michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

息 布 根 棘

 

萩原健次郎

 
 

 
 

 
虫の息かどうか確かめる。
手を近づけて、虫、かどうか。
うわっ、人の息。後ずさり、

虫は、虫の代で死に
人は人の代で死ぬ。

息には、
意味の混ざった言葉が、
滲み出す。

 

 
薄片の、
水をふくませて、鼻と口へ被せる。
白よりも白く、
言うことを拒み、
欝する赤に遠くから、情を投げ込む。

 

 
根は、土中で息している。無臭。
何も伝わらない。わたしひとりが
赤子でね。

 

 
棘が救ってくれる。

 
 

連作「不明の里」より

 

 

 

めいか

 

道 ケージ

 
 

銘菓を求める
手頃なやつ
喜ばれるもの

日持ちがよく
甘すぎず
大げさでなく

あまり洒落こまず
笑顔がこぼれ
すぐに忘れられ
そして思い出す

つらい思いもあったけど
まあひとつ
お茶でも飲みながら

それにしても…
…そうですね

吊るそうよ
子供のおおげさな待遇

はやく食べて欲しい
残すのかな
いっそこちらが先に

田舎首 さらし
まあ、しかしここはひとつ
鷹揚に大人しく

やっと包みを開けてくれ
もう一枚脱がし
はやくはらりと広げてくれ
遠慮はいらぬ

一口でいきましょう
そこでお茶ですか
さすが貴族は違う

卑しい俺は
さっきから
空のお茶をどうすれば

だいいちその
和服からして大仰だ
だいたいなんでこんな銘菓を

これ見よがしの
和室に通され

媚びてるじゃないか
卑しさは見抜かれ

だいたい君はだな
いやそんなつもりは

畳目、十十十の呪文
羽織紐、無双かよ

敬いの気持ちがだな
いやそんなつもりでは

縁側踏み抜き
庭にぶちまけ
灯籠蹴倒し
おさらばだ

ては失礼いたします
何卒よろしくお願いします

うむ

 

 

 

三日月

 

道 ケージ

 
 

すでに押し留めようもなく
蛇行する緑に
三日月湖  求め
漕ぎ出づ

滑るように自在に
川を
どちらが上流か下流か
もう構いはしない

右岸左岸に
隠れ潜む
三日月湖

この舟を離れ
全緑界に
光源を
追い求む

浮力をうまく利用するのだ
依然 凪の汽水
虫たちを模倣し
藻の緑道に乗れば

おお、月齢の糸に引かれ
水面から浮上
見下ろす海漂

三日月湖
言い当てた彼は
喜びのあまり
首をかき切った

願わない仕事
そうでもないだろう
何でですか
いつもなぜなんだな

すでに押し留めようもなく
なるようになるといなす彼
血は思ったよりも出る
という驚愕の眼

望みはなんだ
別に普通です
だから普通って何だ
いや特にありませんよ

お前さん普通じゃねぇよ
普通、首切らないよ
そうですかと押さえながら
痛えか
喋りづらいです

あまりにたくさんありすぎて
何が
それもわからないほど
おめでてぇ奴だな
ですかね

すでに押し留めようもなく
蛇行するたび
三日月の傷
愛撫

 

 

 

ねえさん

 

道 ケージ

 
 

いくらそんな事情とはいえ
「最後にヌードを」
しかも姉妹二人で
イタリア人カメラマンだと

そりゃ
姉さんの気持ちはわかるけど
(余命の宣告)
でも中年だよ
陰毛ゆらして
横たう

妹まで
はだけて
それはやはり
わからないな

陰毛二人で隠しつつ
ゆらぎ溶け入り
残す気持ちが

それにしても
なぜ乳首が
そんなに黄色いのだ

残さなくても
いい
残せなくても
いいと思うよ

 

 

 

山崎方代に捧げる歌 27

 

丘の上を白いちょうちょうが何かしら手渡すために越えてゆきたり

 

麓には動物園がある

丘の上の
舞台芸術公園の駐車場から不二をみてた

このところ

なんどか
みた

不二は雪をかぶっていた

空は青く
竹林が揺れてた

サハラを見たことがある

背中だね

動物は語らない
みている

 

 

 

性のむきだし音楽

音楽の慰め 第24回

 

佐々木 眞

 
 

 

この世の中で、セックス、というより、ずばり「性交という行為そのもの」を表現した音楽は、おそらく星の数ほどたくさんあるでしょう。あるはずです。

経験豊富な皆さんと違って、奥手の私が知っているのはたった3つしかありませんが、今宵は恥をしのんで、それらをご紹介しませう。

そのひとつはあまりにも有名なジェーン・バーキンとゲンスブール(ガンスブールと発音すべきだという御仁もいらっしゃいますが)とが、蝶々睦々ちんちんかもかもとからみあう、超悩ましい「je t’aime… moi non plus」(ジュ・テーム・モア・ノンプリュ)という極め付きの1曲です。

 

#1 バーキン盤

 

もういい加減にしろと言うても、きっとこの調子で朝までエクスタシーが続くのでしょうね。若さの勝利というも愚かなり。

なおこの空前絶後の「アヘアヘあえぎ」は、ゲンスブールのそれまでの恋人だったブリジット・バルドーと録音されていたのですが、バルドーは当時の夫を忖度して発売を拒否したためにお蔵入り。その代打で急遽登場したバーキン盤が世界中で大ヒット。
それが原因でゲンスブールはバルドーと別れたんだそうですが、なんとも羨ましいような話ですなあ。

 

#2 参考までにバルドー盤

 

お次のセックス音楽は、リヒアルト・シュトラウスの有名な「薔薇の騎士」の冒頭の音楽です。

物語の舞台はマリア・テレジア治下のウイーン。まだ開けられない深紅のカーテンの向こう、夫の不在の寝室のベッドで絡み合っているのは、妖艶な元帥夫人と青年貴族オクタビアンです。

いきなり指揮棒が一旋すると、管楽器の不協和音が鳴らされます。
高鳴るホルンの一撃は余りにも早すぎるペニスの勃起であり、次なる弦楽器の強奏は、成熟した年増女の「警告と教育的指導」です。

しばらく血沸き肉踊る猛烈な揉み合いが続いたあとで、全木管金管楽器がぐるぐり悲鳴を上げて咆哮するフォルテッシモは、17歳の若者のあまりにも性急で早すぎた射精であり、そこにすかさず分厚く覆いかぶさる弦楽器は、やむを得ず自分のエクスタシーを早めようとする元帥夫人の怒りを込めた焦り、なんですね。

やがてゆるやかに奏される序曲の終わりは、すなわちセックスの終わりとそれなりの性的満足の表明、なのでしょう。

R.シュトラウスの「バラの騎士」はカルロス・クライバー指揮のウイーン国立歌劇場またはバイエルン歌劇場による演奏。同じくカラヤン指揮のウイーン国立歌劇場またはフィルハーモニア管演奏のできれば映像付の録音がおすすめです。

 

#3

 

最後は、旧ソ連を代表する作曲家、ドミートリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)が、わずか26歳の若さで完成させた自由奔放なオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」です。

帝政ロシア時代の地方の富裕な商人(50代)の美貌の後妻、カテリーナは、23歳の若さと性欲をもてあましてもんもんと眠れない夜を過ごしていました。

が、その隙をついて忍び込んだイケメンの下男に犯され、よくある話ですが、あのチャタレイ夫人のように初めて性の燃え上がる喜びを感じて、いわゆるひとつの充たされた生活、を満喫するようになります。良かった、良かった。

しかし好事魔多しとはよくいったもので、2人の仲は義父に知られてしまう。
そこで追い詰められたカテリーナは、義父を毒入りキノコで毒殺し、出張から帰ってきた夫も、恋人と共同で殺してしまいます。(レスコフの原作では、もう一人少年も殺害するのですが、オペラではカットされています。)

やがて晴れて結婚した2人でしたが、「天網恢恢疎にして漏らさず」のたとえ通り、悪事が露見した2人は流刑地に送られ、なおも陰惨な悲劇が続くのですが、それはさておき、ここでの問題は、第1幕第3場における荒々しい性行為の音楽。
すべての弦と管と打楽器が荒れ狂う獣のように咆哮し悲鳴を上げるのです。

私はマリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセツトヘボウ管による2006年6月、アムステルダムはネーデルランドオペラ公演のライヴDⅤDで視聴しましたが、まさに阿鼻叫喚の激烈な強姦音楽です。(45分~47分あたり)

 

#4

 

どうしてこのように野蛮な、セックスむきだしの原始的な音楽が、当時のソ連で大好評をかち得たのか?
おそらくは人間は、昔も今もどんな社会体制にあっても、生きているからにはその性的快楽を全面的に肯定するほかないじゃないか、という原点を、初めて音楽で本気で描いたからではないでしょうか。

しかし残念ながらこの文字通り革命的なオペラも、当時の独裁者スターリンが見物した直後にソ連共産党の機関紙「プラウダ」で「荒唐無稽!」とこてんぱんにやっつけられ、それから20年後にショスタコーヴィチがその行き過ぎた個所をマイルドに削ぎ落とした改訂版を「カテリーナ・イズマイロヴァ」として世に送るまで、音楽史の暗闇に放置されるほかなかったのでした。

 

 

 

ひとつだけ誇らしいと思うのは

 

駿河昌樹

 
 

ひとつだけ
誇らしいと思うのは
徒党を組んで偉がろうとだけは
けっして
しなかったということ

表面だけ取り繕って
認めてもいない者たちを仲間として募って
おたがいに無理に褒めあい
まるで才能ある集団であるかのように
装おうとなどはしなかったこと

たいして認めてもおらず
おもしろくも思っていない年長者を
仰々しく盛りたてて
次の地位に滑り込ませてもらおうとは
一度もしなかったこと

 

 

 

斎告る

 

駿河昌樹

 
 

祈る、とは
「斎(い)告(の)る」の意

広辞苑にはある

斎、とは
忌み清める、身心を清浄に保ち慎む

告、とは
告げる

祈った、
と自認する人は多いだろうが
斎した
という人は
どのくらい居ただろう

どの程度まで

した
という
のだろう

そして
告(の)った内容は

だっただろう

斎告った人が
たとえば
昨年
あるいは
今年の正月
いた
のだろうか
たったの
ひとり
ほどでも

 

 

 

よるべないたましいのだれかさんとして

 

駿河昌樹

 
 

寒い
寒い

天気予報やニュースが言っているほど寒くは感じなくて
家の中でも
まったく暖房を使わないほどだけれど
手の甲や
指の甲が
いつもより乾いて
ちょっとシワシワしてくるのは
やっぱり
寒い
ということなのだろうか

手や指の甲の
そんなシワシワが
ずいぶん
ひさしぶりで
懐かしい
なつかしい
時間

呼び起こされるようだった
呼びよせられるようだった

特に
小学生の頃の冬
外に遊びに出ると
手は
かじかんで
乾いて
よく
白っぽく
シワシワになった

あの頃
それをどうやって
温めただろう
どうやって
元に戻そうとしただろう

手のひらや手の甲を
いつまでも
スリスリして
摩擦し続けて
温めようとしただろうか
ハアハア
息を吹きかけて
いつもの肌に
戻そうとしただろうか

おおい!
まだ生きてるよ!
まだ生きてるんだぜ!

そんなふうに
ぼくは
あの頃の
白く乾いた手の甲に
指の甲に
遠く
ーいや、けっこう近くかな
呼びかける

あの頃の
白く乾いた手の甲や
指の甲を
持っていた少年に
呼びかける

あの子の
やがて
行きついていく先の
あくまで
あくまで
途中経過の
仮の大人の姿をしたものとして
あの子を
がっかりさせ過ぎないで済むような
わずかばかりの
心の
思いの
それらよりも奥底のなにかの
かがやきを
ちょっとばかりは
守り続けている
まったく
ひとりぼっちの
よるべないたましいの
だれかさん
として