夢は第2の人生である 第8回

 

佐々木 眞

 

西暦2103年葉月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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その日の芝居を終えてから、私は今日で役者をやめようと決意した。ホテルを出てから不思議な場所をあちこちさまよった。ホテルに戻ると見知らぬ男が私を待っていて、きいたことのない名前の大学に来てほしい、といった。8/2

私は熱心な実業家ではないが、赤字を出し続けている会社をどうしても立て直してくれと銀行から頼まれたので、その会社の女性の社長に、あの手この手で迫ったのだが、彼女がどうしても言うことを聞かないので、とうとう奥の手を使ってしまった。8/3

イケダノブオが現れたので、「お元気ですか」、「どこでどんな仕事をしているのですか」、と矢継ぎ早に質問をしたのだが、彼はそれが夢の中であるから、私にまともに返事しても詰まらない、と思ったのか、一言も言わないので、なにかあったのかしら、と私はあやしんだ。8/4

ぼつぼつとSMっぽい小説を書いていたところへ、京都からやってきた美少女のような美少年に誘惑されて、本物のSM体験をしてしまったので、それを小説にして完成したところ、そいつは暫くして耐えがたい腐臭を放ち、さながら「ちりとてちん」のようになってしまったので、とうとう滑川に投げ捨てたのだった。8/7

ノーベル賞をもらった生物学教授の原作による映画「サクルデサイス」の邦題は、「牡牛」と「蛆」という2つの意味があるという。そこで1本は「牡牛」、もう1本は「蛆」、そして最後は「牡牛と蛆」を主人公にした同タイトルの映画を世界同時公開しているそうだが、いずれも大ヒットだそうだ。8/7

寝ている間じゅう、パソコンの住宅リフォーム案内の画面が、ずっと目の前で展開されていて、アイテム別に診断や価格の情報が出てくるのだが、その画面全体の交通整理ができていないので、けっきょく朝までかかってもさしたる情報を得ることができなかった。8/8

深い深い海の奥の奥の、そのまた奥に沈んでいた私は、明け方になってようやく水面に浮かび上がってきた。しかし、まだ意識は戻らない。8/9

戦争が近づいてきたので、各部族から逃げ出してきた牛や馬が、私の広大な牧場に集まりはじめた。誰かがこれは早速国王に報告しなければとつぶやいたので、私は「その必要はない。もはや国家も国王も蕩けはじめているのだから」と制した。8/10

私の一族は、夏になると都内の一流ホテルに長期滞在する。それぞれの家族が思い思いの部屋を借りて、お互いに自由に行き来しながら楽しく過ごすのだが、私の唯一の楽しみは、ホテルから嫌われながら洗濯物を1階の駐車場の隅に干すことだった。

こんな歳になっているのに、北方領土と尖閣・竹島を奪還する愛国正義のたたかいに徴兵された私は、感染防菌のための8千本の衛生注射をされるのを断固として拒んだので、祖父と同様に牢屋にぶち込まれた。8/11

あたしは自分がいいと思うデザインしかできないから、とんがった作品をコレクションに出したんだけど、いつもと同じようにやっぱり誰からも認められなかった。だけどあたしには他のデザインなんてできないから、死ぬまでこのまま突っ走るわ。8/12

S君は結局末期のがんに冒されていたのだが、そんな気配は微塵もみせず、まわりに対して自然かつ平然と振舞っていたが、それは彼が深い諦めと達観の境地に達していたからだった。8/16

吉田秀和の「音楽のたのしみ」で、ディズニー映画音楽の特集をやっていた。珍しいことだと思いながら聴いていると、ミッキーマウスの音楽を、名前を聞いたこともない歌手がノリノリでスウィングしている。8/17

関西の放送局のアナウンサーに対するPR活動を実施せよ、という上司の命令で大阪に派遣された私は、各局を順番に挨拶廻りしていたのだが、B局のお局と称されている鈴鹿ひろ美似のおばさんに妙に気に入られ、用が済んだというのに何回も呼びつけられて、閉口しているのだった。8/19

編集長が呼んでいるので部屋に行くと、彼女は私を裸にして三つ折りに縛りあげてから全身をくまなく舐めはじめた。8/21

私たちは買い物をしながら次の店へ移動した。私と違って井出君はオシャレに目がないので、やたらたくさんの衣類を買い込む。買い物がどんどん増えて運びきれなくなると、彼はそのまま店の前に置いて、また次の店へと急ぐのだった。8/22

この近所の女子高校生殺人事件の犯人のものと思われるオートバイの撮影に成功したが、さてこれをどうしたものか。警察に届けると面倒くさいことになりはしないかと、悶々としているわたし。8/23

半島の南端に突き出した夏のレストランのテラスで、私は食事をしていた。鎌倉野菜は文句なしだったが、次に肉にするのか魚にするのかピザにするのか、それともパスタにするのか、私は真夏の海を見ながら思考停止状態に陥っていた。8/24

久しぶりに銀座のマガジンハウスを訪れ、ロビーに入ろうとしたら、真っ黒なガスがもくもくと吹き出している。あわてて逃げだそうとしたら杉原さんが「あんなの大丈夫、大丈夫、すぐに収まってもうじき赤十字の総会が始まりますよ」と教えてくれた。8/27

杉原さんは「久しぶり、お元気ですか? 私は「どんどん歩こうかい」という組織を作って大儲けしています」と自慢する。仲間のAさんは「ゴルフ大好きかい」、Bさんは旅行大好きかい」でやはり大儲けしているそうだ。8/27

なにやらアパレル・デザイン・コンテストなるものが1カ月に亘って開催されている。私たちが紳士婦人子供の外着中着内着の見本を昼夜兼行で制作すると、その優秀作がその都度表彰され、それらの総合得点で順位が決まるのだった。8/28

身体検査だといわれても、特に裸になるとかレントゲンを撮るとか診察があるということはなにもなくて、ただいつかどこかで撮られた写真や記録やらが目の前の画面に投影されるだけのこと。ここで私という人間が生きているのか死んでいるのか、もはや誰にも分からなかった。8/30

独裁者となりあがった私が、忠実な部下に敵の暗殺を命じると、彼は「殺人の仕事の場合は特別手当として1名千円を頂戴します」というので、私は暫く考え込んだ。殺人は月給の範囲を超える特殊な業務だというのである。8/31

 

 

 

堀江敏幸 『彼女のいる背表紙』のこと

 

加藤 閑

 

 

堀江敏行

 

彼女というのは実在の女性ではない。書物の中の女性である。
最初に置かれた「固さと脆さの成熟」のフランソワーズ・サガンなど、著者である彼女そのものと言えそうに思えるが、実は『私自身のための優しい回想』の中の私=サガンである。網野菊をとりあげた「青蓮院辺りで、足袋を」も私小説なのでともすれば網野菊その人と思いかねないが、もちろん「光子」に他ならない。
48編の短い文章が収められている。女性誌「クロワッサン」の2005年4月25日号~2007年4月10日号まで、2年に渡って連載された。女性誌に堀江敏幸というのが意外の感があったが、文芸誌の相次ぐ廃刊でいま編集者らしい編集者は文芸誌以外の媒体に身を潜めているという話を耳にする。
著者自装だが、いつもながら行き届いた本づくりだ。写真の撮り方から配置、刷り色、文字づかい等、この人はどこでこういうことを身に着けたのだろうと思わせるほど整っている。ほとんど単色と言えるくらい色を抑えているのに、カバーの写真のインクの微妙な色のうつろい。帯や扉に用いた用紙と文字の選択も、この本にはほかに考えようがないと感じさせる。だが、何よりも本文組みのバランスの良さが、どちらかというと控えめな表紙のデザインを助けるように、安定感をもたらしている。

この本を読んでわたしが感じ取るのは、雰囲気というしかないくらいのわずかな感覚なのだが、常に行間にひそんでいるある種の親密さと著者のほのかなエロティシズムである。
親密さはおそらく、堀江敏幸というひとが読書体験から書いた一連の文章が集められているということに起因している。読書を語るということは、自分の精神形成史を語ることであり、そのときどきの境涯や感情をたどりなおすことに他ならない。それにここにある文章は、書評に重なる部分もあるが、書評よりも創作(多分に私小説的な)に近いところも少なくない。
そのうえ、文章のそれぞれに影を落としている(ときには直接登場する)著者の姿や発言、心の動きなどが、書評と言うには物語性を帯びすぎている。たとえば、「いびつな羽」と題されたローリー・ムーアの「ここにはああいう人しかいない」を取り上げた文章にある次のような言葉。「だれかといっしょにいようとしてそれが果たせないからこそ孤独なのであり、その原因が相手にではなく自分にあるとわかっているから、よけいに腹立たしいのだ。」

48編、2年に及ぶ連載だから、さすがに最初のころと後の方では微妙に印象が違う。連載がはじまったばかりの頃の文章がかなり意図的なのに対し、終わりの方は本の作者に寄り添う度合いが強くなっている。文章を読む面白さは前者の方が強いが、取り上げた本を読んでみたいと思わせるのは後者の方だ。
この本で取り上げられている本を2冊買った。安西美佐保『花がたみ…安西冬衛の思い出』(沖積舎)とヴァレリー・ラルボー『幼なごころ』(岩崎力訳、岩波文庫)である。未読であれば網野菊も買っただろうが、去年のはじめに読んでいた。いずれもこの本の後半に出てくる本ばかりだった。

『花がたみ』の著者、安西美佐保は詩人安西冬衛の妻。堀江敏幸が「測候所とマロングラッセ」で触れている、電通広告賞審議会に出席した際の竹中郁とのやりとりは、この本の冒頭の「はじめに」と題されたもっとも短い章にある。そしてここに描かれたエピソードがこの本一冊のすべてを語っていると言っていい。
内容は、原本、引用文どちらを読んでもすぐわかるものなのでここには記さない。この小さなエピソードは、妻美佐保が書こうとした安西冬衛の人となりと二人の互いを想う気持ちを表していて余りない。著者は、失礼ながら文章を書くということに当たってはまったくの素人と思われるが、堀江敏幸も書いているように、そのたどたどしさが彼女の一途な気持ちを具現しているようで胸を打たれる。

『幼なごころ』について書かれた「名前を失った人」の書きだしはとても魅力的だ。
「好きになった人が身につけているものに、そっと触れる。もちろん、だれも見ていないところで。コート、マフラー、帽子、ハンカチ、鞄。あるいは、彼が、彼女が、さっきまで座っていた、まだ少しあたたかい椅子に腰を下ろす。肌と肌が合ったわけでもないのに、モノを通して想いが伝わってくるような気がする。けれど、そんなふうに近くに寄ることもできない場合には、どうしたらいいのだろう?(中略)名前だ。名前をつぶやけばいいのである。その人のすべてが、名前の響きに、意味に、文字のかたちに代弁されているからだ。」
思春期になるかならないかの頃に、こうした悩ましい思いにとらわれなかったひとがいるだろうか。こういうふうに書かれた本をどうして読まずにいられよう。
ラルボーの『幼なごころ』は、『彼女のいる背表紙』に関わりが深い本のように思える。
『彼女のいる背表紙』が表紙に著者自身の撮影になる写真を使っているのに対し、『幼なごころ』は各短編の扉に訳者の撮った写真があしらわれている。そのうえ解説を書いているのが他ならぬ堀江敏幸その人である。

相前後して同じ著者の『ゼラニウム』(中公文庫)を読んだ。異国の女性(多くはフランス人)との出会いを描いた6編の短編が収められていて、主人公はどれも著者を髣髴とさせる。同じ頃の作品である『雪沼とその周辺』とか『いつか王子駅で』(いずれも新潮文庫)に比べると、エッセイや身辺雑記を思わせる部分がないではない。しかし、これらはれっきとした小説である。『彼女のいる背表紙』の文章から受ける印象に近いものを感じることがあるのは、女性誌に連載された短文の多くが小説に擦り寄っているからではないだろうか。わたしにとって『彼女のいる背表紙』は、小説ではないのに作者が小説家であることを強く感じさせる本と言える。

 

 

 

流れて浮かぶ

 

根石吉久

 

 

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また寝床でiPhoneで書いている。体に力が入らない。

去年の12月にやったぎっくり腰を正月に悪化させた。なんとか歩くことはできたが、おっかなびっくりで、一進一退を繰り返した。1月半ば頃から、一進一退ではなくなり、急によくなった。月の終わり頃には、普通に体を動かせるようになった。連日、千曲川の河原でチェーンソーを回し、ニセアカシアを切り倒した。玉切りにした幹を軽トラックの荷台に積むのも怖くなくなった。

ぎっくり腰の快復では、あれがよかったのかなと思っているものが一つある。

ある日、昼頃目をさまして、寝床で腰痛体操の一つをやった。仰向けに寝て、曲げた膝小僧を腹の上あたりまで持ってきて掌で保持する。その日は、片膝ずつやったように覚えている。片膝ずつやってから、両膝を一度にやったのだったと思う。
曲げた膝を掌で1分くらい保持してから脚を伸ばしたら、体が別の動きをしたがるようだった。朝起きた時、体が自然に伸びをしたがるのと同じ感じで、そのときは脚を真っ直ぐに伸ばして、かかとを押しやる動きをしたくなった。布団をこするように、腰から遠くなる方へかかとを押しやると気持ちがよかった。自分で動かしているとも言えるが、体が動きたがるので、それに従っているだけとも言える。

今日も、これを書いたり中断したりして、中断している間、iPhoneを放り出して体を動かしてみる。

右脚だけ腰痛体操をした。腹の上あたりに曲げた膝小僧を保持していると、そのうちに尻の筋肉が、ピンと張った感じになる。膝小僧を保持する手の位置を変えて、張りを少しゆるめる。ピリピリした痛みが出てくるようなことはしない。筋が延びていく感覚が痛みに変わる境目に注意し、痛みに変わる寸前に保持したり、もう少しゆるめたりする。一度ピンと張った筋はそのままにしておくと、そこからまた延びるが、そこでさらに延ばすようなことをすると、その日はなんともなくても、翌日に筋が傷んでいるのがわかったりする。
張った筋が延びたら、延びた分の全部は使わない。小さいアソビの部分を作る。それを今、右脚だけやってみたが、途中で生欠伸がひとつ出た。脚を伸ばすと、やはりかかとを動かしたくなる。かかとが腰から遠くなるように数回動かした。
左膝も同じようにやってみた。やはり踵を動かしたくなったので動かした。脚を真っ直ぐに伸ばしている時間を長くして、わずかに腰を浮かせるようにすると、脇腹から脇の下の筋まで延びるのがわかる。今日は起こらないが、腰のあたりが急に温かくなったこともある。

今日は足の裏が冷たい。脚の筋を伸ばすと足の裏に汗をかくことがよくある。体調のいいときは、汗が出てくるのが気持ちがいい。今日は違う。寒気があり、汗が足の裏を冷やして体温が奪わるのがわかり、それが気持ちが悪い。
炬燵で足を温めてくることにした。炬燵に座る時、脚を炬燵の中でほぼまっすぐにし、尾てい骨に体重をかけないようにした。尾てい骨を少し後ろに送り、大腿の裏側や尻の肉に体重を乗せるようにする。体が固いので、脚の裏側が張ってつらくなる。体を左右にゆっくり振り、体重を右の尻、左の尻にかわるがわる乗せると楽になる。
脚が温まってきたので、iPhoneを炬燵板に置き、脚の筋を揉む。
脚の冷えは楽になった。体の芯にある冷えが取れているわけではない。脚の裏に触ってみると、冷たい汗が出てくるのがわかる。濡れて冷たい。
ふくらはぎ、大腿を揉む。大腿は筋のかたまりとかたまりの間に指先を差し込むようにして揉む。これも、痛みにならないくらいの力に加減する。
足の指すべてを手の指でいろいろな方向に動かす。やはり冷たい汗が出てくる。
足の小指と薬指の間に手の小指を根元まで差し込み、薬指と中指の間に手の薬指というように、順次すべての指を差し込み、掌と足裏で「握手」するようにする。掌が右手なら、足は左足と「握手」する。「握手」したまま、手で足首をゆっくり回したりもする。
これは、中島暁夫さんが送ってくださった「50歳からのきくち体操 菊池和子 海竜社」という本に載っていたものである。中島さんは、浜風文庫の前回の記事を読んで、この本を送ってくださったのだった。寝床や炬燵でどう体の筋を延ばすか、いろいろ試し始めた時に送ってもらったので、グッドタイミングだった。本にはかなりな数の体の動かし方が載っているが、その中からいくつかを取り込んだ。足裏と掌の「握手」とその状態のままでの足首回しは自分ではとうてい思いつかなかった。

脚が温まったので、寝床に戻る。両膝抱え1分くらいをやる。かかとを送るのは既にやってあるので、かかと送りは数回で気が済み、肩の裏側や肩甲骨のあたりを強く布団にこすりつけたくなる。こすりつけると気持ちがいいのは、流れが悪くなっていた血が流れ始めるからだ。

このあたりからは言葉で書くと七面倒な、あるいはとうてい言葉で書き表せないような「非直線的」なぐにゃぐにゃした動きが多くなる。不定形ないろんな動きが連続したり、初めてのポーズも出現したりする。体が動きたがるのに従っているだけになり、軟体動物になったようだ。
どんなに体の固い人でも、軟体動物になることはできる。動きが痛みにならない範囲で体の欲求に従って動くだけだから、誰でも柔らかい動きになる。痛みにならない範囲の可動域だけ使って軟体動物になる。

ナメコにもなれる。なりたくない人もいるだろうが、謹厳実直な人にも、なってみることをお勧めしたい。誰にもその人なりの軟体動物のイメージというものがあるものと思うが、それが体現されるのである。目は閉じていた方がいい。目を開いてしっかり見ていたら、きゃあとか、ひゃあとかいうような変な格好をしていたりするかもしれない。そもそも、あんまりぐにゃぐにゃしながらしっかり見ているということは不可能に近い。目は閉じていていい。体内感覚だけを感じていればいい。

きくち体操では、目を開いて見ながらやらなければいけないと書いてある。きくち体操はその辺が直線的だ。足首を回す動作などは円運動だが、基本にスポーツ系の考えがあるようで、直線的だと感じる記述があちこちにある。私の寝床軟体体操では、血液やリンパ液がどう流れたがっているのかを感じ取り、血液やリンパ液が流れたがるように流れさせるのが肝心なのである。目を閉じている方が体内の血の流れの感覚はよくわかる。血が流れたがり、体が動きたがるので、その欲求に従っていると、次々と普段やらないようなポーズを体が勝手に作る。魚になったり、ミミズになったり、名も知らない動物になったりする。一通り体が動きたがるようにやらせておいて気が済んだ頃には、体の各部にうまく血が流れていくのがわかる。
1月の半ばごろ、これを体が勝手にやり始め、その頃からぎっくり腰は一進一退ではなくなった。急によくなっていった。

ここまで書いたのが4日前だった。
4日前、書くのを中断し、左腕の上に上体をかぶせ、上体の重さを使って、下になった腕を圧迫したら、頭の中がぐらぐらした。
ぐらぐらしたのがあきらかに強い目眩のせいだと直後にわかり、次に吐き気がした。また脳虚血発作かとすぐに思った。上体を仰向けにして静かにしていると、目眩と吐き気はおさまった。もう一度上体の重さで腕を圧迫したら、同じ目眩が起こるかどうか試してみた。すぐに目眩と吐き気が来た。また仰向けになる。またおさまっていく。3度目をやってみた。同じだった。目眩と吐き気。仰向けになって、真剣に考えていた。何なのか、これは。
去年の夏、脳虚血発作をやったのだから、もっとも濃厚な疑いは脳虚血発作の再発ということだった。梗塞は起こっていないか。手のひらを握ったり、脚を片方ずつ動かしてみる。いつものように動くし、特に変わった感じもしないが、仰向けになっていても、壁や天井の平面が小さな波になり質感がぼやける。弱い目眩が続いている。吐き気も戻ってきた。枕元の iPhoneを取り上げ、娘の iPhoneに電話した。娘が来て、救急車を呼ぶかと言う。 いやだなあ、また入院か、いやだなあと、とにかく入院を嫌がっている自分がいた。救急車を呼ぶべきかどうか迷っていた。ベッドの上にゆっくり半身を起こしてみた。見えているものがぐるぐる回り出す。娘は篠ノ井の厚生連へ電話していた。救急車でなくても、救急の患者として受け付けるとのこと。なるべくなら、サイレンの鳴る車に乗りたくない。ベッドの上に半身を起こしていても、頭を動かさないでいると目眩と吐き気はおさまってくる。もしかしたら歩けるかもしれない。ゆっくりとベッドから降りて床に立ってみた。なんとかなる。お前の運転で病院へ連れて行ってくれと娘に言う。
病院まで20分くらいの間も、目眩は起こったりおさまったりした。
病院のベッドにいても、頭を上げたりすると目眩が起こり、見えているものが輪郭を失い、吐き気が強くなった。
CTの撮影をやってもらった。当直の年老いた医師から診察を受ける。CTの写真にはおかしなところはないとのこと。脳じゃなくて、耳じゃないかと医師が言った。当直医では、耳鼻科の検査はできないとのこと。点滴を二袋受けた。二袋目を受けているとき、吐き気がなくなっていることに気づいた。それを言っても看護師は取り合わなかった。この看護師は、メニエルだと思っているらしいのが言葉の端々にうかがわれた。メニエルと診断されたことがあるかと、病院に着いてすぐに聞かれたので、ないと答えた。看護師は私の症状を言うのに、メニエルという語は使わない。目眩はねえ、突然始まって、その後は長くつきまとうから辛いんだよと言った。看護師の言うことのポイントを付き合わせると、メニエルの症状というものがイメージできた。暗い気持ちになった。車椅子で病室へ移る。
点滴を受けている途中で、勤めから帰って駆けつけた妻が娘と交代した。23時過ぎ、孫を寝かせるために娘は帰宅。妻も翌日の勤めがあるので、午前1時頃帰宅。一人になったら、じきに寝入った。
朝食の時間になったらしく起こされ、食べられるかと聞かれた。食べられると答えて、目眩も吐き気もなくなっていることに気づいた。
厚生連の病人食はひどい。金をかけないことに非常に熱心。農協系の病院なので、味のしない安い牛乳は白飯のメニューにも付いてくる。そんなことは、今になって思うことで、その時は眠気にまみれて、何も思わず飯を食い、すぐまた眠った。いくらでも眠れそうなのだが、やれ血圧だ体温だ入院手続き書類だ担当看護師の挨拶だと小刻みに起こされる。小刻みに起こされ、小刻みに眠る。
昼飯だと起こされた時、一時間くらい前に朝飯を食ったばかりだと思った。小刻みなのによく寝たらしい。昼飯も強い眠気にまみれて食った。食ってすぐ寝た。点滴に睡眠薬かなんかが入っていたのかどうか。
MRIの機械が予約がいっぱいだと、小刻みに起こされたとき誰かに聞いていたので、検査が受けられるようになるまで、とにかく寝ていればいい。いくらでも眠れるのだ。
夕方起こされ、MRIの撮影。いつもながら、MRIが作動する音は不気味。20分が倍ほどにも長く感じる。その後、病室にいったん戻ったのか、MRIに続いて脳神経外科で検査結果の説明を受けたのか、記憶が混濁していて思い出せない。
平山医師から、MRIでも、脳に異常はみつからないとと言われる。ほっとする。平山さんは去年の夏の脳虚血発作のとき、私を診てくれた医師だ。
前日、病院に着いた直後、症状を自分で書くための書類を渡され、そこに左腕に上体をかぶせて圧迫することを3回繰り返したこと、そのたびに強い目眩が起こったことを書いたが、そのことを平山さんが言い出した。腕か胸にかけて、血管が細くなっているところがないかどうか、MRIで調べるとのこと。造影剤を使うとのこと。身の内が、かっと熱くなるあのいやな造影剤だなと思う。明日は明日の風が吹く。それよりも、脳に梗塞や出血がないことを今は喜べと思い、医師にお礼を述べて病室に戻った。
家に電話。脳に異常がなかったこと、胸や心臓のMRIの予定のこと伝える。
その後、何をどうしていたかよく覚えていない。iPhone でフェイスブックを見たりしたが、入院のことは書き込まなかった。昼間寝すぎたせいで、夜が更けても眠くない。一日を通じて目眩が起きていないことがうれしい。細切れに起こされた一齣で、メニエルだったらこういうふうにスパッと目眩と吐き気が止まるというふうにはならないと言っていた。それは喜んでいいことだが、それだと今回の目眩の原因が不明のままだ。
脳には異常がない。メニエルの症状とも違う。何だったのだ。見ていたもののすべてが輪郭を失い、ぐるぐる回りだしたのは、何が原因なのだ。そういえば、どの看護師さんかわからないが、目眩というのは原因がわからないケースが多いのだと言っていた。看護師さんは、入れ替わり立ち代り、いろんな人が来る。誰が誰なのか、名前を覚えられない。今日の担当の人は昨日の人と違う。
最初に診察してくれた当直の内科医が、耳じゃないかと言っていたことを思い合わせた。私の妹が目眩と吐き気で長く苦しんだことを、娘が言っていたのも思い合わせた。妹は人に薦められて医者を変え、それでよくなった。
明日、胸のMRIに異常がなかった場合、続けてこの病院で耳鼻科の検査を受けるべきかどうか。平山さんは、胸の血管に異常がなければ退院してもいいようなことを言っていた。夜中になっても眠れないまま、そのことを考えた。それもしかし、あくまでも胸の血管に異常がなかった場合の選択肢だ。異常があれば、入院は長引くことになるだろう。

眠れないまま朝になる。単に病人食だからというのではないひどい飯を食う。少しうとうとした。MRIの検査だと起こされる。検査室は寒い。足に造影剤の注射を打たれた。腕に打つのと比べものにならないくらい痛い。じわんと一挙に身の内側が熱くなり、撮影が続く。
今、書いていて気づいたが、あれはMRIではなくCTの機械ではないか。勘違いしていたのだ。MRIは狭いプラスチックの洞窟のようなところに人体が入る。足に造影剤を打たれて痛かったので、意識がはっきりしていたせいだろうが、機械の形状をよく覚えている。神社の茅の輪くぐりに使う茅の輪のようなもの。一重のドーナツみたいなもの。ドーナツの空っぽのところを私の胸が動いた。CTだ。今回の入院では、二度放射能を浴びた。
造影剤を使った胸の検査の結果も、1時間ほどでわかり平山さんが病室まで来てくれた。異常はなかったと伝えてくれた。身の内でほどけるものがあった。安心した。
その安心の中で、耳の検査は妹がかかった耳鼻科の医師に診てもらおうと決めた。退院すると平山医師に伝え、平山医師がうなづいた。
家に電話したら、妻は休みで家にいた。3時過ぎに迎えにきてくれることになる。パジャマを脱ぎ、着替える。無断で病院の外に出る。国道を渡り、篠ノ井駅の方へ歩く。アラビアンという喫茶店に入り、コーヒーとピラフを頼む。テレビを見ていたら、妻が来る時間が近づいたので病院に戻る。
帰宅の途中の車の中から妹に電話。耳鼻科医院の場所と電話番号を教えてもらう。
帰宅。横になる。
前の日、病院のベッドに寝ながら iPhoneで英語のレッスンを休みにすることを、「素読舎連絡専用掲示板」に書いた。帰宅したのでパソコンが使える。Skype を立ち上げておいて、やはり「連絡専用掲示板」に、今日もレッスンは休みにすると書いた。一人、Skype で呼ぶ生徒がいたので、Skype で休みにすると伝えた。仕事机の側のベッドで、入院していたことをフェイスブックに書いた。

それが退院した日だから、土曜日か。
昨日が日曜で、2月8日か。
さとうさんには、浜風文庫の原稿が遅れると電話で伝えてあったが、あれは入院の翌日、病院のベッドでだったのか。わからなくなった。金曜日あたりの記憶が混濁している。一日じゅう眠くて寝ていた日だ。

退院二日目。日曜日。車で木を切り倒している千曲川の河原の林へ行った。何をするでもなく、冬枯れの林を眺めた。チェーンソーを回すのは、しばらく休もうと思った。疲れたら休んで、疲れをためないようにしていたつもりだったが、やはりたまってしまったのだろう。気づかなかったのだろう。
疲れは、はっきり感じるときの方が回復する。内にこもった疲れになると、疲れていることを感じなくなる。それがヤバいのだ。
一人で林の中にいて、買ってきたコーヒーを車の中で飲む。少し歩く。木の幹を眺めながら、こいつは来年倒してやろうなどと思う。夏になったら、木に這い登るアレチウリを根元で抜いて、ニセアカシアの葉に光を当ててやろうなどとも思う。テーブルと椅子を持って来て、この林でバーベキューをやろうかと思う。
入院する前も、木を切り倒さない日でも、この林には毎日のように来ていた。木の幹と枝と、枯れたまま付いている葉を眺めた。林と林の向こうに広がる河原。遠くの土手と、その向こうにある山並み。河原にいると、人家が見えなくなる。
30分とか1時間くらいでいい。この林の中にいるのが好きなのだ。誰が植えたわけでもなく、出水が運んできた種が芽を出してできたニセアカシアの林。土手を車で通るだけの人は知らないが、人の手で作ったわけではない林の中に、径60センチ、70センチくらいのニセアカシアが生えている。人にそれを言っても、河原にそんなに大きな木があるのかと言われる。多分河原の広さのせいだろう。土手から見るだけだと木は小さく見えるのだろう。倒せば、ばきばきばきと、どでかい音が轟く。どうと横たわる木。ほとんどいとしい。
夜、通塾の生徒の練習を少し見たら、ものの輪郭がなくなるほどではないが目眩があった。9時過ぎに温泉に行く。腹から下だけお湯に浸かって、頭から血を下げる。帰宅して、フェイスブック。入退院のことを書いたものに、多くのひとがコメントしてくれてあったが、その中に耳石のことを書いてくれた人がいた。退院の話をしたとき、平山さんが確か「石」と言っていたが、これのことだなと思った。なんだか、耳の中に石があるというような話だった。それがずれることがあるという話だった。石がずれると目眩になるそうなのだ。初めて聞く話だった。
フェイスブックに書いてくれた人は、旦那さんの耳石がずれたのだそうだ。耳石は、疲れているとずれやすいのだそうだ。目眩で歩けなくなった旦那さんの頭を医者が揺さぶって、ずれた石を元の位置にはめたら、旦那さんはその場で立ち上がってすたすた歩き出し、そのまま退院してしまったということだった。
平山さんの話をもっとしっかり聞いてくればよかった。早く退院したくて、熱心に聞いていなかったが、石のずれというのがまさに私のケースなんじゃないか。

月曜日、今日。
もし耳石がずれたんだとしたら、寝床ぐにゃぐにゃ体操をしていた最中にずれたわけだ。ぐにゃぐにゃ体操をするのは少し怖い。しかし、またやってみた。同じポーズをしても何ともない。ぐにゃぐにゃ体操で、一進一退を繰り返したぎっくり腰が、後戻りしなくなってたのだから、ぐにゃぐにゃした方がいい。ぐにゃぐにゃすべきだ。
そう思っていいものか。しばらくは、おっかなびっくりやるのがいいのではあるまいか。

体感だけが繰り返され、変化してまた繰り返され、丸くなり、ねじれ、伸びて、ひねられ、つながり、止まる。止まれば血がどっと流れる。暖かく広がる。言葉を欠いて、血が動く。言葉が浮かんでも、何の構文にもならない。言葉の先に言葉をつなげようとしない。老廃物と一緒に、言葉が流れてしまうきもちよさ。意識がぽっかりと浮かんでいるだけだ。

私がいなくなる。

 

 

 

山下徹「ふたりだけの時間」について

 

 

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山下徹さんから「ふたりだけの時間(2014年6月11日〜7月19日)」という冊子をいただいてから、
この小さな冊子を鞄にいれて持ち歩いていた。

なぜか、持ち歩いていた。
この小さな冊子のなかの言葉たちは痛く感じられた。

そして、なんどか、読み返していた。

はじめに、という扉のことばがある。

 

この物語の主な登場人物はふたりです。

ボク     この物語の作者(通称、とんちゃん)
えっちゃん  ボクのワイフの通称

えっちゃんはお医者さんからガンと告知されて1ヶ月余りで永眠するのですが、この物語は作者、つまり、ボクは、迫り来る死を前にした、ふたりだけの時間を書きました。

 

つまり、この小さな冊子は山下徹さんのワイフであるえっちゃんと山下徹さんの2014年6月11日から7月19日までの記録なのだ。

 

6月14日(土)

午後3時過ぎ、我が家の2階にボクの昔のエレキバンド仲間のUが置いていった電気ピアノでえっちゃんがベートーベンの「喜びの歌」を弾いている。ボクはドアを開け、彼女の前に立った。ボクラは夢中になって抱きしめあった、ボクは、まるでケダモノが咆哮するように泣き叫んでいた。

6月20日(金)

どうしても東京へ行くという。もう身体も弱ってきているし、腹水も出て苦しいはずなのに、絶対に行くよ、えっちゃんはボクをねめつけてひかない。確かに渋谷のMがん研究所のM先生のセカンドオピニオンの予約をしているし、彼女は東京生まれ東京育ちだから、死を覚悟して故郷に帰りたいだろう。ふたたび関西まで帰れなくても、東京の方がいい病院があるだろうし、もうボクはえっちゃんの心だけにどこまでもひきずられていこう、だから、えっちゃん、ふたりいっしょに、あした東京へいこう・・・・・・

6月24日(火)、6月25日(水)は、比較的おだやかな日々をすごせたと、ボクは思う。「おだやか」とはいっても、おたがいにガンについて沈黙する、これまでボクらはガンについて幾度話し合ったことだろう、死の沈黙の上に成立する「おだやか」だったろう。

おそらく愛は、瞬間ではなかったろう。時間によって生成・発展するものだったろう、あるいは時間の中で、厳しい試練にあい、消滅してゆく・・・・・・ボクラに関していえば、43年間かけて、愛は成長し、日々深くなって、おそらくいまがその頂点なのだろう、この水を打ったような静かな沈黙の中で、ほんのそこまで近づいた死を前にして。

6月26日(木)になって、オキシコンチン5mg、オキノーム散2.5mgでは、痛みを緩和できなくなってきたのか。オキノーム散を飲む頻度が増えている彼女の姿をみるのだった。

 

 

ここに記録された言葉はなんだろう。

なぜ、これらの言葉が痛いほどに切実にわたしに届くのか?
詩やエッセイや小説などの言葉による作品性のことを考えているのではない。言葉の本来性について考えさせられているのだ。

山下徹さんは扉の言葉で、この物語の主な登場人物はふたりであり、ふたりだけの時間を書きました、と書いている。
だが、ここにあるのは記録だろう、日記だろう。それを山下徹さんは物語なのだといっている。物語は他者にむかって語られるだろう。
ここにある「ふたりだけの時間」という記録は他者に向けて開かれた物語の扉なのだと山下徹さんは語りかけているのだろうか?

ここにある言葉の切実さは「えっちゃん」を支える言葉たちなのだ。そして「えっちゃん」を支えるということが「ボク」を支えているのだ。
そして、その言葉たちを山下徹さんは「物語」として他者に開らこうとしているのだと思えた。

ここに言葉のもつ本来性を見る思いがしたのだ。

 

 

7月3日(木)。ボクの祈りがかなえられた日。きのうのように一日を過ごし、夕方には車椅子でジャックと。7月4日(金)もボクの祈りがえっちゃんに届いた日。アイスクリーム少量。アンリ・シャルパンティエのクッキーひとかけら、病院の売店のシャーベット、アイスコーヒー3分の1くらい。夕方。おとついのように、きのうのように、ジャックと面会。

7月8日(火)
毎日、ベットのへりにボクと並んで座り、アイスコーヒーを飲み、氷をかじり、レモンシャーベットを食べている。後は少量の果物など。天使のようにやせてきた。腹水は7〜8ℓとなっているらしい。白血球の値が高い、からだはガンと闘っているのか?ボクラは病室であいかわらず楽しい生活を送っている、えっちゃんにキスしていい?ときくと、いいと答えてくれる。

7月15日(火)

午前5時から、
こおりを食べる
水をのむ 歯をみがく 水をのむ
レモンシャーベット
こおり
左胸の下あたりが苦しいという
看護士さんにモルヒネをいれてもらう

いま何時ときく 5時
いま何時ときく 5時5分

髪をとかす

6時過ぎ
芦屋ロールのクリームの部分を
3回 小さじで
はちみつ
こおり
両手がこきざみに震えて
握力が弱くなって

いま何時 6時半

夕方 6時過ぎ
こおり レモンシャーベット
プリン ゼリー 芦屋ロールの
クリームをさじで少しずつ食べる
サクランボ1個
ボクの
天使
眠る。

 

 

ここに書かれている言葉はもともとは「ふたりだけの時間」として書かれた記録だろう。しかし奇跡的に詩のコトバになりえていると思う。

これらの奇跡的なコトバに喚起されて、わたしの古い記憶がよみがえる。
こどものころの記憶だ。

初夏の午前だろうか、
目の前に田圃がひろがり緑のなかに稲の葉先が一面、風で揺れていた。

軒下の日陰の敷石の上に小石を積みかさねていた。
子猫か、蝉か、だれかの墓をつくっていた。

雄物川の水の中にもぐり水面をみあげていた。
水面には太陽が光り輝いていた。

まだ、言葉を覚えるまえの記憶もあるだろう。
言葉は伝達のためだけにあるのではないだろう。
詩の言葉も伝達には適さない言葉だろう。

しかし、詩のコトバは、古い記憶や自然などヒトを支えるものと親和性を持っていると思える。それは永遠だろう。しかも一瞬の永遠だろう。
一瞬の大切なものを忘れてはいけない。

詩のコトバは死に臨むひとりのヒトを支えることもあるだろう。

いのちは
愛しあうための
空地

山下徹さんは7月19日(土)の最後の日記にそのように書いています。

 

 

※文中の引用は全て、別冊「芦屋芸術」「ふたりだけの時間」より引用させていただきました。

 

 

 

夢は第2の人生である 第7回

 

佐々木 眞

 

西暦2103年文月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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ある村に住んでいたフランス人が、さる老人の死に際して不適切な発言をしたというので難詰され、酷い村八分に遭っていた。村人は彼の謝罪と訂正を我慢強く待っていたが、彼はけっしてその発言を取り消そうとはしなかった。7/1

2種類の文書がある。文書その1を読んでいると、それはいつのまにか文書その2の内容とダブってくる。文書その2からはじめても、まったく同じようになる。しかし2つの文書の内容は、明らかに異なっているのだった。7/2

台所と風呂場の改装をしよう、ということになって2つの工務店に見積もりを出させようとしたのだが、2店ともそんなことはやったことがないという。発注を受けたらただちに作業にかかって、終われば請求書を出すと言うのであきれ果てた。7/3

突然姿を現したのは、旧友のオオブチユウタだった。彼はその隣にいるヤグチキヨコという女を紹介した。その名前に聞き覚えはなかったが、しばらくその顔を見詰めているうちに私の昔の想い人だったことに気付いたが、彼女は私のことをすっかり忘れているようだ。7/4

世界王族会議で某国の某皇太子が、「今日からは同じ礼服でパーティに出ることにする。その都度新規に購入していた礼服は、わが国の零細非常勤講師諸君を支援するために寄付する」と力強く宣言してくれたので、私は枕に涙を流した。

朝眼をさますと、私は1冊の小説も書いていないのに芥川賞を受賞していた。周囲の人がいままでとは違う尊敬のまなこで見詰めてくるので、私もそれが気になって不自然な態度しかとれない。それより早く次回作という名の本当の処女作を書かなければ、と私は焦った。7/6

「待て待て、いまスイッチをひねっては危ないよ」と2回警告したにも関わらず、彼女がうっかりやってしまったために、町で評判の3人娘とその美貌の母親は、ガス爆発の哀れな犠牲になってしまったのだった。7/7

母親とちょっとしたいさかいを起こしたのが引き金になって、私はあろうことか家族全員を殺害してしまった。それから素知らぬ顔をして職場に着き、いつもどおりにビデオの編集作業をやっているのだった。13/7/9

戦争の真っ最中なのに、弾丸が飛び交う都会のど真ん中の田んぼに苗を植えているわたし。このままではヤバイのではないかとうろたえているのに、わが相棒は平然として植え直しに熱中しているのだった。7/10

総務部のA君と打ち合わせを終え、私たちは永代橋の支店に向かったのだが、若くて壮健なA君の脚は早く、あっと言う間に姿が見えなくなった。懸命に跡を追っていると道はいつか巨大なダムになり、私がぬるぬるした壁にしがみつきながら下を見ると、A君の小さな後ろ姿が見えた。

私には樋口一葉に似た美貌で盲目の代書人がつねに張り付いていて、私が例えば「薔薇は薔薇薔薇である」とか「林檎は勇気凛々」とか「憂鬱の欝!」とか口走ると、素早く矢立てをとって短冊に墨書してくれるのである。

座席指定の寝台列車に誰かが寝ているので、「ここは私の席だよ」と注意したが、タヌキ寝入りをしてとぼけているので、私はそやつのそっ首を両手でつかんで座席の外に放り出したら、あっけなく死んでしまった。7/16

「箱根八里」を歌いながら、男たちはツキノワグマを解体していた。7/17

私たちはそのためにではなく、泊まるところがないのでその安ホテルの1室に入ったのだが、どういうわけか途中でそういうことをしてみようという感じになったのであるが、例によって私の精神的肉体的な都合で駄目になってしまって、誠に申し訳ないことだった。7/20

北欧のどこかの国を訪れていると、3人のそれぞれタイプの異なる少女が私に関心を持ったらしく、近づいてきて「寝よう」と誘うので寝ようとするのだが、私は不能の身ゆえに最後まで役割を果たすことができず、彼女たちは不満そうに離れてゆくのだった。7/23

それが愛する弟であると知りながら、私は馬に跨ったまま鋭利な鉄器を頭上に大きく振りかざし、気合いもろとも振り下ろし、後を見届けようともしないで駆け去った。
ああ、いつかはやるだろうと思っていたことを私はやってしまった。終生忘れることのできない心の傷がそのあとに残った。7/24

突如戦争が勃発してしまったので、なんでもその場で即座に右か左かを裁く国際移動即席裁判官は、あちらこちらの前線のみならず、この海水浴場でひっぱりだこだった。

観光とは「光を観る旅」という意味だが、同文社の前田さんが引率するこのたびの旅行団には、私の家族や親戚も加わって、いつか見たどこか懐かしい場所、まだ見たこともない不思議な土地を次々に訪ねていた。7/29

 

 

 

 

あけまして、ぎっくり

根石吉久

 

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1月6日。

また、ぎっくり腰だ。
一年の計は元旦にありとは、嫌なことを言うものだ。今年の元旦は、12月にやったぎっくり腰が悪化した日だった。ただ寝ているしかなかった。

何度か炬燵で書いてみようとしたが、痛くて駄目なので、寝ながら、iPhone で書くことにした。

寝ていると前兆のようなものがあったとわかる。わかるのはいつもぎっくり腰をやった後である。あれかと思い当たるのだが、あるいはそんなものはいつでもみつかるものなのかもしれない。体を動かせなくなって、とにかく寝ているしかなくなり、過去の数日を思い巡らせていれば、何かしら前兆のようなものは見つかるのかもしれない。
しかし、今回はそれがなかったのだ。うんこ座りというか、ヤンキー座りみたいな格好をしたら、いきなり来た。

思い切り大雑把な言い方をする方が原因がわかる。体の冷えだ。これだけはいつも見つかる。今回もそれはあった。寒かったから、ストーブの前でうんこ座りにしゃがんだのだった。
うんこ座りと言っているのは、和式便器を使うときの姿勢なので、だんだん通じなくなっていく言い方かもしれない。駅などで、ヤンキーがうんこ座りをしていた頃があったが、最近は見かけない。ヤンキー座りというのも通じなくなっていけば、あの座り方をどう言えばいいのか。野糞座りか。
年末も近くなって、うんこというか、ヤンキーというか、野糞というか、その座り方をしただけで来た。ただそれだけだった。体に力を入れたわけではない。簡単に壊れた。

起きたときに、すでに寒かったのだ。体が縮こまって、筋が硬くなっていたのだろう。

安い焼肉を食っていて、歯で筋が噛み切れないときがある。出刃包丁で微塵切りにすれば食えるのだろうが、そういう肉はうまくないので、そんな工夫をしてもしょうがない。
自分の尻の肉を掌でつかんで、人食い人種もこのケツは食えまいと思うことがある。顎がくたびれて口の動きを止めるか、不味いと顔を顰めて吐き出すだろう。そのくらい筋が硬く縮まっているときがある。そういう時は、体の芯の方に寒気がある。

子供のころから、血行が悪かった。小学校2年の時に、小児リウマチというのをやり3ヶ月ほど入院した。あれも血行が悪いせいだったのかもしれない。
リウマチというのをネットで調べてみたら、今でも原因がよくわかっていないらしい。学芸会の劇の役をやらされて、連日冬の体育館で練習させられたせいだと自分では思っている。冷えても時間が短かければまだいいのだが、どこにどう身を置いても駄目だという感じで冷えていった感覚は今でも覚えている。しかし、他の生徒は入院したわけではないから、やはり私が特に冷えやすかったのだろう。体もクラスで一番小さかった。
私の兄弟は、私以外は人並み以上に背がある。体が冷えると訴える者もいない。私一人が体が小さいのは、冷えで縮こまってしまったのかと思う。
ちなみに、親父の兄弟は9人いたそうだ。生き残ったのは3人で、他は子供の頃に死んでしまったそうだ。親父は末っ子だから、詳しいことは親父も知らないのかもしれない。話したがらないことは、こちらも訊かない。貧乏だったということだろう。子供は冬の寒さで死んだのではないかと、なんとなく思っている。

女房は土佐の生まれだ。私と東京で知り合い、長野に住むようになった年、初雪を見て雪だあと喜んではしゃいだ。今では土佐でもドカ雪が降ったりする変な天候があるが、女房が育った頃は、年に一度か二度、あるいは全然降らないくらいのものが雪だったらしい。女房が見ている雪を見て、「こんなもの」と私が吐き捨てるように言ったので、女房は顔が一瞬凍りついた。
芯に冷えが出来がちな私には、長野の冬は端的に凶悪なものだ。盆地の底冷えがきつい。年寄りが死ぬのも、底冷えした日の朝が多い。私は今では盆地の底冷えをはっきりと憎んでいる。

去年の夏頃、セルフ整体のことを書いたが、セルフ整体をやっても、筋が硬くなってしまっているときはまるで効かない。そこで、試しに自己流のストレッチングをやってみた。
寝床の中で仰向けに寝たまま、膝小僧を手で持って胸の方に軽く引く。これは代表的な腰痛体操だが、自己流では引く力をごく弱くする。筋が緩んでくると、膝小僧が胸に少し近づくが、このとき手に力を入れて胸の方に引いたりしない。どこかにピンと張った感じが生じたら、逆に張ったところを緩めるように膝小僧の位置をわずか戻す。ピンと張る前くらいの位置を探す。そうやってさぐりながら、90秒くらい同じ姿勢を保ってから、ゆっくりと脚を伸ばす。
これを初めてやった日は、よほど血行の悪かった日なのか、体に血が流れ始めるのがはっきりわかった。いつも下半身ばかり冷える感じがあるが、腰周りに血が流れると冷えが弱まる感じがある。筋も柔らかくなり、やたらにあくびが出る。人喰い人種もこのケツなら喰えるかなと思う。脇腹などを自然と伸ばしたくなるが、その場合も筋が張る寸前の位置を探りながら同じ姿勢を保つ。張った感じになったら少し戻してやる。
血が通うようになってからセルフ整体をやると、筋と肉が分離したみたいな筋の硬い感じはなくなり、痛みと気持ちよさが半々、あるいは痛み4分気持ちよさ6分くらいの感覚が生まれる。筋が硬くなっているときは、その感覚は生まれない。

1月7日

炎症が治まってから、歩くのは割と早く出来た。一進一退があるが、調子のいいときはすたすたと歩ける。普通に歩けるので、もう直ったのかと思うことがある。しかし、炬燵が駄目だ。炬燵にあたって30分もすると、辛くてじっとしていられなくなってくる。なんだ、まだ壊れたままじゃないかとがっかりして、寝床に入る。
歩けるので庭で軽いものを動かすくらいのことは出来る。今日は、薪ストーブの焚き付けにするものを屋根のあるところに何回か移動させた。夕方、風が冷たくなってきた頃、なんとなく腰の具合が悪くなった。国民温泉に行き、お湯に三度浸かったらよくなった。
昨日も同じような感じだった。夕飯を炬燵で食べているときに辛くなったので、松代温泉に行き、ぬるいお湯に長く浸かったら、帰りには痛みがなくなっていた。
炎症にまではならないが、小さくぎくっとなるズレのようなものは、徐々に減ってきている。このズレは何なのだろう。ズレの後、違和感があるが大事にはならない。伸びたりして、変な方に行っていた筋が戻る動きだろうか。炎症を起こさないので、寝込んだり杖が必要になったりすることはない。しかし、ズレがあったときの感覚は、ぎっくり腰をやったときの感覚とそっくりなので、こいつが生じるようになり始めた頃は、またやったかと思い、目の前が暗くなるような気がした。しかし、なんともない。違和感はあるが、歩けたりはする。機械に喩えれば、歯車の歯が擦り減って、ギアが噛み合わなくなったようなことなのかとも思う。そういうことだとすると、この先はますますヤバイ。サボらずに、また歩くことを始めた方がいい。腹も出てきている。

炬燵が駄目なので、寝床で書くしかない。iPhone なら左手一つで持ち、右手一つというか、右手の中指一本で書ける。キーボードがなくても、苦にならなくなってきた。ゆっくりやればいいだけのことだ。
ぎっくり腰のことなんかやたら書いても、ぎっくり腰をやったことのない人には、さぞかし退屈なことだろう。というより、途中で読むのを放り出してしまうだろう。申し訳ない。私は今はぎっくり腰のことしか関心がない。
原稿が遅れたのも申し訳ない。
養生します。

 

 

 

 

渡辺洋 新詩集「最後の恋 まなざしとして」について

 

渡辺洋さんの新詩集「最後の恋 まなざしとして」(書肆山田 2014年10月)を鞄にいれて持ち歩いていた。

小さな本なのですぐに読んでしまえると思っていた。
そして、この詩集について、何かしら感想のようなものを書けるだろうと思っていた。

それが、随分と厳しい本なのだということに行きあたった。

「最後の恋」を「最後の恋 まなざしとして」としてしまうあたりが、渡辺洋さんは知識人だなあと思ってしまっていた。わたしだったら「最後の恋」とするだろうし、実際に「最後の恋」を体験し「最後の恋」に「まなざしとして」という装飾はしないだろうと思っていた。

だが、渡辺洋さんの「最後の恋」は、すでに失われた恋なのだ。
しかも徹底的に失われた恋なのだった。

 

美しいものが目をとじている街を
心の底が抜けそうになっても歩きまわって
この世界に生まれて生きる違和感を手ばなさずに
ラブレターのような詩を書こう

(美しさって
思い出せるかぎりの世界の向こうから不意にやって来る
心には思い出せない何かなんじゃない?

笑い声が聞こえた気がして
ふり返っても誰もいない四月

一人はにかんでいない人に向かって微笑む

 

「最後の恋 まなざしとして」の部分を引用してみました。
「美しさ」も「恋」も「世界の向こうから不意にやって来る」ものなのでしょう。
そのことにあらためて気付いて詩人はモノクロームの世界で微笑むでしょう。

そのように一人で淋しく微笑んでいる人を見たことがあります。
自分もそうだったかもしれない。
すでに失われた恋を語るのはとても苦しいし厳しいなあと思ってしまいます。

「何度でもはじまる歌」という詩を全文を引用してみます。

 

何度でもはじまる歌

僕を何物でもない物にしてしまう言葉で書かれた街で
(それとも僕を書き終わってしまった?
からからになった心の地面で
からだをふるわせながら響きはじめる
三十年、四十年前の歌に感謝しよう
小学生のときから何度も読むたびに涙してしまう
けなげな子どもたちとやわらかい心を失わなかった大人たちが
心をかわしあうケストナーさんの小説『飛ぶ教室』にも
愛することでここまで来れたのだから
何度でも僕を書きはじめるために
僕と世界を呼ぶように
誰もいなくなった世界に向かって微笑もう
からっぽの光くずになっても

 

 

ここに書かれる「僕」は渡辺洋さんなのでしょうか?

「最後の恋 まなざしとして」にも書かれていましたが、
「心の底が抜けそうになっても歩きまわって」いる「僕」がいて、「からからになった心の地面」の「僕」がいる。その「僕」からみられた世界は「僕と世界を呼ぶように/誰もいなくなった世界に向かって微笑もう/からっぽの光くずになっても」と歌われている。「世界」は誰もいなくなった「僕」でしょう。そして微笑むでしょう。

とてもナイーブな「僕」がいて「世界」がある。

 

 

ナイーブさ

積み重ねてきた噓の重さで
世界の底が抜けそうになっても
僕は急がない
もっとこわれなければ
この世界をおおう透明で巨大な暴力を
批判できる言葉を
僕のなかに呼びおこすために

何かに強く引かれたりきれいだと思ったりする
心にはやさしさのはじまりがある
そのやさしさの間違いを
(たとえば誰かを傷つけたり排除したり
見つめながら心をきたえていく
何度ふみにじられても
種をまいて咲く花のような
まなざしに少しでも近づこうと

詩は古くて細い道
きみという一人に辿りつくための
何度も間違えては
身をよじるように曲がりくねって上っていく

 

 

「ナイーブさ」という詩の部分を引用してみました。

「何かに強く引かれたりきれいだと思ったりする/心にはやさしさのはじまりがある」「僕」がいて、「種をまいて咲く花のような/まなざしに少しでも近づこうと」するナイーブな「僕」がいます。

渡辺洋さんにとって「詩」は「古くて細い道」を「身をよじるように曲がりくねって上っていく」その先に、「きみ」として現れるものなのでしょう?

わたしもかつて渡辺洋さんのように「詩」を遠くにあるものと思っていました。
絶対的な到達できない場所にあるものと思っていました。

でも、本当にそうなのかなとも思えるようになってきました。
「詩」はそのように曲がりくねって上っていった先の遠くにあるものとは思えなくなってきました。

「詩」はもっと身近に既にあるのではないでしょうか?
「詩」は既にあり、わたしたちが「詩」を見るか、見ないかだけなのではないでしょうか?

詩をそのように「既にあるもの」と感じますと、
例えば、渡辺洋さんの「Sketches #8」に登場するマリーを詩は支えられるようにも思えるのです。

 

 

#8

マリーがこわれていくのを誰もとめられなかった
救いを求めていない相手を人は救えないのさ
何かができるんじゃないかと思っていた僕も
意表をつくネガティブでつよい反応に
心の病気がぶり返しそうになって近づけなかった

地震のあとマスクをかけてはずさなくなったマリー
当たりちらすようにキーボードをたたくマリー
他人のちょっとしたミスに声をあらげるマリー
歩道でかたまったように立ちつづけていたマリー

 

 

渡辺洋さんの新詩集「最後の恋 まなざしとして」を深夜に読みはじめて朝となりました。

朝には、遠く西の山が空に浮かび小鳥たちが鳴きはじめます。
今朝も、小鳥たちが鳴いていました。

最後に渡辺洋さんの「贈りうた ー 画家のNさんに」という小さな詩をひとつ引用して終わりたいとおもいます。

 

絵を描いていると静かさが
私のなかに浮かんでくる
何かが沈黙するのではなく
生まれてくる静かさが
私のなかにはりつめて
私を絵のなかに誘い込もうとする
描きおわりたくない
色と線のなかに溶け込んでしまいたい
気がつくと私は絵を通り抜けて
生まれた家の前に立っていた

 

 

 

※詩は全て渡辺洋さんの新詩集「最後の恋 まなざしとして」(書肆山田 2014年10月30日初版発行)から引用させていただきました。

 

 

 

夢は第2の人生である 第6回

 

佐々木 眞

 

西暦2103年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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私は女性の勝気な部下のパワハラにあってろくろく自分が出せず、仕事が出来ないでいたのだが、幸い彼女が別のセクションの課長に抜擢されたのでようやく安堵することが出来たのだった。6/1

肝心の商品はろくろく写っておらず、しかもぐちゃぐちゃに汚れていたので大枚ウン百万円を投入した龍宝部長は怒り狂って「こんなタイアップ広告に金なんか払わない。電通に行って取り戻して来い」と叫んだ。

大和市のファミリーナ宮下に行って息子の入所準備をしている私。しかしテレビのケーブルをつなごうとしても駄目だし、ベッドを動かそうとしても駄目だ。ということはいまここに居る私は実体のない幽霊のような私ということだ。

昔の女が出てきて昔のように付き合おうとするのだが、昔と同じようなところでつっかえてしまい、すらすらと時間が経過してゆかない。「ということは他の女よりも濃密な時間を体験しているわけだから、これは自分にとって大事な意味を持つ女なのだ」と考えてみたのだが、どうも無理があるようだ。

打ち上げられたロケットに白い幅広スカートをつけたマリリン・モンローが乗っかっていて、そのスカートの下からカメラで覗くと、なにやら奇妙な物が写っているようなので、スタッフ一同が眼を皿のようにしてアップして覗きこむのだが、やはりよく分からない。6/8

「こんな時間なのに支店に出張しても大丈夫かい。宿泊とか食事の手配は出来ているのかね」と親切に上司が心配してくれるのだが、私はそんな手配はまったくやっていないにもかかわらず、ともかく現地へ行けばなんとかなるだろうと、たかを括っていた。6/10

若手の校正記者が「もし」という見出しをゴシック体でつけた。見出しの下にキャプションも記事もなく、何枚かの写真があるだけなので、「おい、こんな訳の分からん見出しはやめろ」と怒鳴ったが、新米はどうして私に怒られたのか理解できず不服そうだった。

アンカレッジ経由でパリに飛ぶ双発プロペラ機が墜落し、大勢の犠牲者が出たが、その中には当時の音楽や舞踏、スポーツ、芸能、服飾等の関係者が含まれていた。飛行機会社が営む盛大な葬儀の式中で私の眼を釘付けにしたのは、ある長身の黒衣の美女だった。

町内会が主催する後期高齢者対象の葬儀練習会を覗いてみたら、司会者の指示通りに各自が遺影や位牌やお骨を作法通りに並べてお経を唱えたりしていたが、それにも飽きた彼らが、呑めや歌えやのドンチャン騒ぎをしている間に、遺骨がひっくり返ってごちゃ混ぜになってしまった。6/13

トライするチャンスはまだあと一回は残っているというのに、私は妙な自信と余裕からその最後の機会に試技しないで、腕組みをしながら、他の競技者の様子を窺っているのだった。6/14

新宿の文化学園大学の研究室を訪れて、知り合いのK教授と将棋をしていたら、どんどん負け将棋になり、私の王将は、盤を逃れて北へ北へと逃げのび、気が付いたら北極海の氷の上で「詰めろ」をかけられていたのだった。

NYのJC社の担当者(彼女は東伏見の下宿のオバさんそっくりの容貌をしていた)が、製品カタログの説明をえんえんと繰り返す。私は退屈し切って、目の前でケラケラ笑い転げている2人のギャルと早く遊びに行きたいと願っているのだが、彼女の国際電話は一向に終わらない。

ダサイ自社製品をキシン・シノヤマは文句もいわずにビシバシ撮って、スタイリストは「それなりに見られるような写真が出来上がったとおっしゃっていましたよ」とケータイで請け合ったが、それでも不安に駆られた私は、シノヤマ・カメラマン事務所兼スタジオがある六本木に向かった。6/17

私は日本人で初めてのジバンシーのデザイナーになった。そこで早速開口一番「今シーズンは色は変えるが、基本的なスタイルは変えないでいこう」と主張したのだが、スタッフたち全員がブーと叫ぶのだった。

井上君も大道君もなぜか尻ごみして居なくなったために、独り残された私が、ラジオのDJ役を務めることになってしまった。しかし実際問題としてはどうしたらよいのだろう。私は途方に暮れていつまでもマイクロフォンの前に立っていた。6/19

おんぼろの我が家をゴミ収集に出そうとしているのだが、なかなかうまくいかない。家全体に荒縄をかけ、そいつをごろんごろん引っ張りながら、いつものゴミ置き場までどうやって移動させればいいんだろうと、私はいたく悩んでいた。6/20

いよいよ開戦まであと4日に迫ったので、私は「それまでに家族と一緒に食事をする」、「東京を散歩する」、「遺書を書く」、「妻と心ゆくまで語り明かす」、という4つをやっておこうと思い、すぐに東京行きの電車に乗った。いわばこの世の見おさめである。6/21

都心に近づいたが、灯火管制で、ここが新橋なのか銀座なのか良く分からない。ビルの谷間に莫迦田大学のアホ馬鹿学生が河童のように集まって奇声を上げているのを、涼しい顔をした藤原新という役者が、チャリンコに乗って見物していた。6/21

一晩中だだッぴろいスタジオの中で、若い裸の男がくねくねと踊っている。私が眠ってしまうと、男は踊るのをやめるのだが、ふと眼が覚めると、また踊りだす。そんな調子でいつしか夜明けを迎えてしまった。6/22

戦争が近づいてきたので、政府は資源確保のために各家庭の高級貴金属類を徴収している。熱心な協力者には戸主の徴兵を免除するという特典がついているので、1日3回と決められた受付窓口は、担当者の気を引こうと肌も露わな女たちで大混雑していた。6/23

お菓子の店を出さなければならない。売り場の中心はやはり人気実力ナンバーワンのA社にやらせるほかはないが、私はB社を応援したいので、A社のシルバー版を作ることを勧めていたら、C社の可愛らしい女子がさかんに迫って来た。

いつでも抱こうと思えば抱ける状態になって、その小さく白い娘はすべてを私に委ねたようになって身を寄せてくるが、彼女に性欲をまったく感じられない私は、彼女をそんな無視するように冷たくあしらうほかはなかったが、そんな2人の姿を鋭く見ている男の姿があった。6/25

あまり美しくない、というかほとんど醜い顔をした中年の女が、私の寝床に滑りこんできて、私の背中から両手を伸ばして胸や性器をもてあそぶのであるが、私は今膀胱が満杯で、便所に行きたいと思っていたところだし、そもそも彼女と性交をする体力も気力もないので、なんとかこの苦難から逃げようと身をよじった。6/26

徴兵された人間は思いのほか少数で、兵士の大多数は甲種と乙種に別れている戦闘ロボットたちだった。前者はかなり日本語を理解するが後者はほとんど分からないので、私たちは往生した。こんな連中と一緒では戦争なんてできやしない。6/27

私たちが住む田舎町にやってきたプロデューサーが、私たち仲良し4人組のうちの誰かを映画に出してやるという。タクちゃんが選ばれそうだというので、新しいシャツを買い込んだりしたが、結局最終的にはだれも選ばれず、プロデューサーは町を去った。6/29

大津波に追われた私たちが最後に逃げのびたのは富士山の頂上だった。見渡す限り黄濁した海上に激しく雨が降り注ぎ、生き物の姿はなにも見えない。波立つ海水は足元にまでひたひたと押し寄せた。

ふと気がつくと大勢の人間をぎゅうぎゅう詰めに乗せた小さなボートがこちらに近づいてくる。まるでノアの箱舟のようだ。「おおい、2人ならまだ乗れるぞ」と船長が呼びかけたが、私は首を振った。
水も食料もないボートに乗っても助かる見込みはない。6/30

 

 

 

 

安直ピザ屋開業宣言

根石吉久

 

写真-415

 

この間の冬の終わりに、屋根だけあって壁のないごく簡単な物置からいきなりチェーンソーがなくなった。おかしいなと思ったら、薪割り機もなくなっていた。薪はほぼ一冬分作った後だった。
薪割り機はともかく、チェーンソーは夏でも使うかもしれないなと思った。杏の木を切ってくれと人に頼まれたままになっていたし、切ることになっていた桑の木もあった。
この桑の木は、畑の近くにある。人が桑の木の根元に対してえらく力を入れて仕事をしていた。すぐ脇を通って、軽トラを止め、何をしてるのか聞いたら、帯状に樹皮を剥いで木を枯らすのだと言う。固まって生えている五、六本全部やるつもりだという。枯らした木を何かに使う予定があるかと聞いたら、葉が茂って畑に陽が当たらなくなるから枯らすだけだとのこと。
直径で20センチ程度の木だから、チェーンソーで切れば簡単に片がつく。俺が切り倒して片付けましょうかと言うと、やってくれるかと言う。すぐはできないけど、そのうちってことでいいということになった。
枯らして立ったままにしておくつもりだったのは、切り倒したものを見つかると、国土交通省の河川パトロールに怒られるんじゃないかと思ったからだと、近所の畑の人は口を開いた。もし、あんたがみつかった時に、あんたが怒られてくれるかと言うので、いいですよと返事をした。文句を言われるんなら俺が文句を言われるのでいいと請け負った。
しかし、チェーンソーがないんでは仕事ができない。請け負ったのをいつまでもやらないでおくわけにもいかないと思ったので、ネットでゼノアの「こがる」というのを注文した。
チェーンソーは注文して二、三日したら到着したが、ダンボールの箱を開ける気にならず、部屋の隅に置いたままにしておいた。春が終わり夏が終わり、秋まで終わってしまった。いよいよまた薪をいじらなければならない季節になった。
義理の弟から電話があり、二トン車一台分の木があるが要るかと言うので、要る要ると言ったら三十分後にどさどさとダンプカーから家の脇に落としてくれた。全部ケヤキで、こりゃあ大変だと思った。一番太いやつは、直径で一メートル近い。配達に来た宅配便の人がケヤキを見て、百年くらい経っているだろうと言った。
翌日、「こがる」というやつのダンボールを開けて、ガイドバーとチェーンを取り付けてネジを締めた。こんな小さいチェーンソーで、あのケヤキを始末できるのか。
「こがる」というのは、よく果樹農家が使っている。評判はよくて、なかなか具合がいいというのを何度か聞いたことがある。もう歳も歳だし、小型で軽いチェーンソーがいいかと思い、「こがる」を買ってみたのだったが、いきなりもらったものが直径一メートルもあるケヤキだった。
ケヤキは堅い。
力の入れ方がこれまで使ってきたものと違うので、最初はとまどったが、機械に教わりながら慣れていくと、刃が新しいせいもあるだろうが、ざくざくと切れる。なにより具合がいいのは、スイッチの位置だった。握っていたハンドルから手を動かさなくてもスイッチが切れる。
単純なところをよく考えてある。
土や石のある近くまで切って、いったんチェーンソーを止めて、木から抜くのに片手で簡単に持ち上がるのも楽だった。丸太をほぼ切ったところでやめて、裏返して切り離すことは多いから、スイッチの位置がいいだけでどれほど楽になるか。片手で丸太からチェーンを抜けるだけでどれほど楽になるか。チェーンを抜きながら、もう片方の手で丸太を裏返せる。
一番太いケヤキは、周りに他の大物が転がっているので、まだ片づかないが、やれるとメドがついた。一番でかいやつを眺めて、うん、やれると頷いた。

ケヤキを片付けたら、次は請け負ってからやらないで放っておいた桑だ。

「こがる」が急に可愛いと思えた。機械を可愛いと思ったのは初めてだ。なにしろ小さい。全長で30センチくらいの感じがするが、いくらなんでもそんなに小さくはないだろう。しかし、使っているとそんな感じだ。

小型で軽いからといって、危ない機械は危ない機械だ。腕や脚がなくなるだけの大怪我に結びつくことはいくらでもありうる。「こがる」をキガルに扱ってはいけない。しかし、取り回しが楽だと、その分安全度が増す。年寄りにはいい。

チェーンソーのタンクに二度ガソリンを入れて、燃料を使い終わったらその日の作業をやめる程度に使うと、翌日にひどく疲れが残るということもない。気をつけて使えば、体力がなくても十分に使える。
薪屋をやって、よそ様の家の分まで薪を作るとかいうことになれば別だが、自分の家の一台の薪ストーブで焚く分の薪、つまり自家用の薪を作るには、こいつが一番いいんじゃないか。
私のところには薪ストーブが二台あり、塾がある日は二台焚くが、このチェーンソー一台でストーブ二台分の薪を用意することはできる。使い始めてまだ二日だが、勘で、できるな、と思っている。林業で使い連続的に大木を切り倒すようなことをするのでなければ、こいつで十分だ。
石釜用の薪だって、これ一台あれば運搬が楽だ。石釜を熱くするために最初にセガを焚く予定だが、材木屋に持参して、材木屋の敷地内で軽トラに積むのに具合のいい長さにセガを切るのにもいい。

「こがる」の出来の良さに励まされたということだろうが、ようやく薪割り機を買う気になってきた。
両方とも盗まれて、俺はそうとうフテクサレていたんだなと思った。

石釜で焼き芋を焼いて、焼き芋屋になろうと思っていた。

数年前の脳梗塞の続編なのかどうか、夏に脳虚血発作というのをやり、また入院した。その前に、ぎっくり腰で動けなくなった。チェーンソーや薪割り機を盗まれたあたりから、踏んだり蹴ったりが続いた。

焼き芋にする芋もろくに穫れなかった。

石釜でピザを何回か焼いてみた。スーパーに売っている二百円台のやつを買ってきて焼いてみたら意外にうまい。脳梗塞をやっているので、やたらにピザなんか食ってはいけないので、焼いてみるたびに少しだけ食ったのだが、これ、いけるんじゃねえかと言うと、女房が食べながら上等上等と言う。
焼き芋屋をやる前にピザを焼いて売るか。ピザ屋といえば、自分のところで生地を捏ねたり、イースト菌にこだわって生地を膨らませたりするものだと思っていたが、日本水産のマルガリータでいいじゃないか。安直ピザだ。
捏ねるところからやって、いいバランスをつかまえるまで本格的にやる気がないのは、私にも女房にも娘にも孫にも、揃いも揃って、あるだけの人数全部が、あんまり料理のセンスはないからだ。遊びで自家用に作るのなら、そのうちにやってみてもいいが、スーパーで買ってきた日本水産のマルガリータのバランス以上のものが、そんなに簡単に作れるとは思っていない。
石釜で焼いたピザがうまいのは、石釜と薪のせいだ。そこそこであるはずの日本水産マルガリータでも、食べた人が「うまい!」と声を出すのは、日本水産の手柄もあるだろう。しかし、石釜と薪の手柄が大きいと我田引水したいところだ。遠赤外線がどうのこうのと理屈を言えば言えるが、電気やガスのオーブンで焼いたものとの一番の違いは、木が燃えて煙が流れ、煙がつけてくれる味だと思う。軽いスモーク味がチーズや肉などといいバランスを作るのだろうと思う。
焼き芋屋だと冬の間だけの商売だしな、とも思った。焼き芋は焼けるまでに四十分から一時間くらいかかるしな、とも思った。焼き芋はお客さんが来る時には焼けていなければ駄目だが、ピザだとうまくやれば十分から十五分くらいで焼ける。そのくらいならなんとかお客さんは待ってくれるのではないか。それは、お客さんから注文をもらってから焼き始めることができるということだ。ということは、売れ残りが出ないということだ。ピザからやるのがいいんじゃないか。

焼き芋屋をやるのは、売れ残りを食べさせる鶏を飼い始めてからだ。ちゃんと畑で芋が穫れるようになってからでいい。放射能検査を芋一つずつに施してない千葉・茨城の芋を焼く気にはなれない。

ネットで冷凍ピザというのを調べた。賞味期限は一年だとあった。
スーパーで売っているものは、冷凍ピザではなく冷温ピザが多い。簡単に言えば、冷凍庫に保存するものか、冷蔵庫に保存するものかの違いである。
スーパーではよくピザを安売りしている。賞味期限が近づくと安売りするのだ。これを買ってきて、すぐ冷凍してみた。冷温ピザを勝手に冷凍してみた。これで実質的な賞味期限はぐんと延びる。
冷温ピザを冷凍したら食ってまずいのかどうか。二週間くらい冷凍庫の中に放っておいてから石釜で焼いてみた。
いけるじゃないか。食えるよ。食えるよっていうか、普通に冷温ピザを焼いたようになるよ。っていうか、うまいよ。
コツは、冷凍したピザを焼く前に、こちんこちんになったピザを裏返して、生地の裏を水で濡らすだけのことだ。後は凍ったままのピザをちんちんに熱くした石釜にそのまま入れて焼いてしまう。味が悪くなることはない。まあ、私の味覚のセンスはどうってことはないレベルだが、どうってことはないレベルにおいて、あくまでも私はとってもおいしいと思う。

果たして、通用するかどうか。

というのは、六百円の値段をつけるつもりなのだ。スーパーの安売りはねらわず、なるべく新しいものを買ってきて冷凍するとして、ピザの定価と冷凍の電気代と車のガソリン代で三百円くらいになるとおおざっぱに見積もる。その倍額の六百円の根拠は、石釜で薪を焚いた分の労賃なのだ。薪を焚く労賃と薪を作っておく労賃なのだ。

セガを材木屋から運んでくる時はチェーンソーを使うが、チェーンソーで切ったところに隣接して10センチくらいは微量だが機械油が付着する。だから、ストーブ用の薪の長さ分五十センチは切り離して薪ストーブ用の薪にする。石釜に使うものは、すべて丸鋸の刃を上向きに取り付けた台で切る。これだと機械油が木に付着することはない。
つまりは、チェーンソーで切った薪と、丸鋸の刃で切った薪を別に積むということになる。そういう手間まで含めて、スーパーで買ってくる安直ピザ一枚で三百円いただこうという魂胆なのである。

石釜で薪を焚き、高いピザ(千円以上もする)を食わせるピザ屋はあるが、チェーンソーの機械油が薪に付着することまで考えているところはない。今の時代に普通に作った薪で焼いたピザだと、ごく微量ではあるものの、客は機械油を食うことになる。
自家用に屋根に載せた太陽光パネルで丸鋸の刃はいくらでも回る。薪割り機も動く。中部電力に売る電気が減るだけだ。中部電力とはなるべく金のつき合いをしたくない。まだ原発を動かそうとしている会社だ。今のところ、夜に使う電気のバッテリー代わりに使うだけの会社だ。糞食らえ、東京電力、九州電力、それと、中部電力。

自宅で作った電気で、機械油の付いていない薪はいくらでも作れる。

安直ピザ、果たして、通用するかどうか。

うまくいけば焼き芋屋になれる。

どうぞ、世間の優しい皆様、私を焼き芋屋にして下さい。

 

 

 

夢は第2の人生である 第5回

佐々木 眞

 

西暦2013年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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破壊され尽くしたビルの中にはさまざまな機械部品のジャンクがいたるところに転がっていたので、私はそれらをひとつずつ廃墟の中から拾いあげ、時間をかけて超精巧な最新型の機械式時計に再生していると、真っ赤な夕焼けの空で烏がカアカアと鳴いた。

会社の社員旅行でほとんどの連中が昨日から出払っていたが、私はA子と一緒に朝から2人切りでやり残した仕事を片付けていると、夕方になってフジテレビのB子がやって来て私たちを意味ありげに見るので、「俺たちはそういう関係ではないよ」と力説しているところへ社員たちが帰って来た。

居間のテレビを見ていたら、突然市川中車がやってきて「おお、おおお」とみずからの演技に酔いしれている。うるさくてかなわないのでいい加減にしてくれと注意しようとしたら、横合いから耕君がガツンと一発お見舞いしたので、中車はのびてしまった。13/5/4

小川町で都電を降りて坂道を登り、スタインウエイのショールームの前までやってくると、もう息が切れた。見るとアポロンだか、ダビデだかの像を真似た素っ裸の男が、そこいらの会社の人間広告塔になって突っ立っている。13/5/5

人体が全体として突っ立っているだけではなくて男性の性器もひどく突っ立っているので、「君きみ、そんなものを公衆の面前で見せものにすると、猥褻物陳列罪でおまわりに捕まってしまうぞ、早く仕舞っておけ」と注意した。

すると、アポロン男はなぜかおねえ言葉になって、「いえねえあなた、あたしだってこんな恥ずかしいこたあやりたかあないんですよ。だけど社長から、こんな恰好で朝から晩までずっと立ってろと命令されたものだから、仕方なくここに棒立ちになってるんですよ」と泣き言をいう。

「それにね、いちばん重いのがこの体の真ん中のやつ。こいつが勝手に立ち上がるもんだから、重くって重くって仕方がないの。ねえ、お客さん、あたしはこんなもんもう要らないから、あなた持ってってくださらない。まだまだお役に立ちますよ」

そう言いながらアポロン男は「あそこ」を根元からポッキリともぎとって、いきなり私のカバンの中に放り込んだので、父の遺品のカバンはずっしりと重くなった。

それから私は大きなビルが立ち並ぶ学生街の中を歩いて行くと、見覚えのある大学の講堂でコンサートをやっていたが、バンドが演奏している音楽が詰まらなかったので、私はすぐに会場のホールを出た。

ふと右手を見ると、東京駅にあるような煉瓦でできた巨大な水の無い100mプールがあったが、もうずいぶん長く使われた形跡はなかった。
左手にはやはり重厚な煉瓦で組まれた便所があったので、それを使おうとしたが高さ1mくらいの煉瓦の上に乗らないと用を足せないので、諦めて外に出た。

すでにとっぷりと暮れた黄昏の街を歩きだすと、狭い通路の左側のはるか谷底のような位置に大学の広い体育館があり、それに続いてぼんやりとしたあかりで照らしだされた教室があり、白髪の老教授の講義を聴いている数名の学生の姿があった。

さらに進んで行くとまた大きなホールがあり、そこでは韓国か北朝鮮かは分からないが朝鮮の人たちがなにかの記念式典を開催しているようだった。
いつのまにやら会場に引っ張り込まれた私が演壇に目をやると、司会者の男性が朝鮮語、日本語、英語の順でなに説明していたが、なんのことやらさっぱり分からない。

しばらくしてから席を立って帰ろうとすると、出口にいたおばさんが、「はいお土産。お米2つと大根2本」と言いながら大きな荷物を私に押しつけたので、一生懸命に断ったのだが、でっぷりと肥ったその女性はどうしても許してくれない。

仕方なく私は5キロの米袋2つとぶっとい練馬大根2本を左右にぶらさげて駅まで歩き始めたのだが、予期せぬ荷物は歩くほどにだんだん身に重くなっていった。

私はニコンのカメラを首からぶら下げていたが、季節はちょうど冬のはじめだったので、ウールの重いコートを一着に及んでいた。歩くうちに二組の米と大根セットはどんどん重みを増し、私のか弱い心臓は早鐘のように動悸を打った。

そのとき私は、隣家の堤さんから頼まれた重い荷物をかかえながら駅まで急行した父が、心筋梗塞に襲われ担ぎ込まれた病院で七〇歳で身罷ったことをはしなくも思い出し、「土産より命が大事」ということにようやく気付いた。

まずは荷物の半分を路上に残し、私は帰路を急いだが、面妖なことに歩けども歩けどもめざす駅に着かない。今にも倒れるのではないかと我が身を案じつつ、全身汗まみれで私はようやく駅前に辿りついた。

そのとき私は、自分が、米も、大根も、カメラも、父の遺品のカバンさえどこかへ投げ捨て、ただ一本の長い棒だけをしっかりと握りしめていることに、はじめて気付いた。
良く見るとそれは「八重の桜」で黒木メイサが振りまわしていた長刀だった。13/5/5

ある日のこと、大工事が行われて奥深い地下になってしまったお茶の水駅の近くで昼飯を食おうとレストランを探した。
丸顔のイタリア人シェフが「ステーキランチは8500円」というので、他を探したがもうどこも営業をやっていない。

仕方がないので電車に乗ろうとしたが、ポケットの中には初乗り130円のチケットと50円玉しかない。しかもそのチケットはだいぶ以前のものなので、いま使えるものだか分からないし、50円ではどこにも行けないので私は途方に暮れた。

ライターの女性と私は、京都のあるお寺へ向かった。取材は彼女にまかせて内部をぶらぶら歩いていると、広く薄暗く猛烈に暑い部屋のあちこちで男女が立ったまま抱擁して呆然としている。私は一瞬歓喜仏ではないかと疑ったが、まぎれもなく生きた男と女のからみあいなのだ。

しかしよく見ると、男あるいは女が一人で棒立ちになってその姿かたちが熱で溶解している姿もあった。いったいここはどういう部屋なのか。もしかすると彼らは即神仏の途上にあるのかもしれない。

おそるおそる広間から後退した私は、ライターと合流して寺男の案内で別の小さな寺院に向かった。ここは門が高いのでよじ登って入るしかない。寺には中年の艶めかしい女性とその娘がしゃがんで遊んでいる。

尿意に駆られたライターが慌てて便所を探したが、間に合わなかったとみえて少し離れたところでしゃがんで用を足すと、それが近くを流れている小川の流れに乗ってここまで流れてきた。

街が一斉に茶色になりキナ臭くなり、いよいよ蜂起の時がやって来たかに見受けられたが、わが統領は出口なおを気どってか、屑拾いに身をやつし、みすぼらしい小屋に吊るしたハンモックに身を横たえながら、「まだだ、まだだ」と待機の姿勢を崩そうとはしなかった。

いよいよ戦争が始まるというのでパリから帰国した橋本画伯を尋ねようと、私は小田急の新宿駅に向かったのだが、改札口に至る階段は国防軍の武器、弾薬、軍事物資の一時的な物置場と化しており、乗客たちはそれらの上を必死でよじ登りながら行き来しているのだった。

空襲警報が鳴りB29の大編隊が押し寄せてきた。
ゼロ戦に乗った海軍上等兵の私は、霞ヶ浦霞から飛び立ったが、エンジントラブルで離脱した。が、友軍機は体当たりを敢行し、敵2機を道ずれに自爆して海上に散華した。

私は彼女の夢を記したレポートを読みながら、どこが私の夢で、どこからが彼女の夢なのかをお互いに論じあっていたのだが、だんだん訳が分からなくなって、私はまた夢の世界へと戻っていったのだった。

その方形の躯体の内部では、黒いマレー人の男性と白い中国人の女性の数多くの顔が光り輝きながらゆっくりと移動していて、その顔の中の眼が時折私をチラチラと見るのであった。

久しぶりに白水社のフランス語教科書を開いてみると、最初の頁にはダで終わる単語がたくさん並んでいたので、私は少しく奇異に感じたが、ナンダ、オランダ、ミランダなどとおずおず発音していった。

課の全員が、部屋のあちらこちらにある封筒に貼られた未使用の切手を探して回ったが、なかなか見つからない。この切手がないと故障した課のパソコンを修理に出すことができないので、私たちは朝から晩まで夢中になって探し回った。

私が作った講義テキストを見ながら2人の学生が、「こんな内容なら簡単に単位が取れちゃうわね」とほざいていたので、私が「いやいや君たちが思っているほど甘くはないよ、チチチ」と呟いたら、彼らは怪訝そうに私を見た。

私はヤナイ氏というライターのいる小さな雑誌社にあこがれていたのだが、なんとか見習いとしてそこに潜り込むことができた。
その夜はチャーリー・パーカーの公演があり、舞台に向かって左側の座席は満員だったが、右側はかなりの空席があった。ヤナイ氏が右に移動してもいいぞというので私たちはそうした。

開演の時間が迫ってくると、私たちのすぐ傍をチャーリー・パーカーとその仲間たちがぞろぞろと通り過ぎ、そのまま舞台に登って演奏が始まった。

「そうですか。ここは私に任せてください」、というと、イチロー選手は見えない標的に狙い定め、鋭いスイングでバットを一撃すると、爆弾の入った大きなボールは見事敵陣のど真ん中に命中したのだった。13/5/20

私の家は水屋で、お向かいの店も同業だったが、私の家と違って向かいの店主は店員たちに絶対に水を飲ませない。「これは大事な商品やさかい、おまえたちにガブガブ呑まれたらわやや」とか言って夏の盛りにも呑ませないので、大勢の店員がどんどん倒れていた。5/22

いよいよ4人乗りのF1レースが始まった。私の車には水屋の娘をはじめシビル・シェパードなど細身の美女たちが乗ったが、ライヴァルの車には石ちゃんやデブで醜い伊集院なんとかたちがどかどか乗り組んでいたので、レースは私たちの圧勝だった。

海を渡ってライヴァル会社との交渉に臨もうとした私たちは、その夜ライヴァル社が枕元に送り込んで来た2人の特別慰安婦の魅力に負けてしまったために、翌朝から始まった熾烈な遣り取りに太刀打ちできず一敗地に塗れてしまった。5/23

上司のところに派遣されたのは正真正銘の女性だったそうだが、私の部屋に忍んできたのは女を装った美貌の男性だった。けれどもそいつが男であることは私にはなかなか分からず、「あっ、こいつは男じゃない女だ」と思ったときには、もうなにもかもが遅すぎたのだった。

水野社長がなぜか裸踊りをはじめると、部下たちは最初はあっけにとられて呆然と見詰めていたが、やがて自分たちもワイシャツを脱ぎ、ネクタイを取り去ってやけくそのようにラアラア歌いながら「えんやとっと踊り」をはじめた。5/24

ヨーロッパの田舎町で、齢老いたピアニストが亡くなった。
彼は世界中に名が売れた実力のある演奏家であったが、自分の生家で死を迎えようと戻った翌日に、ベートーヴェンの協奏曲第4番の出だしを弾きながら静かに息絶えた。5/25

ロンドンのトラファルガー広場のような広場で、親子が見せものを見物しているが、実際は彼ら自身が見せものになっていて、そこではシャツ1枚で冬の極寒にどこまで耐えられるかの実験が行われているのだった。5/26

夢の中で夢の記憶装置箱が2個転がっていたので、再生してみると、だいたいは私の記憶通りなのだが、ところどころ食い違っていたり抜け落ちていたりしているので、夢の記憶そのものと2つの記憶箱の内容のどれが正しいのか、夢の中で私は迷っているのだった。5/27

私は宝くじの1等賞を引き当てたらしい。金額は正章が1億円で副賞の2500万円がおまけにつくのだという。しかし宝くじなんか最近は買ったこともなかったのに、いったいどうして当選したのだろうと私は怪しんだ。13/5/29

最近どうも人気がいまいちだということで、東洋人の私がなぜだかジバンシーのクリエイティブ・ディレクターに選ばれてしまった。
自分ながらに考えて昨シーズンとは色柄デザインを変えつつブランド独自のテーストはいじらなかったのだが、スタッフはどうも不満のようだ。5/30