女とランチにいった

 

さとう三千魚

 
 

朝までに
リュビモフのフォルテピアノを聴いてた

“k280 adagio” を

繰り返し
聴いた

志郎康さんの

“眉宇の半球”について

朝までに
書きあげた

志郎康さんは物の傍らにいるのだった

それから
女と

車で出かけていった
銀行で

通帳をひとつ解約した

10,000円
入ってた

15年ほどで
52円の金利がついていた

女と
ランチにいった

レストランには女たちがいて

男は
わたしだけだった

女たちの男たちはどこにいるのか

最後に
女と

杏のシャーベットを食べた
シャーベットは

紅かった

舌にのせた
あまい液体が

暗い喉を降りていった

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

鈴木志郎康 写真集「眉宇の半球」について

 

さとう三千魚

 
 

 
 

随分とそこにある。
何度か開いてみた。
何度も、開いてみてきた。

鈴木志郎康の写真集「眉宇の半球」を机の上に置いている。

志郎康さんの写真集「眉宇の半球」と、
志郎康さんの「徒歩新聞」合本と詩集「わたくしの幽霊」と「攻勢の姿勢」などなどは、わたしの机の上に置いてある。

志郎康さんと、
わたしが鈴木志郎康という詩人のことを馴れ馴れしく呼ぶのは志郎康さんはわたしの先生だと思っているからなのだ。しかし鈴木志郎康という詩人は「先生」と自身を呼ばれるのが嫌いなので、わたしは志郎康さんと呼ぶのだ。

わたしは志郎康さんから東中野にある新日本文学会の木造の建物の詩の教室で1979年頃に詩を教わったのだった。

その頃、
志郎康さんから「徒歩新聞」という冊子をいただいていた。
赤瀬川原平さんの絵が表紙にある小さな薄い冊子だった。
また、わたしが持っている志郎康さんの詩集「わたくしの幽霊」の扉には志郎康さんのサインがある。
はじめて志郎康さんの詩集を購入してサインを書いてもらったのではなかったろうか。

さとうみちお様
 一九八〇年七月九日
      鈴木志郎康

志郎康さんの写真集「眉宇の半球」が机の上に置いてある。
「眉宇の半球」は随分とわたしの机の上にありつづけた。

わたしは志郎康さんの「眉宇の半球」について書こうとしている。
このままこれらの志郎康さんの本はわたしの机の上で、わたし一人、開いて、見れれば良いではないかとも思ってしまうが、わたしは志郎康さんの本に出会い、開いて感じたことを書き留めようとしている。
志郎康さんに新しく出会い、志郎康さんを発見するためにわたしは言葉を書き留めようとしている。

写真集「眉宇の半球」は1995年12月1日に発行されている。
編集・発行者は津田基さん、発行所は株式会社モールと写真集の奥付に記されている。

1975年から1995年の間に魚眼レンズと呼ばれる180度の画角のレンズを使用しフィルムカメラで撮影されたモノクロの写真が纏められた写真集だ。
1975年から1995年というのは志郎康さんが40歳から60歳までの間、詩集「やわらかい闇の夢」を上梓した翌年から阪神・淡路大震災があった年までだ。志郎康さんの最初の妻の谷口悦子さんが1995年に亡くなっている。

表紙には志郎康さんの掌に包まれた八重桜の花の魚眼写真が使われている。
指が太いから志郎康さんの掌だとわかる。魚眼レンズの写真は円形に写され円の周りは黒くなるから写真部分が丸くトリミングされて表紙に配置されている。
巻末の写真メモには「1992年多摩美上野毛キャンパス。新入生ガイダンス合宿に出発する朝。」と記されている。
裏表紙には、これも志郎康さんの指だろう、紫陽花の花を太い指の手が摘もうとしている魚眼写真だ。
写真メモに「1993年自宅テラスで。」と記されている。

円周魚眼レンズの写真たちは世界が丸く切り取られている。
巻末にある志郎康さんの写真メモの一部を引用してみる。

「3 1995年8月文京区白鳥橋。」

「4 撮影年月不詳。日本橋浜町付近。幼い頃の記憶と結びつく。」

「5 1975年墨田区立花、中川の土手。1945年3月10日の戦災のとき、ここを母と祖母と逃げて走った。」

「9 1993年自宅付近。トンネルは何時も取りたくなる。」

「13 1975年亀戸天神で、麻理と草多1歳。」

「21 1975年頃、江東区木場で、麻理。」

「33 1992年8月江東区森下と白河に掛かる高橋。」

「42 1993年7月札幌市。」

「46 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

「47 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

「52 1990年広島市。」

「53 1991年8月霧ケ峰高原で、野々歩。」

「59 1992年5月阿賀野川河畔の津川で。川口晴美さん。「現代詩の会」グループ旅行。」

「62 年月場所不明。」

「79 1990年西多摩郡檜原村、払沢の滝。」

「88 1992年8月江東区白河の渡辺洋さん宅での家族像。気分のいい夕方。」

「94 1992年自宅仕事場で。自写像。」

「95 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」

「96 1993年頃、自宅仕事場で。」

「97 1993年頃、自宅仕事場で。」

「98 1989年7時間半に及ぶ映画『風の積分』のフィルムの一部分のコマ。」

「100 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」

「101 1995年8月 自宅仕事場での自写像。」

「102 年月場所不明。」

頁数と志郎康さんの写真メモだけでは、写真がないからイメージが浮かばないだろう。わたしには写真集「眉宇の半球」があり、そのページを開いて写真の景色を見ることができる。

「3 1995年8月文京区白鳥橋。」

白鳥橋は飯田橋から江戸川橋に向かった首都高5号池袋線が神田川に沿って左に大きく曲がるところだろう。
神田川に丸い橋脚が垂直に立ち、淀んだ川の上に首都高が覆い被さっている。
首都高は戦後、1959年に工事が着手され1964年東京オリンピック開催前にはかなりの部分が開通している。

地方の農民など労働者の都市への出稼ぎや移動を加速させ首都高は完成されていったのだろう。

「4 撮影年月不詳。日本橋浜町付近。幼い頃の記憶と結びつく。」

真ん中に電柱が真っ直ぐに天に伸びて空には電線が縦横に伸びていてその下の電柱の両脇に下町の木造日本家屋が犇めいて並んでいる。軒下には植木鉢が並んでいる。

「5 1975年墨田区立花、中川の土手。1945年3月10日の戦災のとき、ここを母と祖母と逃げて走った。」

1944年8月に山形の赤湯に学童疎開して栄養失調で脚気になり10月に東京の亀戸の家に戻り空襲にあったのだろう。3月の東京大空襲で焼け出されたという。写真には川に沿って土手が続き土手の向こうに日本家屋が低く連なっている。

「9 1993年自宅付近。トンネルは何時も取りたくなる。」

代々木上原のJRのガード下のトンネルか?
蒲鉾のようにトンネルがありトンネルの向こうに道路が二股に分かれていてその上の空が明るい。

「13 1975年亀戸天神で、麻理と草多1歳。」

若い麻理さんが草多さんを抱いて表情がやわらかい。草多さんが笑っている。

「21 1975年頃、江東区木場で、麻理。」

木造の商店か、「ちとせ」という看板が入口の上に掛かっている。その前に若い麻理さんが立っている。

「33 1992年8月江東区森下と白河に掛かる高橋。」

川の向こうに高層集合住宅が建っている。橋を男性が自転車で渡って行く。

「42 1993年7月札幌市。」

志郎康さんがホテルの部屋のベッドに服を着たまま横たわっている。
棚に置いたカメラでタイマーを使い撮ったのだろう。

「46 1990年8月新幹線車窓の眺め。」
「47 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

ひとつは車窓から真っ直ぐに伸びた川と土手が撮されている。
もうひとつは車窓から撮されたトンネルの手前の鉄骨構造物と電線などが流れ去っている。

「52 1990年広島市。」

柵の向こうに原爆ドームがしらじらと佇んでいる。人がいない。

「53 1991年8月霧ケ峰高原で、野々歩。」

少年の野々歩さんが草むらで笑っている。山々が見える。

「59 1992年5月阿賀野川河畔の津川で。川口晴美さん。「現代詩の会」グループ旅行。」

若い川口晴美さんが河畔の岩の上に腰を下ろして微笑んでいる。背景に川が流れている。

「62 年月場所不明。」
「102 年月場所不明。」

この二つの写真メモは「年月場所不明。」とだけ記されている。
写真メモの意味をなさない。
62頁の方の写真には背の高い野の花が繁茂していてその花々の向こうに農家の納屋のようなもが見える。
102頁の方の写真には枯れた葦原が風に薙ぎ倒されたような光景が画面の全面に広がり葦原の向こうに林が見えている。

どちらも写真の光景は円形に切り取られている。

志郎康さんはこの写真集に「魚眼映像は気持ちいい」というタイトルのエッセイを寄せている。

「魚眼の写真が気に入っている。単純に撮っていて面白い。中心を通る直線以外はすべて歪んでしまうというのも面白いが、対象との間に絶対的な距離が生じてくるというところがいい。たいてい写真というのは、撮る人の対象へのこだわりが出てくるわけで、そこが面白いとされるところなのだが、魚眼はそれとは逆に対象に対する無関心が出てくるところとなる。魚眼レンズで撮ると、誰が撮っても同じになる。そこがいい、と、それ以上に素敵だという気分になれる。わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。

以前、『極私的魚眼抜け』という魚眼映画を作ったが、その時は魚眼レンズが対象世界を「中心」と「周辺」に置きかえてしまうということに気がついたのだったが、今度は『風の積分』をやってみて、「空洞」を作れるということに気がついてワクワクさせられた。

・・・中略・・・

つまり、「わたしの作品」だなんていえない。対象はまるまる自然の変化なんだから、当たり前のことだ。それをどう映像にするかというところに、「わたし」があるといっても、カメラがオートで撮っているのだから、「わたし」が立ち会っていることもなく、不在は不在である。でも、わたしがやったんだから、やった主としている。わたしがやっていて、わたしがいない。これが最高に気持ちがいいっていうことだとわかった。」

と志郎康さんは書いている。

“魚眼レンズで撮ると、誰が撮っても同じになる。そこがいい、と、それ以上に素敵だという気分になれる。わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。”

ということなのだ。

“わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。”と書きながら、
しかし、魚眼レンズで志郎康さん自身を撮った写真が写真集の最後に続いている。

「94 1992年自宅仕事場で。自写像。」
「95 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」
「96 1993年頃、自宅仕事場で。」
「97 1993年頃、自宅仕事場で。」
「100 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」
「101 1995年8月 自宅仕事場での自写像。」

そこには志郎康さんが対象物のように素っ裸になって写し出されている。
にこりともしていない志郎康さんが写っている。

「街中を歩いても、テレビを見ても、言葉やらイメージやらが多くて非常に鬱陶しい。そういう関係に毒を盛って毒を制するような関係が、これらの写真と向かい合ったときに持てれば幸いである。」

そう、志郎康さんは写真集のあとがきに書いている。

この世界には人によって作られたイメージや言葉が溢れている。
それらのイメージや言葉は人を商品や貨幣や党派などに誘導するための効果が目指されたものだろう。
それらは人々を誘導するための嘘さえもを含んでいることだろう。

「そういう関係に毒を盛って毒を制するような関係」と志郎康さんは魚眼写真のことを言っている。

「毒を盛って毒を制するような関係」とは詩や写真で我を無にして新しい我に至るということだろう。それは”無我”ということだろうか?

“無我”とは世界との関係のことだろう。
志郎康さんはそのことを”極私”と言った。
志郎康さんの”極私”は詩や写真の働きによって自己を世界に開いて自由になるということだ。

その”極私”をわたしも生きてみたいと思っている。

 

 

 

工藤冬里のボックスCDを聴いてる

 

さとう三千魚

 
 

詩が
書けなかった

書けたのかもしれない

けど
昨日

書かなかった

昼前
仕事に

出かけていった

車で
出かけていった

最近
工藤冬里のボックスCDを聴いてる

“good man 1984-6″を

聴いている
わたしがいる

80年代の

なにも
できなかった

わたしがいた

90年代には
ススムヨコタを聴いた

そこに
もうひとり

いた

ススムヨコタの羽は千切れていた

虫に
なる

虫は

呼吸する
這ってゆく

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

ノラと 燕たちと

 

さとう三千魚

 
 

昨日
日曜日だった

午後に
モニターを通して

ユアンドアイの詩人たちと会った

詩を
持ち寄り

その詩について

感想を
交換した

自身の言葉が他者にどのように伝わるのか

わたしの呟きが
他者に

ほんとに伝わるものなのか

検証する

夕方には
モコと近所を歩いた

ノラが工場の倉庫のパレットに寝そべっていた

欝陶しそうに
こちらを睨んだ

言葉はない

ノラに
言葉はない

燕の夫婦が
幼稚園の玄関で

巣づくりに飛びまわっていた

泥や小枝を
嘴に咥えて

巣に戻りすぐに飛びたっていた

燕たちがチキチキと鳴いて空を飛ぶのを
見たことがある

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

あじさいの花

 

さとう三千魚

 
 


ゴミ出しにいった

近所のあじさいの
花の

咲きはじめて
いた

昨日
モコの誕生日だった

夕食の後で

女と
犬のモコと

ちいさなケーキを食べた

今朝
遠い伊草さんからモコ時計が届いた

西の山が青く佇っていた

女も
モコも
伊草さんも

あじさいの花も

青空の下に
いた

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

傍らで

 

さとう三千魚

 
 

日曜日には
海浜公園の横の

マリーナの隣りの突堤の
横で

つり人たちの傍らにいた

傍らで
猫たちは

魚が釣れるのを待っていた

たまに
小魚をもらえた

海は
ゆっくりと

たゆたってた

海は

空を
映していた

青かった

いないきみもそこにいた

きみも
青かった

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

ソクラテス

 

さとう三千魚

 
 

母の日に
女と

墓参に行った

モコも
車に乗せて

連れていった

それから
女は

エアロビに出かけていった

わたしは海浜公園に向かった

風が
強く吹いてた

波はテトラポッドで飛沫をあげていた

帰って
志郎康さんの“眉宇の半球”を開いた

魚眼レンズで撮られた写真集だ

空襲の時に逃げた中川の土手
亀戸天神の麻理さん
若い川口晴美さん
ホテルのベッドに横になる志郎康さん
書斎で裸の

志郎康さん
などの

魚眼写真と

最後に
年月場所不明の枯れた魚眼の葦原がひろがっていた

“街中を歩いていても、テレビを見ても、言葉やらイメージやらが多くて非常に鬱陶しい。そういう関係に毒を盛って毒を制するような関係が、これらの写真と向かい合った時に持てれば幸いである。”

そう
志郎康さんは

あとがきに書いている

夜には
わたし

サティの”ソクラテス”を聴いていた

第3部”ソクラテスの死”は
若い時からくりかえし聴いてきた

魂は
反復する

魂は毒杯をあおる

深夜に
モコが吠えた

居間のソファーでモコと眠った

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

柊の白い

 

さとう三千魚

 
 

どこにも行かなかった

今日は
憲法記念日

晴れていた

息を
吸ってた

息を吐いてた

“われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する” *

今日も

どこにも
いかなかった

庭の

柊の
枝の葉の

尖ってた

指に

刺さった

柊は
ひいらぎ

葉に
棘があり

英語で
hollyと綴られる

基督の
棘冠の葉

には

棘が
あり

花は白かった

ひいらぎの

白い

梢の下から

見上げていました

あまい香りがした
あまい香り

した

陽水が
歌っていたな

“夢で逢いましょう”って

歌って
いた


“夢で逢いましょう”
“夢で逢いましょう”

陽水が
歌っていた

 
 

* 日本国憲法前文より引用いたしました

 
 

・・・・・

日本国憲法 前文

日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。

われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う。

 

日本国憲法(1946年11月3日公布)

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/dl-constitution.htm

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

河口まで

 

さとう三千魚

 
 

日曜日
晴れていた


自転車で走った

河口まで
風につつまれて走って

いった

海は
光ってた

サーファーたちが河口に浮かんでいた

ノラたちが
草むらに寝そべっていた

もう
いいかな

もう
いいのかな

ここに

空はあり
海は

うねっていた

昼前
二階のベランダで洗濯物を干した

終わって
寝室に入ると

モコが
いた

いつも一階のソファーにいるモコが
もう階段を上る力のないモコが

二階の
寝室の床にいた

老いた
モコが

こちらを見ていた

モコ
モコ

なにを
言いにきたの

きみなにを失ってはなにを
抱いているの

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

あきれて物も言えない 23

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

処理水 海洋放出へ

 

毎月、19日は義母の月命日で墓参している。
女と車で霊園に向かい墓前に花を活け線香を立てる。

紫の煙が香る。

もう随分、たくさんのヒトたちを失った。
墓前では、もうちょっと待っていてね、もうすぐそっちに行くからね、と、祈る。

父も、母も、兄も、義兄も、義母も、友も、あのコも、詩人のあの人もあっちにいってしまった。

ともに生きた人たち、好きだった人たち、りっぱに生きていた人たちが骨になり煙となった。
しかし、わたしの中で彼らは生きていて、たまには会話する。

そして、今を生きている、遠い、家族たち、あのヒト、あの詩人、友たちの無事を祈っている。
ソファーで犬の首を撫でている。
もう、随分、釣りには行っていない。

小舟も売ってしまった。

 

さて、
2021年4月14日、新聞朝刊一面に「処理水 海洋放出へ」* の見出しを見た。

東京電力福島第一原発の処理水を海洋放出する処分方針を政府が決定したというのだ。
約一千基を超えるタンクに保管された原発汚染処理水、約125万トン、東京ドーム一杯分を海洋に放出するのだという。

確か、昨年の10月17日の朝日新聞の朝刊一面にも「処理水 海洋放出へ調整」と見出しがあった。
副題に「関係閣僚会議で月内にも決定」とあった。
それが、”月内”(2020年10月)には決定されずに、菅義偉総理が訪米しバイデン大統領と会談をする直前に決定された。
アメリカ大統領の承認を貰うためだろう。

海洋放出される原発汚染水は多核種除去装置(ALPS)で処理され、原発汚染物質はALPSで濾過され基準値以下まで下げられるが、ALPSで濾過できない放射性物質トリチウムは事故前の福島第一原発の放出の上限、年間22兆ベクレルを下回る水準にして30年以上をかけて放出するのだという。トリチウムの半減期は12.3年。トリチウムのベータ線は多様な海洋生物のDNAにダメージを与えるかもしれない。
海洋生物のDNAへのダメージは長い時間を掛けてわれわれやわれわれの子供たちに帰ってくるかもしれない。

処理水を海洋放出する前に、保管方法や処理方法の新たな開発、改善をこの国はできないのだろうか?

政府は「風評被害、適切に対応」* するという。
福島の漁民たちが震災、原発事故後に試験操業を開始し今年に終了させた10年の努力が無駄になるのだろうか。
海は世界に繋がっている。
大型の魚たちは世界の海を回遊している。
福島の漁民や日本各地の漁民、日本国民、近隣諸国や世界の人々はこの日本政府の決定に反発するだろう。

海に囲まれた島国の日本、
海の恵みを貰ってきたこの国の人々、
雨が、たくさん降り、雪もたくさん積もり、雨や雪は川となり、海に注ぐ日本という島国だ。
山々には豊かに樹木が繁り、雨が山々の養分を海に届けてきた。
何万年も続いた自然の豊かな循環なのだ。

戦後、原発は、政治家や官僚が作った「国策」によって、アメリカから移植されたものだろう。
わたしたちはTVで鉄腕アトムを観ながら育ったのだった。
安全なエネルギーと言われた原子力エネルギーがこれほどに日本国民を不幸にしてしまったことが残念でならない。
政治家と官僚に憤りをおぼえる。
敗戦後の政治の構図が、今、新たに明らかになっている。
原発も、防衛も、経済も、オリンピックも、コロナも、農民も、漁民も、サラリーマンも、人々は、この構図の中にあった。

魚は人と繋がっています。
魚たちはわたしたちと水で繋がっています。
魚たちはわたしたちの祖先であり、母であり父であり兄であり義兄であり義母であり友だちであり、わたしたち自身です。

トリチウムの半減期は12.3年だそうです。
どうか、海に、トリチウムを放出しないでください。
約一千基を超えるタンクに保管された原発汚染処理水のトリチウムは60年経てば半減を5回繰り返し現在の32分の1(3.125%)になるのです。

そこに小さな光が見えています。

 

この島国の日本から、この世界にとって取り返しのつかない事が起こりつつあるように思えます。
呆れてものも言えないが、言わないわけにはいかない。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 朝日新聞 2021年4月14日朝刊より引用しました。