michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

消えた **

 

さとう三千魚

 
 

白と黒の
猫は

テーブルにねそべっていた

背中のまるい毛なみの
ねそべっていた

いつかテーブルから降りて襖の向こうへ
消えた

消えて
音がない

 

・・・

 

** この詩は、
2025年6月27日 金曜日に、書肆「猫に縁側」にて開催された「やさしい詩のつどい」第18回で、参加された皆さんと一緒にさとうが即興で書いた詩です。

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

島へ

 

さとう三千魚

 
 

昨日か

河口まで走った
川沿いを走った

歩道にミミズたちの死骸がいた
たくさんいた

乾いているものもいた

ゴンチチの
ラジオを聴きながら

走った

Archie Sheppのサックスで
“Embraceable You” という曲が鳴った

“抱きしめたいきみ”

というのか
聴いていた

しばらく川沿いの歩道に佇ち止まって聴いていた

まだ
元気だったころ

母を連れて
南の島へ行ったことがあった

島の南端の海の見える公園に
たくさんの四角い石が並んでいた

ひとびとの名が刻まれていた

その石の前で
母は

泣き崩れた

そこに
母の兄の名もあった

母との旅は一度きりだった
母にはなにも返さなかった

その後母は病気で横になった
死んだ母を抱きしめなかった

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

伊地知一子「ソング」のためのライナー
「腐乱死体が流れていく」

 

工藤冬里

 
 

上京したのが同じ頃で、早速というか「セチュアンの善人」も観に行ったし、本屋には目の前に内臓アルトーと背骨ブレヒトがいたし、いくつかの河原テント芝居にも出入りしていたのだから、僕らはいつか三丁目で串を抜いて平等にした七寸皿で劇団喰いしていたかもしれないのだ。
演劇が音楽の上にあるというのは最早自明のことだが、そのような立場にありながら音楽を使う演劇は音楽のインスピレーションの問題を背骨に関しても内臓に関しても棚上げしてきたように思う。その間に音楽は行くところまで行ってしまい、脳内インスピレーションを解体するところまで進んだ。
そうした冷酷なコロナ後の情況下で、正義感の強い一子さんの、シャンソンでもスペクタクルでもなく(「ひとりアームジーク」とも「水牛」とも少し違う)「ソング」が今更ながら「ソング以外」を刑事告訴してみせたのが本作である。プレカリアート・コンニャク・ベルカントは終わりを迎えた中央線の身体であり、倍音を旧世界に収監されたまま、獄窓から若かった頃の自分の腐乱死体が流れていくのを見る。僕らは串を抜いたうたの腐乱死体が流れていくのを見る。

 

 

 

#poetry #rock musician