また
鳥の
鳴くまえに
目覚めた
砂糖を
ひとつ
すくって
コーヒーに
いれた
小鳥たちはしばらく
鳴いて
もう
鳴かない
スプーンで砂糖をすくった
スプーンで白い砂糖をすくった
昨日は
神田で甥と会った
母の遺骨を渡してくれた
また
鳥の
鳴くまえに
目覚めた
砂糖を
ひとつ
すくって
コーヒーに
いれた
小鳥たちはしばらく
鳴いて
もう
鳴かない
スプーンで砂糖をすくった
スプーンで白い砂糖をすくった
昨日は
神田で甥と会った
母の遺骨を渡してくれた
是枝監督の最新作「海よりもまだ深く」を映画館で見た。
夜、一人で見た。
前作に続きカンヌ国際映画祭に出展された作品だ。
単調で退屈な毎日がこんなにも美しいものかと感動した。
上映中終始スクリーンに映し出される世界に釘付けになった。
主演の俳優さん、女優さんをはじめ出演人みんなの無理のない自然な演技がいい。
なりたい自分になるために、守りたい誰かと会うために、放っておけない人と時を過ごすために。
そんな人との関わりのなかでぽつぽつと生きていく。
納得しがたい状況に置かれても、必ずやってくる明日をぽつぽつと生きていく。
自分の思い通りにはもう成り得ないと分かってもぽつぽつと生きていく。
未来は必ずしも明るくはない。
だけれども、イルミネーションのような明るさはなくとも豆電球くらいの明るさなら結構たくさんあるんじゃないかなとも思う。
映画館で映画を見るのは年に数回くらいだ。
ただ是枝監督の作品は劇場で見たいと思っている。
ふんわりと温かく、どこか厳しく、どこか切ない。
そんな人間模様が好きです。
陰であんなにもある人の悪口を言っていたのに、表では嘘のように仲良しでいる。
それがどこでも当然でどこにでもある光景だと、社会人になってわたしよりもずっと長く生きている大人が教えてくれた。
わかってはいるけれどわたしはきっとそれに慣れるということはどうしてもできなくて悲しくなる。
そんな自分が情けなくなる。
人間なんて信用できないと思ってしまう。
でもその人はこうも教えてくれた。
それでいいんじゃないかな。
すべての人を信頼する必要なんてないからね。
そうじゃない人の方が多くても全然いいんだよ。
すっと救われた瞬間だった。
完全には払拭できずにもんもんと生きていかなければならないんだろうけどそういう人の存在はありがたいなと思う。
今日は天気予報がはずれて雨が降っていない。
最近オンラインで購入したローラースケートを河川敷でやろうと思う。
わたしが フランスへ 手紙を かきたいと
想うわけは テロで 亡くなった人たちが
いるからでなく そこに、いまだ 愛した
唄たちが 瀕死で いるからです ・・・・・──
こころの底にながれつづけている行ったことのない河があります
午前5時 レンジで温めた ミルクを飲み
流しで カップを洗っていると 窓際の
観葉植物の葉脈が微かに浮かびあがった
小机の上の 白い機器の 電源を入れて
Windowsを開くと 夜も朝も昼も 明け方のような
一人の一間に ふわりと 太陽がともる
わたしは その瞬間から 画面の
路のなかを 散策しはじめる 日々眺める街の
風景を 想い返しながら
ことばを探す それは 詩を書くということ
キーに タッチすると、少し冷たくて きもちがいい
すずらん通りで 鉛管工事をしていた
新緑の色の服を着た 人たちは美しかったな
わたしは昨日 福祉施設へ向った
雨の公園で グレーの毛布に護られていた 猫の毛並みは
ふれてみると しっとり 濡れていたな
わたしが フランスへ 手紙を かきたいと
想うわけは テロで 亡くなった人たちが
いるからでなく そこに、いまだ 愛した
唄たちが 呻いて いるからです ・・・・・──
そのうちのひとつは 就職したばかりの
1987年頃に よく聴いた
「朝のセーヌ河畔」を明るく浮かびあがらせる旧い唄だった
わたしは昨日 神田川をわたった
停泊している 舟の上には 鳥たちがいた
その国では 嘗て セーヌ河畔をはさんで
右岸には 白装束
左岸には 黒装束 の唄うたいが 育ったと聞いた
こころの底にながれつづけている行ったことのない河があります
白装束は、庶民達 黒装束は、知識層
そんなとき・・・・・・
「朝のセーヌ河畔」の唄は二つを繋ぐ橋になって架かった
自然の光のかがやきのなかでは人はしずかに耳を澄ませる
通所している 福祉施設で知り合った、
ひとまわり以上年上の春緒(ハルヲ)は 日本では団塊の世代で
四季を通して 春を生きて
春のさなかで 吉本隆明や寺山修司、ジャン・コクトーやボリス・ヴィアン
アメリカの ヒッピーの風に 頬をなでられ
新宿でフーテンをやり フリーセックス────
パリ五月革命の時には フランスで居候していたそうだ
どこまでが本当なのか 分らなくても確かめたりしない
春緒(ハルヲ)には 春緒(ハルヲ)の 憧れが あるから
昨日も お弁当の時間に「今井さん、はいっ」
と 骨粗しょう症のわたしに Ca+ ウェハースをくれた
(そのときに 大型冷蔵庫のかげから 浅草で もんじゃ焼き屋を営む
おそらく 同世代の サイトゥが こちらを 見ていた)
≪サイトゥは、精神病院に入った 履歴を 世間体が
あるからと 隠して 町内の人に 会わない道を 廻って
来るらしい 各々、事情は あるだろうなあ・・・・・。≫
春緒(ハルヲ)は 自分は ノンポリだと 言うけれど
他人が彼を評すると「ファシズムだ」と抗議するので
つまり政治の季節の無頼志向のインテリだったのかな
(大型冷蔵庫のかげから 老舗の もんじゃ焼き屋を営む
サイトゥが ようすを 窺いながら そろそろと 近づいてきた)
口下手なのに 飲食店を継いで 連日客からつがれた酒を
律儀に25年 飲んで ɤ―GTP 4,500を 超えたって
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ひとごとじゃ、ないんだけど
その福祉施設の案内にはこう書かれています
≪人の一生は「さくらの木」が過ごしていく四季のようなものだと思います。
美しく花が咲き乱れる人生の春。(思春期~青年期)
強い日差しの中、青葉が生い茂る人生の夏。(中年期~壮年期)
日々深まっていく紅葉が味わい深い人生の秋。(初老期)
生まれてきた意味を総括し、自分の貴重な経験を次世代に伝えていく人生の冬。(老年期)
人生の中のそれぞれの季節には意味があり、
季節の中で移り変わっていくからこそ、
人の一生はいとおしく美しいものなのだと思います≫
と、いうことは────
わたしは「強い日差しの中、青葉が生い茂る人生の夏。(中年期~壮年期)」
その末尾に どうにか 居るらしく(サイトゥも、)
春緒(ハルヲ)は「日々深まっていく紅葉が味わい深い人生の秋。(初老期)」
その末尾に どうにか 居るらしい
とはいえ、春緒(ハルヲ)は「初老期」に居ても
「老年期」に入っても
生涯 春のなかを生きる ことになるのだなあ
1987年頃によく聴いた
「朝のセーヌ河畔」の唄は
わたしが一人暮らしを始めた時期にも重なりながれている
それ以来一人暮らしを転々としてわたしは此処へきたんだ
「夕方、雨がふるかも」と看護師さんが言った
春緒(ハルヲ)の ガラケーの着信音が 机のうえで 鳴ったとき
わたしは はっとして
「春緒(ハルヲ)さん、わたし その曲 好きなんです」
と おもわず 話しかけていた
「へえ・・・・・ 今井さん、随分めずらしい唄を知ってるね
いまでは フランスでも忘れられかけてるだろう」
≪忘れられかけていくと 唄も人もみんな
死へと 向っていって しまうんですよね≫
「会話の唄 和解の唄 境界に架かる 橋のような
唄だったなって 昔から好きですね」
醤油の滲みた 残った僅かな餃子を食べながら
なんだか 気取った言い方を しましたよ・・・・・。
わたしは 春緒(ハルヲ)も 夜毎二升で 希死念慮に憑かれ
幾たびも 死にかけて いまは「糖尿病」を わずらって
いることは 彼が ときどき する話から 知っては いた
「でも、先生の言うこときいて
治療することにきめたんだ おれ、何も知らずに
好きなことだけしてきたけれど
友人が 糖尿病で “めくら”に なって
視えなくなるのに 耐えられる力 無いって
わかっちゃった もんだからさ」と。
わたしが フランスへ 手紙を かきたいと
想うわけは そこに、いまだ 愛した
唄たちが 澱んでいるような 気がするから・・・・・──
そのうちのひとつは 社会に出たばかりの頃 よく聴いた
「朝のセーヌ河畔」を穏やかに浮かびあがらせる旧い唄だった
(浅草で もんじゃ焼き屋を営む サイトゥが いよいよ
わたしの 耳元にきて 愛の告白 のように そっと 囁いた)
──── あのさ、今度の金曜日の お昼休み 一緒に
オセロを、やってみましょうよ・・・・・・。
「あ、はい」
その唄は 無節操に 甘い声で
扱われすぎて 音のながれが ≪糖尿病≫を
わずらい 時間とともに 唄としての
役割は 修繕されずに 過ぎていった
のでは ないかと案じる
傷口は 塞がりにくくなり 細胞の壊死や切断
失明の危険に いまや晒されて。
いまごろは・・・・・・・・・
忘れられかけ 死へと向って
一刻、一刻を 延命しているのでは
ないのかなあ、と こころが 疼く
自然の光の かがやきの なかでは 人は しずかに 耳を 澄ませる
こころの底にながれつづけている行ったことのない河があります
小机の上の 白い機器の 電源を切って
Windowsを閉めると 夜も朝も昼も 明け方のような
一人の一間は 午前9時なのに ほの暗かった
テレビで天皇の日帰り熊本訪問のニュースを見たんだけどさ、
天皇が行くと、
被災者が天皇にぺこぺこ頭を下げて、
うれしそうな顔をするって映像なんだよね。
被災者は悪いことをしたわけでもないのに、
なぜ必要以上に何度も天皇に頭を下げちゃうのかなあ。
言っちゃ悪いけど、天皇はにこにこして話をするだけでしょ。
立ちん坊でしゃべるんじゃなくて膝をついて話すってだけで、
すごいことだって褒められちゃってるけどさ。
たとえば、SMAPの中居くんが被災地に行くとボランティア活動をするけど、
天皇はしないでしょ。
年齢的に無理だからってことじゃないんだよね。
若かったとしてもボランティア活動なんかするわけないじゃん。
ボランティア活動をしないのは、
天皇だからなんだよ。
本当は来られても迷惑なんだよね、
と心のなかで思ってても、
言うとヤバイから黙ってる人、
いるんじゃないかなあ。
映像の最後は暗くなって天皇が東京に戻ってきたって絵で、
被災者よりも、
天皇の方が大変なご苦労だったように見えておしまい。
すごい民主国家だよなあ。
天皇が被災地に行くと、
天皇制が拡大再生産されちゃうんだから。
この国の国民は、
きっと永遠に民主主義が理解できないと思うよ。
で、
きっとまた論理的に説明できないような理由で、
戦争を始めちまうんだ。
絶望的だな。
ぞっとするよ。
こんなこと言ってるけど、
今の天皇は悪くないほうだと思うよ。
憲法すり替えクーデターのアベシンゾー、
おれは立法府の長だと繰り返す内閣総理大臣、
あいつなんかよりずっとまし。
被災地に行ったのも、
いてもたってもいられないって
気持ちだったんだろうね。
普通に気持ちを語ってくれるわけじゃないからわからないけどさ。
でも、本当に一般の人びとのことを大事に思ってるなら、
あとひとつ足りないことがあると思うんだよね。
あなたが何をしても変なことになっちゃう大本だよ。
たとえば、今度の選挙で与党がボロ勝ちして、
衆参両院で三分の二を改憲勢力が占めたとするじゃん。
そうしたら、
アベシンゾーはすぐにでも改憲案を国会に出して、
国民投票に持ち込もうとするだろうね。
チャンスはそのときさ。
あなたがさっと手を上げて、
もう天皇は辞めたいから、
そのための改憲をしてくれ、
って言うんだよ。
一族みんなにちゃんと根回しして、
代わりにおれが天皇をやる、
なんてやつが出てこないようにして、
天皇制終了を宣言するんだ。
当然、アベシンゾーの改憲案なんてのは全部吹っ飛ぶよ。
だって、まず第一章をなんとかしなきゃなんないでしょ。
第一章 国民 第一条 主権は日本国民にある。
第二条から第八条は削除。
あとは天皇が出てくるふたつの条文を書き換えるだけさ。
念のために言っとくけど、
内閣総理大臣は立法府の長ではない、
なんて書かなくていいよ。
それで国民投票だけどさ、
今まで天皇制を支持してきた人たちだって、
あなたがそう言うならしょうがないと思って、
けっこう賛成してくれると思うよ。
がっかりするのは、
天皇を利用して人を黙らせようとしていた不届きな政治家だけさ。
アベシンゾーとか、アソータローとかね。
これでやっと法の下の平等の十四条があるのに、
国民は個人として尊重されるの十三条があるのに、
日本国と日本国民統合の象徴、
なんて変なものが規定されている憲法最大の矛盾がなくなるわけ。
国民を統合しなきゃいけないなんて思うから、
民主主義にならないんだからさ。
実際に変えてみりゃわかるよ。
統合されてなくても、
国民は互いに折り合いつけてうまくやっていけるはずさ。
あなたも普通に被災地にお見舞いに行けるようになるよ。
熊本行きのときにはあなたがお土産もらってたけどさ、
あなたが直接救援物資を持っていって
被災した人たちに渡せるようになるよ。
それにしても、
言うに事欠いて天皇に望みをかけるなんて、
おれもヤキが回ったもんだな。
鳥の鳴くまえに
目覚めた
それで
待って
いる
今朝も
鳥の鳴くのを待ってる
そのヒトは
鳥籠から出ようと
ハイチャンポ。
ポン。
と言った
だが
それもコトバだ
目覚めて
庭の
紫陽花の青々とした花芽を
見ただろう
ハクセキレイが鳴いてた
その女のひとは悩んでいたっす。
黙々と木を削って、
悩んでいたっす。
削った木のかけら
ことばにすれば、
木くずだっす。
ひとつひとつが違う木片、
それが木くずだっす。
ひとつひとつ、
その木くずを生かせないか、
どうすれば
捨てないですむか、
そのひとは悩んでいたっす、
俺っちの夢の中で。
いい夢を見たなあっす。
ハイチャンポ。
ポン。
そのひとのいる所に行ったっすは、
エレベーターの
隠された地下に行くボタンで押して、
扉が左右に開くと
広々と開けた地上だったっす。
驚いて降りると、
子どもたちが
土を掘ったり、
水を溜めたり、
地面を楽しんでいたっす。
そこでそのひとは
木を削っていたっす。
そうだったっす、
戻ろうと、
またエレベーターに乗ったっす。
そこで目がさめたっすね。
窓の外はもう明るくなっていたっす。
ハイチャンポ。
ポン。
こころがあったらしく
あったところが空洞になって
こころがなくなって
しまった
こころが
なくなったのか
こころが
空洞にかわったのか
わからない
空洞だとかんじているのは
こころだろう
こころはなくなって
なくて
ある
のか
奥村さんが言った
こころは
また
生える
と
生えてくるまで
ない
こころが
なくなったと
かんじたときまで
こころは
なかった
そのかん
かんいっぱつ
くうどうになったせかいで
はんざいしゃになることを
まぬがれて
よかった
と
そういうことか
印象派は大好きで、昔はなんでもかんでも見に行っていたのだが、だんだん飽きてしまひ、ゴッホ以外はもういいやと思っていた。ゴッホ、ゴッホ、ゴホゴホ。
ロッポンギにルナちゃんがやってきたとか、風の便りに聴いてはいたが、ルノワールといふ淑女番茶で傅く高値キッチャテンのやうな名前を耳にしただけで、あのぶたぶた女のふわふわモワレ像のあともすふぇーるが浮かんでは消え、消えては浮かんでしまふ。
「まず、よさう」と思っていたんだが、たまたま御成通の金券ショップで割引入場券を衝動買ひしてしまったので、けふ仕方なく初夏の昼下がりのロッポンギくんだりまでやってきたんだよ、オネイちゃん。
ところが結果的にはこれが良かったずら。行かなければ一生後悔したにちげえねえくらい良かったんである。あるん、あるん、コンコンチキのコンチクショウめ。
おらっちは遅まきながら、ぬあーんとルナちゃんの真価に目ざめてしまったんである。あるん、あるん、おらっち、コキ過ぎて。古稀過ぎて。
入り口にさりげなく置かれていた「猫と少年」にいきなり目がいった。と思いねえ。
猫をネコかわいがりしている少年は、まるで童貞少年プルーストのようで、映画「バーディ」の主人公と同じように、素っ裸で無防備なお尻を、おらっちの前におどおどと晒していた。
そのおどおどをば、ルネちゃんはあざやかにえぐっていた。
お、これがルナちゃんか、なかなかやるじゃんかと、おらっちは思った。
じゃんか、じゃんか、ルナちゃん、なかなかやるじゃんか。
お次は肖像画のコーナー。点描の大家シスレー選手や詩人テオドール・ド・バンヴィルの澄ましきった御影なんざどうでもよかったけど、「読書する少女」にはちょっと心が動いた。やっぱ描くなら少女なんだなと、心が揺らいだ。チラ、らちもなく。
次の次は風景画なんだけど、セーヌ川のなんてこともない風景がじわじわ胸に染みてきたではないか。
じゃんか、じゃんか、ルナちゃん、なかなかやるじゃんか。
「アルジャントゥイユのセーヌ川」の河原には、蒼穹の下で雲雀が日がないちんち歌っており、童貞プルースト少年が全裸で逍遥しているのを、心配そうに眺めている。
白いパラソルをさした彼の母親、それからモネの奥さんや娘たちが「草原の坂道」をゆるゆる下ってくるのが見える。
そしておらっちの心がいきなり鷲摑みされたのは、これまでよくみたこともなかった「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」だった。じゃった。
午後二時半の巴里モンマルトルの広場で、老若男女のシトワイヤンとシトワイエンヌが、ジンタの響きに合わせてワルツを踊っている。
ジン、ジン、ジンタン、ジンタタタッタアタアア*
ダンス、ダンス、ダンス
一寸の光影軽んずべからず
泣くも笑うもこのときぞ このときぞ*
燦々と輝く午後の日差しは、恋人と我を忘れて踊る若い女性の白いシフォンドレスの上にほのかな樹影を刻印している。樹影、じゅえい、Joue joue jouer
画面の中央では、箱入り娘が青年の、そして左隅では、ジルベルトがプルースト少年のダンスの申し込みを待っている。
ジン、ジン、ジンタン、ジンタタタッタアタアア
ダンス、ダンス、ダンス
一寸の光影軽んずべからず
泣くも笑うもこのときぞ このときぞ
あ、と思えば、つ、と過ぎ去ってゆく、我らが祝祭の日。
その一瞬の仕合わせを、ルナちゃんはキャンバスのうえに、かそけく、あわあわと描く。かそけく、かそけく、あわあわ、あわあわと
あたかも次の瞬間には、束の間の宴がうたかたのごとく儚く消え失せ、けたたましい軍靴にとって代わられる日が来ることを予期しているかのやうに。
ジン、ジン、ジンタン、ジンタタタッタアタアア
ダンス、ダンス、ダンス
一寸の光芒軽んずべからず
泣くも笑うもこのときぞ このときぞ
そして満を持して最後に姿を現すのは、草上にごろりと横たはる巨大な裸婦たち。そはかのギリシア神話のニンフか、はたまたアマゾネスか。
いな、否、Nein 、それは、かつての「麦わら帽子の少女」、「本を読む少女」。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットでダンスに興じた少女は、やがて「ルノワール夫人」となり、「横たわる裸婦」となり、最晩年の傑作「浴女たち」となった。
燦然と光り輝く午後三時の太陽の下、もはや男どもが死に絶えたエデンの園で、
恐竜のようにあどけない原始女性たちが、地表のあらゆる因果律を無視して、未来永劫戯れている。
*「ジン、ジン、ジンタン、ジンタタタッタアタアア」は仁丹の広告に拠る。
*「泣くも笑うもこのときぞ。このときぞ」は、中原中也の「古代土器の印象」の「泣くも笑うも此の時ぞ」に拠る。
*括弧内の表記の多くは、今回の「ルノワール展」の掲出作品名である。
海から帰り
午後に
高橋悠治さんの
インヴェンションとシンフォニアを
聴いた
声に
声を重ねる
さらにもうひとつ声を
重ねる
夕方にはモコと散歩した
道端には
ドクダミの白い花が咲いてた
悠治さんは
覆うのではない
ピアノの声を重ねて裸になる