目の前の律動

 

辻 和人

 
 

ピョタッ
白い体が
空気を抉って
ピョコタッ
もう1回
抉って
やっと
進んでいる
レドだ
白くて丸々
白くて丸々
レドと言えばそんな猫だ
それがどうだ
丸々してたものの
白い影みたいじゃないか

「レドちゃん、大変なことになっちゃって。
外から帰ってきたら右の後足びっこ引いてて、
おしっこもしないのよ。
びっくりして獣医さんのところに連れてったら、
しっぽの付け根の骨が折れてて、
脊髄が傷ついてるんだって。
それでおしっこできなくなってるんだって。」

母からの電話で実家に急行
何でも
父が庭に出た隙を突いて外に飛び出してしまった猫たち
ファミは1時間くらいで戻ってきたけど
レドはずっと戻らず
翌朝ベランダに佇んでいたレドは
ピョタッ
ピョコタッ
左後足を引きずる姿になってたって
しっぽも垂れたままだって
事故に遭ったらしいんだけど
自動車なんて滅多に通らないところだし
誰かに乱暴された可能性もあるって

早朝獣医さんの近くのバス停で父と待ち合わせ
キャリーの中のレドは
目ばかり大きい
ヒュオーン
聞いたことのない高くひん曲がった声だ
名前を呼ばれ診察室に入る
台に乗せられたレドは観念したようにおとなしい
かつて丸々していたものの
白い影
ピョコタッ
固まった

優しそうな女医さんがカテーテルでの排尿の仕方を教えてくれる
1人が体を押さえてペニスから尿道を飛び出させ
もう1人がカテーテルを通す
猫のペニスは
小さい小さい
尿道は
細い細い
え、こんなトコに通せるの?
何度やってもカテーテルの先が尿道とすれ違う
ヒュオーン
見かねた女医さんが代わってくれた
あっという間に黄色い液体が管を流れる
注射器で3回と半分
昨日の昼からだから溜まってたんだって
最初は難しいけど慣れるとできるようになるって
それまで大変だけどここまで通ってきてって
優しそうな女医さん
レドの頭を撫でながら
おしっこを自力で出すのはもう無理だって

帰ってキャリーから出す
ピョタッ
周りの空気を
抉って、抉って
ピョコタッ
やっと
進んでく
柱に白い影みたいな体をスリスリ
キャリーから出られて良かったって
家に戻れて良かったって
そら、我慢したご褒美にお姫様だっこだぞ
お腹撫で撫ですると
首筋うぃーんと伸ばして目を細く
おおっ、いつものレドだ
喉元いっぱいマッサージ
首を軽く左右に振って振って
もっともっと
おおっ、いつもの甘えん坊のレドちゃんだぞ

床に下ろすと
きりっと目を上げて
お気に入りの冷蔵庫の上に飛び上がろうと
ガキッ
あらら
足台にしようとした棚から転げ落ちちゃった
痛そー、ややっ
ピョタッ
すばやく起き上って
ピョコタッ
後足引きずり引きずり
今度は押し入れの前へ
2番目にお気に入りの場所だ
ここもちょっと高い位置にある
戸を開けてやろう
動く方の後足を
踏ん張って踏ん張って
頭を微妙に上げ下げ上げ下げ
ピョタッ
飛び乗った
ピョコタッ
前足に力を入れて下半身を引き上げた
成功だ
ピョタッ
ピョコタッ
奥に進むと
ふにゅっとまあるくなって
爪を舐め舐め
すると
何?、何?って感じでファミがやってきて
ヒョコッ
押し入れに身軽に飛び乗り
レドの隣に座った
並んで一緒に舐め舐めだ

無抵抗の猫を棒で殴りつける奴
そんな奴が近くにいるのかもしれないんだって
自分より弱い奴が苦しむのを
楽しむ奴がいるかもしれないんだって
ゾッとする
けどけど、実は
レドは家では甘えん坊だけど外に出れば乱暴者の猫でさ
庭に迷い込んだよその猫を追い回して
ケガをさせたことがあるってさ
あんまり力を入れて相手を噛んだものだから
前歯が1本折れちゃったくらいでさ
今回も他の猫と大喧嘩して
そいつはやられてる方の猫に加勢しようとしてレドを叩いたかもしれないさ

そんなことより
そんなことより

目の前だよ
ピョタッ
ピョコタッ
ピョタッ
ピョコタッ
ひと眠りを終えて押し入れから這い出てきた
影じゃない
白い体が
空気を抉ってる
エサ用のお皿をチラ見して
空っぽなのを知って
フゥーン
短く鳴いた
自力でおしっこはできないが
食欲はあるんだって
抱っこされれば
首筋伸ばすんだって
冷蔵庫に上るのをしくじったら
押し入れに上るんだって
ピョタッ
ピョコタッ
拍子にちょっと間が空いているのがいい
空気を抉って
抉って
やっと
進んでる
よし、猫缶取ってきてやろう
腰を上げると
気配を察してついてきたレドが
目の前で生み出す律動
ピョタッ
ピョコタッ
目の前だ

 

 

 

覗かれる気分

 

辻 和人

 
 

また君かぁ
こんにちはー
直下から
覗かれる

魚の目
右の足の裏の真ん中からちょっと上辺り
定期的にできる
左にはできない
重心が右足前方に傾く歩き方の癖の
分身なんだね

椅子に座って調べてみよう
よいしょ、靴下脱いで足裏を膝の上に乗せる
ふむふむ
小さな細長い楕円
指で突いてみると
そこだけ皮が厚く硬くなってる
ツルツルした感触だ
ちょっと面白い
ズッ
ズッ
大きくなるのを日々感じてはいたんだけど
ズキッ
今日、遂に開いちゃった

魚の目
ズキッ
ズキッ

うぉー、こんにちはー
君かぁ
さあ、立ってみましょう
それから、足踏みしてみましょう
イチニ、イチニ
直下から
ズキッ、ズキッ
視線が登ってくる
「今週仕事きつかったな、明日は寝坊するか。」
ズキッ
覗かれちゃった
あーあ、いつも通りに起きるか
「そろそろ暑中見舞い出さなきゃいけないなあ。」
ズキッ
覗かれちゃった
はいはい、今夜お風呂に入る前に書きますよ
直下から
ぼくの内部を覗きにくるんだよ
だからどうだってことはないんだけどさ

魚の目

ズキッ
視線の強さに
きょろっ、思わず辺りを見回す
しーん
椅子とパソコンとカーテンしかない
でもでも、いる
直下に、いる
一言も喋らないけど
ズキッ、ズキッ
存在を主張しているぞ
ちょっと面白い
ちょっとかわいい
さっきしげしげ眺めた
小さな細長い楕円
特に魚に似ているわけでもない

魚の目
「いつものようにナイフで削り取ってしまおうか。」
ズキッ
覗かれちゃった
わかった、わかった、わかりました
しばらく直下から覗かれるままにしておこう

魚の目、と
ズキッ
ズキッ
2人きりの時間を楽しむんだ

 

 

 

知ってる/知らない

 

辻 和人

 
 

耳をぴくんとさせるや否や
背中をくるっとほどいて
軽く波打ちながら降りてきて
たん、と床に立つ
真ん丸黒目をまっすぐこちらに向けてくるけど
ぴたっと同じ位置に静止して
それ以上近づいてこない
さっきまで
冷蔵庫の上で寝そべっていたファミとレドだ
アパートでかまっていたノラ猫を実家に預けて
もう8年
預けた当初は毎週様子を見に行っていたけど
最近は半年に一度くらいしか顔を見せてない
この人、ミルクくれた…っけ
抱っこしてくれた…っけ
ススキで猫じゃらし作って遊んでくれた…っけ
ぴたっと動かない真ん丸黒目の中で
ぼくの像、ゆらゆら揺れてるぞ
知ってる…っけ
知らない…っけ
知ってる…っけ
知らない…っけ
しっぽの先がぴらぴら震えてる
おいで
膝を折って床に座り左右の人差し指を差し出す
ちょっ、ちょっ、ちょっ
2匹は並んで近づいてきて人差し指の臭いを嗅ぐ
知ってる…っけ
震えを止めたしっぽをぴーんと立てて
背をうねらせ近づいてくる
だから
ぽん、ぽん
しっぽの付け根を力を入れて撫でてやるんだ

 
 

*この作品は、杉中昌樹編集発行の詩誌「つまり猫が好きなんです 第1号」に掲載されたものの再掲になります。

 

 

 

体と体

 

辻 和人

 
 

ぼくの体を包んだ
車の体
高齢の父がもう運転しないからって譲ってくれた
スーパーの駐車場にのろのろ侵入
ラッキー、空いてる
失敗しても隣の車を傷つける心配がない
かれこれ30年以上運転していないぼく
慌ててペーパードライバー講習受けて
時には助手席のミヤミヤから怒られながら週1回は運転を続け
すこーしは上達したかな
近所であれば何とか走れるくらいにはなったんだけど
トホホなのが駐車
今日は駐車の練習にここに来てるってわけ
よし、このスペースがターゲットだ
一旦止まって周りの様子をうかがって
まず右にハンドル切る
車の体はのろのろと
ぼくの体を包んだまま
右斜めに移動
ちらっと左のミラーに見えてきた白線の先端
それ、今だ
ギヤをバックにして今度は左にいっぱい
ピィー、ピィー、ピィー
のろのろ左後ろに旋回
車の体に包まれた
ぼくの体
運ばれてく
ただただ運ばれてくぞ
ストップ、この辺かなあ
窓開けてきょろきょろ、タイヤまっすぐにして
ピィー、ピィー、ピィー
ゆっくりゆっくり後退
ちっ、こんちくしょう
ぼくの体を包んだ
車の体
右に寄りすぎ
しかも30度も斜めに傾いてるぞ
しょうーがない
前進してハンドルを右、右、あ、ちょっと左
やっと白線と並行になった
窓開けて、タイヤまっすぐにしますよ
ピィー、ピィー、ピィー
車の体に包まれた
ぼくの体
運ばれてく、ただただ運ばれてくだけ
くっ
後輪が微かに留め具に当たる感触だ
やっと所定の位置に止まりましたよ
バタンと
降りて
外の空気を吸ってみる
ふぅー、ふぅー、ふぅー
大きな買い物袋抱えたおかあさんを小走りで追っかける
風船片手の男の子の姿があるなあ
安心・安全そのもののだだっぴろいスーパーの駐車場に
薄黒い緊張に縛られたままの2つの体が
5月の風に吹かれて立ち尽くす
ぼくの体を包んだ
車の体
お疲れさま
車の体に包まれた
ぼくの体
お疲れさま
いつか2つを合体させられるように頑張るから
どうか今しばらく練習にお付き合いくださいね

 

 

 

海のウニに寄せて

 

辻 和人

 
 

『岩田宏詩集成』をようやく通読
面白かったなあ
労働者の悲哀を描いた「神田神保町」とか
ポーランドの歴史をテーマにした「ショパン」とか
印象に残る詩がいろいろあるんだけど
岩田宏さんと言ってすっと出てくるのは
やっぱり「いやな唄」
「いやな」というミもフタもないそっけない言い方が面白い
「あさ八時/ゆうべの夢が」とか
五七調のリズムが歯切れ良くて心地よい
でもって
「無理なむすめ むだな麦/こすい心と凍えた恋/四角なしきたり 海のウニ」
各連の末尾に置かれたフレーズが不思議感いっぱいで楽しい

さて
ここでちょっとひっかかる
「海のウニ」
どうしてここだけ手抜きなんだ?
「無理なむすめ むだな麦」 ちょっと思いつかない意外な組み合わせ
「こすい心と凍えた恋」 皮肉っぽい感じがマル
「四角なしきたり」 風習の堅苦しさが面白く表現されてる
しかるに
「海のウニ」
ウニが海辺に生息しているなんて当たり前でしょ?
他の言葉はひねりがあるってのにさ
更に更に
最終行を見よ
何とこの「海のウニ」だけが「!」つきでリフレイン
特別扱いされてるじゃないか

この詩はウニから見た人間の暮らしの戯画化なのか?
いいや、そんなことどこにも仄めかされてない
じゃなぜだろう
謎は深まるばかり
ページを見つめていると
鋭い針が刺さってくるようで
ブスッ
ブスッ
いやな気分になるな
おっと
「ご飯できたよー。」
ミヤミヤが呼んでる
本閉じて下におりなきゃ、だ

海のウニさん
海のウニさん
空のウニでも地のウニでもない
海のウニさん
この詩の中で君は
唯一、岩田さんから直に呼びかけられている存在なんだね
きっと岩田さんはここで君を救い出すことによって
いやな気分にいったんケリをつけたんだよ
「かずとーん、早く下りてきてーっ、ご飯できたって言ってるでしょーっ。」
はぁい
ぼくも呼びかけられてる
呼びかけられるって嬉しいね
特別扱いされるって嬉しいね
でもってこれ以上待たせたら
いやな気分が
ブスッブスッしちゃうね
海のウニさん
ぼくの頭の中に隠れておいで
一緒に一階に下りて夕食をとろうよ

 

 

*この作品は杉中昌樹氏主宰「詩の練習」の岩田宏特集号に掲載された詩を加筆修正したものです。

 

 

 

お掃除ロボがやって来た!

 

辻 和人

 
 

ちょぽちょぽ
水撒いて
首をフリッフリッ
前進して
フッキフッキ
いったん止まって
首をフリッフリッ
またスーッと前進して
ちょぽちょぽ

家にお掃除ロボがやって来た!
「クレジットカードのポイント溜まってたから思い切って交換してみたの。」
掃除機は毎週かけるけど拭き掃除まではちょっと億劫
それを問題視したミヤミヤが最新のテクノロジーに目をつけた
「説明書読んで使い方覚えておいてね。」
バッテリー入れて
紙パッドはめて
水さして
ボタン押して
「ラシドレミファ♪」
甲高いトーンで短音階を途中まで奏で
グリーンの光、瞬いた
ちょぽちょぽ
フッキフッキ
動いたぞ

こりゃあ便利
縦15センチ横15センチの角っこ丸い正方形
シンプル極まりない姿だけど
結構きれいになるもんだな
単純に直進しないで
フリッフリッ
頭を20度くらい傾けて
行きつ戻りつお掃除するのがミソ
ちゃあんと進むべき空間を認識してから動くんだ
掃除機との違いはここだな
人間に代わってこなす
「認識」っていうお仕事

あれれ、壁にぶつかった
立ち止まった
ちょっと考えて
キーッ
急旋回
進路を変えて
何事もなかったかのように
フッキフッキ
お見事お見事
止まって考える
そのちょっと困ったような姿がたまらない

お、そろそろぼくが座ってる机の近くだ
机を移動させるのはやめてどんな動きをするのか見てやろう
脚にぶつかったお掃除ロボ
しばし静止
「CLEAN」の文字がピカピカ点滅
うん、止まってるけど休んでるんじゃない
これ、「認識」っていうお仕事をしてますってポーズなんだ
キーッ
方向転換して
フッキフッキ
そのまま直進と思いきや
また戻ってくるぞ
脚の周りをぐるっと回って
もう1つの脚にぶつかった
しばし静止
「CLEAN」がピカピカ
どうやら障害物の位置と形状を把握したみたい
ちょぽちょぽ
水撒いて
フッキフッキ
それから壁まで行ってぶつかってまた戻ってきたりを
ジグザク繰り返し
机の下のスペースは
すっかりって程じゃないけどだいたいきれいになった
まどろっこしく見えるけど
決して休まない
この調子だとあと15分くらいで完了だな
ヤッホー
紅茶でも飲むか

お掃除ロボの何がすごいって
立ち止まって「CLEAN」をピカピカさせながら考えるトコ
迷うことができるってすごいね
試行錯誤できるってすごいね
廉価な君だから
高性能のお仲間たちみたいにはいかないかもしれないけど
この調子だとあと10年くらいで
史上最年少で6段に昇段した藤井聡太さんと将棋を指せるくらいになるかな
難しい局面では
「CLEAN」をピカピカさせながら長考だ
あーでもない
こーでもない
おっ、いい手思いついた
フリッフリッ
頭を20度くらい傾けて
香車を金の真ん前に打つ
うーんと藤井聡太6段が唸った時
あ、お湯沸いた

ティーバッグを引き出す
わぁ、いい香り
ひと口啜って
そうだ、お掃除ロボ
紅茶を味わう
そんなこともできるようになるかな
自分で味を「認識」するんだよ
渋みがある、フルーティー、ちょっとスパイシー
そんな分類するような判断じゃなくてね
「体の芯からほっとリラックスします。」
「コクがあって元気がモリモリ湧いてくるようです。」
お掃除ロボ自身が「じっくりと味わって認識」するんだ
つまりロボットが生産を担うだけでなく
消費も楽しむ
それこそ科学技術の進歩じゃないか

詩も書けるようになるかもよ
誰かが上手にプログラミングしたみたいな詩じゃなくてさ

今日はキッチン周りをお掃除
床を滑る私を迎えてくれたのは
小さな油の池、池、池
私のフッキフッキをぷかぷか潜り抜けていく
かずとん、かずとん
料理する時はもっと気をつけて

なんて
「自分の体験を顧みた認識」をする内容だったらいいなあ
お掃除ロボに詩で注意されるなんて
考えただけでゾクゾクする

でもって一緒に合評会できるかな
ぼくが書いた詩を読んで
感動の余り
ちょぽちょぽ
フリッフリッ
フッキフッキ
故障したわけでもないのに
「思わず」
床をお掃除しちゃったら
こりゃすごいよね
ロボットにおける「認識」の概念が広がるよなあ

ちょぽちょぽ
水撒いて
首をフリッフリッ
前進して
フッキフッキ
いったん止まって
困って
迷って
試行錯誤
そうさ
ぼくも
いまだ奮闘中のお掃除ロボに負けないように頑張るぞ
ミヤミヤに言いつけられたもう1つのミッションである
お洗濯
このシャツ、「乾燥する」モードかなあ、「乾燥しない」モードかなあ
「CLEAN」をピカピカさせながら
困って
迷って
取りかかるのさ

 

 

 

寒くなくなった

 

辻 和人

 
 

寒い寒い
ドア閉めて部屋に駆け込んで
つけたオイルヒーターを抱きかかえるみたいにして
ようやく落ち着いてきた

ふぅーっと息をいっぱい吸い込んで
はぁーっと一気に吐き出して
「寒くなくなったよ。」と言ってみる

ミヤミヤはいない
国分寺丸井に買い物に出かけてる

昨日抜きっぱなして片づけなかった使い古しの乾電池が2個
転がっているのが目について
しばらく意味もなく見つめていたけれど
すると、さっき呟いた「寒くなくなったよ。」という言葉が
2本の間をシュッと走り抜けて
痛いくらいに鮮やかな炎が
立ち上ったんだ

炎を見て
薄いススのような
寒い寒い

ささっ
部屋の隅っこに逃げてく

ミヤミヤはいない
買い物に出かけていて
午後6時戻り予定
何かおいしいもの買ってきてくれるかな
あと1時間もあるよ

でさ
ぼく、割合に落ち着いて
ふぅーっと息をいっぱい吸い込んで
はぁーっと一気に吐き出してから
乾電池2個を指でぐりぐりかわいがって
もう一度ゆっくり口にしてみたんだ
「寒くなくなったよ。」

 

 

 

のっぺり四角いものがだんだんと

 

辻 和人

 
 

のっぺり、のっぺり、のっぺり、したものが
四角く、四角く、四角く、
だん、だん、だん

降りている
伊勢原の実家近くの県営団地ですよ
ミヤミヤと年始の挨拶に行く途中
八幡様で今年の無事を祈願した後
のっぺり
現れた

ああ、これ
ぼくが小学生の時にできたんだよ
ぴっかぴかだったなあ
まあたらしいコンクリートの無臭がぷんぷんきてね
ほら、一軒家って何となく臭いがあるじゃん
そいつが全然なくってさ
スッ、スッ、スッ

段々畑みたいな坂をかっこよく降りてた
もう名前忘れちゃったけど
友達の1人がこの団地の4階に住んでたんだよ
階段の硬さがかっこいい
ちょっと息が切れるけど高いところまで昇るってもかっこいい
部屋の感じも四角くってかっこいい
胸にズキッとくる
四角の力だ
ぼくは新築の一軒家に住んでたんだけど
こんなところに住めたらなあ
高い窓からの眺めはいいなあ

それが何とまあ、今は
のっぺり、のっぺり、のっぺり
コンクリートって年を取るんだよね
四角は相変わらずだけど
線の縁がね
ボロ、ボロ、ボロ、ってくるんだ
名前忘れたあいつの家族、まだここに住んでんのかなあ
エレベーターないから部屋に辿り着くのも大変だ

実家への道を歩きながらミヤミヤに
「さっき通った団地、小さい頃は新しくてすごくかっこよかったんだよ。」って言ったら
「70年代頃に建てられたんだね。ウチの近くの団地もあんな感じじゃない。」
そういやそうだ
広くて緑の多い敷地に余裕たっぷりに配置された白くて四角い建物群
スーパーも郵便局も保育園も公園もある
若い夫婦が入居して
赤ちゃんの泣き声がいっぱいで
夕方になると「〇〇ちゃん、もうご飯よ。」なんて声がいっぱい
だったんだろうなあ
けど今は
のっぺり、のっぺり、のっぺり
杖をついて歩く人がいっぱい
残業を終えて10時頃通りがかると
しぃーん
灯りがついている部屋の方が少ない
「住居は福祉」という幟が立ってるから
もしかしたら建て替えの話が出てるのかもしれない

小さい時、テレビを見てて
怪獣が発した火の玉を受けてウルトラマンが勢いよく倒れこんだ先が
こんな団地だったなあ
四角く、四角く、四角く
くっそー
怒ったウルトラマンがL字型に腕を組んで光線を放つと
お見事! 怪獣は木っ端微塵だ
さて
幼いぼくがこの快感を得るために
スッ、スッ、スッ

四角く並んだ団地は絶対必要なものだったね
団地ってさ
豊かさの象徴、安定の象徴、新しい時代の象徴
かっこいいの象徴
そいつをぶち壊されたんじゃたまらない
ウルトラマン、頑張れーっ
やっつけろーっ

のっぺり、のっぺり、のっぺり、したものが
四角く、四角く、四角く、
だん、だん、だん

降りていっちゃった
実家が近くなるってことは団地が遠くなるってことだ
野菜畑の中の細い道を歩く
カラスがカーカー鳴いて、富士山がご機嫌な姿見せてる
ここからの光景、昔から全然変わんない
けど
まあ多分ぼくが気づかないだけだろう
スッ、スッ、スッ

のっぺり、のっぺり、のっぺり
になっていったように
カーカー&富士山、も
だん、だん、だん、と
変わっていってる
長い間独りだったぼくも
ミヤミヤという伴侶を見つけて
変わっていったさ
実家もいつまで実家でいられるかわかんないぞ
それでも着いたらみんなに新年の挨拶だぞ
おせちとお雑煮が楽しみだぞ
のっぺり、のっぺり、のっぺり、したものが
四角く、四角く、四角く、
だん、だん、だん、と
続いていくんだぞ

 

 

 

アジサイじゃないアジサイ

 

辻 和人

 
 

シュキッ
キュクッ
突き刺さってくる
っていうのかなあ
アジサイ
出勤前、玄関前の花壇の植物に水やろうとして
おおっ
6月には水色のかわいいのを咲かせてたのに
12月の今
黒の点々が入った尖った葉っぱと白くて太い茎が
シュキッ
突き
キュクッ
刺さってくるみたいだ
とても元気
茎も太いが根っこも太い
ホースを向けてみますよ
ほーら
うねうねした奴が土から浮き出て
迸る水をゴックゴク
吸い込むじゃありませんか
冬だけど食欲旺盛ですよ
ぼくは花の中でアジサイが一番好き
家建てて植える植物決める時ミヤミヤに言ったんだ
君の好きなようにしていいけどアジサイだけはどっかに植えてってね
願いを聞き入れてくれたミヤミヤ
ヤマアジサイが玄関前を飾ることになって
初夏には
もこっとした花弁の塊の周りを
ちっちゃい蝶々みたいな小さな花びらがぴっぴっと飛び交う
あの光景を楽しめるようになった
いいねえ
かわいいねえ
ちょんちょん撫でてやって
うん、水やり楽しいぜ
うん、出勤楽しいぜ
でもでも
夏が過ぎて秋になって12月がきて
花なんかとっくに散っても
どっこいアジサイはそこにいる
どころか
本性現したな
アジサイってこんなに図体デカかったんだ
茎こんなに太かったんだ
花じゃなくて木だったんだ
鋭い切っ先いっぱいこっちに向けて
目に
シュキッ
突き
キュクッ
刺さってくるぞ
やられた
まいりました
アジサイじゃないアジサイ
いいじゃないか
花を愛でるだけじゃもったいない
ふとーい茎を愛でて
黒の点々まじりの尖った葉っぱを愛でて
大食いうねうねーの根っこを愛でて
うん、水やり楽しいぜ
うん、出勤楽しいぜ
さて背広に着替えて
行ってきまーす

 

 

 

ナンセンスを生きる言葉

鈴木志郎康詩集『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』(書肆山田)を読んで その2

 

辻 和人

 
 

志郎康さんの詩には、意味不明な、ナンセンスな事柄をモチーフにしたものが数多くある。
あの有名な「プアプア詩」がそうであるし、1990年刊行の詩集『タセン(躱閃)』などは全編がナンセンスそのものと言っていい。比較的最近の詩では、『ペチャブル詩人』の「キャー」の詩が好例だろう。「キャーの演出」の冒頭部分は次のようなものである。

 

今、部屋の中にいて、
誰もいないのを見定めて、
思いっきり、
キャー、
と叫んでみる。

 

一人っきりの部屋でふざけてバカなまねをしてみるなどということは誰でも経験があるだろうが、この詩はそうした意味ない行為を真正面から取り上げている。しかし、この「意味ない」とはどういうことだろうか? 生活の役に立たず、仕事や学問という見地で価値がない、つまりざっくり言えば、生産性が認められないということだろう。では、「生産性」はどういう風に認められるのか、と言えば、それは他人との関係においてであろう。汚れた衣類を洗濯することは、他人から見て一般的な価値が認められる。衣類を身に着けることは社会性ということと密接な関係があり、どこの誰であろうと、きれいな身なりをする場合にはプラスの社会性が付与され、だらしない身なりの場合はマイナスの社会性が付与される。「プラス/マイナス」で判断できる社会性を、生産性があるとかないとか言い換えることができるだろう。では、「キャー」の場合はどうなのか? キャーと叫んだところで何が起こるわけでもない(せいぜい「猫がびっくり」するくらいだ)。生産性がないという言い方もできるだろうが、正確には生産性という概念と無縁の行為であると言えるだろう。この、生産性とは無縁の行為は、実は、生きる衝動というものと密接に結びついている。生きるということは時間の中に存在するということであり、時間の中で存在する限り、個体は待ったなしで行為し続けなければならない。待ったなしである限り、日常における無数の行為の大半は練られた思考の結果としてではなく、衝動的になされるしかない。「キャー」は、この生産性とは無縁な生きる衝動を、言語化し、可視化させる試みと言えるだろう。

 

詩集『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』には、生産性という概念では測れない、この生きる衝動を端的にテーマにした作品が幾つか収められている。表題作である「とがりんぼう、ウフフっちゃ。」の連作がその典型例である。

 

尖った
尖った
とがりんぼう、
ウフフ。
とがりんぼう、
ウフフっちゃ。
ウフフ。

 

とがりんぼうとは何か。それはわからない。「俺っちの、/禿げてきた/頭のてっぺんってか。」と自問しかけるが、即座に「違う、違う、/違うっちゃ。」と打ち消してしまう。尖ったという特徴を持つ「とがりんぼう」は、どうやら「春の気分」の中から生まれたものであるようだが、それが具体的にどんなものであるのか、生みの親である「俺っち」にもわからない。但し、「ウフフ」という擬態語からわかるように、意味が特定されないままふっと生まれてしまった「とがりんぼう」という存在に、「俺っち」は強い愛着を示している。

「続とがりんぼう、ウフフっちゃ。」は、「とがりんぼう」への更なる執着を描いた詩。

 

急げ、
急げ、
追いかけろ、
摑まえろ、
とがりんぼうを
摑まえろ。
それしかないっちゃ。

 

「夜明け前の/3時を回ったところ」で目が覚めてしまった「俺っち」は、何と「とがりんぼう」の捕獲について考え始める。

 

今や、
とがりんぼうは、
外に出たっちゃ。
ということは、
中に入ったってこっちゃ。
二本杖でも外歩きできない、
ベッドで横になってる
俺っちの
頭の中に、
入っちまったってこっちゃ。

 

奇妙に厳密な論理の展開がおかしい。「俺っち」は「とがりんぼう」が気まぐれな思いつきの産物であることを自覚しており、かつ、自身が不自由な態勢であることを自覚している。身体は不自由だが、脳髄の運動は自由闊達そのものであり、その闊達さをイメージ化させたものが「とがりんぼう」なのである。実体はなく、何かの事象の比喩でもなく、尖っていそうだというぼんやりした印象の他は視覚的な特徴さえ持たない。が、それでも言葉の世界の中では生き生きと存在している。そんな「とがりんぼう」を、ベッドから離れられない「俺っち」は、脳髄をぐいぐいと動かして夢中で追いかける。生産性とは無関係な、純粋に存在するものを愛でる悦びが、ここに横溢している。

「続続とがりんぼう、ウフフっちゃ。」では、「とがりんぼう」に執着することに対する考察が展開されている。高名な数学の教授が弟子たちに、学問に没頭しなければならないということを語った文章を新聞で読み、こんな風に呟く。

 

早速、俺っち、
この言葉をもらったっちゃ。
「朝起きた時にきょうも一日とがりんぼうをひっ捕らえて詩を書くぞと思っているようでは、ものにならない。とがりんぼうを尖らせ詩を考えながらいつの間にか眠り、目覚めた時にはすでに詩の世界に入っていなければならない」
ってね。

 

「俺っち」は教授に同意するかに見えるが、次の瞬間には態度を翻す。

 

ものにならない、
ものになる、
ものにならない、
ものになる。

ものになる数学って、
なんじゃい。

 

教授が口にした「ものにならない」という言葉を捕らえて、「俺っち」は鋭く反論する。

 

とがりんぼうを
摑まえて、
尖らせ、
ものになる
詩って、
なんじゃ。
人類の詩の歴史に傑作を残すってことかいなあああ。
ケッ、アホ臭。

 

とがりんぼうを摑まえる行為はその人の内発性によるからこそ輝くのであり、外部からの評価、つまり生産性という点から価値を認められても空しいだけなのだ。

 

俺っちが、
とがりんぼうの
尖った先で、
言葉を書くと、
その瞬間、
火花散って、
パッと燃え尽き、
灰になっちゃうってこっちゃ。

 

この部分は、志郎康さんのどの文章よりも、「極私」の意味の核心を端的に突いているのではないかと思う。「俺っち」の気まぐれな空想から生まれた頼りない「とがりんぼう」という存在は、ただただ尖らせたいという「俺っち」のなりふみかまわない意志によってのみ「火花」が散るのであり、その後「燃え尽き」「灰になっちゃう」ことはむしろ望むところであり、それによって、

 

そこに、
新しい時間が開くっちゃ。
嬉しいって、
素晴らしいって、
ウフフ、
ウフフっちゃ。

 

という、生きて意志することの深い悦びが生まれる。

私は、こうした発想が、鈴木志郎康という人の詩の心臓部を形作っているのではないかと思う。「ナンセンス」という事態が生じるのは、言葉にならないものが言葉にされ、意味をなさないところに意味が与えられた時である。通常の社会生活において意味を持たない何かが、誰かが意志をもって言葉でもって名指すことにより、突如として存在を与えられる。すると、生産性という点で何の価値も認められなくても、「ナンセンス」は存在としての確かな力を獲得することになる。存在するものは存在するというだけで意味があり、意志は意志するというだけで意味がある。逆に言えば、「ナンセンス」という概念は、生産性という要素を抜きにして、存在すること自体に意味を見出すことにより成立するものなのだと言える。そこには、その存在を強く希求する「人」がいる。「ナンセンス」は一見不条理に見えても、そこには何らかの条理を見出す「人」がいなければ成立しない。志郎康さんは、他の誰にも見えなかったある条理を、強い意志の力でぐいと可視化させる。通常見えないものを見えるようにするには多大なエネルギーがいる。わざわざ可視化させるということは、それがどんなに見慣れないグロテスクな姿であっても、受け止めてくれる「人」がきっといるだろうと期待する気持ちが作者にあるからだ。生産性という回路を通らずに、「人」から「人」へと意志が伝わる。このプロセスを希求する態度が「極私」なのではないだろうか。

浮かない心情を綴った「重い思い」の連作6編にもこうした態度が顔を出す。体が思うように動かないことからくる不安や、右傾化する世の中に対する不満が「重い思い」を生じさせるのだが、言葉はそうした「重さ」に反発するかのように軽やかだ。「その三」には「重い思いが、/俺っちの/心に/覆い被さってくる。」という呟きの後、突如として次のようなフレーズが挿入される。

 

ドラムカン
あれれ、
空のドラムカン。
空のドラムカンが横積みにうず高く積み上げられてる。
空のドラムカンが転がされてる。
ドラムカンが転がされてる。
あれれ。

 

ドラムカンは中に工業用の液体などを詰めて保管することで用をなすものであり、空の状態では何かの役にも立っていない。それなりの重量はあるが、形が円筒なので地面に置けばちょっと力を加えただけでごろごろ転がってしまう。体を自由に動かせない「俺っち」にも少し似ているかもしれない。「俺っち」は、そんなドラムカンと自身を重ね合わせいるのだかいないのだか、とにかく、ドラムカンが転がる光景を想像して束の間楽しむのである。この詩におけるドラムカンは、現実にあるものとして描かれるでもなく、何かの事象の比喩として描かれるでもない。生産的な観点では、「俺っち」とドラムカンの関係は実に微妙である。しかし、言葉によってイメージ化された途端、ドラムカンは強い存在感を漂わせるではないか。散文では説明尽くせない、「俺っち」とドラムカンの微妙な関係の条理が、詩の言葉によって明確に示されていると言えるだろう。

似たようなテーマの詩として「大男がガッツイ手にシャベルを持って」がある。「俺っち、/どうしていいか、/わからんちゃ。/いい加減な大きさの、/軽いボールだっちゃ。」で始まるこの作品では、「俺っち」自身がボールになって坂をコロコロ転がっている。そのうちに、

 

ガッツァ。
鉄のシャベルだっちゃ。
大男だっちゃ。
怒り肩の大男が現れたっちゃ。
大男はガッツイ手でシャベルを掴んで
地面に穴をけっぽじって、
ボールを埋めたっちゃ。
コロコロを、
忘れろっちゃ。

 

何とも不思議な展開の詩である。ボールになって坂を転がっていくうちに大男が現れて穴に埋められてしまう。この詩を試しに散文的に解釈すると、不自由な体のため他人との交流が少なくなってしまった人間が、無為な雑念に囚われる自分を諫める、ということにもなろうか。しかし、この詩から受ける印象は、今書いたような荒っぽい解釈から生まれるであろう印象とは全く異なるものである。第一に、「俺っち」は、無為な行為や思考をしているのではなく、ボールになってコロコロ転がっている。第二に、「どうしていいか、/わからんちゃ。」は、反省をしているのではなく、転がって埋められて、さあどうしましょう、ということである。空想上でのことであっても、具体的な行為、場所、相手が問題になるのであり、意味の生産性は問題にされていない。

「糞詰まりから脱却できて青空や」もナンセンスという観点で読むと極めて面白い。腰を痛めてしまった「俺っち」は、トイレに行くが、「腰が痛くて踏ん張れないから、/糞が出ないっちゃ。」という事態に陥る。そこで訪問看護師さんを呼んで大便を掻き出してもらうという壮絶な体験をすることになる。その様子が詳しく描写された後、

 

ようやくのことで、
詰まった糞が掻き出されたっちゃ。
ふっふう、ふうう、ふう。
気持ちが晴れたっちゃ。
腰はイテテでも、
青空や。
看護師さん、ありがとうっちゃ。
ありがとうっちゃ。

 

この壮絶な体験の後の「気持ちが晴れたっちゃ」という心の呟きが「青空」につながり、俳句のようなタイトルになるのである。この詩を読んで、「大変だったろうなあ、自分はこんな体験はしたくないなあ」と青ざめる人はまずいないだろう。大抵の人は壮絶な体験の後の「青空」の美しさが心に残り、ほっとした気持ちになるだろう。志郎康さんは延々と続く暗がりの果ての晴れやかな青のイメージを念頭に置きながら、大便を他人に掻き出してもらう過程を細密に書き進めている。過程が困難だからこそ、潜り抜けた後に出現する「青空」が眩しく感じられるのだ。「青空や」の「や」は、「気持ちが晴れる=青空」という比喩として単純で効率の良い回路を通じてではなく、俳句として「青空」の自律的な意味合いを味わってもらうために、わざわざ付け加えられたものなのであろう。

志郎康さんの詩には政治的・社会的な問題を扱ったものも多いが、そうしたものも「ナンセンス」という観点で読んでみると新しい発見があるように思う。前に触れた、オバマ元大統領の広島来訪に関する詩でも、来訪の意味を確定させた上で、確定された意味合いを詩の言葉で改めて表現するという手段を志郎康さんは取らない。来訪について、「俺っち」があれこれと考えつつある姿が、詩の言葉によって読者に手渡されるのである。

あることについての考えではなく、考えつつある姿、つまり話者の思考の身体性が、ダイレクトに手渡されるのだ。確定された意味が詩によって再現されるのでなく、意味が瞬時瞬時に生成されていく現場に、読者は立ち会わされる。作者の身体に根差したその現場は、「極私」と呼ぶしかないもので、意味が認められていなかった領域に独自の意味が立ち上がること、つまり「ナンセンス」という概念に裏打ちされている。但し、「ナンセンス」はしっかり可視化する工夫をしなければ他人には何だかわからないものになってしまう。そこで、志郎康さんは、前の稿で書いたような「近さ」を演出する方法を取り、作者の「ナンセンス」に読者を巻き込んでいくのである。志郎康さんの中でこうした考え方が尖鋭化されていったのは、SNSの経験を通じ、読者と、今までになかったような濃密な人間関係を構築したいという欲求が芽生えたからではないだろうか。詩を書くことは新たな人間関係を築いていくこと、『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』を読むと、そんな風に思えてくるのである。