広瀬 勉
#photograph #photographer #concrete block wall
ガサゴソガサゴソ音をたてて
カバーをかける
銀色のカバーを 自転車にかける
いたわるようにかける
何度も何度も かけなおす
赤ん坊に着物を着せるように
ていねいにかける
老人はもうこの自転車に乗ることがない
こげなくなった自転車にカバーをかける
ガサゴソ ガサゴソ ガサゴソ ガサゴソ
音は止まない
その音を 老人のうしろでひまわりが
聞いている
老人が育て
大きくなりすぎたひまわりが 聞いている
朝夕にせっせと水をもらい
グングンのびて 老人を追い抜き
伸びるほどに老人から離れ
伸びたくなくても 伸びていった背の高い
たった一本きりのひまわりが
聞いている
老人からもはや 見上げられ眺められることもなくなったひまわりが
首を垂れて 聞いている
音がやんだ
老人は自転車から離れ おぼつかない足取りで家に入る
セミが鳴きだす
カバーに覆われた自転車と
ひょろ長いひまわり
ブロック塀
ポスト
セミが鳴く
セミが鳴く
雷が鳴る
セミが鳴く
雷が鳴る
黒いものがやってきた
雨が降る
どしゃぶりになる
カバーが気持ちいいように雨粒をはじく
ひまわりは重く濡れ 幽霊女みたくなって自転車のうえでグラグラ揺れる
雨の圧力
耐えている
自転車も ひまわりも 老人の入る小さな家も 路地も どこかで交尾するセミたちも 耐えている
私が差す傘も 坂道も 橋も 顔のない地蔵も そのそばに咲く小さな赤い花も 耐えている
雨がやむ
陽が差す
ギラギラと強く 容赦なく 照りつける
カバーにたまった水が キラキラ光る
老人がもう乗ることのない自転車を すっぽり覆い
カバーはまるで銀色の大きな生きもののように 光を放つ そして
たっぷりの水を吸収し
老人がもう見上げることのないひまわりが ゆっくり 顔をあげる
太陽に向かう
長すぎるこの世の 終わりを待って
セミがまた鳴き出す
(8月某日、高砂、地蔵堂近くの路地で)
誰もいない
町は 人ごみに
溢れているけれど
わたしのこころには
誰もいない
目に映る人びとや光景は
何もかもが 幻影で
捕まえることなど
できはしない
わたしのこころの深奥にある
悲しみは
誰も見向きもしなければ
外へと流れては ゆかない
わたしは ひとり
湿った陽光の照射する部屋で
メランコリーに潰されている
夜の月あかりは 寂寥に深い傷を
舐めまわす
そして
何ひとつ
わたしは 過去の痛みを
思い出せない
〜志郎康先生を偲んで
大学のゼミの部屋を覚えてるかい
21歳のあたしは
ポラロイドカメラを持って
河原でマーガレットの写真を写した
ワープロというやつで
嬉々としてよそゆきの文字を刻印した
赤いベースをかついで
三角形のピックで滅茶苦茶に引っかいた
ただの水の玉だった
詩の授業なんてクソ喰らえだ
白いロッカーみたいな
ゼミの部屋を蹴飛ばした
螺旋になっていたのかも
うずまく力でかろうじてまとまっていた
何者でもない
私のからだ
今もあの時も
その私の手が
その私の脚が
どうなってるのか
みてごらん
あなたは私にそう言った
ゼミの部屋を覚えてるかい
2023年8月27日
正山千夏
〜志郎康先生を偲んで
右足を引きずって歩く
右の仙腸関節も神経にさわる
泣くこともできず
静寂の爆音にただ打たれてる
1993年の裸のラリーズ
川崎のあのハコで
膝を抱えて座ってた
からだの外と中の闇
無音の洪水に身をゆだねれば
時空が消える
充満する真空のなか
ゆらゆら揺れているんだ
忘却は記憶しない
ただ再生される音の波だけが
ひどくまぶしい夜
今も揺れているんだ
2023年8月27日
正山千夏
暑さが滲む
身体が不明確になるように
道に映る影は鮮明さを増す
雲を色づける光は
地上の植物を振り向かせる
それは
誕生と別れ
扉をあけてくれたあなたは
夢のなかで最後の挨拶
人工物では表現できないその光は
ここの意識だけを残して
軽やかに旅立った
結末を教えてくれた朝
光の先端に 笑顔をのせて
ありがとう、と
残された意識がすべて旅立つように
願い続けた あなたの幸せを
片手の年月
ほほえむようになった「 」は
あなたの元へ戻れたかな
生命の切符を携えて降り立つときは
抱えきれない愛と共に 飛び跳ねて
忘れないで
降り注いでいる愛を
言葉の存在を
光へ