広瀬 勉
#photograph #photographer #concrete block wall
地下道だ。古いコンクリート壁の割れ目から地下水が滲み出て、ポタリポタリと落ちている。
ポタリポタリというのは、本当の音ではない。犬がワンワン、猫がニャアニャア、蛙がケロケロなど、という常套擬音というわけでもないのだが、ポタリポタリではないことだけは確かだ。音を描写するのは難しい。
ここにしよう。近くの廃屋に寝泊まりし、ここに、七日間、日の出から日没まで、鎮座し、この水の音を筆記しよう。
地下道は、約50mが二本、十文字に交差している。その交差している少し横に、この水の滴りがある。落ちる音は、微かなのだが、わずかに地下道の洞に響いているようにも聞こえる。
水が落ちる落差は、10cmほどだから、ポチャンというより、ポタリという感じだ。音採集行為でもあるのだが、この音を正確に文字で描写することは、難しい。
ただ、僕は、ここにいて、七日間筆記行為を続ける。描写もするが、音を聞きながらの自動筆記である。文字だけでなく、記号や楽譜のようなものや絵のようなものにも変異していく。それは、意図するものでなく、落ち葉が風に吹かれて、落ち葉の溜まりを生じ、風の痕跡というか落ち葉の集積というか、そんな感じである。
地下道の壁からポタリポタリと落ちる水の音。壁に向かって、小さな黒いちゃぶ台を置く。ちゃぶ台の前に一畳ほどのござを敷く。ござの上には直径60cmの鉄球と、七日間座り続ける古い煎餅座布団。
ちゃぶ台の上には、筆記するための巻き紙。障子紙だ、幅35cm長さ20m。今は一本五百円以上もするが、当時は三百円ぐらいだった。和紙なので丈夫い。濡れても破れない。七日間の間に巻き紙何本書いたか記憶にない。おそらく、数本だと思う。
筆記具は、ペンテルの筆ペン、一応顔料インクとしたが、途中でインクが無くなってしまって、水で薄めて使った記憶がある。文房具屋に顔料インクのスペアを買いに行った記憶もある。ここの場所ではないが、雨の日は筆ペンは無理なので、油性ボールペンで筆記した時もある。ここは、地下道だから雨が降っても大丈夫。
1日目。
日の出より、水がポタリポタリと落ちている地下道の壁に向かって鎮座する。
上記の通り、鉄球とござとちゃぶ台と筆記具。これらは、ここから徒歩30分くらい離れた寝泊まりしている廃屋から、キャリーで毎日引っ張って運んでくる。そして、この地下道の、この水の落ちる場所に設置する。行為は日没まで続け、これらの道具類は、その日の行為後、片付けて、またねぐらまで持ち帰る。
そして、水の落ちる音を聞き、連綿と、巻き紙に書き続ける。草野心平の蛙の声の筆記とはちょっと違うが、まあ似たようなもんだ。違うところは、この水の音、音ばかり記述するにはあまりにも単調で、情景描写も筆記することになる。
日の出頃、つまり、この日の行為の始める頃、この地下道にお爺さんがやってきた。このお爺さんと最初何を会話したかは忘れた。このお爺さんは、毎日、早朝家を出て、この辺あたりを掃除しているとのこと。奉仕活動というか、ボランティアというか、まあ、お爺さんが勝手に毎日、毎朝掃除しているのだ。
彼が箒とちりとりは持っていた記憶はあるが、ゴミ袋の記憶はない。なんでだろう。
まあ、ともかく、このお爺さんと、毎朝、七日間、会うことになった。僕は、壁に向かって鎮座しているだけなので、しかも横に鉄球が置いてあるし、変人だろうと思われたかもしれないが、お爺さんは、気さくに僕に声をかけてくれてた。
「何やってるんですか?」とお爺さんは僕に問いかけた。僕は、ことの仔細を丁寧に答えた。お爺さんは、不思議とすぐに理解してくれて、「頑張ってください。」というエールまで貰った。
朝夕の通勤通学時間になると、普段ひとけのない地下道がこの時だけはわずかに賑やかだ。僕の後ろを、何人もの人が通り過ぎて行く。子供達は、屈託ないので、寄ってくる。「トトロを描いて」というので、分からんけどこんなもんだろうとさっさっさと描いた。鉄人28号は子供の頃から描き慣れているので、これもついでに描いた。
2日目。
お爺さんは今日も来た。みかんを三個ほどくれた。嬉しかった。
3日目。
お爺さんは、自分を描いて欲しい、と言うので、描いてあげた。巻き紙のその部分を破ってあげた。この日も、何か忘れたけどお爺さんからの差し入れがあった。
4日目。
お爺さんが、お爺さんの奥さんに、僕が描いたお爺さんの絵を見せたら、奥さんが「これをタダで貰ってきてはいけないよ。」ということで、今日、お爺さんは僕に三千円渡そうとする。僕は、「そういうつもりで描いたのではないので、受け取れない。」というと、がっくりとした顔をしていた。帰ったら、奥さんに叱られるのかもしれない、受け取っておいた方が良かったかなあと、あとで少し後悔する。
5日目。
お爺さんは、今日も一緒だった。お金は受け取れないという僕のことを気遣って、飴玉を一袋持って来た。しょうがない、ありがたく頂いた。
6日目。
お爺さんは、今日も、何かを持って来た。バナナだったかなあ。記憶は曖昧だが、とにかく、毎日の差し入れ。
7日目。
この場では、最後の日、お爺さんは、やっぱり何か持って来た。
僕は、お爺さんが帰ったあと、お爺さんのことを思って、裸になり、ふんどしを締め、鉄球を地下道の中、サラシで引っ張ってゴロゴロ転がした。その反響音は、地下道にこだました。
水は静かに、ポタリポタリと落ちていた。
北八ヶ岳中腹標高1700mから1800mに展開する別荘地。冬は大量の積雪で避暑地としての清涼な夏とはまったく異なった別世界になる。それはすでに異界というべきかも知れない。そこにあったものはすでにそこには無くそこに無かったものどもが当然のこととしてそこにある。大雪の後の快晴の朝それらがそれぞれにそれぞれの「現れ」を見せる。この地の冬はじつにそのような季節である。氷点下15℃の寒冷な風に耐え雪を踏み分けて歩けば随所で彼らに(彼らの現れに)出会うことになるのだ。
PANASONIC DMC-L10, Leica D Vario-Elmarit F2.8-3.5/14-50mm ASPH
Masayuki Kano
うまく笑えない
うまく喋れない
うまく伝えられない
うまく生きられない
風は何処を吹く
胸に宿る魂の叫び
探し求める解放区
常に狭斜に往来していたおらっちだったが、世紀末ウイーンを訪ねた折には、高級車に2人の美女を侍らせ、颯爽とモザール邸に乗り入れたのよ。8/1
昔々京急の株を超安値で買ったのが、今や数百倍の値がついてぼろもうけしているはずなんだが、いくら探しても肝心の株券がないのら。8/2
息子がようやっとコロナワクチン接種の申し込みができるようになったというので、朝イチで代理で申し込んでやろうと徹夜で待機していたら、朝が過ぎ去ったようだ。8/3
最新型コロナとの戦いの最前線に立っているのは、またしてもホッテントットの女王だった。8/4
いくら優れたデザイナーの服でも、それを着こなす人のセンスが悪ければたちまちゴミのような代物になるのは、そのデザインの中には良い、悪い、普通の3種の要素が含まれているからだと、良い子、悪い子、普通の子の3人が、声を揃えて教えて呉れた。8/5
いよいよ地球脱出の時が迫って来たというのに、この国は、頭の先から尻尾のヘリまで腐りきっていたので、もろもろの準備がてんで出来ていないのだった。8/6
軽自動車で撥ねられた時の撥ねられ具合は、ガツーンだったか、ゴツーンだったか、ガーンだったかと、色々追体験しているのよ。8/7
敵の偵察に出ていたら、とっつかまってしまった。敵軍の頭は「罰としてお前の片腕をちょん斬ることにするが、どっちかを選べ」というので、たまたま腱板損傷で痛くてたまらない右腕を切断してもらったら、さっぱりした。8/8
仏蘭西語が分からない伊太利人のために、最後の御奉公として棺桶に片足を突っ込んだアラン・ドロンがやってきたのだが、「セレレ、セレレ」としか発語できなかったので、みな落胆した。8/9
カス内閣のデジタル庁があまりにも不人気なので、誰か知恵者が入り知恵して看板をレンタル庁に付け替え、いずれも無職の若い男子には若い女子、若い女子には若い男子を夜な夜な税金負担でデリバリーすることに決めたら、たちまち支持率が急上昇しました、とさ。8/10
我々はみな鋭い剣がついた軍帽をかぶっていたが、これを敵に向けての熾烈な穴あけ競争が始まった。8/11
私はルーミスシシジミだが、口からあふれ出る蜜が若い娘たちの人気なので、周囲には遠方から駆けつけてきた多くの美女たちが、三密、四密、五密状態だった。8/12
シゲハラ印刷のタナカ君が、7時にいなくなると同時に、おらっちの課は無人になった。おらっち抜きで、どこかでパーテイーでもやっているのではないかと激しく疑ったが、あいにく誰もいない。8/13
誰かが露台で、洗濯物を物干し竿に吊るしたまま、そいつを上下左右に振り回して、サーカスの練習をやっている。8/14
みんなでモロッコに試合に出かけたのだが、あっさり負けてしまった。あんなやり方では負けるのは当たり前。みな大反省せよ!8/15
私はライフルを握り締めて、2,3回引き金を引いた。敵の姿は見えないけれど、誰かが斃れたたようだ。ともかく息子の一世一代の個展を邪魔立てしようとするやつは、こういう目に遭うのだ。8/16
久しぶりにNYにやって来て、前から持っていた小銭を払おうとしたら、「それはもう通用しません」と言われて、頭の中が真っ白になってしまったよ。8/17
いつの間にやらおらっちは、K団連の重要メンバーに成り上がって、毎日テレビで記者会見に出るようになったしまったので、「もしかして俺は海道一のエラモンさんになったのではないか」と、毎日鏡の中の顔とにらめっこしていたのよ。8/18
オグロ選手とその仲間たちが、年に一度の慰労パーティを開くと言うので、私は老いたる父母を連れて上京したのだが、ふと気がつくと2人とも姿を消してしまったので、焦りまくっている。8/19
ようやく父母を見つけたのでイカスミで口を黒くしたりしていると、誰かが「こちらササキマコトはんの特製スパゲッテイ・ブースどっせえ」と叫んでいるのでそこへ近づいていく。もうひとりササキマコトがいるのだろうか?8/20
かつて人気を博した国際政治テレビ番組が惜しまれつつ終了したが、脇役スタッフの私にも80万円のラスト・ボーナスが出たので、私は仲良しの女忍者スタッフと一緒にプロデューサーがいる最上階に行くエレベーターに乗ったのだが、まだ懐の80万円が信じられないでいる。8/21
テイコウ映画祭の会場では、バルタン星人が、「今日は、朝から晩まで、全部の映画を見るぞ!」と張り切っていたずら。8/22
神宮前の事務所に、東急エージェンシーのナカムラさんを訪ねたら、別の先客がいた。ナカムラさんが「3人で中華を食おう、僕は後から行く」というので、2人で先に行って待っていたがなかなか来ない。そのうち先客は、料理を勝手に注文し始めたので、焦っている私。8/23
その時だった。私は見た。黒い目出し帽をかぶった息子が、普段は見たこともない狡猾な類人猿のような表情で、そっと誰かに近づいていく恐ろしい姿を。8/24
山村工作隊時代の共産党員がまだ生き残っていて、「あの時代に火炎瓶を投げた連中が、その後歌声喫茶で「若者よ体を鍛えておけ!」などと歌っている姿を見ると、とても同じ人間とは思えないよ」と語るのを聞いて、おらっちは深く頷いた。8/25
両辺を両の手で持って、そのランプを、そろそろ運んだのだが、地面に下ろしたときの、ふとした衝撃で、大爆発が起こって、ランプも我らもみな吹き飛んでしまった。8/26
海岸通りを走るバスに乗って、私たちはその貴族の別荘に向かった。海も空も青い夏の日の午後だった。8/27
さなきだに苦労山積の駐韓大使の私を、官邸に忖度し捲りの猿面患者のような部下どもは、てんで仕事などせず、私の足を引っ張るようなことばかりするのだった。8/28
ぞの公凶放送のアナウンサーが、毎日マスクをしろとか外出や会食するなとか、まるで子供に箸の上げ下ろしを注意するような教訓を垂れるので、どたまに来たおらっちは、そ奴を画面から引きずり出して、血祭りにあげてやったのよ。8/29
今から30年前、この見知らぬ町に初めてやって来た私は、最初に口をきいた少年のお陰で幸運に恵まれ、とんとん拍子に出世して、町一番の分限者になり上がったのだったなあ、と、感慨深く振り返ったのだった。8/30
おらっちが指揮するハイドンのオラトリオ「天地創造」の演奏中に、おらっちの恋人のソプラノが急死してしまったので、曲目を急遽モザールの「レクイエム」に切り替えた。8/31
その冬、
さらば青春の光を追いかけて
辿り着ついた季節外れの異国の浜辺
風に脱色された砂のキャンバス
空と海が溶けあっていた
黒いヒジャーブに身を包んだ女性が
風の試練に耐えるように顔を布に埋めながら
白いあわいの水平を歩く
生の動線に、存在の黒点
眩しくて暗い象徴の絵画
天と地が抱擁するあの白いあわいを
安寧というのだろう
ベン・シャーンの抱擁のように
哀しみと歓び
未来と過去
生と死が抱きしめあう
足跡が砂にきえてゆく
風が音を鳴らす
そこの石には穴があいてるのですって
きみの白い骨は
あの風の音がしたよ
砂を舐めて生きてきた音
きみの外から
わたしは口笛を吹いた
きみのいた時の音に重ねて
わたしはわたしの箱をつくる
来る時
来る鳥
わたしはそこへゆく
風が過ぎ去ったあとの抱擁を夢みて