を伝授された私は、そのテーブルにいた5名をたちまちアマルガムのように接着してしまったので、多忙な連中が身動きできなくなってしまい、おおいに怨まれた。3/4

僕が駅への階段を降りていたのに、車で送ってやると云うてきかない。

最近発見された「佐々木眞侯維新色好日記」は面白い。数多くの同名の別人物をめぐる凸凹噺もくわしく載せられているからだ。3/5

「君は私たちの子ではない。アフリカの奴隷商人がマラケシ島で売っていた父なし児なんだ」と告げると、息子は「そんなはずはありません。私はお父さんとお母さんの子供です」と言いながら、ラアラアと泣くのだった。3/6

「これを新しい会社のロゴマークにすればいいじゃないか」と云いながら、私はどこかのデザイナーが作った奇妙な図像を示すと、広報の前田さんは小首を傾げた。3/6

久しぶりに北鎌倉まで散歩に行って疲れたので、横須賀線で帰ろうとしたのだが、何台待っても来る電車が中国や韓国やモンゴルの人たちで超満員なので、仕方なくあきらめてまた歩いて家まで戻った。3/7

無名の国の無名の村で開催される「なんちゃらフェス」に招待された私は、なんちゃら航空で現地に到着したのだが、小学生のころ郷里のなんちゃら病院で手術した左肩が激しく痛んでしまい、とうとう1曲も演奏できずに引き返した。3/8

あたいは大丈夫だよ、もう中国語の芝居のセリフは全部頭に入ってる。でも心配なのは、いま連日公演している日本語の芝居のセリフに、その中国語のセリフが紛れ込まないかということなの。3/8

ヨーカ堂で販売していたワンポイントウエアの商標が使えなくなったので、「ワンポイントウエアからキーポイントウエアへ」という企画書をでっちあげ、鍵のマークのワンポイントウエアを提案したら、意外なことにすんなり受け入れられた。3/8

憲法改定の国民投票の会場に行くと、「改定にイエス」と書かれた自動販売機のような投票機械と「ノー」と書かれた機械の2種類が並んでいたが、裏に回ってよく観察すると、電線がつながっているのは「イエス」の方だけだった。3/9

彼女なら銀座の山本ネクタイで働いているはずだよという友人の情報を頼りにその店を訪ねてみると、店長が「先月末に辞めてロスへ行ったよ」と教えてくれた。3/10

広瀬さんチの土地を地元のヤクザがぶんどろうとしていたので、おいらはそれを止めさせようとしたのだが、だんだんヤクザに対抗するのがしんどくなってきたので、とうとう逃げ出したが、その結果、健さんに対する尊敬の念が高まった。3/11

私が熟睡していると、すぐそばで物凄いイビキが聞こえたので、たちまち目が覚めてあたりを見回したが、誰もいない。イビキの主はおそらく私だったのだろう。3/11

反乱軍に捕らわれて鋭い刃に全身を串刺しにされて死んだメソポタミアの王は、彼に逆らった3つの蛮族を呪いながら死んだが、3人の蛮族の長も、王と同じやり方で虐殺された。3/12

私は長い間この街に来たことがなかったが、ふとこの街の大学をまだ卒業していなかったことに気付いた。急いで教務へ行くと3つの教科のレポートと卒論を提出すれば証書を授与するというので、しばらく当地に滞在して長年の懸案を果たすことにした。3/12

いよいよレポートすべき国文学講座が始まる日、キャンパスの入り口で「こっち、こっち」と私に手招きする人がいるので、近寄ってよく見ると今中さんだった。3/13

どうして彼がこんな所にいるのか分からなかったが、今中さんは、「早く、早く。急がないと授業が始まってしまうぞ」と、私の手を取るようにして坂の隣を上昇しているエスカレーターに乗り移った。

ところがそのエスカレーターが鈍速なので、焦った2人が3段跳びの駆け足で飛躍してると、到達まぢかなエスカレーターがちょんぎれて、私たちはまるでだらりの帯のようになった階段の先端に両手でぶら下がって、ひとの助けを呼ばなければならなかった。

ようやくキャンパスの構内に辿りついたが、今中さんは「今日の授業は最後に漢字の書き取りテストがあるから、どうしてもその参考書が必要だ。僕が一っ走り書店に行って買ってくるから、君はここでまってて呉れた給え」と云う。

それきり今中さんはいつまで経っても戻ってこないので、しびれを切らし焦りまくった私は、傍を通りかかった学生に教室の場所を聞くなり、全速力で走りだした。教室に着くと大勢の人が立錐の余地なく詰めかけて授業どころの騒ぎではない。

私の目の前には仏文5年生の怒りのチビ太やイヤミや蝶の好きな多田さん、グラン佐々木、それに六つ子なども勢ぞろいしていて、徒党を組んで階段教室を下りながら全員が黒づくめの犬になってしまって、「なんだ坂、こんな坂」と大声で歌いながら踊り狂うている。

ワン ワン ワン
Wang Wang Wang
ワワン ワワン ワンワンワン

おめえは、なにを舐めてんだ
あんたのお尻を、舐めてんだ
くすぐったいから、やめてけれ

なんだ坂、こんな坂
ワンワン、キャンキャン ワンワンワン
おいらは犬だ あたいは犬だ

秋田犬、津軽犬、岩手犬
阿波犬、越後柴、樺太犬
なんだ犬、こんな犬

紀州犬、高安犬、薩摩犬
四国犬、屋久島犬、縄文犬
お前は、単なる犬に過ぎない

森林狼犬、仙台犬、大東犬
秩父犬、珍島犬、土佐闘犬
そうさ、おいらはただの犬

羽衣之柴、肥後狼犬、豊山犬
前田犬、北海道犬、豆柴犬
犬は犬でも、国産犬

雪甲斐犬、琉球犬、鷹版犬
三河犬、重慶犬、日向犬
そうさ、あたいは Made in Japan

なんだ坂、こんな坂
ワンワン、キャンキャン ワンワンワン
おいらは犬だ あたいは犬だ

すると別の学生の一隊が、「これからは国産ドッグファイトからグローバル・キャット・ファイトの時代じゃ!」と叫んで、ドラえもんやのび太と一緒に真っ白な衣裳に身を包んで「猫じゃ猫じゃ」と歌いながら、講堂の舞台の上で踊りはじめた。

ミャオ ミャオ ミャオ
Myaw Myaw Myaw
ニャ、ニャ、ニャン ニャン

おめえはなにを舐めてんだ
あんたのお尻を舐めてんだ
くすぐったいからやめてけれ

なんだ坂、こんな坂
ニャー ニャー ニャニャン、ミャー ミャー、ミャー
おいらは猫だ あたいは猫だ

ぶち猫、三毛猫、どらの猫
白猫、黒猫、ヒマラヤン
なんだ猫、こんな猫

さび猫、とらねこ、バーミーズ
赤とら、サバとら、純白猫
お前は、単なる猫に過ぎない

赤猫、灰色猫、斑猫
アビシニアン、オリエンタル、バナナブラウン、
そうさ、おいらはただの猫

ペルシャ、ベンガル、ターキシュ
メインクーン、ロシアンブルー、チェシャ猫
猫は猫でも国際品

キジトラ、トビ三毛、縞三毛
マンクス、ボンベイ、コンラート
そうさ、あたいは Made in the World

なんだ坂、こんな坂
ニャー ニャー ニャニャン、ミャー ミャー、ミャー
おいらは猫だ あたいは猫だ

あまりにも革命的な3次元デザイン短歌が次々に生まれてゆくので、私を拉致した入れ墨の大好きなパオパオ族の酋長も驚きあきれて、部族メンバーの全員一致で釈放されることになった。3/13

会社が経営危機に立ち至ったので、経営者が大幅なリストラを行うと宣言した。全員に残留テストを実施して点数の低い若い社員から順番に馘首するというのだが、私はもうなにもかもが厭になって、自分から退職してしまった。3/14

もはや万事休すだ。最後の戦いに敗れたら潔く死んでいくしかない、と深く心に刻んでいたはずなのに、いざ実際に破れてしまうと、腹など切らず草葉に身を隠してでもおめおめと生き延びていきたいという思いが募るのだった。3/15

隣の家のおばさんが、また近所をうろついている。彼女は歩きながらお得意のお仏蘭西語を高唱するので、すぐに所在が知れるのだ。3/16

こないだ青木君がレッド・ツェッペリンのコンサートの切符を呉れたのだが、今日またやって来て「あの切符を返してくれ」と云うので、涙を飲んで返した、3/16

顔だけは相変わらずの安倍蚤糞だったが、その猪八戒のようなお面の下に、いつの間にやら別の怪人が入り込んでいるのだった。3/16

講談社のKさんは、鯛のおすましが出てくると「私はね来月号はカブトムシの形をしたCDを読者にプレゼントしたいんだ。これくらいの大きさのね」と云いながら吸い物の中に指を突っ込んだので、茫然としていると、上司のSさんが「いい加減にしろ」と怒鳴った。3/17

長年にわたって真面目な教員生活を続けていた私だったが、ある日魅力的な人妻に一目ぼれをしてしまい、それからどんどん深入りをしていったのだが、このままではお互いに不幸なことになるといったん別れたのだが、しばらくするとまたズルズルべったりになってしまった。3/18

我われは行軍する際に、上の歯でチチチと舌打ちしたら前進、下の歯で同じようにしたら後退する、という取り決めをしたのだが、その違いがうまく伝わらなかったので、その作戦は失敗に終わった。3/19

ようやく築地までやって来たので、寿司屋でランチをつまんでいると、隣のおやじが「バブルの頃は、ここでシャンパンを8本も空けたんだけどなあ」と焼酎を飲みながらぼやくのを聞いているうちに、嫌気がさして新宿に行くのをやめた。3/19

いくら有名になったり、大金持ちになったり、権力の絶頂に立ったとしても、無理して体を壊して病に冒されてしまえば、そんなものは屁のツッパリにすらならない。そろそろあんたの生き方を変えたらどうだね、と私はナベショウに説いた。3/20

アフリカの新興国とはいえ、複数の国の大使を兼任するのは難しい。それでも私は、しょっちゅう問題を起こしている隣接する2国を、毎日のように行ったり来たりして、ヘトヘトになっていた。3/20

「さあいよいよ戦争だ、これで思う存分人殺しができるぞ」と、二人の若者が期待に胸を膨らませながら、陛下恩賜の三八銃をピカピカに磨いていたのだが、突然、地面が大きく揺れて亀裂が生じ、二人は、そのまま地底深く呑みこまれてしまった。3/21

俄か成金になった私は、友人から「東京湾の埋め立て地を買わないか」といわれたので、早速現地へ行ってみると、見渡す限り泥水が続く敷地が広がっていた。そのうち便意を催したが、最寄りのバラックまで数キロあると聞かされたので悶絶してしまった。3/22

なんたら芸大の人気教授の人寄せ講演「人類の深くて狭い穴について考える」が始まった。サクラで駆り出されていた私は、「ヨオ、大統領!」と叫んで、陰ながら応援していたのだが、案の定開講5分で女子大生の大半が退席して、閑古鳥が何匹も鳴いていた。3/23

最高級の牛肉をグルメする会に出たら、シェフが「ここは肩肉、これは腹肉」などと解説しているはしから、肉全体が次々に復元され、とうとう一頭の巨大な闘牛が誕生した。3/24

社長が「新ブランドの売り出しに最適の媒体計画を大至急作ってくれ」というので、あれこれ考えているのだが、どの媒体を使えばいいのかてんで分からないので、電通の社員が持っている媒体手帳がどこかに落ちていないか、と自転車に乗って探しに出かけた。3/25

突然壇上に押し上げられた私は、なにを言っていいのかてんで分からず、かろうじて「吾輩のこんにちあるは、ひとえに大恩ある○○先生のおかげでありましてえ」と、なんちゃら社交辞典にあるような言葉を口にしたが、その後が続かず絶句してしまった。3/26

聖戦十字軍を代表する戦士として、アラブ随一の女戦士と決闘を挑んだ私は、無残にもあっと言う間に武器を奪われて敗北し、不名誉の代償に彼女の奴隷にされてしまった。3/27

夕方、外で涼んでいると、誰かが庭から勝手に俺の家の中に入ってくるので、「なんだなんだ、おめえは誰だ」と誰何すると、「私はあなたと同姓同名なので、ここへやってきました」という。3/28

そいつはプロの殺し屋で、何度も俺に迫って来たが、あと一歩と言うところで難を逃れてきた。しかし今日はまずい。いかにもまずい。ポケットに手を突っ込んだが、いつものピストルはなく、一羽の鳩しか出てこなかった。3/29

ずっと若いころエイズに罹ったが、体に良いという井戸水を張った水槽に毎朝全身を浸していると、不思議なことに快癒してしまった。その後私はNYで新進アーティストとして成功し、金も名誉も手に入れたので、もう思い残すことはない。いつ死んでもいいと水槽を壊してしまった。3/29

新興住宅街にあるギャラリーを出て、夜の盛り場を彷徨っていると、ベネチアのカーニヴァルで見た顔を白く塗った女たちが、長い列を作って私を待ち構えていたので、その真ん中を通って屋敷の入口に通じる階段を登ってゆくと、真っ暗な部屋があった。「おおい、誰かいないか?」と尋ねたが、返事はない。誰もいなかった。3/29

私が奥菜恵似の少女と仲良くしているの知った吉高由里子の少女が、「デートしよ」といって私を植物園に誘ったので、2人で植物園に行ったあとで動物園に行ったら、猿どもが白昼公然と性交しまくっていたので「こんな不愉快な所はやめて、もっと愉快な場所へ行こう」と2人でラブホへ行った。3/30

本社から越中島の営業部に異動になったが、営業なんかやったことがなく、名刺すら持っていないので、得意先へ行っても上司や同僚の背後に隠れてしまう私を見て、みんな呆れ果てていた。

そんなある日、東映から健さんがやって来て、なんとか組の親分役としてわが社の営業を手伝ってくれるというので、興奮した私は1本の包丁を買って来て、晒しに巻いてスーツの中に忍ばせていた。

ある日みんなで雁首揃えて地方へ出張に行ったら、先を歩いていた健さんが誰かと喧嘩になったので、すっ飛んで行って、そいつのでかっ腹を正宗の包丁でブスリとやったら、上司が「よくやった。これで邪魔者は消えたから、この地区の売り上げは倍増だ」大喜びした。3/30

上等兵の一再ならぬ執拗な苛めに耐えながら、「所詮はこれがおいらの人世だったんだ」と思いつつ、黙って歩き続けていると、いつの間にか元来た地点に戻っていた。3/31

前回のロケット到着の際にはおよそ数キロの誤差があったが、今回は私が特製のグローヴでキャッチしたので、どんピシャリだった。3/31

 

 

 

ミミズ談義

 

根石吉久

 

写真-641

 

ミミズのことを書こうかと思った。
畑にまたミミズが増えているのである。

畝の脇に通路を作るのに、ポリエチレンのシートを敷き、その上を刈った草で覆ってみた。ポリエチレンのシートは、生ごみ処理用に売られている大型の黒い袋の二辺を鋏で切って作るのだが、開けば90センチ×160センチのシートができる。
90センチは歩くだけの通路には広すぎるので、シートの端を折って下に入れ込んでしまう。これを敷いたら、通路に草が生えて歩きにくくなる問題はまったく解決した。それだけでなく、畑が見通せるようになった。どこに何をやったか、どこが途中までやったままになっているかが見えるようになった。

労力が消失しにくくなったのである。

一つの仕事をしていて、畑の別の場所に行くと、先に片付けなければならない別の作業が見つかることがある。みつかったものを優先してやっているうちに、先にやっていた仕事がわからなくなる。草が生えて、先にやっていた仕事の場所自体がわからなくなることもある。特に梅雨の時期から盆にかけて、どんどん伸びる草がやりかけてある仕事とその場所をわからなくしてしまう。去年までは、草を刈って通路で乾かし、土の中に埋めることを繰り返していたのだが、草を肥料にして草を育てていることになることが多かった。
畑がいつも見渡せると、そういうことがなくなり、労力を消失することがなくなった。去年までと今年とはまるで違う。

シートの上を刈った草で覆うのは、シートが風に飛ばされないようにするためである。草がクッションになって、歩いて疲れないという利点もある。
草は乾いてからも何度も足で踏まれるのでだんだん細かくなっていく。通路の枯れ草はシートによってその下の土と遮断されるので、靴が泥で汚れるということもなくなった。
畑の帰りにコンビニに寄りコーヒーを頼むようなことをしたとき、店の中で靴が泥だらけであることに気づき気がひけたことがあった。今年からそれもない。

今は畝にポリマルチをしないことを試している。ポリマルチをしてもしなくても、畝にはミミズがいない。畝の土に混ぜる有機資材を、刈って乾かした草からモミガラに変えたが、そのことによる変化はない。枯らした草にせよモミガラにせよ、堆肥にしないで、直接土と混ぜたところにはミミズは増えないようだ。

通路に降った雨が畝の方に流れるように、通路と畝の境目になるところでポリエチレンのシートの端をめくり、土を畝に上げて、わずかな傾斜を作るという作業をすることがある。その作業をしていて、通路と畝の境に限ってミミズが増えていることに気づいた。シートの端に近いところは、シートの下にもいるがシートの上にいる数の方が多い。乾いた草が踏まれて、5センチに満たないくらいの枯れ草の層ができるが、その層の下、ポリエチレンシートの上にミミズがいる。通路の草をめくると、ポリエチレンの上をミミズが逃げる。

今は六月で雨が多い。
水を含んだ枯れ草の層の下にいるのは全部ドバミミズだ。

五月にほとんど雨が降らなかった。その間はミミズを見なかったが、雨が降り始めたら、通路と畝の境目あたりの枯れ草をめくれば必ずドバミミズを目にするようになった。10センチくらいの長さのやつが多い。

YouTube で炭素循環農法を広めている人が、ミミズのいる畑はよくない畑だと言っているのを聞いたときはびっくりした。畑にミミズが多いと言って自慢している人は恥を自慢しているようなもんだと言うのだった。
畑をやっている友達にその話をすると、友達もびっくりした。ミミズの多い畑を駄目だというのは初めて聞いたと言うのだ。

その後、シマミミズとドバミミズは住んでいるところが違うなと思った。人間の都合で、有機物の分解過程を腐敗と発酵に区別するが、シマミミズは明らかに腐敗に傾いた土の中にいる。シマミミズのいる土は臭い。

堆肥を積んであるのを見なくなった。今では、「普通の農業」は農機具会社、農薬会社、化学肥料会社に飼われているが、日本人が百姓仕事を熱心にやれた頃は、堆肥の裾にはシマミミズがいたものだ。
子供の頃、鮒を釣る餌を手に入れたいときは、堆肥の裾を木の棒でほじってシマミミズをつかまえた。棒で土をほじると腐敗臭がした。

炭素循環農法の偉そうなおやじが、ミミズのいる畑はよくないと言っているのが、シマミミズのいる畑のことならわからないでもない。シマミミズのいるところは確かに浄化された土とはほど遠い状態の土だ。見るからに酸っぱそうな感じの土だ。食ってみたことはないが・・・。

シマミミズは大きくても7、8センチの長さで、ドバミミズよりはずっと小型だ。ドバミミズの大きいやつは二十センチを越えるようなやつがある。

ドバミミズにはのんきなところがあって、雨が降ると安心して道の上などに這い出す。急に晴れて強い日差しにさらされ、潜り込める柔らかい土がみつけられずに死んでいるのを見ることがある。子供の頃は死んだドバミミズを見て、単にでかいミミズだと思っていただけだった。それがドバミミズという名前を持っていると知ったのはいつのことなのか思い出せない。
子供の頃は、シマミミズとドバミミズが住む環境が違うことには気づいていなかった。シマミミズとドバミミズを名前で区別することはなかったが、違うミミズだとは思っていた。要するに、小さいミミズと大きいミミズという風に区別していた。肌の光の撥ね具合で、違うミミズだということはわかった。

ドバミミズはたまに見るだけだから、どこにどんなふうに生きているのかは謎だった。子供がドバミミズをつかまえることができるのは、ドバミミズが子供の目の前に来たときであり、子供がドバミミズのいるところに行くことはできなかった。この場合の子供とは、ひとまず10歳前後の俺一人のことである。

堆肥を見れば、シマミミズのいるところだと知っていたから、シマミミズは住所不定ではなかった。堆肥のあるところに定住するからシマミミズをつかまえるのは簡単だった。
ドバミミズは住所不定というか、流れ者なのかと思っていた。雨の後、道の上でドバミミズが死んでいるのは、流れ者の行き倒れという感じがあった。シマミミズに較べれば、ずうたいというくらいにでかいので哀れであった。

川口由一の農法を本で読み、真似したみたことがある。真似はごく一部で、「草は刈ってその場に置く」というやり方だけを真似したのだった。朝方寝るような暮らしをしている者には、明るくなったら畑にいるような真似はできなかった。
「草は刈ってその場に置く」をやってみてわかったことは、刈って置いた草の下にドバミミズが増えることだった。ははあ、ドバはこういうところにいるやつだったのかとようやくわかった。いつ自分が大人になったのかはわからないが、ドバミミズの棲んでいるところは、おおざっぱに言って、大人になってからわかったのだった。

草を刈ってその場に置くと、草にもよるが、土と草が接触する部分ができる。根元で刈れば枯れる草なら土とよく接触する。芝草のたぐいは、根元で刈っても、切った茎の芯からまた草の体になる薄い緑が伸びてきて、前身だった枯れ草を持ち上げてしまうから、刈った草と土が接触しにくい。
ドバミミズは、枯れた草と土が接触するところを這って湿った枯れ草を食っているらしい。枯れ草の層は、たとえ3センチばかりの薄い層でも、その下にいるドバミミズに直射日光が射さないようにしてくれる。つまり日光に対する屋根になる。晴れた日には土の中から水気があがってくるから、枯れ草の下部には湿り気がある。そういうところにドバミミズがいる。あんまりみんな乾いてしまったら、ドバミミズは土の下にもぐるだろう。
芝草を刈ったところは、芝草の新しい芽が柱になって屋根は空中「低く」持ち上がってしまう。刈れば新しい芽を出さない草なら、枯れ草の屋根の下部はドバミミズの餌になる。ドバは、屋根の下にいて屋根を食っているのだ。

ドバミミズの餌、乾いた草が水を吸ったものは発酵も腐敗もしていない。発酵と腐敗の中間の状態、どっちかに傾く前のニュートラルな状態の草をドバミミズは好むのではないかと思う。

ドバミミズは活発である。こんなに移動するのかとわかったのは、畝の草を刈っている時だった。「草は刈ってその場に置く」ということをやっていると、ノコギリ鎌が畝の草を刈る震動が土に伝わる。ドバミミズはそれを嫌う。土の中から這いだし、遠くへ逃げようとして這う。けっこうきびきびと這う。しきりに逃げようとする。

ドバミミズの棲息環境がわかった頃は釣りをしていたので、ナマズやコイを釣る餌を手に入れるのに、ドバミミズのこの習性を利用した。畑に行き、畑仕事をするためではなく、釣り餌を手に入れるために、畝の草をノコギリ鎌で刈るのだ。ドバミミズがあわてて這いだしてくる。速く動くから草の間を這っていてもわかる。それを拾うと、10分もかからずに3時間や4時間釣りをするための餌は簡単に手に入るのだった。

酸っぱそうな嫌な臭いがする土、腐敗過程の中にある土の中で、ろくに動きもせずまどろんでいるシマミミズと、緊急事態を感じてしきりに動くドバミミズはまるで違う。
シマミミズは棒で掘り起こされてもろくに動かない。5センチ前後の体をノローとさせるだけだ。場所を移そうなんて気は全然ない。
ドバミミズはずうたいがでかいくせに、移動をいとわない。這うのが速い。シマミミズのように伸びたり縮んだりして進むのではない。長いまま這う。蛇のような鱗はないが、体をくねらせて進む。ドバミミズには明らかに意志というものを感じる。

子供の頃、シマミミズのことを単にミミズと呼んでいた。その頃、ドバミミズには呼び名がなかった。でかいミミズというだけのことだった。ドバミミズ、略称ドバだが、ドバという呼び名は、釣の本かなんかで読んだのかもしれない。

これだけ生活環境も生活態度も違うものを、ひとくくりにミミズと呼んで、「ミミズのいる畑はよくない畑」などと言う炭素循環農法のおっさんは、あまりにも大雑把だと言うしかない。こんなおっさんが好き勝手を言って、シュタイナーだのなんだのとテツガクテキなことをぬかすのを聞くと笑ってしまう。炭素循環農法自体が大雑把で、シマミミズのようにまどろんでいるのだ。

シマミミズとドバミミズくらいはちゃんと区別しろ。そうじゃないと、炭素循環農法自体がシマミミズだ。反農薬でやるかいがない。俺のことじゃない。炭素循環農法にとってかいがないのだ。
川口由一なら、シマミミズとドバミミズの違いのことはすぐにわかってもらえるだろうと思う。川口の農法が俺に一番役だったのは、鯉の釣り餌を手に入れることだったにしても・・・。
川口がシマミミズとドバミミズを区別しないということはないだろう。福岡正信はどうだろう。あの人は大雑把というのではなくおおらかなのだが、シマとドバは区別しないかもしれない。

ドバミミズのいる土は臭くない。枯れ草が湿った臭いはするが腐敗臭ではないし、発酵臭でもない。
ドバミミズの糞ははっきりそれとわかるくらいの大きさがある。丸い糞だが、直径で2ミリくらいある。片手で掬うだけですぐ集まるくらいにポリエチレンのシートの上にいっぱい糞をしてあるところでは、糞を畝に移して土とまぶしてしまう。何が「ミミズのいる畑はよくない畑」かよ。臭わないドバミミズの糞は、そのまますぐに土になる。それが悪い土だとはとうてい信じられない。「俺、ドバミミズの味方です」であるのであるのであるのである。

ドバミミズの糞を畝の土に混ぜてやれば、畝の土は良い土になるんだよ、炭素循環農法のおっさん。ドバミミズの糞を微生物がまた食ってくれるんだよ、おっさん。

炭素循環農法に限らない。川口由一だってそうだ。理屈にとらわれたら、そこでまどろんだシマミミズになるのだ。

いきなりだが、吉本隆明だってそうだったと思う。晩年の談話をメディアがねじ曲げた可能性は考えられるが、それ以前に、朝日新聞や岩波書店を毛嫌いする一方で、原発村から原稿料をもらっていた。そんなことにつべこべ言う気もないが、亡くなる前の発言は、自分が長年言い続けた理屈に自分がとらわれてしまっていたと思う。あの事故を直視して、事故そのものから考えていったとは思えない。起こったことをあまりにも速く判断し、被害を小さく見積もってしまった。ただいま現在15/06/30でも、被害の規模は本当はわかっていないのだ。

吉本は科学に対する信仰と科学者に対する信頼が強すぎた。科学者連中も金で転ぶんだということは多分一度も書いたことがないのではないか。科学者が白を黒と言うことはあるのだ。福島第一原発事故直後に雨後の筍のようにテレビに出てきたやつらを見よ。
そんな連中は科学者でもなんでもないと言うのなら、それはその通りだ。しかし、吉本はいつも科学者には甘かった。

福島第一原発が爆発した後、「原発をやめれば猿に逆戻りだ」という発言を読んで、冗談じゃねえと思った。

吉本は、京都奈良くんだりの四季の風情だけ言葉にする詩人どもを否定したかったのかもしれない。その頃にでも、四季を歌わずに、四季に従っていた百姓たちはいた。百姓たちから搾取したのでなければ、キゾクドモは歌など歌っていられなかった。
その百姓たちがどんなふうに土とつきあっていたかは、記録としては何も読んだことがない。そういうものはまるで残されていないのかもしれない。だからあてずっぽうを言うしかないが、その時代では、土の浅いところに枯れ葉などの有機物を混ぜ続ける「古代農法」とそんなに距離はなかったのではないか。鎌倉か江戸かは知らないが、牛や馬を使って土の深いところまで耕すようになって「古代農法」は廃れたのではないか。記録がない限り、自分が今やっている農法からのあてずっぽうを言うしかないのであてずっぽうを言っている。

「古代農法」という語は、炭素循環農法からの借り物であることはお断りしておかなければならない。

炭素循環農法が「有機物を土の浅いところに混ぜる」と言うとき、「浅いところ」というのがミソである。何度も当てずっぽうで申し訳ないが、「浅いところ」というのが「古代農法」の眼目だろうと思う。それは「耕す」とか「耕起」という観念とは違う。単に「混ぜる」というだけのものだ。5センチから10センチ程度の土を動かすだけなのだ。

土が軟らかくなってくれば、何の道具も要らない。手で混ぜるだけでできる。それを古代の人々が知らなかったとは考えにくい。

「古代農法」というものがあったとして、それはただ想像することができるだけだ。これが農の原形だろうというものを、想像し、やってみることができるだけだ。

奈良時代や平安時代あたりでも、「混ぜる者たち」は「歌う者たち」とはまるで違うものを見ていたのだと思う。眺めて歌う者と、土の硬さや柔らかさを触ることで知る者とは、まるで違うものを見て(観て)いたのだと思う。同じ四季を相手にしていたのであっても、目や耳で「観る」者たちと、手で触って「観る」者たちがいたのだと思う。
身分も糞もなく、その違いはあったのだと思う。

吉本の言葉には、こちらの胸のまんなかにずどんとくる言葉がある。だけど、ずっと読んでいるうちに、なんか違うんじゃねえかというわだかまりがたまってくるのは、吉本が農を知らなかったということなのだろうと思う。おそらく科学ほどには農を知らなかった。そんなことは、俺が東京の下町の暮らしを、暮らしそのものとして知らないことと同じで、知っていたからどうだというのでもない。それは体に根付く前の知識に過ぎないというだけだ。

吉本さんは農村を知らないんじゃないかと正津勉が言ったことがあり、その通りだと思ったことがある。今は、それも違っていたと思う。吉本は農政も農村も知っていたと思う。隣の家の晩飯のおかずまでわかるようなところは、東京の下町も農村も同じだ。それに対する嫌悪や愛着は同型ではないかもしれないが、慣れの度合い、親しみの度合い、それに対するひそかな反発の度合いというところでは同じようなものがある。
吉本は農政も農村も知っていたが、農そのものは知らなかったのだと思う。俺の中にわだかまってくるのはそれだけのことだ。それはしょうがないことなのだ。

俺が読んでいる吉本隆明は、土佐の松岡祥男さんが発行している「吉本隆明資料集」のシリーズだけだが、喉に魚の骨がひっかかったような感じがあって読み続けることをやめることができない。そういう種類のわだかまりがある。

農って何だ。土という基体に触るものだ。土に触る体が知るものだ。土に触る体が知っていくものだ。それは書くという作業に似ていないか。自分が書いた言葉を自分が読んで、反芻される過程が書く作業にはある。
固かった土が軟らかくなっていくプロセスに触り続けることは、畑という原稿用紙にびっしりと字を書くようなことではないか。反芻は、目の前にあり、しかも向こうにある。書くという行為がこっちにあるものなら、農は向こうにある。
菌が世代交代を繰り返し、ミミズが小動物が反芻し、また菌に返す。言葉も、菌であり、ミミズであり、小動物である。目に見えたり見えなかったりし、育ったり育たなかったりする。

俺の農は、市場経済に取り込まれる前のものだ。いや、鍬や鋤や牛や馬以前のものだ。そこにポリエチレンのシートを一枚噛ませただけのものだ。

これは体力のない人にもできる。基本形だけだったら、道具も要らない。ああ、200円で買えるノコギリ鎌一本くらいはあった方がいいか。農薬も科学肥料も農業機械も使わずに、少なくとも自家消費分の野菜を作ることはできる。

農ってのは、タオってことだなとは思うが、それで話が通じるニホンの現在ではない。ひとまず、ドバミミズにかぶせられるフウヒョウヒガイをひっぺがすことくらいから始めるしかないのだ。

 

 

 

Les Petits Riens ~三十五年はひと昔

蝶人五風十雨録第2回「六月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 

 

1981年6月30日 火曜
記事欠落。

1982年6月30日 水曜
巴里Rue de Carneの Hotel Stellaに宿す。

1983年6月30日 火曜
AddendaのCM。CⅩのアナウンサーのフィッテング。

1984年6月30日 土曜 曇り時々晴れ
AddendaのCM。ベルギー大使館のシャンタル・コルネイユ美人にて好まし。モデルが地球儀を投げるアイデアは余の演出案なり。久野去り、永原入社。

1985年6月30日 日曜 晴れ
巴里にて朝から夕方まで愛機ベータムービーにてセーヌ、エッフェル、凱旋門、ノートルダム寺院、メトロの中などをライブ撮影。夜Hotel Concorde St.Lazareのバーにて偶然J=L.ゴダールに会う。昨日はスイスのロールの自宅兼スタジオで一緒だった。

1986年6月30日 月曜 曇り
午後電通にてソフィージョルジュTVCM試写。原君の演出なり。

1987年6月30日 火曜
アルフィオにて池田ノブオvs今井広報室長MTG。

1988年6月30日 木曜 曇り
今年の梅雨はうっとおしいが空梅雨ではない。雨も降る。橋本次長、宣伝部長としてダーバンに転籍。

1989年6月30日 金曜 晴れ
ナベプロS課長来社。チョー・ユン・ファの「男たちの挽歌Ⅱ」をみる。日本のやくざ映画からの引用があって笑わせる。

1990年6月30日 土曜 曇り
会社休みて「福翁自伝」を読む。プロパン屋のおじさんがプロパンの運搬で傷ついた玄関の石段を丁寧に直してくれた。次男のテスト結果悪し。前途を憂う。

1991年6月30日 日曜 くもり
妹が黙想会を終えてわが家にやって来た。新宗教家となりて大悟せしか。ユーゴ・クロアチア共和国と連邦軍の戦い再燃の気配あり。

1992年6月30日 火曜 雨
課長会。気合いを入れて報告してやった。マリークレール、GQ、オッジの編集の人たちと会う。

1993年6月30日 水曜 雨
ボーナスでる。去年より多いのか少ないのか分からず。田中さんが庭に植えてくれた桃が
2個なりました。

1994年6月30日 木曜 くもり
午前中かなり大きな地震あり。午後3時より会社の前の大蔵省住宅で不発弾処理あり。村山内閣組閣終わる。副総理兼外相に河野、大蔵武村など。主要部は自民が抑える。
スタイリストの鈴木さんからパーカー万年筆を頂く。余に「啓発された」と仰るが身に覚えなし。

1995年6月30日 金曜 くもり 蒸し暑い
真夏のような暑さの中を表参道、原宿、渋谷とマーケットリサーチ。HMVにてマクベス,死の都、薔薇の騎士のLD買う。1万4千円也。

1996年6月30日 日曜 くもり
昨夜次男がパリに行きたいというので地図を出して説明してやった。
長男と一緒にいると私を嫌って叩くので困る。

1997年6月30日 月曜 晴れ
香港本日をもって英国より中国に返還さる。じつに155年ぶりのことなり。チャールズ英皇太子、マウントバッッテン総督、中国李鵬首相参加の祝典開かれたるが生憎の雨なりき。

1998年6月30日 火曜 晴れ 暑し
失業率1%。午後伊藤忠ファッションシステム、米国マテル社との三者会談。交渉不調ならタカラのジェニー人形と組むという案もある。

1999年6月30日 水曜 雨
昼豪雨あり。余は長年務めた会社を辞するのほか道なきか。

2000年6月30日 金曜 晴れ
午後同文社の前田、斎藤両氏と池袋に無印良品を訪ね、婦人画報メンクラ企画を売り込む。午後五反田ダーバンにてメンズ打ち合わせ。同級の直木賞作家、高橋義夫氏起用案でOKとなる。

2001年年6月30日 土曜 小雨
終日文化服装学院講義の準備をする。

2002年年6月30日 日曜 くもり
W杯決勝戦カーンの健闘空しくドイツ0-2でブラジルに敗れる。北朝鮮が韓国船を銃撃し4名死す。太刀洗にてニイニイ蝉鳴く。

2003年年6月30日 月曜 はれ
昨夜突然次男帰宅し、寿司を喰らいて夜また戻る。3月以来の椿事なり。丸坊主となりてなかなか男前なり。余を前にしていろいろ批判する。頼もしきかな。

2004年6月30日 水曜 雨
台風襲来の余波で、新幹線止まる。義母縁側から転落すれど、さいわい無事なりき。

2005年年6月30日 木曜 雨のち曇り
工芸大の三浦さんは綺麗だ。次男に30万振りこんだので次男よろこぶ。ビデオを買ったそうだ。

2006年6月30日 金曜 曇り暑し*
とうとうたまりかねて文芸社に催促のメール入れる。文化の試験の採点をする。
小泉がブッシュを訪ねて、プレスリー大好き等々莫迦なことを喋っている。

2007年6月30日 土曜 晴れのち雨
カーペットを干した。耕と熊野神社に行ったが例の怪しいメガネ男はいなかった。
先日宮沢元首相が死んだ。

2008年6月30日 月曜 小雨のち曇り
文化服装学院授業。建築課題で都庁タワーに登る。文化女子大講義はネット広告。

2009年6月30日 火曜 曇り
東京工芸大学へ行く。就職相談相手の学生は1名のみ。就職課のS課長は本日より厚木へ転勤となり、厚木から新任女性課長がやってくるそうだ。

2010年6月30日 水曜 雨のち曇りのち晴れ
猛烈な暑さなり。昨夜W杯日本PK戦でパラグアイに敗れる。岡ちゃんも選手もよくやった。

2011年6月30日 木曜 晴れのち一時にわか雨
耕を迎えにいったが雨が上がる。十二所で義姉たちとランチ。従弟の子の障がいありやなしやを案ず。

2012年6月30日 土曜
この日の記録欠落して無し。

2013年6月30日 日曜 晴れたり曇ったり
日経歌壇投稿全滅。市内の商工会議所で行われた高橋源一郎氏の講演を聞く。はなはだ面白し。彼はまた鎌倉に戻り、比企ガ谷辺に住んでいるようだ。

2014年6月30日 月曜 曇り
妻湘南鎌倉病院にてパニック障害の判定。すべて余のなせる業と深く反省するも時既に遅し。

2015年6月30日 火曜 曇り 蒸し暑し
新幹線車内で焼身自殺。2名死亡、負傷者多数。
ギリシアは借金を返せず債務不履行寸前。財政破綻の責はチプラス首相と国民自身にある。もって他山の石とすべし。
歯痛に耐えながら藤沢で息子の小田急回数券、大船で乾電池を買う。

 

東西で宰相居直り水無月尽 蝶人

 

 

 

夢は第2の人生である 第27回 

 

佐々木 眞

 

 

西暦2015年如月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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「をが句愛もラテジナび詩ごで安画ずづレナベデグアジも短匹ら、具女駄ぺ土地うぞ殿鴈てれぴとだんき独輪階じ上舌で、聴わ人選鬱欒きららぺち雲虫郎舎が電畜以欄たですうぬ。だち、あり典膣、具みざて」2/1

(承前)私が自分のパソコンで打って印刷したパンフレットの文章は、私以外の人間には解読できないという不可解な理由で、私は長年勤務していた茂原印刷を解雇されました。さて、この文章、読めるかな。2/1

外付けHDDが壊れてしまったので困っていたら、誰か親切な男が、「大丈夫だよ、ほら、内蔵されていたソフトを全部取り出してあげたからね」と云いつつ、長い天秤棒を振り回しながら、茶色をしたそれらを地べたに丁寧に並べた。2/2

「今日は2月3日の節分なので、神様が天からマナを降らして下さいました」と言いながら、耕君たちにケーキをあげた。2/3

ブリザード吹きすさぶ団結小屋で一晩中ガタガタ震えながら、私は改めて冬山登山は危険だと痛感していた。しかしそれでもなぜ多くの中高年の人々は、冬山に登ろうとするのか?と考え続けていた私に、天啓がひらめいた。人は死ぬために冬山にやってくるのだ。2/2

「緑が必要だ。5月の青空に強烈に映える若草のような緑が! だから私は、そのまだ見ぬ緑を求めて、全国津々浦々の山野をロケハンしているのだ!」と、その監督は叫んだ。2/3

私たち親子がその温泉場に素っ裸で入っていくと、真っ白な大蛇の親子が待ち構えていて、真っ赤な舌をチラチラさせるので、恐怖のあまり私と耕君は、ひしと抱き合った。2/4

或る人が、「○○と人質の命のどちらかを選べと迫られたら、必ず○○を選べ」と云い切ったのは、どんなに人質の体がバラバラにされていても、後から必ず修復できる自信があったからだろうが、首のない人間をどうやって元に戻すことができるのだろう、と私は訝った。2/4

僕らはお国のために役立つ善いことをしたご褒美に、全国を遊覧する無軌道不定期臨時列車を1カ月自由に乗り回す許しを得たのだが、どこへ行こうとしても定期運行の列車が間断なく走り回っているので、危なくてなかなかその隙間を走れないのだった。2/5

フマ君が呉れたペットボトルの水を飲むと、その中に入っていた虫が口の中に入ったのでペッペと吐きだしたが、これは単なる虫ではなく吸血蛭で、彼の家にはたくさん繁殖しているというのであった。2/6

三越の岡田が、自家の銘菓栗饅頭を抛り投げたので、ドタマにきた私が、彼奴に摑みかかろうとしたら、神戸のモロゾフおじさんが、梶川与惣兵衛のように懸命に阻止するのだった。2/6

土地測量の結果、3人の土地所有者のうちの一人である切通氏の所有スペースが無くなってしまったので、氏は残る2人を激しく怨んだ。2/7

バルリン映画祭の初日にメイン会場で上映を待っていたのだが、待てど暮らせど始まらない。そのうちに超満員だったはずの会場がガラガラになり、私はたった一人で取り残されてしまった。2/8

撮影が終わって草原でランチをしていると、北欧生まれの透きとおった肌をした若い女優が、どういう風の吹きまわしか艶然と微笑みながら、その柔らかいからだを押しつけてきた。こういうことは人世では稀有なことなので、絶対に機を逃してはならない。

私が彼女の手を引きながら、鬱蒼と茂った大樹の黒い木陰に身を隠し、大急ぎで抱擁し、接吻し、乳房を愛撫しているうちに、彼女は急速にその気になってきたというのに、私のはまたしても我関せず焉で、物の役に立ちそうもない。嗚呼!2/9

もうすぐ芝居の本番が始まるので、私はさっきから何回も自分の台詞を大声でしゃべったり、全身を屈伸させたりして、一瞬もじっとしていなかったが、そうすれば緊張がほぐれると思っていたからだ。2/10

急激に没落しつつあるユニットMASOPのために起死回生の新作を書けと依頼された私は、七日八夜七転八倒した挙句、四畳半の押し入れの中から出てきた旧曲「みんな、みんな、ありがとう」を恐る恐る発表した。2/10

私がひそかに盗み出したカタログを彼女に渡すと、彼女はとても気に入って5日間貸してほしいとねだる。1日、2日ならともかく、それ以上はとても無理だと断ったのだが、どうしても貸してほしいと、彼女はあくまでもねばるのだった。2/11

朝誰かから電話が来て「飛行機は今日成田から出るやつに乗るんだよ」と云われたが、何時のどこ行きの便かも分からず、チケットはおろかパスポートもないしので、いったいどうしていいのか分からない。2/12

旅行に行く学生には、学校からその費用が全額支給されるのだが、国内外各地の行き先によって値段が違う。だから僕たちは北極や南極などできるだけ遠方の海外旅行を選ぶことにしていた。2/12

旅行に持って行くBGMに何を選ぼうかとさんざん迷った挙句、「バナナボート」か「ビデBIO」のどちらかにしようと思ってヨーコに尋ねたら、即座に「ビデBIO」にしなさいと言うので、どうしていつも彼女のいいなりになってしまうのかと思いつつ、私は喜んで彼女に従った。2/12

中国の有名デパートに台湾の友人と一緒に買い物に出かけたら、その友人がどんどん値切り始めた。いつまでたっても値切るばかりでなにも買わないので、業を煮やした店長がやってきて、「いい加減にしてくれ」と怒鳴って、僕らはとうとう追い出されてしまった。2/13

敵のサロチュウ軍とわれらハクコ軍が一蝕即発の事態を迎えていたので、某国が仲介に立って国連監視団の派遣を要請したのだが、その間情勢はますます緊迫し、ふと外を見回すと、私と吉田が乗った戦車を両軍がずらりと取り囲んでいた。2/14

錦織の私は、テニスの試合を前にしていろいろ慣れないことをして疲労困憊していたので、肝心の本番では実力を発揮できず、無様な姿で敗北してしまった。2/15

ふと気付くと、何匹ものカツオが三艙の船の上に降り注いでいたので、私は網を海に入れる作業をただちに中止して、空から落ちてくるカツオを捕まえることに全力を集中するように指示した。2/15

ここアンデスの山奥深くに埋められていた茶色い金属の板が偶然発見され、これが地球各地の古代世界で共通して使われていた「カロン」という単位の重量原器であることが分かった。1カロンはだいたい1キロに相当する。2/16

商標課からこの営業部へ配転になった男は、わが社の製品につけられているすべての商標がもぐりであるから、1日も早く販売を中止してほしい、と会議のたびに訴えたが、誰も耳を傾ける者はいなかった。2/16

私が働いている外資系企業には、政治的チョンボで首になった渡辺氏や英語やフランス語はペラペラだが日本語が全然出来ない帰国子女などのユニークな社員が大勢いたが、なぜかうちの耕君もそのメンツに加わっていて、3時になると好物のキャラメルアイスを美味しそうに舐めるのだった。2/17

お隣のМサンちに、いつの間にこんな可愛い子供が生まれていたのだろう。大きなかまぼこ板に乗せられたその子の首には、目も歯も口もちゃんとついているのだった。2/18

ある企業の新任ADとして招かれた私は、先輩ADと事あるごとに対立競合していたが、企業CMの製作では2人とも社長にギャフンと言わされた。彼は私たちの案の「小異を乗り越えて大同につく」という手法で、大成功したのだ。2/19

先輩はその企業製品の機能性を、私はデザイン性を強調するプランを提示したのだが、したたかな社長は、「会社は機能やデザインより、やっぱり人だね」と云って、創業を共にした90代の3人のOGを引っ張り出して福知山音頭を踊らせたのだった。2/19

今世紀最大の天才と天才少年が一堂に会したので、大きな話題になった。まず天才が「お前は誰だ」と聞いたら、天才少年は「糞ったれ」と応じたので、世界中のメディアが「糞とは何か?」「誰とはたれか?」と大騒ぎになった。2/20

まず前菜を喰い、次いでカレーライスを喰い、最後にコーヒーを飲みほしてから外野の守備についていると、突如大空の高みからボールが落ちて来たので、思わず両手を伸ばすとグローブにすっぽり収まったので観客席は「ナイスキャッチ!」と大騒ぎだった。2/21

対立する両勢力が泥沼の戦いを繰り広げているので、とうとう本邦最大のヤクザの大親分が仲裁に乗り出してケジメをつけることになったのだが、裏世界でケジメをつけることが出来るのはやくざしかいないからこそ彼らは廃れないと改めて知った。2/22

そこで私はこの際新たにケジメカメラマンになって、世界中で対立抗争する勢力がケジメをつける現場へ駆けつけ、その証拠写真を撮ろうと思いついたのだった。ケジメカメラマン!どうだ、新しいだろう。2/22

すると山口百恵や桜田淳子、西田佐知子、ちあきなおみなどもう2度と歌わないと思われていた歌手たちの一期一会のコンサートが開催されるというので、日比谷公会堂へ駆けつけると、長嶋茂雄という人が悪くない方の足で私の突進を阻止したのである。2/22

私は腰と辞をうんと低くして「長嶋さん、申し訳ありませんが、あなたの長くのびたこの足を引っこめてくれませんか」と頼んだのだが、世紀の打撃の天才児は知らん顔して、あろうことか今度は悪いほうの足まで投げ出す。2/22

頭にきた私が、「長嶋さん、いやさ長嶋。なんてことをするんだ。これでは百恵の写真が撮れないじゃないか。おいらはこれまであんたの大ファンだったけど、今日限り生涯敵に回るぜ」と凄んでいると、王や金田選手が出てきて「シゲさん、ええ加減にしろや」と云うてくれたので、長嶋茂雄はやっと両脚を引っこめた。2/22

折悪しく春一番が吹いて一睡も出来なかったので、私は夢と眠り、眠りと夢の間を区切る鉄板を大量生産し、その2つの間に建ち上げるのに大わらわだった。2/23

開演5分前になったのに、誰ひとり聴衆がいないので、私はだんだん不安になった。このT先生の大講演会は私が企画し入場券を売りだしたから、このままでは経済的に破滅してしまう。

開演時間がやってくると先生は無人の会場に向かって「ザウルスというてもフジザウルス、ウツボザウルス、エレクトロザウルスなどなどいろいろな種類のが別々の山で美味しい水を飲みながら楽しく暮らしているんだ」と云ってワハハハと豪快に笑った。2/23

M社に投稿した短歌が入選したので喜んでいたら、似たような短歌をA社にも投稿していたことに気がついて大慌てしているうちに朝になった。2/24

ガス屋さんがやってきて配管工事をしてくれたのだが、待てよ、昨日大工さんは、「ガスの配管はとっくに終わっているから何もしなくても大丈夫ですよ」といっていたことを思い出した。はて、どっちが本当なのだろう?2/24

悪ガキどもがうちの耕君をいじめていたので、私は彼とワルツを踊る振りをしながら様子を見ていた。するとそのうちの一人が突然襲いかかろうとしたので、私は耕君を巨大な振り子ブのようにいったん遠くに飛ばしておいて、ガツンと彼奴にぶつけた。2/25

すると、私の手を離れた耕君は、その悪ガキもろとも物凄い勢いで、よもつひら坂を転がり落ちていった。周章狼狽した私は、急いで真っ暗な坂道を駆け下りて愛する息子を探そうとしたのだが、坂下から広がる黄泉の国は真っ暗で何も見えなかった。2/25

彼女はラテン、ギリシア、英独仏露語を自在に操るカリストと聞いていたので、もしかすると日本語もできるのではないかと思って、私は学食でコーヒーを飲んでいる彼女に「やあ、こんにちは」と話しかけたのだが、女のキリストのように微かに頬笑んだだけだった。2/27

はじめはいつもと同じ坂道と見えたのに、登れども登れども、いっこうに行程がはかどらない。それでも我慢して急峻な坂を登攀しているうちに、翻然と悟った。いつの間にか私の体がいつもの三分の一くらいに縮んでしまっているのである。2/28

「世界何でもギフト本舗」の高橋という人からメールが舞い込んできて、全世界の恵まれない人々のために貴殿の短歌を寄付してくれないか、という申し出があったのだが、それはいったいどういう意味なのか分からず、私は途方に暮れていた。2/28

 

 

 

Les Petits Riens ~ 三十年は一昔

蝶人五風十雨録「五月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 

 

1981年5月30日
花巻で宮澤清六氏に頂いた賢治の「貝の火」を読む。

1982年5月30日
藤沢にて「第9回神奈川県県域自閉症連続講演会」を開催。聴衆約200名。講師は東大の太田昌孝先生。併せて県域親の会総会も開催。

1983年5月30日 快晴
サミット閉幕。次男が燕の巣を壊す。壊された人が怒り狂って妻、但任の先生平謝り。友人に軽々に同調してしまう弱さが問題なり。

1984年5月30日 曇
婦人服アデンダのテレビCM「建設会社編」を、六本木スタジオAbiにて撮影。帰宅して深夜まで「宣伝会議」の生徒の課題添削をする。

1985年5月30日 晴
池袋サンシャインで「チェーンストアフェア85」をみる。この頃、三半規管がおかしい。地軸がずれる。

1986年5月30日 雨
新橋TCC試写室にて「モロン」みる。SFお笑いカルトの怪作。半蔵門ぴあにて「インディアン・キャバレー」をみる。インドの女流監督によるドキュメンタリー映画なり。

1987年5月30日 曇
会社を休んで、次男の授業参観。国語の時間で高見順の「われは草なり」の詩鑑賞。意欲的な教師だが、子供には退屈だろう。

1988年5月30日 晴
ユミリオ・エステベスの「WISHDOM」、エリック・ロメールの「友だちの恋人」をみる。後者はありそうな話をありそうに描き出す才人ロメールの気取りのない佳作なり。

1989年5月30日 にわか雨
3日続けてにわか雨。早くも夏か。デパートは消費税のあおりで売上落ち込む。博報堂の営業担当がはじめて来社。

1990年5月30日
「フンクイの少年」をみる。侯孝賢の初期の自伝的映画なり。夜、池田ノブオ氏に御馳走になる。

1991年5月30日木曜 晴
会社休む。長崎雲仙岳で溶岩流出の大災害。ソクラテス最期の日の言動を「弁明」「クリトーン」などで読む。

1992年5月30日土曜 曇時々雨
会社を休む。長男に付き添い、彼が材木座の散髪屋で髪を切られるのを見守る。

1993年5月30日日曜 降ったり曇ったり
「杜詩」とシューベルトのCD2枚を買う。雨上がりにムクと太刀洗まで散歩。妻の父母来たりて、共に「鎌倉古寺地図」をみる。

1994年5月30日月曜 雨後晴
久しぶりに会社へ行く。部下の女性はみな年収が上がっているのに、俺は去年と同じだ。妻は長男を高尾山の麓の本屋まで連れて行ったそうだ。

1995年5月30日火曜 曇
大阪出張の足を伸ばして奈良国立博物館の「日本仏教美術名宝展」をみる。空海、最澄、聖徳太子の真筆、平家写経など素晴らしき眼福なりき。されど大仏、三月堂には失望す。

1996年5月30日木曜 曇
会社休みて静養す。長男は今日から「ゆりの木ホーム」に短期入所。ムクと太刀洗を散歩する。

1997年5月30日金曜 晴
会社に電話ありて、次男のカメラがマニュアルにできるか問い合わせあり。次男、夜帰宅す。

1998年5月30日土曜 陰
失業率4.1%と過去最高。米国並みなり。パキスタンが再度核実験を行う。夜妹より夫婦間のことで電話あり。

1999年5月30日日曜 快晴
素晴らしき5月の好天なり。妻と長男は炎天下知的障がい者のスポーツ大会「ゆうあいピック」に出席したので、赤く日焼けして帰宅。ムクのダニを50匹ほど取って罎に入れたり。

2000年5月30日 火曜 晴暑し
午前、六本木篠山事務所の隣にあるエース社渡辺氏を訪ねる。webサイトの仕事をしているらし。午後集英社「メンズノンノ」編集長石井さんを訪問。「ロードショー」の田中洋子編集長を紹介してもらった。

2001年5月30日 水曜 雨時々曇
ムクと散歩。ジャコウアゲハ、エノキにテングチョウ見ゆ。昨日飛んでいた4匹のアオスジアゲハはもういない。講談社、小学館、文芸社より連絡あり。

2002年5月30日 木曜 晴
駅前の早見美術学園でメンズモードの講義。妻と海岸近くのレストランで仏蘭西料理を食す。気の早い人がもう海で泳いでいた。

2003年5月30日 金曜 晴
文化学院で講義、第8回。商業施設論の途中まで。新橋森第一ビルに鴨澤さんを訪ねる。「夕映えの道」をみる。

2004年5月30日 日曜 晴暑し
3人で熊野神社へ行く。夏日で蒸し暑い。文芸社リライトやる。

2005年5月30日 月曜 雨
文化学院講義。EU加盟国25なのに23しか列挙しなかったと学生に指摘され、焦る。ルーマニアとブルガリアが抜けていた。元貴乃花の二子山親方死す。55歳なり。

2006年5月30日 火曜 晴れたり曇ったり
夕方工芸大で映像科の女子学生が就活相談で駈けこんできたが、責任者の橋本氏にバトンタッチして帰宅。今村昌平死す。79歳。

2007年5月30日 水曜 雨
南長崎の画廊に次男のグループ展をみにゆく。作品は1枚8万5千円なので、買ってやってもいいのだが。

2008年5月30日 金曜 曇
中野坂上工芸大、若干名。疲れる。

2009年5月30日 土曜 曇時々雨
妻と一緒にNHK共同アンテナの積立金払い戻しについてのチラシを各戸に配り歩く。なんでも1軒あたり3万円還ってくるとか。

2010年5月30日 日曜 曇
民主党連立内閣から社民党が離脱。普天間基地移転問題の署名を拒否した福島大臣を罷免した結果なり。

2011年5月30日 月曜 雨後曇
文化講義、専門学校と女子大で授業2連発。

2012年5月30日 水曜 曇後晴
3年ぶりの箱根。午前中に湿性花園をみて午後4時に帰宅す。

2013年5月30日 木曜 曇時々小雨
妻と大和へ行きニトリで長男のベッド、無印良品で机と椅子を買い、6月9日に彼が入居するホームに納品してもらうことにした。

2014年5月30日 金曜 晴
文芸社リライトの依頼あれど、その料金異常に安し。

2015年5月30日 土曜 快晴
太刀洗にて無数のルリシジミをみる。この蝶は毎年特定の日に大量に発生するのである。例年より早くサラシナショウマの白い花がたくさん咲いていた。小笠原沖でM8.5。 この頃地震多し。遠からず列島マグマ大爆発するらむ。夜、妻と森戸橋に行きてホタルをみる。

 

 

戯れに死者の名で呼ぶ蛍かな 蝶人

 

 

 

今日も駄目の人

 

根石吉久

 

 

私は、百姓の真似事をやる他に、英語塾もやっている。主にインターネット上で、スカイプというソフトを使っているので、生徒の住所はあちこちだ。かつては北海道から九州まで、今は山形県から福岡県までか。よくわかっていない。一度も顔を合わせたことのない人たちにレッスンしているので、なかなか住所も覚えられない。レッスンを始めるときに、一応住所を教えてもらってあるが、手紙でも出すようなことがなければ住所を調べることもない。
スカイプを使うのにカメラを使うと、音声が途切れたりすることがあるだろうと思いレッスンでは音声だけでつなぐ。この場合、都合がいいのは、私の顔や着ているものが相手にわからないことだ。
畑で百姓をやっていて、軽トラックに戻って時間を確認したら、レッスン開始まであと10分しかないというようなことが何度かあった。百姓仕事の道具もやりかけの仕事もほったらかして帰宅する。シャツにモミガラがくっついているし、手の指の爪の先には黒い土が入っているし、顔は日に焼けてまっくろけのケだし、ぼさぼさアタマだし、要するに英語のレッスンのコーチにはとうてい見えない。カメラを使わないでいてよかったと思う時は、そんな事情の時でもある。
ところが、通塾の生徒の前で姿を見られないままレッスンすることはできない。仕方がないので、畑から舞い戻ったばかりの格好でレッスンすることがある。泥のついたシャツ、泥のついた手、砂埃でジャリジャリする顔や首。

入塾したばかりの生徒が、私の格好を見て馬鹿にしたような顔をすることがある。

そういう生徒は、なるべく早く退塾してもらうようにしている。がんがん怒鳴りつけたりもする。英語なんかやる以前の問題が親にあるのだと思う。泥がついていたり、砂ぼこりが髪の毛の間から落ちて、机の上がジャリジャリしたり、英語で言うところのred neck であったりする者を、小馬鹿にするような目つきで見る者の家の中でも、親たちにそういう感覚があるのだと思う。言ってみれば、第一次産業の格好を馬鹿にする感覚と言えばいいのか。第一次産業の人口がどれだけ減っても、泥や砂を馬鹿にするような者は、俺がお前の英語を馬鹿にしてやんだよ。そんな根性のやつが英語なんかできるようになったってろくでもねえし、くだらねえ。

その昔、家を自作したので、コンクリートをよく練った。コンクリートも服に付着するとなかなか取れない。
東京で娘が学生をやっていた頃のある日、現場でコンクリートを練ったまま、着替えもせずに新幹線に乗った。新宿の紀伊国屋の前で待ち合わせていたので、紀伊国屋の前で娘が現れるのを待った。なかなか来ない。かなり待ってから、娘が人混みの中に立ち止まってこちらを見ているのをみつけた。こちらから娘に近づいて、なんで立ち止まっているんだと訊いたら、「わかんないの?」と言った。「お父さんの周りだけ、人が何十センチも離れて立ってるんだよ。汚い服に触るといやだから」と娘が言った。そういえばそうだったかもしれないが、別に気にもとめなかった。
住んでいる千曲市というのは田舎で、田舎にいれば人が10センチとか20センチのところまで近づいて来るなんてことはまずない。長野駅に行けばあるだろうか。長野駅でも30センチやそこらは人と人が離れている。50センチや60センチ離れていることだっていくらでもあるので、紀伊国屋の前でも60センチや70センチ人が離れていても普通だと思っていた。

新宿を歩きながら、レストランの脇を歩きながら、「ここで飯食うか」と聞いたら、「駄目だって」と言われた。曇りのないガラスから店内を見ると混んでいたので、あまり味で外れないんじゃないのかと思ったのに。

私は今日も「駄目だって」のままだ。
今日は里芋の種芋を土の中に埋めた。

 

 

 

幸福な時間

 

みわ はるか

 

 

給食をかきこむように口に運んで、時計を気にしながらいそいでトレイを片づけた水曜日の午後。
一番に到着したと思った図書室にはもう大勢の下級生の姿が。
いつもは均等に配置されている4人掛けの机は隅においやられ、椅子だけが同じ方向をむくように列をなしてきれいに並べられている。
その先にはちょっとしたカウンターがあり、みんなを少しだけ上からみおろせるようになっている。
これから始まる有志の保護者による「お話玉手箱」、本の読み聞かせの会をみんな心待ちにしている。
小学校6学年のほとんどが集うこの時間、図書室は満杯になる。

図書委員長のわたしははじめに 簡単なあいさつをすませ、いつものポジション、一番後ろの壁にもたれかかる。
すぐ後ろの窓からはさわやかな風が舞い込んでくる。
不思議なのは普段そんなに図書室で見かけないような顔がたくさんあること。
毎週この時間だけは広い運動場がいつもより寂しく見える。
みんなが同じ方向を食い入るように見ている。
少しも聞き逃さないようにと耳を傾けている。
そんなみんなの頭を後ろから眺める自分。
感じることは違っても、同じ時間、同じ場所、同じものを共有する。
こんな時間が大好きだった。

トイレの中にも本をもちこんで長い間籠ることがあった。
一度読み始めると食事や睡眠の時間でさえも惜しいと感じた 。
卒業文集の友達への一言の欄には「もっと外で遊んだほうがいい。」と書かれたのはいい思い出だ。
そのせいかどうかはもう覚えていないが中学生時代テニス部に所属している。
図書室にある本は全部読んでやると本気で思っていた。
自分の好きな作家の新刊が出続ける限り生きていく。
大袈裟かもしれないけれどそう心から強く誓ったのもあのときだ。
小説、エッセイ、詩、伝記、専門書・・・・・あらゆる分野の本に目を通した。
田舎の小さな町で育ったわたしにとって、色々な世界を見せてくれる図書室はまるで宝石箱のようだった。

成長して、ふと母校に立ち寄ることがある。
自然と足がむくのは決まって図書室だ。
そこには配置こそ変わっているが、ところせましと本がぎっしり並べられている。
少し黄ばんだページを見つけるとなぜだか妙に懐かしい気分になった。
あのとき読んだ本を、あのときの自分と同じくらいの年の子が手にとっていると思うと無性にうれしかった。
残念なのは当時あった「お話玉手箱」の時間がなくなってしまったこと。
いつか復活することを願っている。

雲ひとつない青空が広がるとある日。
こんな日でも無意識に本に手がのびる。
「こらっ、たまには外で体でも動かさないと!」
旧友の声がどこかから聞こえたきがした。