重い思い その五

 

鈴木志郎康

 
 

重い
思い。

重い思いが、
俺っちの
心に
覆い被さって来るっちゃ。

世界の重みか、
それとも
俺っちの一人ってことの重みか。

世界はつるーんと軽いっちゃ。
俺っちに取っちゃ、
テレビの画面は
すぐ忘れる。
新聞の活字は
すぐ忘れる。
つるるーん、
軽い、
軽い
世界は軽いっちゃ。

ここんところ、毎日
朝早くから夜まで、
テレビ、シンブン、
シンブン、テレビ。
テレビの画面の中の
口を尖らせて話してる
アメリカ次期大統領のドナルド・トランプさん。
アメリカファーストを唱えながらも、
破廉恥情報をロシアに握られてても(注1)、
世界中をかき回してるけんどよ。
ツルー、ツルーリって、
俺っちにゃ、軽いっちゃ。
アベノミクスで
早口で国民を煙に巻いて
やたら外国の大統領を訪ね飛び回ってる
日本の総理大臣の安倍晋三さんも、
ツルー、ツルーリ、
軽いっちゃ。
都民ファーストの東京大改革を唱えて、
人気を煽り、
新党結成で気をもたせて
都議会選挙で自民に勝とうとしてるが、
豊洲市場地下水に基準値79倍の有害物質が検出されて(注2)、
困惑してる
都知事の小池百合子さんも
ツルー、ツルーリ、
軽いっちゃ。
それぞれ道で会っても知らん顔ってこと。
俺っちには関係ないじゃん。
彼らに、
捕まっちゃ、かなわない。
逃げろ。
捕まえられたらたらろくなことはないっちゃ。
俺っちは自由と人権に甘えて生きてるっちゃ。
彼ら奴らが軽いってのが、
怪しいよね。
重く重くのしかかってくるっちゃ。
これがつるーんとした歴史かいな。
世界の軽みがずしーんと重いっちゃ。
軽みが重いのね。
これがやっとってとこっちゃ。

テレビの中で
軽く盛り上がってる
芸人さんたちは、
いやいや、
軽みを盛り上げるって
重い重いっちゃ。

自動車事故で人を殺してしまった
七十過ぎの爺さんも、
重いなあ。
また、アクセルとブレーキの踏み間違えや。

で、
ここまで生きて来た
俺っちの人生って、何じゃい、
その重みって、何じゃい。
八十年も生きて来ちゃったってね。
時間の重みってことかいな。
年齢を鼻に掛けるな。
ふん、
長く生きて来たからって、
何じゃい。
そばに麻理がいるから、
まあいいけど、
空っぽっちゃ。
その空っぽが重みっちゃ。
空っぽがいいんじゃ。
(衆議院議員の小泉進次郎さんが
「人生100年時代」の
社会保障改革案ってのを
提言したってさ。
ツルー、ツルー、ツルーリン。)注3

重い
思い。

重い思いが、
俺っちの
心に
覆い被さって来るっちゃ。

ああ、あっ。
つまらん詩を書いちゃったなあ。
読んでくださった方々に
申し訳ない。

重い
思い。
な。

反戦自衛隊員が
小銃を脇に置いて、
おむすびを頬張ってるっちゃ。
って、俺っちの空想。

便秘が
ひどくってさあ、
便秘薬の
マシンガン
じゃなかった
麻子仁丸で
何とか
ウンコ出してるっちゃ。
ワッハッハッ、
ハハハ、
ハハハ、
ハハハ。

 

空白空白空白空白空(注1、2)朝日新聞2017年1月15日朝刊
空白空白空白空白空(注3 )朝日新聞2017年1月17日朝刊

 

 

 

なつかしいひと

 

さとう三千魚

 
 

写真 2015-09-20 13 31 37
なつかしいひと 2015-09-20

 

写真 2015-10-02 13 15 50
なつかしいひと 2015-10-02

 

写真 2015-09-17 22 57 07
なつかしいひと 2015-09-17

 

写真 2014-10-10 14 38 45
なつかしいひと 2014-10-10

 

写真 2016-08-15 6 28 32
なつかしいひと 2016-08-15

 

写真 2016-08-15 8 46 38
なつかしいひと 2016-08-15

 

写真 2016-03-16 7 11 20
なつかしいひと 2008-05-04

 

写真 2015-09-23 9 05 57
なつかしいひと 2015-09-23

 

写真 2015-09-20 6 55 01
なつかしいひと 2015-09-20

 

 

 

たったこれだけのことで

 

駿河昌樹

 
 

低い桐箪笥の上に
さらに桐箱
その上に置いてある
毛布やら
夏掛け布団やら

真冬
というのに

真冬
というのに
寒暖は微妙に変わり続け
布団に毛布では
暑過ぎる時もある
かといって
布団だけでは
やっぱり
寒い

そんな時に
夏掛けが便利と気づいたのは
つい最近のこと
布団の上に夏掛けを
ちょん
布団+毛布に夏掛けを
ちょん
たったそれだけで
ずいぶん変わる
タオルケットも加えれば
調節の目盛りが
細かくなる

夏掛けを使わない時
そして
ひどく忙しい時
桐箪笥の上の桐箱の
さらに上で
夏掛けが
乱れてしまっていることもある
端をきちんとあわせて
ちゃん
ちゃん
と畳めばいいのに
そんななんでもないことが
できないほど忙しく
疲れている時が
なかなか多い

ある日
午後も終わっていく頃
夏掛けの
ちょっと乱れたまゝの畳みようが
ひどく気になり
急がねばならない作業の手を止めて
立ち止ったまゝ
見つめてしまった


布団
きちんと
畳まれていない様は
わびしい

きちんと
端をあわせて
ちゃん
ちゃん
と畳めばいいのに
していない心
できない心
ほんのちょっとの
エネルギーの足りなさ
それが
わびしい

ぱあっと
夏掛けを開き
端と端を
きっちり合わせて
畳み直した
ちゃんと
ちゃあんと
畳み直す

すると
世界は変わった
たった
これだけのことで

むかし
浄霊の勉強をしていた時
邪霊なるものや
悪霊なるものを去らせるには
整理や清掃にあわせて
物の端を真っすぐに
平行線を作りながら
直角を方々に作りながら
きちん
きちんと
隙間を空けながら
焦らず
ていねいに
置く
並べる
それがなにより効く
と知った

それを思い出しながら
ちゃんと
ちゃあんと
畳み直す
端と端を
きっちり合わせて

たった
これだけのことで

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 17

 

日曜日だった


光る海を見てた

モコは寒いので来なかった

岸辺で
みかんを剥いて

食べた

磯ヒヨドリがいた
カモメたちもやってきた

磯ヒヨドリは弾丸のように飛ぶ
カモメは群れて遊ぶように飛んでいる

彼らは貨幣を持たない
彼らは貨幣をもたない

 

 

 

重い思い その四

 
 

鈴木志郎康

 
 

重い
思い。

重い思いが、
俺っちの
心に
覆い被さって来る。

今、この部屋に、
俺っちと麻理とふたり
ベッドを並べて寝てるっちゃ。
共に病気を抱えてね。
「ふたりのどっちが、
先に、
死ぬんだろうね」って、
眠る前に話したっちゃ。
俺っちが残っちまったら、
悲しくて寂しくて、
いやだね。
俺っちが、
先に死んだら、
麻理、どうする。
麻理がこの部屋で
ひとりで、生きてる。
その姿は、
ああ、
ああ、
交流の場の「うえはらんど」から
戻っても、
いるはずの俺っちはいない。
「ああ、疲れた」って、
麻理は
ベッドに潜り込んしまう。
リアル過ぎるよね。

俺っち、口を大きく開けて
息をめいっぱいに吸って
お腹に力を入れて、
オォオォオォー
って、叫んじゃった。

重い
思いっちゃ。
な、
な、
な。

 

 

 

ムラビンスキーのチャイコフスキー交響曲第5番

音楽の慰め 第12回

 
 

佐々木 眞

 
 

IMG_1987

 

昔むかし、今から半世紀近く前のこと、東京は原宿の千駄ヶ谷小学校の近所にあった会社で、私はリーマン生活を送っていました。
会社の小路を隔てた向かいには「ヴィラ・ビアンカ」という名の7階建てのモダンなマンションがありました。

ここは日本で最初のデザイナーズ・マンションといわれ、かつては今は亡きイラストレーターの安西水丸選手が住んでいたそうです。地下1階には中華料理屋があって、しばらくすると、そこが桑原茂一選手が経営する、かの有名なライヴハウス「ピテカトロプス」に代わるのですが、今日はその話ではなく、1階にあった中古オーディオ屋さんのお噺です。

確か「オーディオ・ユニオン」という名前のそのお店には、かなり高額の中古品のアンプやプレーヤーやスピーカーが並んでいて、当時オーデイオに夢中になっていた私は、会社の昼休みや放課後にちょくちょく顔を出し、すぐに仲良くなったお店の主任のシミズ選手に頼んで、毎日のように試聴させてもらっていたのでした。

私は、つとに名高い米国の名スピーカー「JBLの4343」、そして流行作家の五味康祐選手が絶讃していた英国製の最高級スピーカー、「タンノイ・オートグラフ」の妙なる美音に耳を傾け、「ああ安月給の自分が、こんな高嶺の花を手に入れる日が、いつか来るだろうか、いや絶対に訪れないだろう」と思いつつも、連日の「オーディオ・ユニオン」詣を欠かしませんでした。

ある日の夕方のこと、私は大学時代の同級生の門君と、このお店で待ち合わせをしました。門君は、某大学のオケのハイドンの交響曲の演奏会で、「チェロを弾きながらうたた寝していた」という伝説のある人で、私はそんな偉大な豪傑から、クラシック音楽の手引を受けたのでした。

さてくだんの門君がやって来たので、一緒に店内を物色しながら歩いていると、シミズ選手が「ササキさん、いい出物がありますよ。騙されたと思って、ちょっと聞いてみませんか」と言葉巧みに誘います。
「これから新宿の厚生年金会館でゲンナジ・ロジェストベンスキー指揮のモスクワ放送交響楽団のコンサートがあるから、ちょっとだけだよ」というと、すぐさまシミズ選手が、物置から割合小ぶりの英国製スピーカーを取り出してきました。もちろん中古品です。

「ご存じかもしれませんが、これが「KEF104ab」というイギリスのBBC放送局お墨付きのモニタースピーカーです。曲は何にしますか。なんでもいいですか。お急ぎでしょうから第4楽章だけおかけしましょうね」
といって、テクニクス製のプレーヤーに乗せたレコードが、ムラビンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団が演奏するチャイコフスキーの交響曲第5番でした。

これは1960年にウイーンに楽旅に出た彼らが、1960年 9月14, 15日にウィーンのムジークフェラインで収録したものですが、さすが毎年ニューイヤーコンサートが行われている名ホールでの録音だけあって、時代を感じさせない鮮明さで定評があったのです。

そして肝心の演奏はといえば、この曲を偏愛して何度も何度も録音を重ねた全盛時代のムラビンスキーとレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団が、燃えに燃えた、空前絶後の怒涛の名演奏を繰り広げている名盤中の名盤なのです。

そんなことは、門君も私もよーく分かっているのですが、驚くべきはその貴重な音源をものの見事に劇的に音化している、この、見た目は貧相な2本のスピーカーです。
低音もブンブン唸っているが、殊に中高音の鳴りっぷりが素晴らしい。ムラビンスキーと当時のソ連ナンバーワンのレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団と名機「KEF104ab」が、完全に三位一体となって、歌いに歌いまくっている。

有名な「運命の動機」が高らかに奏され、ホルンとトランペットが豪快に応答しながら終曲に殺到するコーダでは、文字通り、血沸き肉が踊る思いで、演奏が終ると、私と門君は、思わず「ブラボー!」を何度も叫んで「KEF104ab」選手に向かって盛大な拍手を贈っていました。

それまでのどんな生演奏でも味わったことのない感動、そしてこの直後、新宿厚生年金会館でゲンナジ・ロジェストベンスキー指揮のモスクワ放送交響楽団が聞かせてくれた、チャイコフスキーの交響曲第4番のこけおどしの阿呆莫迦演奏を遥かに凌ぐ真率な感動を、この英国製の「地味にスゴイ!」中古スピーカーは、生まれて初めて私に体験させてくれたのでした。

 

 

空白空白空白空白空白空白空白空白空空白空白空白空白空白空白空白空白空大興奮のまま、来月に続く

 

 

 

ひとつ

 

長田典子

 
 

この
むねのあつみ
このかたはば
このたいおん
この匂いじゃないとだめなの

この左かたの下あたり
この左むねの上あたり
このばしょじゃないとだめなの

このばしょは
わたしの顔をうずめるためにあるの

せっくす
するとか
せっくす
しないと

じゃなくて

こころです

こころって
きもちです

あいしてる
きもちをかさねあわせます

この
むねのあつみ
このかたはば
このたいおん
この匂いじゃないとだめなの
あなたの左かたの下あたり
あなたの左むねの上あたり
わたしのばしょに
顔をうずめます

あなたは
りょうほうのうでで
わたしのせなかを
だきしめます
だきしめあいます
つよく
つよく
つよく
あいしてる

ひとつです

 

 

 

空の一行

 

萩原健次郎

 
 

DSC00938

 

あかがね、錆びている。湿った扇状地に、伏したあなた
のベルトの金具なのかなあと手ですくったらぼろぼろと
砕けて、粒状になって池塘に溶けた。砂糖のようでもあ
り、発酵させた飲料のようでもあり、白濁して、元の金
属の面影もない。元の身の、あなたの欠片のどの部分も
判別できない。怒った貌、嘆いた口元、諦めた胴、手の
ひらで招く仕草、唄う胸。書記の手。手から面に傷つけ
られた痕跡、文字、単語、何かを訴えている信号。愛玩
していた道具、いつもそばにいた動物。

書棚に並べられた誰かの全集の、途切れている巻が少し
ずつはっきりしてきて、その途切れにこの扇状地を歩き、
ぶつぶつと呟きながら、詩行を硬直させてただ凍らせた
だけだった。朝は零下の、その凍えた空気のまま、氷室
となった山の芯の底深く、蟻の巣状の道をひたすら遭難
しているだけだった。書簡集、小品一、小品二、俳句、
日記。それらは、紙であったことはなく、ただ、服を腰
にとどめるための器具として、ぼろぼろに粒となるあか
がねだった。

肌の思い出という巻があったはずだと、もう他界してか
らあなたはどこかの隠れ場所で回想している。金属の刃
で指先の面を裂いたこととか、知っている人の知ってい
る肌が、他人の指で撫でられたときに幽かに漏れてくる
音だとか。そういう記述であったようだと、像をさがそ
うとするが、像はどの点でも線でも結ばれず、ただの音
楽となって宙に消えていく。他界をしたら蒸発してしま
うのかなあなどと、それは暢気に考えていた。臨終の瞬
間に、あらゆる点も線も消えていく。肌の音も。

生きてもいない人の遭難している様子を眺めている人な
んていないだろうと思っていたら、どうやらいるようだ。
朝の鳥に化けている。群れとなって朝、山の池の巣に帰
る、その中の一羽の、その鳥の眼の中の、水晶玉。正し
くは、映っているだけなのだが、自動的に記録されてい
る。わたしの、かつてあったベルトのあかがねの、水に
溶ける寸前の、感嘆は、見えないだろう。だから無防備
な、鳥の眼の水晶体を攻撃する。朝陽のハレーション、
ぷしゅん。かすかなぷしゅんが、鳥の群れに網をかける。

この一帯の、湿潤した、あきらめの扇状は、かつて肌を
合わせた人の胸のひろがりだった。わたしはね。わたし
は今は、ぼろぼろのあかがねの粒だけど、わたしのね、
肉は、まだ湿潤していないよと、抜けた巻に文字を記し
て棚に戻した。音の羽の川は、水と土の境をあいまいに
して、肌の記憶をぴったりに重ねた。ふたりのひとがた
ではなく、ひとつのひとがたとなって、池塘は滅ばない
でいつも鳥の道標を奏でていた。どこまでが、抜けた巻
の詩行であったかは、もうわからない。

 
空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白連作「音の羽」のうち