ジェーン・バーキンの思い出

 

佐々木 眞

 
 

その1

 

2023年7月16日、女優ジェーン・バーキンが、パリの自宅で76歳で死んだそうだ。

長く心臓を患い2021年には軽い脳卒中を起こしたこともある、という新聞報道を斜め読みしながら、私はしばらく彼女との懐かしい思い出に浸っていた。

バーキンといえば、日本人の誰もが思い出すのは、2011年3月11日の福島原発事故であろう。

あの時、多くの外国人が来日を取りやめたが、なかにはジェーン・バーキンやシンディ・ローパーのように、万難を排して震災直後のわが国にやって来てコンサートを開いたり、激励のメッセージを私たちに伝えてくれた勇気あるミュージシャンもいた。

当時原発事故の様子は、本邦よりも西欧諸国のメディアのほうがより深刻に報道されていたはずだから、「万難を排して」というのは単なる形容詞ではなく、彼らは恐らく文字通り、みずからの生命の危険を賭して、飛んできたに違いないのである。

実際ジェーン・バーキンが乗り込んだ成田行きのエアフランス機には、彼女以外の乗客は一人もいなかったそうであるが、この便がパリに戻るときには、大勢の乗客で満席だったはずで、その中には本邦を逃げ出そうとする日本人もいたに違いない。

なぜジェーンが、そういう命懸けの向う見ずな行為に及んだのかは私にはよく分からないが、思うに彼女は、愛する日本人のことが心配で心配で仕方が無かったのではないだろうか。

テレビで第一報に接してすぐにシャルル・ドゴール空港に向かおうとする異邦人の心の底には、日本人と自分を同一視し、この最大の苦難の時をともにしたいという、国境を超えた同胞愛のようなもの、が点滅していたに違いない。

「朋あり遠方より来たる」と孔子は言うたが、同胞からおのれを切断する悲愴な決意を固めて西に飛んだ友人の代わりに、新しい東方の友人を迎えた人たちは、百万の味方を得た思いで「楽しからずや」だったのではなかろうか。

私がジェーン・バーキンという、そんな伝説付きの女優に初めて出会ったのは、1986年11月のことだった。

当時彼女は、レナウンの「P-4」という婦人服の広告にモデルとして出演するために、夫の若手映画監督ジャック・ドワイヨンと共に来日し、宣伝部に在籍していた私が、その接待役?を務めることになったのである。

私はその前年に同じ「B.B.N.Y」というブランドのテレビCⅯ2本を、やはり老練映画監督のJ=Ⅼ・ゴダールに撮ってもらっていたので、なんとなく新旧のヌーヴェル・ヴァーグに近いところで、趣味と実益を活かした?楽しい仕事をさせてもらっていたなあと、今振り返って思うのである。

 

ただひとりバーキン乗せてエアフラは放射能の島に舞い降りたり  蝶人

 

 

 

その2

 

ジェーン・バーキンが出演するテレビや雑誌広告の撮影は、京都の大沢池や高山寺の周辺で行われたので、私はロケ隊と同行し、彼女のモデルとしてのプロ意識とスタッフに対するざっくばらんな接し方に共感を覚えたが、いちばん印象的だったのは、ある日の昼の弁当に出て私を驚かせ、どうしても食べられなかったアメリカザリガニ!のフライの弁当を、彼女がミック・ジャガーのような大口で、パクパクパクと喰ってしまったことだった。

1986年11月30日日曜日の私の日記に、「ジェーン・バーキンはキディランドでお買いもの。夜、音響スタジオにてグリーグのペールギュントの「ソルヴェーグの歌」を管弦楽とピアノの両方で録る。久しぶりに自宅でくつろぎ『キネマ旬報』の原稿を書く」とあるが、この時のテレビCⅯの音楽で、彼女がスキャットで歌った「ソルヴェイグの歌」が、彼女が帰国したあとの1987年に、ゲンスブールの歌詞とプロデュースによって「ロスト・ソング」という新曲としてフィリップスレコードからリリースされたのだった。

ゲンスブールは高音部を出せないバーキンに、あえてそれを強いた。バーキンの悲鳴に似たその歌声が、この曲の悲愴味をいやがうえにも高めているが、ハンサムでインテリのドワイヨンに夢中で、間もなくゲンスブールと別れて結婚することになるバーキンに対する、サディスティックないたぶりも、ふと感じさせるような編曲である。

なぜか音楽の話になってしまったので続けると、私はバーキンの最初の夫、英国の作曲家ジョン・バリーの映画音楽が割と好きで、今でも「007シリーズ」や「冬のライオン」「真夜中のカーボーイ」「アウト・オブ・アフリカ」などの名曲を楽しんでいるのだが、2人の間に生まれたフォトグラファーのケイト・バリーが、2013年12月に謎の死を遂げたことは、子供思いの母親バーキンにとってとても大きな痛手だったに違いない。

来日中の彼女は、毎日3女のルーに、「ルー、ルー」とその名を愛しげに呼びながら、国際電話していたことを、何故か私は知っているのだ。

 

 

 

その3

 

それはさておき、接待役の私は、日本の普通の家の暮らしが見たいというジャック・ドワイヨン&ジェーン・バーキン夫妻を鎌倉に招き、当時妻の両親が住んでいて、その死後には私の次男のアトリエ兼展示会場に変身した古民家「五味家」に案内すると、大層喜んでくれたのだった。

それから妻が運転するカローラに2人を乗せ、大仏と長谷観音を見物してから光則寺に行ったら、バーキンが鳥かごのカナリアに指を差し伸べながら、ア・カペラで知らない歌を歌っていたので、「ああ、この人はアッシジのフランチェスコみたいに不思議な少女なんだ」と思っていたら、突然、「日本で火葬が始まったのはいつごろ?」とか、「日本人はどうして火葬にするの?」などと、矢継ぎ早に英語で聞かれ、不勉強で教養のない私は激しくうろたえたことを、いま思い出した。

長野県の親戚の田舎などでは、いまだに土葬にすることを知っていただけに、「日本全国総火葬」と言い切ることも憚られたのである。

その場はいい加減にちょろまかして、私らはそこから以前女優の田中絹代が住んでいた鎌倉山の眺めの良い日本料理屋に行って、4人でお昼御飯を食べたのだが、その思い出の「山椒洞」は、その後ミノ某とかいう芸能人が買い取って、無惨なるかな跡も形もなく破壊され、すっかり新築されてしまったそうだ。

さて京都での撮影が無事に終わって東京に戻り、ドワイヨンが一足先に帰国してからも、バーキンは一人で帝国ホテルに滞在していたので、当時季刊映画雑誌「リュミエール」の編集長をやっていた蓮實重彦さんが彼女をインタビューし、私もその号にバーキン愛のエッセイを寄稿させて頂いたはずだが、肝心の掲載誌がどこかに消えてしまって見当たらないのが、とても悲しい。

 

 

 

その4

 

前にも書いた通り、私は彼女の接待役であったから、雑誌社の取材の時にも立ち会って、賓客の「バーキン様」に失礼や粗相のないように気を付けていなければなかったが、マガジンハウスのふぁっちょん雑誌「アンアン」の取材のときに問題が起こった。

彼女が滞在していた帝国ホテルの彼女の部屋でインタビューし、ホテルの裏口あたりで何カットかの写真撮影が行われ、「さあこれで終わりだな」と思った瞬間、取材担当のライターのおネイさんが、バーキンが肩にかけていた白くて大きなバッグに眼をつけ、彼女に断りもせずバッグを手に取って、そのままコンクリートの地べたに置き、カメラマンに「これを取れ」と命じたのである。

後ろの方でそれを見ていた私は、思わずカッとなって最前列に飛び出し、「あんた、こんな所でバーキン様の大事な私物を撮るなんて、失礼じゃないか、即やめれ!」と阻止したのだが、その白くて無暗に大きな皮製のバッグこそ、1984年にエルメスから商品化された「エルメスのバーキン」の「原型そのもの」だったのでR。

だから今思うに、本家本元の大元祖に目を付けたオネイさんは、礼儀知らずの無礼者ではあったけれど優れた編集者であり、それを実力で阻止した私は、ふぁちょん音痴の忠犬ハチ公なのでありました。

 

 

 

その5

 

ジェーン・バーキンが滞在していた間、東京でも京都でも、素晴らしく天気が良かったので、私は中原中也が待望の長男の誕生に狂喜し、『文也の一生』で「10月18日生れたりとの電報をうく。生れてより全国天気一か月余もつゞく」と綴ったことなどを、ぼんやり思い出していた。

1986年11月29日の土曜日も、東京は晴れていたが、その日、渋い2枚目俳優のケーリー・グラントが82歳で死んだ。

私は同じ英国生まれの彼女から、帝国ホテルでそのニュースを直接聞いたのだった。

「ジャパンタイムズ」を両手で握り締めた彼女は、猛烈な勢いで、(フランス語ではなく英語で)、彼女とグラントとの思い出について語ってくれたが、残念なことに、それがどういうエピソードであったのか、私の貧弱な語学力では、ほとんど理解できなかった。

しかし、同じ英国生まれの大先輩とはいえ、共演したこともない偉大な俳優の死に、なんで彼女はあんなに興奮していたんだろう?と、私は随分あとになってからも気になっていたのだが、ある時米国アイオワ州ダベンボートの劇場でリハーサル中に脳卒中で急逝したケーリー・グラントが、現地で「火葬」されたという事実を知って、もしかすると、それが興奮の原因だったのかも知れない、と考えるようになった。

わが国では死者の殆どが火葬だが、欧米では今でもその多くが土葬にされるので、ケーリー・グラントのようなケースは稀である。

バーキンは「ジャパンタイムズ」でそんな記事を読んだので、光則寺で土葬と火葬の話題をふってきたのではないか、と思い当たったのだが、ひょっとすると先日パリで死んだ彼女は、フランスでは少数派でも、英国では多数派の火葬にすることを、予め遺言していたのかもしれませんね。

 

 

 

その6

 

仕事柄何度も何度も帝国ホテルに通ったのだが、彼女はその都度「ボンジュール!」といいながら、自分の頬を私の頬に左右2度に亘ってくっつけ、そのたびに明後日の方を向いて、チュッと唇を鳴らすのだった。

フランス人が、親しい友人との間で交わす「ビズ(la Bise)」、すなわち“社交的なキス”である。

はじめのうちは大いに戸惑い、右から来るのか左から来るのか、と緊張しまくったが、だんだん数を重ねて慣れてくると、その時のテキの出方で、なんとなく分かるようになり、彼女の頬の柔らかさと淡いあえかな香水の匂いにうっとりしている自分が恥ずかしくなる瞬間も、偶にはありましたね。

何事につけても自然体で、あるがままに振る舞う彼女なので、格別セクスイーとは感じないのだが、何度も何度もビズを繰り返しているうちに、これはもしかするとベゼbaiserではないかという勘違いに陥る人も、いるに違いありません。

私はそういうニッポン人だけにはなりたくないなあと思っていると、バーキン様が喫茶レシートを見ながら、何度も「ヴウワーキン」と発音しながら、ミック・ジャガーそっくりの顔をして、私を横目で見て、激しく首を振っています。

彼女の名前はBirkinなのに、私が間違えて帝国ホテルのレシートにVirkinとサインしていたことを、いま知ったのです。

 

 

 

その7

 

すべてのプロジェクトが終わって、いよいよ明日は帰国という日に、コーディネーターの方の招待で、ジェーンと私はJR有楽町駅前のガード下あたりの、当時はちょっと有名だったフレンチレストランに入ろうとしていた。

ところが、入口でジェーン・バーキンを上から下までじろじろ観察していたボーイが、「ただ今満席です」と、にべもなく入店を拒否したのである。

彼女はいつものように白の幅広シャツにあちこち素肌が露出しているボロボロに履き慣らしたジーンズといういで立ちだったが、それがこの格調高い高級店?のドレスコード?に抵触したらしい。

私は、ここでまたしても逆上して、「このお方をなんと心得る!」と、不逞のボーイを叱りつけようとしたのだが、その前に「あ、そう。そんなことは慣れっこよ」といわんばかりに軽やかに身を翻したバーキンは、別に「食べるのはどこでもいいのよ。あ、ここがいいんじゃない」と呟くと、敷居の高すぎるフレンチの左隣にあった大衆食堂にどんどん入っていき、私たちはその日本料理屋の畳の上であぐらをかきながら、ビールで乾杯してから天ぷら、刺身、寿司などの山海の珍味に舌鼓を打ったのであった。

今ではその高級フレンチも、なんでもありの大衆食堂も消え失せて跡形もないが、私はここを通るたびに、女優でもなく、歌手でもなく、ただ一個の人間であった日のジェーン・バーキンを、懐かしく思い出すのである。

そして、その日彼女が日比谷花壇で買ってプレゼントしてくれた大きなタペストリーは、今でも我が家の家宝のように大切に保存されていて、毎年のクリスマスの日が、すなわち「ジェーン・バーキンの日」になるのだった。

巴里に戻ったバーキンとドワイヨンは、その後も彼らの愛児ルーを寵愛しながら、数年間仲睦まじく暮らしたようだが、1990年に離別し、ドワイヨンは96年の「ポネット」でヒットを飛ばしたけれど、2人の代表作は1984年の「ラ・ピラート」であると、わたくしは信じている。

ジェーン・バーキンの霊よ、安かれ!

 

 

 

 

 

随分と殺してきたが

 

道 ケージ

 
 

いくら頼まれごととはいえ
確実な死をもたらすのは
それなりに大変で
気苦労も多い
 
体を鍛えても
役に立っているのやら
安全装置を外し
スコープ越しにとらえる
こめかみ
 
安全装置って
変なネーミングやなぁ
で、撃つ
 
何かがいつものように
飛び散る
銃身を少し撫で
ケースにしまう

ダケカンバの狂いもみぢ
ぬかるみの峠道
小鹿の目尻かわして
 
生きすぎた
ボートデッキで葉巻
南洋の素潜りはまだしも
北国の撃鉄は真に凍てつき
宇宙の弓引き、砂塵で仮眠
 
後ろに立ち
卒倒した者が
それを誇る始末
 
何度でも何度でも
撃ち撃つ、撃つ撃つ、うつうつ
強欲なバキシル、レメロン
生き難いぞ
ラム酒浴びて牛になる
尊勝陀羅尼
とそそめく

それを続けるのだ
もみあげはどうします?
あ、長めで

 

 

 

また旅だより 60

 

尾仲浩二

 
 

フランスでやったギックリ腰は、ほぼ治まった
今ではベッドから起きるときに少し注意する程になった
柔らかいベッドマットは良くないと聞いたので
数年前に買った簡易畳をベッドの上に敷いて寝た
ところがこれにダニがいたのだ
あちこち喰われ堪らない強烈な痒さ
しかし、痒さと腰の痛さを秤に掛ければ痛さが勝る
ダニ避けのSayonara Dannyを毎日噴射し
枕や畳の下に薬剤をいくつも忍ばせた
痒み止めのムヒやウナEXは既に三個目だ
それでもダニの奴らはしぶとい
銭湯や温泉に行くのが憚られる姿になってしまった
ずいぶん痒みには慣れてきたが、酒を飲むと痒さが出てくる
でも、痒さより酒が勝るのだから仕方ない

2023年8月15日 東京中野のベッドの上で 

 

 

 

 

産む男

 

工藤冬里

 
 

これだけの人が居ても
一人居なくなったと思うと
平穏では居られない
飛ぶことはできるが
低空でしか飛べない日に
やっとの思いでビルを超え
嵌め込み式ベッドを倒し
覗き窓に「まど」と書いて埋没しようとしたが
平穏では居られない
日が斜めに射す田圃
感情を押しつけて指を切らないよう注意しながら
白鷺の下を通過する
斜めの陽は秋にまで到達する
一人が居なくなっただけで

夜中に救急車を呼んで6万5千円かかり払えないので保険証を持ってまた病院に来ている
人生は一割負担にかかっている
最初期のルーリードのまま一生を終えなさい
デモテープのまま発表なさい
いますぐ発表なさい
近づいてくる救急車の
サイレンの音も入れること

自分のことしか考えていないので自分が子供を産むことをなかなか実感できない

https://youtu.be/gPna4mxNr_w

 

 

 

#poetry #rock musician

濃重的陰影

 

Sanmu CHEN / 陳式森

 
 

濃重的陰影
沉痛的烏雲擠壓著天際。
大水將至的早晨
寫下詩行,離別的眼神。
很久很久以前,請你取下這詩集
尋覓今日;今日大雨,
這世界的淚水……….
孩子們老去,昏昏欲睡。
那些垂死的世代!
行刑者已經在回家的路上;
杯子已飲盡琥珀;你刑期已滿,
手中的傘回到雲上,
在雨中下雨,為你洗旗洗塵
為你準備好渡日渡海的舟船。
暴政削減我們的季節,
路途消耗我們的滄桑,
而我們的抵抗勾勒出呼吸;
在黑暗的律動之間製作曙光。

 
2023年8月11日~8月14日西貢

 

 
 

・翻訳はこちらで
https://www.deepl.com/translator

 

 

 

Poetry On My Mind (さよなら、黄明珍 life goes on)

 

今井義行 2023©Cloudberry corporation

 
 

さよなら、黄明珍(コウメイチン)、
あなたは、ヘルパーさんを辞めて
台湾・高雄に帰ると言うのだ……

どうしてですか、と聞きたいけど
聞いてしまったら
帰国が早まりそうで出来ない……

還暦をまえにして
一度人生を整理しておきたいのは僕も同じなので、
止められないん、だろうな

「はい、おそうじ、おそうじ!」と黄明珍(コウメイチン)が微笑む火曜日 そんなとき僕の住む古い木造アパートは、急に、明るくなる

彼女は、ヘルパーさんの仲間から、
明珍(めいめい)チャンと呼ばれているので、僕もそう呼ばせてもらっている。どうでもいい流行歌なんかには流されず……落ち着いた暮らし、出来れば、それで、O.Kなのさ……!

僕は、明珍(めいめい)チャンと、随分語り合ったものだ。「僕は、詩人なんです。30年くらい、毎日、毎日書いてきましたよ。」「義行サンは、ずうっと、部屋に籠もってきたのですの?」と明珍(めいめい)チャンはしばしば僕に言った。少しあきれ顔で。

明珍(めいめい)チャンは、お掃除の名手で彼女が部屋の角から角を通り過ぎるたびに、その跡が綺麗に片付いていた。いつの間にかペン立てが机の上で輝いていたり、タオルケットの髪の毛がすっかり払い落とされていたりした。ものたちが本来の意義を取り戻して、光を宿していた、と言うべきかな? 僕は、思ってた。(こういうのを、詩的とも称するのではないかしら……。)と。

でもね。そんなとき、僕は、思い返したりもしたのだった。ペン立ての置かれていない机だったものの佇まい、髪の毛が払い落とされていないタオルケットだったものの佇まい。そこにきっと詩はあるのではないかという僕の頑固な考え。
明珍(めいめい)チャンと僕との間には、大きな溝があるのかな、と思ったら、ちょっと寂しい気持ちもした。

そんな明珍(めいめい)チャンがある日「来月から台湾ニ帰ります。」と告げてきたわけだ。僕は「えーーっ」と大声を上げた。「そんなあ…僕たち、仲よしになれたのに…?」「仲よしですけど、帰りますのよ。」「明珍(めいめい)チャンには、大事な親族がいるんだものね、台湾には…。」「CORONAでずっと帰れませんでしたから。帰った後はずっと居るのですけど。」「明珍(めいめい)チャン。明珍(めいめい)チャンの栗鼠みたいな眼がだいすきなのに…白髪のない髪の毛も、好き。」「わたしも、義行サンの、おおきな子どものところ、好きですのよ。」「うわーっ。((泣))」Poetry On My Mind (相手をいつも輝かせる、僕のなかの詩人。さよならですか?黄明珍ちゃんlife doesn’t go on……) 「義行サン、そんなにも、哀しむことはないのですのよ。」と、明珍(めいめい)チャンは、僕に言った。

「私たちは、長い間とは言えないけれども、ヘルパーとお客様として、ずっとお付き合いしてきましたね…。」「うん、そうだよね。」「その間で、私たちは、とても気持ちが合いましたので、どんどん仲よくなり
ほとんど親友のようになりましたわね。」「……僕は、毎週火曜日に明珍(めいめい)チャンに会うのが本当に楽しみなんだよ。人に対してこんな気持ちになることは、随分なかったのです…。」「私も同じですのよ。義行サンの笑顔を見るのが楽しみなんですのよ……。」

「でもね、やはり別々の人生、なんですのよ。それは、間違っている考えではないと思いますのよ。」「明珍(めいめい)チャン。そのことは、僕もよくわかっているつもりです。もしも、僕と明珍(めいめい)チャンが恋人同士であったとしても、きっと僕たちの人生は、別々の人生なんでしょう……。」「さて、どうするか……私は、ずっと考えてきましたの。」

「私は、限られた時間、これまでよりももっともっと、義行サンのヘルプをいたしますわ。いつどこへ出ても義行サンが活躍できるように、協力して差し上げたいのですわ。」「…明珍(めいめい)チャン…いつも、そのようにしてしてくれて、どうもありがとう。でも、明珍(めいめい)チャンは、子どもっぽい僕に、なぜそこまで、関わってくださるのですか…?」「……それが、大きな友情というものだと思いますのよ。」「そう…。僕は、女の人とお付き合いしてみて、友情のことを考えたりするのは、たぶん初めてだよ。」
「私だって、きっと初めてですのよ。私には70歳になる夫がおりますが、彼のお手伝いをすることも、大きなお仕事ですのよ……。でも、夫も義行サンも、どちらも大切にしています。夫とは、一緒に台湾・高雄に帰ることになりますのよ……。」

「明珍(めいめい)チャンとご主人が無事に台湾に帰り、幸せに暮らしていくことを祈るよ……!」「私も、義行サンがこれから死ぬまで幸せに生きられらるようにできることをしますわ。」「…………。」「私の勤務日は、火曜日2時間ですけれども、これからの残りは、勤務外の時間もたくさんヘルプに伺いますわ。私は、義行サンを応援したいのですわ…!」
「僕も、心から、あなたの幸せを祈るよ。明珍(めいめい)チャン、今までどうもありがとうございました……。これからもよろしくお願いしますね!」
Poetry On My Mind (さよなら、黄明珍ちゃんlife goes on)お元気で!!

 
 

2023/05/28

 

 

 

井手綾香 : stepping stonesを渡った先

 

長尾高弘

 
 

「井手綾香の選曲によるメッセージ?」という文章を書いてからもう2年もたった。その後も彼女の活動はチェックしてきた。でも、2021年3月から2022年7月までの1年4か月ほどは一気に飛んでしまってもよいだろう。この間にも彼女のライブはあったし、ネット配信されたものは見たが、私が書いているのは彼女が書いた曲の歌詞についてだ。もちろん、ひとりのファンとしては、彼女の曲のメロディ、歌詞とパフォーマンス全体を愛しているわけだが、仮に私に彼女の歌について何か言えることがあるとしたら、歌詞のこと以外にはない。新しい歌詞が出てこなければ、私には何も書けない。

2021年3月には10周年記念のセッションがあったが、2022年3月には11周年記念のセッションはなかった。それは不思議なことではないだろう。10周年は切りがいいけど、11周年はそうでもない。しかし、なんと7月になって11周年記念ライブが行われた(東京と宮崎。私は東京の配信を見た)。しかも、無観客だった上に30分で終わってしまった10周年とは異なり、観客を入れて約2時間、アンコールも入れて18曲を歌いきった。このライブで数年前にメジャーとの契約が切れ、事務所からも離れてフリーになったことや、一度は音楽を諦めかけて普通の会社に入り、インテリアの仕事をしていたことなどを公表し、このライブから本格的な活動を再開すると宣言した。そして、自主制作で新曲4曲を含むミニアルバムを作ったのでそれをその会場で販売すること、8月から翌年3月までゲストを迎えて毎月ライブを開催すること、初めてファンクラブを立ち上げて会員特別コンテンツを提供することなどを発表した。

私は配信で見ていたので、その場でミニアルバムを買うことはできなかったが、新しくオープンされた井手綾香ショップ( https://ideayaka.base.shop/ )で注文した(2023年6月8日現在、まだ買えるようだ)。カミングアウトするほどのことではないが、ファンクラブにも入った(誰のものであれ、ファンクラブというものに入ったのはこれが初めてだ)。当然ながら、CDには歌詞カードとクレジットがついている。ついに新しく話題にすべきネタが登場したわけだ。

 

アルバムのタイトルは『stepping stones』で、日本語で踏み石とか飛び石と呼ばれているもののことである。アルバムのジャケットにもS字形に並べられた踏み石の絵が描かれている。私は踏み石があるような家には住んだことがないが、妻の実家に行くと門から玄関までそういう石が並んでいるので、どうしてもそれを思い浮かべてしまう。大人でも大股で歩かないと次の石の上に乗れない。子どもなら、ぴょんぴょんと跳ねて渡るだろう。ほかの場所でも、踏み石というものはだいたいそんな感じに並べてあるのではないだろうか。stepping stonesという英語だと、このぴょんぴょんのイメージがぴったり合う。ちなみに、10周年コンサートのあと、初めて観客を入れて開く予定だったライブ(しかし、直前に緊急事態宣言が出て中止になってしまった)は、first stepというタイトルだった。アルバムタイトルには、前に進みたいという井手の気持ちが込められているような感じがした。

入っているのは、先ほども触れた新曲4曲と「ヒカリ」だが、5曲の配列からもなるほどstepping stonesなんだなと思わせるものがある。つまり、CDジャケットの絵のようにちょっと曲折したストーリーが隠されているように見えるのだ(前稿で取り上げた2020年のライブのセットリストのときと同じように)。ストーリーというよりも、芝居の幕、場のようなものの方が近いかもしれない。ただ、アルバムを買えば歌詞カードがついてくるが、歌ネット( https://www.uta-net.com/ )のようなサイトには自主制作アルバムの歌詞は掲載されていないので、ここでは一部を引用することしかできない。

1曲目は、前稿でもかなり大きく取り上げ、7月の11周年記念ライブでも歌われた「琥珀花火」である( https://www.youtube.com/watch?v=71S6zgqhu40 にPVと歌詞がある)。前稿では歌詞が完全にはわからないまま、夢破れて故郷に帰ってきた歌だと紹介したが、おおよそそういう内容であることは間違いないと思う。ただ、最後の部分で再起を誓っているという部分を聞き落としていたようだ。

 

2曲目の「オトナ」は、「報われない言い訳を/みんなでせーので言った/誰かのせい 時代のせい/誰も自分を褒めない」という冒頭からもわかるように、不遇な人々が集まって愚痴を言い合っている図である。「琥珀花火」で故郷に帰ってきた人の後日談のように感じられる。耳に残るのは、「誰も自分を褒めない」という言葉だ。「誰も自分を責めない」というのとは微妙にニュアンスが異なる。義務を果たせなかったというようなことではなくて、もっと充実した時間をつかめたはずなのに不完全燃焼に終わってしまったという後悔のことを言っているのだろうか。

3曲目の「so much to tell」では、「起きがけに映る 安らかな寝顔/それだけでこの日を 迎えたこと 奇跡のよう」というような歌詞が耳に入ってきて、一転して何か幸せを掴んだように感じられる。夢が破れて負った傷も癒えつつあるかのようだ。しかし、「あなた」は、苦しみか辛さかそのようなものをひとりで抱え込んでいて打ち明けてくれないらしい。だからか、「想い続けている」と言いつつも「この愛はまだ無力でも」という辛い言葉が入ってくる。でも、「あなたと紡ぐこの愛は/私の唯一の光」というのだから、照らしてくれる光が現れたわけで、2曲目までのどん底からは上に向いている感じがする。

4曲目の「CANDY」は、そんな「So much to tell」の安定をひっくり返す。「毎日 毎日 愛されていたい/それだけ それだけ それだけだったのに/気がつけば私は 甘いだけのCANDY/溶けてしまうよ」。これはもちろん、音楽を忘れたら自分の芯がなくなってしまうということだろう。あなたとの愛が「唯一の光」というところに留まるわけにはいかないのである。本気でものを作ろうという人は、そういうものだと思う。

そして5曲目の「ヒカリ」( https://www.uta-net.com/song/126767/ )が続くわけだが、「まぶしい未来へ/ヒカリの種(たね)をまこう 明日の夢を咲かそう」という歌詞はまるで今の再始動した彼女を予見していたかのようだ。

こうに違いないという勢いで書いてきてしまったが、もちろんこれはそういう読み方もあるというひとつの見立てに過ぎない。そもそも、今回初めて知ったのだが、「琥珀花火」の歌詞は作詞家矢作綾加の作品で、「so much to tell」も同じく矢作作品なのである。井手自身の作品として見るわけにはいかない¶。ただ、仮に私が今書いてみせたように、井手自身が歌詞の世界を使ってひとつのまとまったストーリーを組み立てようと思ったのだとすれば、すでにある歌詞はストーリーの部品に過ぎないわけで、歌詞を作ったのは誰かということはごく小さな問題になるはずだ。

8月からライブを毎月開催するということと同時にこのミニアルバムを発表し、ライブのタイトルも同じ「stepping stones」だったわけだから、ミニアルバムの曲は毎月ライブのセットリストに挙がっていた。ライブの開催形態は、8月から12月が3人のゲストを迎えて4人、2023年1、2月はゲスト1人で2人、3月は井手のワンマンという形で変わっていき、その分井手が歌う曲数もアンコールを含めて6曲程度から、共作/共演曲を入れて9曲程度に増え、最後の3月は一部だけの曲も含めて20曲になっていたが、「琥珀花火」は毎月欠かさず登場した。ほかの曲は、8月に「CANDY」、9月に「オトナ」、10月に「so much to tell」がそれぞれ初登場し、11月から1月にも1度ずつ再登場して、3月には「ヒカリ」も含めてミニアルバムの全曲が歌われた。

このように書くと、同じようなライブが毎月繰り返されたかのようだが、3月のワンマンは明らかにそれまでの月とは質が違っていた。本人も、stepping stonesの向こう側の景色をお見せしたいと言っていたが、それまでの本人によるピアノ、ギターだけではなく、パーカッションとキーボード/マニピューレーションのふたりのサポートミュージシャンが入り、毎月ライブで初登場の曲や『stepping stones』以後の新曲も多数含まれていた。同じ「雲の向こう」でも、nabeLTD(キーボード/マニピュレーション。10周年ライブの会場の経営者、ピアノ担当でもあった)の新アレンジはとても新鮮で、このバージョンの音源もほしいと思ったぐらいだ。『stepping stones』は、門のなかには入ったがまだ玄関のなかには入っていなかったということだったのである。『stepping stones』以後の新曲もすべてnabeLTDアレンジで、まず音のレベルで十分に向こう側を感じることができた。

 

アンコール前の最後の曲として「いいじゃん」という新曲が歌われたが、アンコールで再度ステージに出てきて歌う前の告知で5月5日にこの曲が配信リリースされることが発表された。ミニアルバム『stepping stones』の曲はミニアルバムを買わなければ聴けなかったが、「いいじゃん」はiMusic,Spotify、YouTube Music等々の配信サービスで購入、ダウンロードできる。もちろん、私も発売当日に購入、ダウンロードした。ありがたいことに、歌詞もネットで見られる( https://linkco.re/r01764QE/songs/2184274/lyrics 曲自体も https://www.youtube.com/watch?v=SaAowFHvaUY で聴ける)。

その歌詞を見ると、確かにstepping stonesを渡って向こう側に行ったということが感じられた。あとから振り返ると、それまでのライブでもこの曲は何度も歌われていたのだが(10、12、2月)、歌詞というのは文字で見るまではなかなかわからないものだ。

冒頭の「眼鏡外すと/テールランプもイルミネーションみたいだ」の2行がなんともうまい。これだけであまりはっきり見えすぎない方が本当はつまらない(かもしれない)ものでもすばらしいものに見えてよいというテーマがしっかり伝わってくるだけでなく、夜、恋人同士がふたりで車に乗ってどこかに向かっていることまでわかる。あとで重要な役割を果たす「眼鏡」という小道具も登場させている。

ここで情報量を稼いでいるので、あとはゆったりと進められる。3行目でこれはすごい大発見ではないのだよと軽く謙遜してみせているが、この「お茶目な思考回路」は、つい昨年の『stepping stones』までとは大きく違うことを考えている。たとえば、『stepping stones』の「so much to tell」は、「いいじゃん」とは「私」と恋人の立場が逆だが、「so much to tell」の「私」は自分が知らない恋人の苦しみを知りたがっている。それに対し、「いいじゃん」で「見せない」と言っているのは、お互いに「大切なものは見えないくらいが/ちょうどいいじゃん」ということだ。決して、「私」のことは知らせないけど相手のことは知りたいということではないのである。実際、今までの井手の歌詞は、真実とは何かを追い求めて先へ先へと突き進んでいくような感じのものが多かった。そしてそれが彼女の魅力でもあった(過去形を使ったが、今もそれが魅力であることは変わらない)。そういう意味では、「雲の向こう」も「飾らない愛」も「消えてなくなれ、夕暮れ」も『stepping stones』の各曲も共通したところがあると思う(『stepping stones』には挫折による屈折があるので、それまでとはちょっと違った色合いが出ており、だからこそstepping stonesなのだが)。

しかし、「やけに鮮明な世界は/超あっけなくなって/もう何も生まれない気がしてた」という4行目から6行目からは、そういった世界をばっさり切り捨てるかのような響きがある。そう言えば、「いいじゃん」について井手自身がなにか書いていたなということを思い出し、Facebook、Twitter、Instagramを探してみたがどうしても見つからなかった。この文章を書き始めてから、ファンクラブメッセージというものがあったことを思い出して見てみると、5月5日の「いいじゃん」発売の告知として、5月1日に投稿されたものにまさにぴったりなことが書かれていた。

《私は自分の曲に対して、言葉や背景は綺麗であるべきとか、誰もが頷くことを書くべき、と思っていたんですが、人間そんなに完璧ではいられないし、不完全なところにこそ愛らしさがあったりするなあと思ったりして》

有料会員だけが読めるものなので引用は一部だけだが、「いいじゃん」の4行目から6行目は作詞論だったのではないかとさえ感じられる。そして、曲の冒頭の比喩が意味することもここにはっきりと書かれている。

 

逆に、このファンクラブメッセージを見直したおかげで、17行目から19行目の「視界は良好?/歪な心に尋ねても意味ないよ/あれこれ悩むより揺れていたいな ah」の「歪な心」の持ち主が誰かもわかった気がする。特定の誰かではなく誰もがそうなのだということではないだろうか。「歪」という言葉からはかなり強いマイナスの力が引き出されるが、「完璧ではいられないし、不完全なところにこそ愛らしさがあったりする」人間に良好な視界を求めても確かに意味はない。「あれこれ悩むより揺れていたい」というのもいい言葉だと思う。「悩む」のは正解がほしいからだが、正解なんてないよと思えば「揺れ」を楽しめる。「鮮明な世界」を完全に捨てる必要もないということになるのではないだろうか(「鮮明な世界」だけを求めるということはなくなるだろうが)。

そしてほとんど最後のところに「ほら眼鏡外してキスしよう」という歌詞が入っているのが心憎い。夜、車に乗っている恋人同士はいつまでも車で走っているわけではない。キスをするというのはある目的地に着いたということだ。キスをするときに眼鏡を外すのは当たり前のことだが(実際、目もつぶるものだが)、冒頭の「テールランプもイルミネーションみたいだ」という歌詞の残響も聞こえてくる。つまらないかもしれない?相手がずっとすばらしく感じられ、いい時間がやってくるのである。そういう時間の流れを短い曲のなかで感じさせるのは見事な手腕だと思う。

このように見てくると、井手綾香のシンガーソングライターとしてのキャリアにおいて「いいじゃん」はかなり重要な曲だったのだろうと思われる。改めてこの1年弱に起きたことを思い出すと、3月ではなく7月(彼女の誕生月らしいが)に11周年コンサートを開き、そこで自主制作のミニアルバム『stepping stones』の発売を発表し、8月から3月まで毎月1回ずつゲストも呼びながら主催ライブを開催し、そのライブの10月の回に「いいじゃん」を発表し、ワンマンで開催した最後の3月に配信シングル「いいじゃん」のリリースを発表して、nikieeとのふたりライブをふたりで主催するとともに、その他各地のイベントに出演しているということになる。それまでの数年と比べればとても盛り沢山だ。

私たちオーディエンスは、そういう時間感覚で彼女の新曲に接してきたわけだが、井手自身の時間はおそらく違うだろう。『stepping stones』に入れた曲は、「琥珀花火」以外、おそらく2020年頃から2022年の始め頃までに書き溜められてきたはずだ†。ひょっとすると、曲は出てきても歌詞が出てこないという時期があったのかもしれない。いずれにしても、そうやって書き溜めた曲で音源を作るというところまではどうもなかなか吹っ切れないでいたのではないかという気がする。ところが、2022年3月から7月までの間に「いいじゃん」が生まれて新たな視界が開けた。「いいじゃん」までのstepping stonesを示すという形でミニアルバムを作り、3月にやらなかった11周年ライブを7月にやって、そこから始まる1年ほどのプランを立てた。何が言いたいかというと、stepping stonesという言葉は、すでに「いいじゃん」ができている時点で、それまでの過程を表すために出てきたのではないかということだ。すべては「いいじゃん」から始まり、「いいじゃん」を前面に押し出すための1年がかりの準備だったのではないかという気がする。

もちろん、こういう想像はほとんど外れるのが普通であり、当たっていたとしてもだから何? というようなものだ。しかし、あれこれ想像するのは楽しいし、そういった想像を引き出す力を持った作品に触れられるのはファンとしてうれしい。前稿の最後のところで、「生きてきた年輪を感じさせる井手綾香の曲を聴いてみたいものだ」などと生意気なことを書いたが、まるで井手がその呟きを聞いて望みをかなえてくれたような気までしてくる。昨年10月に初めて聴いたときには「いいじゃん」がどのような意味を持つ曲かということが全然わからなかったが、5月のリリースにともない、歌詞が公開されて、ようやくそれを想像できるようになった。

3月のライブでは、ほかにも新曲がいくつも披露された。私が聴きに行けていないライブでも、それら(ひょっとしてそれら以外も?)が歌われているらしい。歌詞も見られる形でそれらをじっくり聴けるときが来るのを楽しみに待っている‡。

とは言え、自主製作CDで歌っているものであり、井手自身が自分で歌詞を書いても同じような内容になるというぐらいの近さはあるはずだ。

 

 

† 「琥珀花火」はフリーになる前からライブでは歌ってきたと過去のライブのMCで彼女自身が言っていたのを聞いた記憶がある。それから、「CANDY」は「いいじゃん」ができたあとで作ったものかもしれないという見方もできると思う。

‡ この文章は最初の部分とあとの部分とで何か空気感が違うんじゃないかと思われたかもしれない。それはそう感じるのが正しい。書き始めたときには、こういう形で終わるとは想像もしていなかった。書いている途中で、気になるファンクラブメッセージを再発見してから空気が変わった。筆者としては、その揺れも含めて記録しておこうということだ。