michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

山道に咲く花 ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 03     kokoro様へ

さとう三千魚

 
 

木漏れ日の

下を
歩いて

いった
みどりの

台座のうえに
首を長くして

きみは
いたね

オオイヌノ
フグリ

きみの
青い色の

瞳は深かった

 

 

memo.

2022年5月28日(土)、静岡市の水曜文庫という書店で行ったひとりイベント、
「無一物野郎の詩、乃至 無詩!」で作ったみっつめの詩です。

お客さまにお名前とタイトル、好きな花の名前を伺い、その場で詩を体現しプリント、押印し、捧げました。

タイトル ”山道に咲く花”
花の名前 ”オオイヌノフグリ”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

オートバイ

 

塔島ひろみ

 
 

わたしの朝でない朝がきた
だからまた目を閉じる
わたしはオートバイではない

陽が照らすわたしをオートバイと人は呼ぶ
どしんとまたがってエンジンをかける
まっぴらなのに
走るなんてできない これっぽっちもしたくないのに
親でも恋人でもないヒトをのせてわたしの道でもない道を走る
だからそれは わたしではない
わたしはオートバイではない

チャイムが鳴った
わたしは草の布団に包まれ 目を閉じている
ピンポンピンポン鳴りつづける
わたしはオートバイじゃない
だから 学校になんか行かないよ
いくら呼んだって 起きないよ

土手に引きずっていかれ写真を撮られた
川が見えた 発泡トレイが浮いていた
それから蹴飛ばされ 転がり落ちて
発泡トレイが見えなくなった

黒い鉄の柵の内側に
こわれたオートバイたちがぞんざいに置かれ足から錆び 腐っていく
もうそれらは走れない 歩けもしない
だからもうオートバイとは呼ばれないで
ごみと呼ばれる
雨が続き雑草がぐんぐんのびピンク色の花が咲いた
子どもたちが列になって黄色い帽子をかぶって電車みたいにつながって
歩いていく 黄色い旗を持ったおじさんがその先で待っている
「おはよう」「おはよう」と声がする
あちこちから似たような黄色い集団が現われて
1か所に収れんされていく
わたしはオートバイじゃないから
そこには行かない

手はなかった
鼻は半分潰れ 下半身はメチャメチャだった
黄色い旗のおじさんは子どもたちを見送ると
その石の塊の前で手を合わせる
子どもたちが無事でありますように
正しく成長しますように
だけど
わたしは地蔵じゃないから
祈られたってどうすることもできないよ
地蔵と呼ばれる塊は ニヤリと笑ってウインクをした

ウインクを返す
夢がむくむくと広がっていた
心はいっぱいで はじけそうだ
雲がわきたち
わたしをオートバイに見せる太陽が隠れていく
わたしはオートバイじゃない
だから どこまでも自由だ

 
 

(奥戸6丁目、産業廃棄物置き場のそばで)

 

 

 

のはら ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 02     Urara様へ

さとう三千魚

 
 

ゆめを
みたんだ

野原のうえには

青空が
ひろがっていた

白い
雲が

浮かんでいた

あなたは窓辺に
佇っていた

庭には
もっこうばらの

花が
咲いていたね

黄色い花が

 

 

memo.

2022年5月28日(土)、静岡市の水曜文庫という書店で行ったひとりイベント、
「無一物野郎の詩、乃至 無詩!」で作ったふたつめの詩です。

お客さまにお名前とタイトル、好きな花の名前を伺い、その場で詩を体現しプリント、押印し、捧げました。

タイトル ”のはら”
花の名前 ”もっこうばら”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

あの子

 

たいい りょう

 
 

二階建ての家
一階はブティック
二階は寝室

あの子が
また私の前に現れた

元気に飛び跳ねる
女の子
まるでバレリーナ

「ここはね 悠希お兄ちゃんと
   恋人が寝る場所なんだよ」
と私に快活に話した

私は寝ていた
肩を叩かれた

肩を叩いたのは
あの子
それとも
昨日の妖精

「私には娘がいた」
とそう叫んで

私は目を覚ました

 

 

 

みらい ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 01     Yuriko様へ

さとう三千魚

 
 

あしたの
ことも

みらいの
ことも

わからないけど
ここに

わたし
いて

あなたがいて

薔薇が
咲くのを待っている

ピンクの薔薇
咲くのを

 

 

memo.

2022年5月28日(土)、静岡市の水曜文庫という書店で行ったひとりイベント、
「無一物野郎の詩、乃至 無詩!」で作ったひとつめの詩です。

お客さまにお名前とタイトル、好きな花の名前を伺い、その場で詩を体現しプリント、押印し、捧げました。

タイトル ”みらい”
花の名前 ”薔薇 (ピンクの)”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

ストン

 

工藤冬里

 
 

末世に於けるストーリーとは、練り上げるものではなく浮き出てくるものであり、カラックスミュージカル体験とは判決後のその種の揺蕩いである。ピアノの中からストンと茶筒が立っている。
最早全てのストーリーは同じものである。ただその大きなストーリーの中の消極的なエピソードを拡大するのが映画であるというだけだ。ピアノの中からストンと茶筒が立っている。
今や映画は映画の外側にいる。内側は映画や映画音楽では表現できないものばかりである。逆に言えば映画は敗北したのだ。抜け殻である。そして繰り返しになるが映画は映画の外にある。それが文楽空ックス体験である。そしてピアノの中からはストンと茶筒が立っている。
アネットのGIFの氾濫を見ると、名場面の戦略がフェイクとして透けて見える。今やタイトルが現れるまでとエンドロールとオマケメイキング部分だけが映画で、中身のストーリーは誇張する部分の差こそあれ、どれも同じになってしまったので、映画史で映画を語るやり方は意味がなくなった。
空腹で自分の内臓をホルモンにして食べているアルフォンソという男が、あゝ五臓六腑に沁みわたるわい、と言うと、隣の、同じくホームレスの男に、お前の内臓はその鍋の中やないかい、と突っ込まれる、というマンガがあったが、映画はいま、私たちはいま、自身の内臓を煮ているのである。ストン

 

 

 

#poetry #rock musician