佐々木 眞
どうにかこうにか
あなたたちの涙は
とつぜん
冬の水位として移動する
続く血脈をたどり
伝えよ、と
頭蓋に滴るので
悲しみが込みあげてしまうのだ
寒いでしょう…冷たいでしょう…
結露する窓枠
見る見えない津久井の山々
青く霞む稜線が
疾うに失われた地名へとみちびく
津久井町中野 字不津倉(あざふづくら)
湖底の墓地に今もまだ横たわる
置き去りにされなければならなかった
あなたたちのことを
伝えよ、と
冬の水位
滴るので
窓は ここで
永遠に結露する
※初出神奈川新聞の原稿を改稿
※連作「不津倉(ふづくら)シリーズ」より
蝸牛線を
竹箸で辿る
伊羅保肌
紫陽花の皿
ぬばたまの羊羹を
切る
抵抗受け止める
栗
この緩やかな切線
刃文曇り
長考の末
二切れ
楊枝にて
軟弱の一突き
嚥下数は素数
赤い円道を蠕動
息を数え
欲を落とし
無に
うろたえる
わたしは、わたしの胃のなかにいるちいさな子と
ちろりちろりと会話をして
川沿いの道を、ひたすら登っていった。
それらは、知らぬ顔で、わたしを憎んでいた。
わたしは、脚を前へ前へ動かしていた。
歩みと言うのだろう。
朝は、毎朝のように、死にたい。
首を括って、無くなりたい。
わたしはもう、燃えている。
赤い肉は、焦げていき
胃の中の子を、道の面に投げだす。
貌を落として、わたしの貌と子が、遊んでいる。
光は、天に昇っていく。
光は、笑っている。
わたしを、笑ってはくれない。
薄く削がれた愛が、七輪の上の
金属の網であぶられている。
一抹の、生もまた、光に焼かれ笑われて
わたしの物体は、どこかから、大声で叫んでいる
さよならに、呼び返している。
わたしの身など、誰かにあげる。
微粒の生も、生きたいか。
泥水の中にいる、粒粒の遺恨も
臓の恋人も。
わたしの、微粒子。
やがて不要になる胃液。
胃の中の子。
陽は昇れ
海に沈め
ギャグを言え。
サバイブの微光に。
汚れてしまっているひとは
ひとのすがたになってしまっているので
すぐにわかる
たいへんだ
たいへんだ
あれほど
ひとのすがたになってしまったら
たいへんだ
なかなか
もとには戻りきれない
「廃止」は、やめることでしょう?
そうだよ。
サカイさんは、「やめてください」っていったお。
そうなんだ
カズタケさん亡くなって、オトゾオさん泣いた?
泣いたでしょう。
お父さん、サッちゃん恐くない?
恐くないよ。優しいよ。
そお。
ヒロシさん、おじさん?
そう、おじさんだよ。
お母さん、ぼく、ルパン好きだよ。
ああそうなの。
ルパン、ルパン。
お母さん、分かりゃしない、てなに?
分からないだろう、ってことよ。
お母さん、人殺し、イヤですよねえ。
いやですねえ。
落語ってなに?
面白いお話よ。
ぼく、落語すきですお。
そうなんだ。
フクザツってなに?
いろいろむずかしいことよ。
フクザツ、フクザツ。
お母さん、この桃色の花、なに?
カーネーションよ。
ぼく、カーネーション好きですお。
被害のヒは、コロモ偏に皮でしょう?
そうだね。
証言の証は、ごんべんに正しいだね?
そうだね。
被告人ってなに?
悪い人じゃないかと思われてる人のことよ。
ひらめくってなに?
思いつくこと。こうしよう、っと。
じつは、って、なに?
本当のところは、よ。
バイキンって、なに?
悪い病気の元だよ。耕君、バイキン手に入って痛かったでしょ?
痛かったお。
ぼく、平成5年に歯石取ったよ。
どこで?
聖ヨセフ病院で。横須賀の。
25年前じゃないの。よく覚えてるね。
そうだよ。
お母さん、ぼく、お仕事徹底的にやりますよ。
すごい!
お母さん、ぼく、ウラジロ好きです。
そうですか。
ウラジロ、ウラジロ。
お母さん、ぼく、ヤブコウジ好きですよ。
お母さんも好きよ。
ヤブコウジ、どこにあるの?
あとで教えてあげる。赤い実がなるのよ。
「みゆきちゃん!」と呼ばれた気がして振り返ると、夜の道路の向こう側の、更に工事現場の向こう側から、腰の曲がったおじいちゃんが一生懸命呼んでいる。カメラを撮るジェスチャーをし、ぐるっと回っておいで!という仕草をする。どうしようかと迷ったのだけど、気になり、ぐるっと回って会いに行った。おじいちゃんは嬉しそうに何か喋っているが、何を言っているのか、所々しかわからない。「ホームレスみたいなもんだ」と言っているが、臭わないし、髪も髭も整っていて、綺麗な歯をしている。〈区役所の人〉とか、〈御苑〉とか、〈木〉とか、〈倒れた〉とか〈倒れない〉とか、〈仕事が出来ると追い出される〉とか。とにかく体じゅうで何かを伝えている。写真を撮ろうとすると、ちょっと構える。そしてまた話し出す。「ねぇちゃん」と呼ばれて、あぁ、みゆきちゃんではなく、ねぇちゃんだったんだ、とわかった。 私はここにあった、柵に囲まれた植物に会いに来た。それらはひとつもなくなっていた。代わりにおじいちゃんがいた。私はそのことを伝えた。 夜遅いからもう帰るよ、と手を振ると、無理に追う様子もなく、「名前はタナカ」と名乗った。私はみゆきと名乗った。どこの生まれ?と聞くと、「秋田」と答えた。風邪引かないでね、バイバイ!と手を振ると、おじいちゃんは磁石で止められているみたいに、その場から動かず、ずっと私を見ていた。バイバイ!おじいちゃん!
大通りに出ると、突然涙が溢れてきた。もういない父を思い出した。性格も見かけも全然違うけれど、仲が良かった頃の父と、にくんでいた頃の父がダブり、ゆらゆらと浮かんでは消えていった。