完全に不完全

 

正山千夏

 
 

34℃
熱いゼリーの中を泳ぐような
むっとした空気
おもむろに日差しが陰り
夕立をはこぶ雲が
灰色でさらに塗り込めていく夏
そこに閉じ込められた私
この夏は完全だ

ガリガリ君を食べながら思う
だれかが歌うサマー・タイム
空0ある朝、お前は立ち上がって歌う
空0そして羽を広げて飛んでいく
私は今飛んでいるだろうか
あいつは今飛んでいるだろうか
青いソーダ色の空を
あたしは完全に不完全

ハイハットと蝉がセッションする夕暮れ
雷のバスドラムは多分もう間もなく
私はもう、楽しみでしようがない
塗り込められた私が
夏に飛び出していく
土砂降りの夕立も
泥だらけの彷徨も
台風一過の空も

 

 

 

家族の肖像~「親子の対話」その21

 

佐々木眞

 
 

 

お父さん、お味噌汁の英語は?
ミソスープかな。
お味噌汁、お味噌汁。

お母さん、必死ってなに?
一生懸命のことよ。
ヒッシ、ヒッシ、ヒッシ。

お父さん、ヒシって食べるもの?
そうだよ、食べると美味しいよ。

お父さん、食べる、の英語は?
イートだよ。

お父さん、美味しいの英語は?
デリシャスだよ。

お父さん、佐々木内蔵助の蔵は地蔵のぞうでしょ?
そうだよ。よく知ってるね。

お母さん、ぼくウラジロすきですお。
そうなの。今度あったら教えてあげるね。
うん。そうしてね。

横浜線205系なくなっちゃったよ。
そうなの。
寂しい、寂しい、寂しいですよ。
お父さん、寂しいの英語は?
ロンリーかな。
寂しい、寂しい、寂しい。

ヒロシさん、定年退職したの。
そうよ。
マコトさんと同じように。
そうよ。

お母さん、キンレンカのはっぱ食べられる?
食べられるよ。

お母さん、増結ってなに?
足すことよ。
お父さん、増結ってなに?
電車をガチャンと繋ぐことだよ。
ゾウケツ、ゾウケツ。

そそぐは、ラーメンつくるときでしょう。
そうだね。

黄色は注意でしょ。
そうよ。もう止まりなさい、ということよ。
ぼく、注意しますお。

ねえちゃん、好きやねん。
耕君、それ誰が言ったの・
分かりませんお。ねえちゃん、好きやねん。

ヒタイはオデコでしょ?
そうだね。

お父さん、秘密って内緒のこと?
そうだよ。

お父さん、山形って酒田でしょ?
うん、山形県に酒田があるよ。

ぼく今日、大船のとんでん行ってえ、ヤマダ電機行ってえ、ファミリーマート行きますお。
分かりました。

お母さん、なつかしいって、いいことでしょ?
そうねえ、いいことよ。

やすらぎってなに?
心穏やかに暮らすことよ。
やすらぎ、やすらぎ。

お父さん、明治はずっと昔のことですね?
そうだよ。
お父さん、明治はチョコレートでしょ?
そうだね。

お父さん、アンズ酸っぱいよね?
そうだね。酸っぱいね。

お母さん、ぼく明日御用があるので、ホームお休みします。
どんな御用ですか?
えーと、おうちにいる御用です。

お父さん、「ご迷惑をおかけしまして」は、「ごめんなさい」のことでしょ?
そうだよ。

私はタバタトモコです。
トモコさん、こんにちは。

お母さん、ひとしいってなに?
おんなじっていうことよ。
ひとしい、ひとしい。

お父さん、先輩の英語なに?
せんぱいねえ、シニアかな。
先輩、先輩。

お母さん、ぼくドクダミのお花すきだお。
お母さんもすきよ。
ドクダミ、ドクダミ、ド・ク・ダ・ミ。

「参る」は来ることでしょう?
そうだよ。

下がらないと危ないでしょ?
そうだね。

 

 

 

世界を見る目

さとう三千魚詩集『浜辺にて』(らんか社刊)を読んで

 

長田典子

 

 

この詩集は、2013年6月9日から2016年10月10日まで、さとうさんご自身が主催するWeb詩誌『浜風文庫』に毎日のように公開された532編が日付順に収められている。日付が飛んでいるのは、予算上やむを得ず削った詩が多かったとのこと。画家の桑原正彦さんの可憐な装画によるこの詩集は628ページという分厚い本でありながら、ペーパーバック風の造りによって、見た目を裏切って手にするととても軽い。それぞれの詩のタイトルは、毎日ツイッターの「楽しい基礎英語から」引用したとのことで、すべて英単語だ。だからといって、小難しいものではなく、寧ろ軽やかさのようなものが本全体から感じられる。そして、さとう三千魚さんならではの独特で非凡な「世界を見る目」を通して書かれた詩が収められている。
一読した後、少年のようにみずみずしい著者の感性が行間からじわじわと滲み出てきて胸を捕まれた。具体的なそれぞれの日々の出来事よりも、さとうさんの感情そのものの束がうわーっと押し寄せてきたようで、この詩集はさとうさんの感情のドキュメンタリーなのだと思った。比喩をつかわず自然な発語で記されているため、それぞれの詩がとてもフレッシュなものとして受け取ることができる。
さとうさんの詩作へ動機、世界への視線は、「living 生きている」(p.546)という詩に表されているように思うので、まずその全文を紹介したい。

 

living 生きている
2016年5月19日

朝になる

ピと
鳴いた

ピピと
鳴いた

と思ったら
ピピピピピピピピと鳴いた

それで
もう鳴きやんでいる

小鳥たちの

朝の
挨拶だったのだろう

ピといい
ピピピという

喜びがあるのか

わからない
此の世に驚いてピといった

どきどきして

 

鳥の鳴く声を細やかに聞くことができる人なのだ。日常の、普通はあまり気づくことのない細やかな事象に対して、さとうさんは繊細にキャッチし、その心の動きこそが、日常から詩へと移行する際の動機となっているようだ。物事に対面したとき、イノセントな心の動きを逃さずとらえて詩にされているのである。『浜辺にて』は、さとうさん独特のイノセントさで貫かれている。
「hot 暑い 熱い」(2016年2月3日)はタイトルに反して真冬の詩だ。真冬にコートを着て電車に乗る男は、詩人の田村隆一などの名前を挙げてから「ダンディになれない/神田で飲んでる」と最後に正直に告白する。そこがいい。そこが清潔だと感じる。
では、『浜辺にて』の詩群は抒情詩かと思いきや、実はドキュメンタリータッチでページが進んでいき、日々の些細な出来事をツイッターの「楽しい基礎英語」からとらえたタイトルと絡め、さらに実際にあった肉親や友人の死や生きた人々との出会い、人の生死なども、さりげなく絡めて書いているので、叙事詩ということもでき、ゆえにねじれ、そこから独特の深みを醸し出している。
そういうこともあってか、一読後は、さとうさんの感情の束を感じ、確かめようと二読目に入ると、今度は、一行一行がストレートに胸に響いてきたので驚いた。サラリーマンであるさとうさんは、会社のある東京と実家の静岡を新幹線で往復し車窓から風景を見ながら、あるいは、平日に住んでいる寮のある川崎から会社までの通勤途中に音楽を聴きながら、過去や家族や愛犬や音楽や詩友のことを想う…それが、言葉少ない詩になると、不思議な広がりが出てくる。できたら、新幹線や通勤電車の車窓から、毎日、繰り返し見る風景の写真や、休日に一緒に過ごす愛犬の写真や、愛犬と散歩に出かける海の写真なんかが入っていたら、(実際、さとうさんはフェイスブックで毎日のように写真を公開している)きっと、さらに不思議なリアリティが生じたのではないかな、と日々フェイスブックでさとうさんと交流しているわたしとしては、惜しい気持ちもする。
毎日出会う様々な人々・言葉のなかで生活者であるさとうさんは暮らしている。しかし、詩人であるさとうさんが追及するのは、「ないコトバ」「ないヒト」なのである。「ことばの先のことばでないもの」(「dear親愛なる 2014年3月14日」より」である。そして日常の裂け目の、特別に非日常な瞬間である。「Poet 詩人」、「Strong 強い 濃い」の二編を紹介したい。

 

poet 詩人
2013年12月7日

こどものとき
ことばをうしなった

すでにうしなっていた

軒下の暗やみで
小石を積んで遊んだ

そこに真実があった

コトバをうしない
ないコトバに出会う

詩は
ないコトバに出会うことだろう

詩人は

ないだろう
ないヒトだろう

 

strong  強い 濃い
2013年 10月18日

夕方
神田の空を写真に撮りました

仕事を終えて
長い電車に乗りました

深夜の東横線でスーツを着た男が叫んでいました

ヒャー

何度も叫びました
悪夢のなかでもがくように叫んでいました

愛しいと思いました
その男にも夕方の空はあったのだと思います

 

電車の中で同じ車両に「ヒャー」と叫ぶ男がいたら、ふつうは怖いのだ。疎外したくなるのだ。だが、さとうさんは、「愛しい」と言う。「その男にも夕方の空はあったのだと思います」と、その男の存在を自分と同じ場所でとらえる優しさを感じる。「夕方の空」はわたしたちが生きている「社会」という場所だ。そこからはみだしてしまっている男はさとうさんご自身であるかもしれず、わたしたちでもあるかもしれないと気付かせられる。
「bad  悪い ひどい 劣った」(2014年11月15日)では「醜いものを見た目だった/世界を見るには/この目玉がいる」と書かれている。「醜いものをみた目玉」を通して、さとうさんは、実に「イノセント」にみずみずしい視線で世界を見る。相反するものを抱え込んだ深い視線……これは、なかなか真似ができない。この詩集は、さとうさんの、このすごい目玉を通して書かれている。
醜いものを見た目玉によって濾過された非日常、またイノセントなものをイノセントなものとして書かれている真似のできないある種のストレートな視線…だからこそ、さとうさんの詩から、わたしは少年のようなみずみずしさを受け取ったのだろう。そして二読目に「醜いものを見た目玉」を感じ、一行一行が強く心に沁み入ってきたのだろう。
「angel 天使」という詩を紹介したい。

 

angel 天使
2015年10月6日

今朝
満員の

山手線のなかで
泣いてた

赤ちゃんの
泣く声がした

かぼそく

目を
瞑って

聴いた

このまえの日曜日
きみに

会わなかった

声も
聞かなかった

浜辺には
風が渡っていった

きみの
声を

探した

いないきみの声を
探していた

 

「赤ちゃん」の「泣く声」は悲しい。そこから「会わなかった」きみに想いが連鎖する。この繊細さ、ストレートさ……胸がきゅん、とした。
他にも「sorry 気の毒で すまなく思って」にも注目してほしい。

 

sorry 気の毒で すまなく思って
2013年12月2日

朝露の中で
閉じた花がひらくのをみていた

小さなラッパのように
閉じた白い花がひらくのをみていた

朝日にあたって
白い花はひらいていった

小さな命がひかりの中で振動していた

ひらいていった
ひらいていった

振動するものをみていた

 

花が開くのを見ながら、さとうさんはsorryとすまなく思うのである。自然豊かな東北で生まれ育ったというさとうさんは、自然への敬意、畏怖をもって世界に接していることがわかる。そして、自然が「振動する」、そこを、きちんと見ている。
『浜辺にて』に収められた532編のなかの5編を紹介させていただいた。難しいことばはどこにもなく、ほとんど、小学生にもわかる言葉で書かれている。この詩集から、きっと誰にも、好きな詩、大切にしたい詩、を見つけることができると思う。
ちなみに、この詩集の最後には索引があり、初心者用の英語の辞書のようにもなっている。
日曜日以外は毎日更新されるWeb詩誌『浜風文庫』を運営しながら、これだけの厚い詩集を編むのはさぞ大変な労作だったろうと思うのに、さとうさんは、どんどん新しいテーマを見つけて詩を公開し続けている。目が離せないなぁと思う。

 

 

 

ガバッと起きた

 

辻 和人

 

 

よし、結婚してみるかな
布団はねのけガバッと起き出したのだった
ガバッと、
ガバッと、
ガバッと、だ
12月も末に近い、冬休みの1日目
いつものしーんとした冷たさが
重くのしかかってきて
心地良かったんだけど
何故かどうにかこいつを全身の熱ではねのけなきゃって
で、ガバッと起きた
で、相手がいるわけではないから
仲介してくれるトコにお世話になるか、と
で、パソコンの前に座りバチバチ検索していった
バチバチバチ
おっ、ここ良さそうだな
で、窓口に電話をし、午後のアポを取った
ここまで一気
ふぅーっ
ちょっと疲れた
敷きっぱなしになっていた布団に再び潜り込んだ

祐天寺の一人暮らしのアパートで
かまい続けて深い関係になりすぎてしまったノラ猫のファミとレドを
伊勢原の実家に預けることにしたんだよね
時々様子を見に行く
ファミはすっかり実家に慣れておなか出して寝てる
鼻に触って挨拶すると大きな伸びをしてついてくる
後から預けたレドは引っ込み思案でちょっとオドオドしているけど
持ってきたお土産見せたら
膝に前足かけてよじ登られちゃったよ
高い高―いされておヒゲぴんぴんご機嫌のファミ
ふぃふぃ匂いを嗅いできてスリスリ白い体をくねらすレド
ああ、いいよなあ
こういうすごくね
あったかくてね
わふわで湿り気のあるもの
あー、こういうのも
いいんじゃないかなあ
ってね

ずっと一人でいて
その暮らしの、ある硬さとか冷たさとか
気に入ってた
仕事から疲れて帰ってきて
誰もいない部屋の鍵を開けると
しーんとしきった硬質な空気が
ぼくの全身を冷たく包んでくれる
思わず目をつむりたくなるくらい気持ちが良い
ただいまぁ
毛羽立った無言のカーテンがユラユラゆらめいてくれて
まるでオーロラのようだ……

でもさ
あったかくてふわふわで湿り気のあるもの
こういうのも
いいんじゃないかなあって

ここから一気
13時に大手結婚情報サービスの渋谷支店に到着
入口に高価そうなウェディングドレス
ロマンチックなお式のイメージですか
くそっ、ここはぐっと我慢だぜ
やがて若い女性アドバイザーが現れて概略を説明
にこやかな表情を浮かべながらすぐ話を本契約に持っていこうとする
お仕事熱心ですこと
普段のぼくなら「とりあえず持ち帰って検討します」なのだが
何せ今日はガバッと起きた勢いが
背中に張りついている
「いいですよ、契約します。」
アドバイザーの目が喜びに輝いた
「ありがとうございます。それではお手続きを取らせていただきますね。
コーヒーのお代わりはいかがですか?」

帰宅すると
敷きっぱなしの布団にまた遭遇
ぼくが2度目に起きだした時の姿のまま
もっこり、冷たくなっている
長い間親しんできた
しーんとした冷たさだ
いつものようにそれを視覚で抱きしめようとする
でも、あわわ
ぼくは今朝、ガバッと起きてしまったんだ

ふわふわとした湿り気のあるもの
それを
同族である人間の女性を通して求めてみることにしたんだ
求めるってたって
ネットでソレらしき画像を検索した挙句
濡れた指をティッシュでぬぐう形で終わるアレへの興味からでもなければ
飾られていたウェディングドレスの背後に広がる
「素敵な恋愛」への期待からでもない
もっとウェットなもの
前足をかければふぃふぃ匂いを嗅いで嗅がれるようなもの
舌を伸ばせばにゅいにゅい舐めて舐められるようなもの

ただいまぁ、と、おかえりなさぁい、が
この敷きっぱなしの布団の上の枕の弾力でもって
ぷぉんぷぉん押して押し返される、ようなもの

もちろん不安がないわけじゃないんだけど
でも今朝、起きてみたんだよ
ガバッと、
ガバッと、
ガバッと、だ

 

 

 

ANOTHER NOSTALGIA

 

狩野雅之

 
 

今回はテーマというようなものは格別在りません。
 
あえてあげるならば、アンドレイ・タルコフスキーへの想いなのかもしれません。
 
彼そのものというよりは、タルコフスキーの紡ぎ出す映像の美しさへの憧憬。
 
彼の作品そのものが「憧憬」あるいはそれを含む「NOSTALGIA」なのかもしれない。
 
わたしはこの日そのような想いあるいは夢の中で目覚めました。
 
その朝は雨が降っていました。

雨の中で夜が明けたのです。
 
静寂がそこにはあった。

 


雨の朝に 静寂を聴く

 


美しい時間(雨の朝に)

 


夢 の あと に 明ける 朝 は おだやかで やすらかで やわらかい

 


仄暗い闇から蘇りし清きもの それはわたしではない

 


ノスタルジアの想いに浸る極めて個人的な目覚め

 


雨が降る 水の音 タルコフスキー を 思う

 


アンドレイ の 光 は どのようであったか それは光だったか 闇だったか

 


それを 聴く わたし は どこにいたのか 
それを 観る わたし は どこにいるのか

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第15回

第5章 魚たちの饗宴~全由良川防衛長官のご託宣

 

佐々木 眞

 
 

 

あまりにも長すぎるスタンディング・オベーションに疲れきったみんなが、ヨッコラショと席につくやいなや、それまで大広間の天井あたりを軽快なフットワークで旋回していた1匹のアユが、F21スーパーセーバー戦闘機の急降下訓練のようにきりもみ状態で落下してきて、議長席の隣のお立ち台でストンとバク転を決めると、猛烈な早口でタンカを切りました。

「オッサン、オッサン、無意味かつ無内容な前置きはどうでもええねん。ヒマな年寄り連中が老後の楽しみにゆっくり考えてくれたら、それでええねん。それより差し迫った大ピンチをどうするか、誰かはよ考えてくれたらえねん。
あのケッタクソの悪い外人魚、魚食い魚をはよ追っ払ってくれえ。毎日毎日犠牲者が出るいっぽうじゃ。いったい国家警察と機動隊はなにしとんねん。自衛隊はこんな時のためにあるんとちゃうか。徴兵制をはよ復活せんさかい、こんなアホなことになるんじゃ。くそっ、お前らはなにしてけつかんねん。やる気あんのか? ハッキリせえや!」

するとそれまで地底を砂とまったく同じ色でゆるゆる這いずっていたドンコが、突如3メートルほどもバネのように飛び上って、まるでフグのようにふくれあがり、総身の毛をすべて逆立てながら、怒涛のようにしゃべくりはじめました。

「なにいうとんねん、アホンダラ。お前みたいな一知半解の輩が、かつて理想的な魚族を生み出したスパルタ制を、悪をはらんだ寡頭制へ、寡頭制をいわゆる民主制へ、民主制を僭主独裁制へ、僭主独裁制を原始共産制へ、原始共産制を中世封建制へ、中世封建制を近代資本制へ、近代資本制を社会民主制へ、社会民主制を社会ファシズムへ、社会ファシズムを最終戦争へ逆倒し、そして最終戦争をドラクエモンスターズスーパーライトにしてしもたやんかあ!
昔から人世と政治の因果は果てしなく、この輪廻を繰り返しては転生する。よってわいらあは無駄な抵抗をやめ、警察も機動隊も解散して、この大いなる歴史的必然性に身をゆだねておればええやないか」

するとまたしてもアユが立ち上がって、なにか発言しそうになったのを、議長のタウナギは目で制して、
「黙らっしゃい。我々は昔から仲の悪いお前たちのへ理屈を聞くためにここに集まっているのではない。問題はただひとつ。あの暴力魚集団の侵攻をいかにしてはね返すかじゃ。この点について意見のあるもののみの発言を許す」
と言いながら、会場の面々を睨みつけました。自分は余計な話をさんざんしたにもかかわらず。

今の今まで偉そうに御託を並べていたアユとドンコは、長老の問いかけに一言も発し得ず、うつむいてもじもじしているばかり。
とその時、会場を支配する重苦しい雰囲気を破って、英国紳士を思わせるすらりと背の高い立派な純国産のニホンウナギが、右の胸ヒレを心持持ち上げるようにして、発言を求めました。

議長が「全由良川防衛長官、ウナギのQ太郎君の発言を許可します」と言ったものですから、それまで物陰に潜んで様子をうかがっていたケンちゃんは、「ああ、あれがウナギのQちゃんのお父さんのQ太郎さんなのか、さすが防衛長官にふさわしい男らしい風格だなあ」と感嘆することしきりです。

「不肖わたくしQ太郎、今次の国難に際し、全由良川防衛軍最高司令官の重職を拝命し、まことに僭越ながら、早急に次のような対策を講じた次第であります。
ひとつ。本官は去る4月23日未明、全由良川防衛軍最高司令官の名において海軍特別攻撃隊を編成いたしました。これによって当面の敵の攻勢に対応いたす所存であります。
ふたつ。不肖わたくしQ太郎、わが最愛の娘レプトケファルス姫を若宮神社に派遣し、イザナギ、イザナミ両神の神殿にて、今次の未曾有の国難をいかにして乗り切りうるや宇気比を行わせた次第であります」

タウナギ「宇気比ですと? なるほど、うけを狙ったわけか? してその結果は?」
Q太郎「アブラカタブラ、アタラフルキエニシ」
タウナギ「なんじゃそれは?」
Q太郎「つまりこの丹波の国と相模の国を新しくて古い縁で結ぶ人物を探せとのご託宣なり」
タウナギ「新しくて古い縁で結ぶ人物、ようわからん。それはいったい誰じゃ?」
Q太郎「丹波の国と相模の国を古い縁で結ぶ人物、それは室町幕府の初代代将軍、足利尊氏でありましょう」
タウナギ「なるほど。尊氏は丹波の国綾部で生まれ、丹波から鎌倉に進軍して幕府を打ち破ったからな」
Q太郎「さよう。足利尊氏は丹波の国、八田の郷、上杉の庄の生まれ。尊氏公を祀りし丹波の安国寺は同じ丹波の由良川のほとりにありて、尊氏公は今日もわれら魚族の危うい行く末を、ドンキホーテのように憂い顔で見守っていてくださるのですぞ」
タウナギ「なるほど、なるほど。で、丹波の国と相模の国を新しい縁で結ぶ人物とは誰じゃな?」
Q太郎「室町幕府の開祖にして丹波および相模ゆかりの征夷大将軍、足利尊氏の衣鉢を継ぐ人物こそ、綾部の「てらこ」の四代目の美少年、ケンちゃんこそその人なりい!」

 
 

次号へつづく

 

 

 

なくしていたもの

 

たかはしけいすけ

 
 

さっき
同級生と
電話で話した

同窓会のお誘いだった

つい最近まで
同窓会で
ぼくは行方不明だった

剣道部でいっしょの
その人と話したのは
四十年振り

もはや知らないに等しいその人に
感じた親和性は何だろう?

なつかしく
あたたかい

なくしていた
なにか大切なものを
取り戻したような気がした

というのは
大きな勘違い

間違えないようにしよう

 

 

 

丘の欅

 

道ケージ

 
 

坂の上
その行く果てに
けやき そびえ
別に
そこに
呼ばれたわけではないけれど

たまに
行く図書館帰り
誰に
呼ばれたわけではないけれど

のぼり上がり
そこに
たたずみ仰ぎみる
何に
なるわけでないけれど
特に
何もないけれど

行くことだけに
こだわって
坂の上の欅が気になって

誰もいない
この坂
のぼることに

下る人はいない
上る側に
いく


背中から憎悪が剥がれ落ち
何か大切なものが
坂を転がっていく

あの夏
「死ぬ間際の光景、見たことがある?」
死にたがりのマリーが
坂を上がるや
振り返りざまに聞く

蓮の葉一つに

「あるわけないじゃないか
あったら死んでる」

蓮の葉さらに

「涙を拭おうとすると
手が骨になって
丸くて
白すぎて
拭えない…」

蓮の葉に
つばきす

けやき
空に
青い

 

 

 

ありがとう さようなら

音楽の慰め 第19回

 

佐々木 眞

 
 

 

油蝉が鳴き、向日葵咲き、黒揚羽舞い、夏は命輝く季節。
しかし太陽に焼き尽くされた生命は、あっけない終末を迎えます。

生病老死は瞬きの間、
信長が、「人間わずか五十年」と幸若舞の「敦盛」を謡うのを待たずに、この世を去る人も多いのです。

西暦2017年の夏も、死は身近にあります。
毎日毎日人は死んでいくけれど、わたしの知人もどんどん姿を消しているのです。

一平君、大田ティーチャー、オトゾウさん、飯塚さん、
荒川さん、佐々木正美先生、阪口さん、そして井出隆夫クン。

天命か否かは誰知らず、
老いも若きも、魅せられたように泉下に赴くのです。

井出君は、はるか昔の大学生時代の同級生でした。
彼は西武新宿線の武蔵関、私は隣の東伏見という田舎村に下宿していました。

キャンパスの長いスロープ下に、5つの部室があって、
私は03部室で「経哲草稿」や「ドイツ・イデオロギー」を読んでいましたが、
井出君は、05部室の「ミュージカル研究会」というところに出入りしていた。

私はなぜだか彼を、「軽薄でちゃらちゃらした輩」、と軽蔑の眼で睨んでいたが
井出君は知らん顔して、ノートブックになにやら歌詞を書きつけていた。

ちょっとお洒落でハニカミ屋さんの井出君は、女性にもてたことでしょう。
きっとモーレツにもてたろうな。
源氏物語の「若紫」のような少女を見つけて、大切に囲いつつ妻にしたいとほざいていたな。

彼が山川啓介という名前の作詞家として、一世を風靡したことを知ったのは、それから何年も経ってからのことでした。

印税で大もうけした彼が、軽井沢に別荘を建て、そこに若くて美貌の妻と住んでいるという、嘘かほんとか分からない風の噂を耳にしたのもその頃のことだった。

ある日、たまたま私がテレビをつけると、それがNHKの教育テレビの「みんなの歌」というコーナーで、「ありがとう・さようなら」という知らない曲が流れていました。

「ありがとう さようなら 友だち」ではじまるその歌は、学校を卒業する子供たちの、先生や学校への感謝と別れを告げる短い歌でしたが、私の胸をつよく打ちました。

さいごの「ありがとう さようなら みんな みんな ありがとう」のリフレインのところは、中原中也の詩のパクリじゃないかと思いながらも、ほろりと涙がこぼれたのです。

歌が終わってクレジットが出ると、それが井出隆夫という名前でした。
福田和禾子という人の曲も良かったが、井出君の歌詞は、私の心にじんと響いた。
一生に一度でもこんなに素敵な歌詞を書けたら本望だろうな、と思ったことでした。

井出隆夫の霊よ、安かれ。
みなさん今宵は、西暦2017年7月24日、72歳で身罷った旧友の絶唱を聴いてください。

 
 

 

 

 

あしたの花火 2

 

長田典子

 
 

あさ
呼ばれたような気がして
庭に出ると
いっせいに
テッポウユリが
咲いていました

ミントグリーンの葉のうえで
あさつゆが
はずんでいました

つるつるの球体に
白や赤や緑や青を
にじませて

ふいに
シランの茎をたわませ
滑り降りてきたのは
オナガでした
何かを確かめるように歩き回ってから
いきおいよく
飛び立っていきました

目が合いました

テッポウユリは
純白の声で
言いました
くちぐちに

撃ち殺せ!
血を流せ!

わたしは 頭をたれました
胸に手をあて
ひざまづきました

ミントグリーンのはっぱの上で
あさつゆは
ぶるぶると
ゆれました

白や赤や緑や青が
マーブリング模様さながら
混ざりあっていき

ぐちゃぐちゃ

なりました

ぐちゃぐちゃの
かやくだまです

わたしは います
ここに います

ぐちゃぐちゃですが
ぐちゃぐちゃのまま

「けっ、詩人さんよ 気取りなさんな」

撃ち殺せ!
血を流せ!

そら たかく
オナガがぴゅるぴゅる
聞いたこともない
あをーい声で
なきました