”ぷ”は”ぷ”に”ぷ”と

 

一条美由紀

 

私は”ぷ”。絵を描く”ぷ”
”ぷ”は詩を書く”ぷ”に会った。
詩を書く”ぷ”の周りはいろんな”ぷ”がいる。
写真を撮る”ぷ”、映像を作る”ぷ”、歌を歌う”ぷ”
話す”ぷ”、歩く”ぷ”、犬のふりをしている”ぷ”
”ぷ”は”ぷ”が好き。”ぷ”は”ぷ”が作るものが好き。
共鳴し、増幅し、発酵する”ぷ”。

見える”ぷ”に潜む隠れた”ぷ”を見つけ出す。
”ぷ”の周りは”ぷ”でいっぱいになる

”ぷ””ぷ””ぷ””ぷ””ぷ””ぷ””ぷ””ぷ””ぷ””ぷ””ぷ”

ありがとう”ぷ”、幸せなのさ”ぷ”

 

 

 

ばってき

 

道 ケージ

 
 

君をバッテキすると言ったはいいが
バッテキの字が書けない
白板の前で佇むが
書かなきゃいいか
「おめでとう!」
声でごまかす

でもね
なぜバッテキが書けないのか?
この字はおそらく
生涯一度も書いたことはない

そんな字がある
一度も書かず
一度も読まれない字

そりゃあ、辞書は読むし
人の知らない言葉を探したり

なぜか
ばってきに
出会わなかったことが

妙に
うれしい

 

 

 

分離 *

 

絵を見た

絵を見て
帰ってきた

高速バスで帰った
由比の港の横を通ってきた

絵には
灰色の顔の男がいて **

スープをのんでた
ちいさな子どもの手をひいていた

子どもは
いつか灰色の男になる

男は
いまも

浮かんでいる
ポッカリと浮かんでいる

夏風邪をひいている

ポッカリと白い雲が浮かんでいる
ちいさな子どもの手をひいている

 

* 工藤冬里の詩「アルシーヴ」からの引用

**一条美由紀さんの個展で見た灰色の顔の男

 

 

 

平和の少女像

 

駿河昌樹

 

美は衆人の目を避ける。
うち捨てられ、忘れられた場所を求める。
そこでしか、その姿と、気品と、本質を再現する光に
出会えないことを知っているためだ。   エズラ・パウンド

 

題名も
作者名もなければ
よかったのに

思う

ものの見かたを限ってしまうような
一方向に導いてしまうような
紹介も
コンセプト解説も
なければ
よかったのに

たゞ
そこにある
置かれてある
それだけで
よかったのに

近寄って
もっとよく見てみようとしたり
遠ざかって見直そうとしてみたり
見に来たひとに
そうしてもらうだけで
よかったのに

そんなところから
その造形物のまわりに芽吹くかもしれないものが
芸術
ではなかったのか

ぼくはさびしむ

慰安婦像
などと
呼ばれてしまった像の顔は
むかし
むかし
東京の端っこの町で
まだ二歳や三歳ほどだったぼくと
着せ替えごっこやお手玉をしてよく遊んでくれた
近所のおねえちゃんたちの顔に
似ていた

むかし
むかし
といっても
もう戦争はとうに遠のいて
子どもが
たゞの子どもでいられるようになった
むかし

題名も
紹介も
解説もなければ
あの頃のおねえちゃんたちが
ちょっと疲れて
椅子に座っている姿に
ぼくには見える
その見えかたのおかげで
まだ二歳や三歳ほどだったぼくに
ひととき
ぼくは戻ることができ
厚紙の着せ替え人形を何体も並べていた
どこかのお家の畳のにおいや
小さい子にはちょっとこわく見えた
部屋の隅の薄暗がりや
お庭の生け垣や
立ち並ぶ柾木や菖蒲の葉や
舗装もしていない外の道の土のにおいまでが
いちどに蘇ってきて
あの像は
ずいぶん大事なぼくだけの世界への入り口になってくれる

どこの展覧会に行っても
美術館に行っても
題名も
説明も
いっさい見ないで
すぅっと
人影を避けて泳ぎ去る川魚のように
絵や
彫刻や
そのほかの造形物を
見て
流れていくのが
美術とかアートとか呼ばれるものとの
ぼくのつき合いかたに
いつのまにか
なったが
もとの淵に戻ってくる川魚のように
こころ惹かれたもののところには
また
ぼくは
すぅっと
戻ってくる
ひとつの絵や彫刻が
ぼくにとっての
ぼくにとってだけの
芸術に
なっていくのは
そんな回遊がくり返されたのちのこと

広告会社や
イメージ戦略ばかり考える
腹黒い大企業や
軽佻浮薄な表舞台で名利を得ようと必死の
ゲージュツカさんたちや
アーティストさんたちや
美術史家さんやキュレーターさんが醸し出す
あの
風俗業界の雰囲気によく似た
べったり感や
よどみや
ウルサさは
♪バーニラ、バニラ、バーニラ……*
と大音響を立てながら
少女たちを
現代生活という戦場の慰安所へ勧誘していくものの雰囲気に
ずいぶん似ている
そんな雰囲気のなかに棲みこんで
金と名を掻き集める者たちの
これっぽっちの控えめさも自己反省もない
居直り切った
押し売りそのもののプレゼン攻めに
(やめてくれ…
(頼むから…

うっかり
ぼくは
祈るような気持ちに
なってしまう

題名も
紹介も
解説もなければ
よかったのに……

見かたを
強いられることがなければ
よかったのに……

そういうのが
芸術
ではなかったのか

さびしむ……

まだ二歳や三歳ほどだったぼくと
着せ替えごっこやお手玉をしてよく遊んでくれた
近所のおねえちゃんたちの顔に
似て見えるとき
あの像は
ぼくのなかで
ほんとうに
平和の少女像となる

ぼくも近所のおねえちゃんたちも
むかし
むかし
東京の端っこの町で
人類史上めずらしいほどの
小さな平和にすっかり包まれて生きた!
そう生きることができた!
こう思うとき
あのおねえちゃんたちと同じ顔をしながら
そう生きることができなかった
べつの時代のおねえちゃんたちがいた!
という思いの流れの先に
時代や個人的経験に限界づけられたぼくひとりの目と違う
もっと大きな目が
きっと
開眼していく

なにも
見落さない
なにも
見逃さない
目……

 

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アルシーヴ

 

工藤冬里

 
 

‪分離はほんらい‬
ひとつだったものの記憶だ
剥がそうとすればするほど
上へ上へと逃げる

父も母も系譜もなく
いつ生まれていつ死んだかも分からない男に永遠は属する

歯が無いので呂律が回らない
呂と律で楽となるが
楽の音は廃され
契約は新しいものに取って代わられた
あらゆる通知がそれを知らせる
その度に携帯は震え
避難訓練だと教える

洗濯機の渦の中に愛情を流し込む
夕日のパノラマの中
車は赤より赤くモノクロームを走る
オタマジャクシの呂律はデジタルなマーカーで蛙の項を囲い
バターナッツかぼちゃのラインの分かり易い契約を知らせる
揺れる謡の展示の延命

痺れるような柔和さと燦めくような分かり易さで諸体制の延命を図る頭脳らの世俗性を俺は拒否する
体制に延命など要らぬ
今滅びろ

体がない!
きっと病気になる
欠落と妄想を上に分離して
完全にアルシーヴの時代となった
glory,kept open
未来はなく過去を変えることでしか今の栄光はない

タイヤは換え此方側familyの善意で手帳は見つかったが体がないので生贄としての財布を失くす。それは愛の定義の暴露に依るものだから隙とかじゃなく防ぎようがない。此方側の認知の問題ではなく彼方側の悪意の問題なのだ。非道く攻撃され灰は糸の血を咥え てれん とした朝だこと
止揚を相殺と訳すノヴァーリス、偶然と悪霊が殺し合うのか

更に蜂に刺される
溝があるのに気付かず大腿骨を強かに打撲する
パスポートも失くしたことに気付き

 

 

 

「あのそこ」

 

小関千恵

 
 

塀から放たれ
空は反転した

彩度は急激に落ちて
ご近所は裸足でしか歩けなくなった

人のもの 人肌
自分と人を隔てる境は見えなくなった

外の塀が無くなったとき 同時に
こころの中の箱も消えてしまっていたこと
‘わたしのものごと’ を 容れるばしょが無くなっていたこと

それに気がつくまでに
30年近くかかったこと

0からはじまり
肉体から紡ぎ直していた器は
動脈や静脈、内臓
あらゆる管が絡まって
今はこの身体にたぶん良いように合わせてある

酷い人にもやさしい人にも出会った
だから とにかく編む一目は尊きもので
そのあとのわたしに
わたしはわたしの器に
この容れ物に
注がれていくものは流れていくものと捉えながら
詰りながら 確かめている

 
彩度の落ちた景観の中でも
魂は 夏の銀杏の樹の下へ 自然と集うことができた
はずなのに
萌えるあの大きな銀杏の下での
再会は
密会として告発されて
わたしはそれを知ったとき
大人にならないことを誓った

あの銀杏の淋しい黄色がいつか美しく見えるようにと

本当の話を聞いてくれる人に出会えるようにと

反転した空にぶらさがった風船を
逆さまに見ていたずっと

それを取ろうとする手を
三和土の底からわざと見過ごしていたのは
愛を知り始めたころの
歯痒さからの仕業

いまここの詩がまだ書けないよ

それが全て誰だって

なのかどうかも

いつだって
いまここの
あのそこ と

いまここ

 

2019秋

 
 

 

 

 

西壁の植物

 

芦田みゆき

 
 

 

草の記憶による再生は、私の接触によっても消えることはなかった。私は草をいっぱい抱えこんで向こう岸へむかう。草は匂いを放つことなく、一様にうなだれている。一歩、踏みだした私の足くびを冷たいものが掴まえる。私は振りかえる。何もみえない。瞬きをする。何もみえない。正確にいうと、私の掴まれた足くびの接触部分を除いて、全てが消えた。私ははじめから草など抱いてはいない。そもそも、私自身、発生していない。一面に草が茂っている。その上を靄が立ちこめている。

 

『ミドリとハエの憂鬱(メランコリア)』/思潮社2002年より

 

 

 

家族の肖像~親子の対話その41

 

佐々木 眞

 
 

 

はてしないって、なに?
どんどんどんどんどんどん、よ。

チキショウって、いっちゃダメでしょう?
ダメだよ。

お母さん、お気に入りってなに?
すごく気にいっていることよ。

とぐは、お米でしょ?
そうだね。

アザミにトゲあるよね?
あるね。
トゲ、痛いよね。
痛いね。

お母さん、従うって、なに?
いうことを、きくことよ。

お母さん、こんど平成なくなるの?
そうよ、5月から令和になるのよ。
「さよなら平成」、ぼく、いいましたよ。

ぼく「おしん」面白かったよ。
そう。良かったね。
また見ますよ。
見てね。

110番て、なに?
警察の電話番号よ。

お母さん、こんど令和でしょ?
そうよ。
ぼく、令和、好きですお。
そう。
レイワ、レイワ、レイワ。

お父さん、草むしりしないと、ダメでしょう?
そうだね。草ぼうぼうになっちゃうからね。
草むしり、草むしり。ネ、ネ。

お父さん、家族の英語は?
ファミリーだよ。
カゾク、カゾク、カゾク。

お母さん、しりとりしよ。むさしこすぎ。
ぎ、ぎ、ぎ、ぎぼし。

お父さん、勝手なこといっちゃだめでしょう?
そうだね。

お母さん、ぼくはマツダ先生好きだよ。
お母さんも。

お父さん、ゴロゴロは雷でしょ?
そうだね。
ゴロゴロゴロゴロ。

永遠なれ!って、なに?
いつまでも、よ。

お母さん、蓮は水を張って、でしょ?
そうね、水盤にお水を入れるのよ。

大半て、なに?
ほとんど、のことよ。

フホウは、亡くなったときでしょ?
そうよ。
ナカノ君、亡くなった?
そうよ。
フホウ、フホウ、フホウ。

お父さん、気絶するって、なに?
気を失うことだよ。コウ君、気絶したことあるの?
ありませんよ。キゼツ、キゼツ、キゼツ。

笑いごとじゃない、って言われたよ。
誰に?
鎌養の先生に。

ゴキゴキって、なに?
コウ君、ゴキゴキすることないの?
ないよ

一晩中って、なに?
夜の間ずううっと。

お母さん、担うって、なに?
それをおんぶすることよ。

お母さん、ぼく明日もセイユーへ行きますよ。
はい、分かりました。

綾瀬は長後からバスでしょ?
そうなの?
そうだお。

ぼく「ブタブタ君のお買いもの」好きですお。
そう。おかあさんも。

マリちゃん「任侠ヘルパー」見た?
見たでしょう。

受け止めるって、なに?
そのまま認めることよ。
蓮佛さん、「受け止めてね」っていったお。
そうだね。

蓮佛さん、なんで「よろしくお願いします」っていったの?
お母さんのことを頼んだのよ。
ぼく、蓮佛さんの声、好きだよ。
お母さんもよ。

お父さん、カミキリュウノスケ、「いだてん」でどういう役をやってるの?
分かりません。お母さんに聞いたら?
お母さん、カミキリュウノスケ、「いだてん」でどういう役をやってるの?
落語家よ。
「いだてん」、「せごどん」の次だよね?
そうよ。

お母さん、やりにくいって、なに?
やるのがむずかしいことよ。

お母さん、事故防止って、なに?
事故が起こらないようにすることよ。

お父さん、「気持ち悪い」の英語は?
I feel sickかな。コウ君、気持ち悪いの?
悪くないお。

「わたし、オカジマ先生ですよ。」
こんにちは、オカジマ先生
ぼく、オカジマ先生すきですお。

お父さん、椅子の英語は?
チエアだよ。

お父さん、少ないの英語は?
リトルとかスモールとかフユウとかかな。

お母さん、いわゆるって、なに?
よくいわれている、よ。

お父さん、カワシマさん、六地蔵に住んでたの?
そうだよ。

毎度、いつも、でしょ?
そうよ。

お母さん、おもしろいって、なに?
そうですねえ、コウ君、おもしろいって、なんですか?
おもしろい、ですよ。
コウ君、人生おもしろいですか?
おもしろいですお。

お父さん、デリケートって、なに?
超微妙なことだよ。

お母さん、ぼく令和好きですお。
そう。お母さんは、昭和が好きでしたよ。
レイワ、レイワ、レイワ。

リョウちゃんがねえ、「コウ君が嫌がってるよ」と言ってくれたお。
そうなんだ。よかったね。

サッチャン、ずうーと笑ってたんですお。
そうなの。

お母さん、アイラブユーって、愛してますのこと?
そうよ。
アイラブユー、アイラブユー、アイラブユー。

症状って、なに?
お腹がいたいとか、体の状態よ。

 

 

 

『令和1年8月6日 広島』

 

みわ はるか

 
 

8月6日、早朝、わたしは始発の新幹線に眠い目をこすりながら1人飛び乗った。
広島まで自宅からおよそ4時間ほどかかる。
その日は朝からあいにくの雨だった。
濡れた折り畳み傘が隣の人に当たらないように細心の注意をはらってくるくると小さく元の形に戻した。
新幹線の中はよく冷房が効いていた。
リュックからごそごそと持って行こうかぎりぎりまで迷った淡い水色のカーディガンを取り出した。
着てみるとちょうどいいくらいの体温になり、心底持ってきてよかったと感じた。
本当は礼服で行くつもりだったが、雨のこともあり白い控えめなワンピースにした。
窓から見えるあっという間に過ぎ行く景色を見ながら感慨深い気持ちになった。
ずっとずっと行きたかった。
22歳の春に初めて原爆資料館に入館し衝撃を受けたあの時から。
テレビのニュースで灯篭流しの様子を食い入る様に見つめたあの時から。
それが今年やっと叶った。

多くの人がご存じのとおり毎年8月6日、広島では原爆に対する慰霊祭と夜には灯篭流しの行事が催されている。
今年は朝に少し強めの雨が降ったものの、その後は夏らしい入道雲がもくもくと出現し夜まで晴れていた。
時間の都合もあり慰霊祭を見ることはできなかったが、10時くらいに到着するとあふれんばかりの人で埋め尽くされていた。
夏休みということもあり子供から大人まで様々な年齢層の人がいた。
そして、ツアーが組まれているであろう団体や、外国人の数の多さにも圧倒された。
今回の行事のスタッフと思われる首から名札をぶらさげた人も多く見た。
年配の人も多かったけれど、若いおそらく高校生や大学生、社会人の人も多数いた。
なんだかそれにほっとした。
原爆を経験した人が高齢化する中でそれを継承しようとする若者に頭が下がる思いになった。
みんな一生懸命に身振り手振りを交えて説明していた。
わたしもさらっとその団体の最後尾について耳を傾けた。
額から汗を流しながら語る人たちからは今日という日がどれだけ大切な日なのかが伝わってきた。
こんなにも澄み渡った青空の真上から一瞬にして何もかもを吹き飛ばしてしまう鉄の塊が落ちてきたなんてにわかに信じられなかった。
でもそれは今や世界中の人達が知る真実なんだとも思った。

小学校4年生の時、担任の音楽を得意とする女の先生から「はだしのげん」という本を薦められた。
漫画はほとんど読まない性分だったため初めはためらっていたけれど、ぜひという強い一言でとりあえず1巻を手に取った。
それからは早かった。
どんどんその魅力に吸い込まれていって、当時15巻位まであっただろうか。
3日程ですべて読み切った。
そしてそれを間をおいて3回程繰り返し読んだ。
日本にこんな時代があったことに衝撃を受けた。
一瞬でいなくなってしまった家族や友人、吹き飛んでしまった家や学校、皮膚がただれ水を求める人々、タンパク源にイナゴを食べる日々。
その本には戦時中のむごさはもちろん、戦後にどうにかこうにか生き延びた苦悩も描かれている。
あの時、あの本に出会わなければわたしはきっとこんなにも戦争や原爆のことを気にもとめなかったかもしれない。
広島にある原爆資料館でも同じ衝撃を受けた。
本からある程度は想像していたけれど、いざ視覚的に当時の物や写真を見るとぐっと胸にくるものがあった。
8時15分で止まったままの理髪店の皿時計、ボロボロにちぎれた子供の服、眼球が突出したまま歩いている人の写真。
目をそむけたくなるようなものばかりだった。
今年リニューアルされたばかりだという資料館はいかにその当時を再現するかに力を入れたものだったような気がする。
館内にいる人々の顔は驚きや悲しみに思わず眉間にしわをよせてしまうようだった。
資料館を出たときの太陽は驚くほどまぶしかった。

夜、18時から灯篭流しが始まった。
わたしも折り紙のような鮮やかな赤色の和紙を購入しメッセージを書き込んだ。
川に灯篭を流すための長い行列ができていた。
みんな思い思いに色んな色の和紙に様々な言語で文章を書いていた。
最後尾に並んで数十分後、川岸にたどり着いた。
スタッフの人があらかじめ灯篭用に用意してくれていた木でできた囲いにきれいに和紙を張り付けてくれた。
その中にはろうそくが1本たっていてそっと火を灯してくれた。
消えないようにそろそろった川の側まで歩き、ゆっくりと灯篭を流した。
慌ててリュックの中から数珠を取り出して両手を合わせた。
流れが穏やかだったためわたしの灯篭はゆっくりゆくり川下へ流れて行った。
それはとても幻想的でいつまでも見ていたくなるような光景だった。
それからは川岸の階段に座って全体の光景を眺めていた。
夜もふけてくるとさらに美しくなった。
川岸や橋は人でいっぱいでみんなが穏やかな顔をしていた。
たまたまわたしの隣に1人で日本全国を旅行中の60歳のカナダ人のおじさんが腰を下ろした。
カナダでは歴史学の教授をしており、奥さんとはずいぶん前に別れて子供と孫がそれぞれ4人ずついると教えてくれた。
カナダでは離婚率が高いらしい。
そして、こうわたしに柔和な表情で話しかけてくれた。
「北海道から東京、京都、大阪、広島と旅してきた。どこもよかったけれどまさに今この瞬間が最も心に残る。
そして、こうやってあなたと会話できたことも。」
「美しい、本当にこの光景は美しい。」
ずっとそうつぶやいてカメラのシャッターを切り続けていた。
5週間の内残り2日間となった日本滞在。
満足そうな笑みを浮かべて宿泊先だというゲストハウスのある方向へ帰って行った。
去り際わたしにこんな言葉を残して。
「あなたはこんなにも外国人がいることに驚いていると言ったけれど僕はそうは思わない。
ネットやテレビ、ラジオ、雑誌、様々な媒体で報道されている。世界中のみんなが知っている。
逆に今日ここに日本人が少ないことが悲しい。」

8月7日、チェックアウトぎりぎりまで眠っていた。
灯篭流しの帰りにふらっと寄った少し小汚い居酒屋で見た野球中継を思い出しながらベッドから起き上がった。
広島だけあってもちろん広島カープの試合が流れていた。
しかし、その試合の前だろうか、後だろうか、監督をはじめ選手がみんな灯篭を持って黙祷をしていた。
まさにわたしが流した灯篭と同じものだった。
何の銘柄を頼んだかは忘れてしまったけれど、その時の日本酒の味はものすごくおいしかった。

宿泊していたホテルをチェックアウトしたあと最寄りの駅には寄らずもう一度原爆ドームへ足を運んだ。
どうしても見たかったものがあったからだ。
その日は昨日に増して日差しがじりじりと照り付けていて帽子をぐっと深くかぶった。
数十分キャリーケースをゴロゴロと転がして原爆ドーム前の灯篭流しの川に到着した。
見事だった。
あれだけの灯篭が川に流れ、ろうそくの火で燃えたもの、そのまま岸辺にたどり着いたものいろんな形で残っていただろう。
川岸の階段や橋にはギュウギュウ詰めに人がいた。
食べたり飲んだりしている人もいた。
あの暑さだ、ほとんどの人が手や鞄にペットボトルをもっていた。
だけれども、川にも道にも箸にも塵1つ残っていなかった。
首から名札を下げていたあのスタッフの方々が夜遅くまで残って掃除した姿は容易に想像がつく。
日本の美徳だと思った。
昨日のカナダ人のおじさんが途中でぼそっと「この大量の灯篭はどうするのだろうか。」と言っていたけれど、
ぜひ今日この光景を見てほしかった。
彼は何と言っただろうか。
きっと赤く日に焼けた顔でにこっと笑ってくれたのではないだろうか。

また来年も来よう。きっと来よう。
蝉の大合唱の中、生暖かい風がふわっとわたしの首筋を通過した。