狩野雅之
「無」は「対自存在」によってもたらされる。
無とは「何も無い」のではなく、存在の不在を現すにすぎない。
それは在るのだ、在ることを前提として「無い」のだ。
その一方で「対自存在」は「リアン(rien)」である。
それは在るということもなく、同時に、無いということもない。
般若心経が語るところの「空」がそれに最も近いかもしれない。
わたしたちの存在は「空」であるのだろう。
ふとそんなことを想った。
20190817-DSCF1825
形あるものは実体がない 実体がないからこそ一時的な形あるものとしてある
20190817-DSCF1826
形あるものはそのままで実体なきものであり 実体がないことがそのまま形あるものとなっている
それはただ在る 形があるということも無く 形が無いということも無い 在るということも無く 無いということも無い 二重否定の連鎖によってのみ 現れる世界が在る
20190817-DSCF1827
20190817-DSCF1831
20190817-DSCF1832
20190817-DSCF1833
すべてはかくのごとく在る わたしたちは現れる 実体無きものに対して現れる 実体の無い世界において 実体のないものどもに対して現れることを永遠に続ける かくして 苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない これは絶望ではない 希望ではない わたしたちの在り様である
20190817-DSCF1834