ふたつの流れ

 

木村和史

 

 

わたしが働いている、小規模福祉作業所の目の前を、小さなどぶ川が流れている。どぶ川は、背の低い木造の借家や古い民家にはさまれた細い路地に寄り添うように流れていて、路地が曲がるとどぶ川も一緒に曲がり、路地が交差するところでは地下にもぐったりして、しだいに枝分かれしながら、街なかのどこかへ消えて行く。

真夏には、生活排水が流れるだけの干からびた下水のようになり、季節によっては水量が増えて、渓流のようにきれいな水が流れていることもある。台風や大雨が降った後などには、どこから迷い込んでくるのか、川魚や金魚が泳いでいることもある。けれども魚たちは、そこが居心地のよくない場所であることをすぐに察知するのか、翌日か翌々日にはたいてい姿を消してしまう。

そんなどぶ川にたくさんのザリガニが棲んでいることに、最初わたしは気がつかなかった。

月曜から金曜まで作業所に泊まり込み、週末には電車で東京の家族のところへ帰って行くという単身赴任生活をわたしが始めたのは春先のまだ肌寒い季節で、どぶ川にはうっすらと濁った、膝が隠れるくらいの、冷たそうな水が流れていた。その流れがどこからやって来てどこへ行こうとしているのか、わたしにはまったく関心がなかった。魚や蛙などの生きものがそこに棲んでいるかも知れない、と考えたこともなかった。作業所の代表をしている友人に頼まれて生まれて初めてすることになった、慣れない仕事のことで頭がいっぱいだったのだ。

ザリガニを発見したのは、作業所で働き始めて二週間か三週間か、あるいはそれ以上経ってからだったと思う。

わたしの朝一番の仕事は、作業所にみんながやってくる前に玄関の外にテーブルを持ち出して、皿や茶碗などのバザー用品を並べることだった。近所の見知った人たち以外、その路地を通ることはめったになかったが、それでもときどき食器類が売れることがあるのだった。

茶碗を並べ終えてから、路地の真ん中へ歩いていって、みんなの足音に耳を澄ましながら、ぼんやりとどぶ川を覗いてみることがあった。丸石を積み上げてつくった昔からの水路に、後になってコンクリートを吹き付けて補強したらしい側壁の、ひび割れた隙間から枯草が垂れ下がっていて、別の隙間から、若い雑草が新しい葉を伸ばしかけていた。流れの底では、暗い緑色をした水草が揺れていて、空き缶やビニールの切れ端などのごみが一緒にゆらゆら揺れていた。

それから夕方になってみんなが帰ってしまったあと、近くの銭湯まで歩いて行きながら、立ち止まってどぶ川を覗き込んでみることもあった。お世辞にも美しいとは言えないどぶ川だったが、路地のたたずまいと水の流れは、わたしの中に懐かしい感情を呼び覚ました。このような佇まいの街の一画に住んだことはなかったし、家のそばに水路があったこともなかった。だからその懐かしさは、わたしとぴったり重なり合うものではなくて、どこかがすれ違ったままの懐かしさだった。

ある朝わたしは、流れの底に黒い小さな影を見つけた。なんのごみだろうと思った。

次の日も、その影は流れの底にあった。水草がゆらゆら揺れているのに、その影はじっと動かないでいるように見え、そうかと思うと、流れに乱されて小さくなったり大きくなったりして見えるのだった。それが生き物だということを、そのときわたしは少しだけ感じ取っていたのだと思う。それをわたしはザリガニだとは思わず、ごみだとも思わず、影そのものとして気持ちに映したままにしておいたのだと思う。そして数日経った夕方、わたしの気持ちの中でその影がはっきり動いたのだった。

いつものようにわたしは洗面道具を入れた布袋を手に提げて、作業所を出た。銭湯へ行こうとしているのに、どこへも行こうとしていないみたいだった。わたしは心の底から疲れていた。心の底から休息を求めているのに、十分に働いたこともなく、十分に疲れきってもいないような気がした。理由は分かっていた。自閉症の人やダウン症の人の言葉がわたしを困惑させ、疲れさせていたのだ。言葉が分からず、気持ちが分からなかった。分かろうとしても分からないわたしに無力を感じ、仕方なく分かったふりをしているわたしに無力を感じていた。毎日がその場しのぎで、なにをしようとしているのか、どうしたらいいのか、手ごたえを感じることができずにいた。もしもそのとき誰かがそばに立っていたら、その人に向かって笑みを浮かべ、当たり障りのない言葉をかけ、そしてそれきり黙り込んでしまいそうな無力感だった。ほんとうは銭湯へなど行かずに、ひたすら眠り込んでしまった方が、疲れを回復させるためにはよかったのかも知れない。けれども、みんなが帰ってしまった作業所の二階で、神経の疲れを引きずったまま眠り込んでしまえば、それはただ、疲れの源にさかのぼって行くだけのように思えて、それで逃げ出すように夕暮れの路地に出るのだった。

流れの底の黒い影を、わたしはじっと見つめた。見つめているのに、気持ちがぼんやりしていた。黒い影は少しずつ移動しているように見える。手足のような形が、揃わないパズル片みたいに浮かびあがり、それからまた流れの中にばらばらに紛れこんでしまった。

ザリガニだ、とわたしは思った。やっぱり、ザリガニだ。さらに目をこらして川底を覗き込んだ。それでもまだ半信半疑だった。気持ちも目の焦点も、流れの表面から下になかなか潜りこめないのだった。影は明らかに移動しているのに、手足の動きを確かめることができなかった。濃い緑色の水草の上を、同じ姿勢のまま、側壁の方へ移動している。それから、じわっと喜びがこみあげてきた。少年のような笑みが浮かんだのを感じた。

わたしは後ろを振り返った。誰でもいい、話しかける相手を探して、あたりを見回したのだった。

でも、路地に人影はなかった。街の空の遠く向こうに山々が黒く横たわっていて、その上に大きな夕陽が落ちかけていた。静かな夕暮れだった。空が赤く染まり、路地の家々の屋根や外壁にも赤い光が届いていた。路地を歩いている人はいなかったが、夕暮れの生活の気配がたしかにそこにあった。無数に積み重ねられてきた夕暮れの風景のひとつに、たったひとりのわたしが紛れ込んだみたいだった。

誰かに話を聞いて欲しかったのだと思う。ザリガニを見つけた話を。それから、わたしがここにいて、一日が終わろうとしていることを。不思議なことにそのときわたしは、話を聞いて欲しい相手として、妻のことも、ふたりの娘のことも思い浮かべなかった。遠くの赤い空に向かってひとりでなにかを思い、暗くなりはじめた路地に向かって、ひとりでなにかを呟こうとしているのだった。

次の日の朝、わたしは作業のための下ごしらえをしながら、みんなを待っていた。

ぱたぱたと地面を引きずる足音がして、玄関の引き戸が勢いよく開けられた。
「おはよう!」

大きな声と一緒に修さんが入ってきた。それから少し遅れて、修さんの背中に隠れるように、そっとお母さんが入ってきた。

修さんのお母さんは七十歳を過ぎていたが、とてもそんなふうには見えない若々しい人だった。修さんがまだ子どもだったときに夫を事故で亡くし、ひとりで修さんを育ててきたという話を、わたしは代表から聞かされていた。

わたしは修さんに負けない大声で、
「おはよう」と返事をしてから、待ちかねていたように、お母さんに話しかけた。
「きのう、ザリガニを見つけましたよ。この川にはザリガニが棲んでいたんですね」
するとお母さんは即座に、
「そんなもの、誰もとらないよ」と、怪訝そうな顔をして言った。

わたしは動揺した。そのような答えが返ってくるとは思ってもいなかったのだ。なにか言おうとして、わたしはお母さんの顔を見つめ、そのまま目を離すことができなかった。お母さんも、不思議そうにわたしを見つめたまま、なにかを持て余すように黙っていた。

もちろんわたしは、ザリガニを捕ったり食ったりするつもりなど全然なかった。ザリガニを見つけた話を誰かが聞いてくれて、黙って小さく頷いてくれればそれでよかった。そしてわたしは、一番最初に会ったお母さんに、その期待をこめて話しかけたのだった。けれども考えてみれば、七十歳を過ぎたお母さんがザリガニの話などに興味を惹かれないのは当然だった。四十歳を過ぎたわたしが、どうしてザリガニのことなんかで嬉しがるのか、訝しく思って当然だった。わたしは、照れたような笑みを残し、やりかけていた仕事に視線を戻した。修さんが上履きに履き替えて、ロッカーにカバンをしまうためにわたしの後ろを通り過ぎた。わたしは腰掛けたまま、椅子をちょっと前に引いた。

何日か後になってわたしは、このときのことを思い出した。そして、その朝わたしが最初に会ったのはお母さんではなくて、修さんだったことに気がついた。どうしてわたしはお母さんにではなく修さんに、ザリガニを見つけた話を聞いてもらおうとしなかったのだろう。

わたしより二歳年下でダウン症の修さんは、この街で生まれ、この街をずっと離れることなく暮らしてきた。少年の頃の修さんは、どぶ川の流れの音を聞き、季節によるどぶ川の変化を肌に感じながら、路地を走り回っていたはずだった。もしもわたしがこの街に生まれていたら、修さんと同じようにこの路地を走り回っていたはずだった。少年だったわたしに、少年だった修さんを重ね合わせることが、なぜすぐにできなかったのだろう。

「修さん、この川にはザリガニが棲んでいるんだね」
「そうだよ。知らなかったの?」
「昨日、初めて気がついた」
「そうか。冬のあいだ巣に閉じこもっているから、それで気がつかなかったんだ」
「昔から、棲んでいたの?」
「ああ。子供のころは、よく捕まえて遊んだものだよ。メダカなんかもいっぱいいたし、こんなにちゃんとした水路じゃなかったけど、水はもっときれいだった」

そのような会話を、心に思い描いてもよかったのではないだろうか。

新しい風景の中で新しい人とめぐり会い、その人と一緒に生きることになる。すると、その人と一緒に生きてこなかった風景と時間が、わたし自身が生きてきた風景と時間に重なって、心が溶けていくような哀切を覚える。路地を染めている夕陽を見つめながら、わたしは確かにそのような哀切を感じていた。その風景の中で生きてきた人の気配を感じ、その風景の中でわたし自身が生きてこなかった時間を思って、切ない気持ちになっていた。

修さんとわたしは、まったく違う育ち方をした。修さんはわたしの言葉を理解しない。わたしのこの哀切も理解しない。そう思っているから、修さんにではなく、修さんの背中に隠れてしまうほど小さなお母さんに、話を聞いてもらおうとしたのだろうか。

作業所でわたしは、ほかの誰よりもたくさん修さんと言葉を交わしていた。ときには作業のあいだ、のべつまくなしに、という感じになることもあった。

「先生、電車だよ」作業の手をとめて、修さんがわたしに話しかける。
「えっ、なに?」
「ダメだあ」修さんは机に突っ伏して、だだをこねるように身をよじる。
「そうだね」とわたしは答える。修さんは、がばっと起き上がって、嬉しそうな顔をする。
「電車だよ」
「そうだね。電車に乗ろうね」
「ああっ!」悲痛な声をあげて、修さんはまた机に突っ伏す。
「そうか。電車だね、修さん」
「電車だよ、先生。静岡だよ」
「そうだ。静岡だよね、修さん。静岡へ行こうね」
「うん、行こう」修さんは胸をそらせ、窓の方に顔を向けて、満足そうに頷く。

修さんと最初に言葉を交わしたのは、いつだったろう。作業所で働き始めた最初の朝、わたしは修さんに、
「おはよう」と、挨拶をしたはずだった。そのとき修さんは、返事を返してくれただろうか。けれどもはっきり覚えているが、次の日の朝、わたしが声をかける前に、
「おはよう」と言いながら、修さんが作業所に入ってきたのだった。その声はしだいに大きくなり、わたしの声も修さんに負けないくらい大きくなっていった。

それは普通の挨拶とはちょっと違っている。わたしと修さんのあいだには、了解し合っているものがほとんど何もない。その日の予定、前の日のいきさつ、お互いの気持ちの襞などが抜け落ちたまま、形式的に言葉を投げかけている。御札のように、べたっと挨拶を貼りつける感じだ。何ひとつ含むもののない気持ちを、大きな声にして投げかける。意味のない儀礼のようにも思えるし、気が重いノルマのようにも感じるし、安易過ぎて申し訳がないような気もするし、とても充実した短い時間のようにも感じるのだった。

作業所のほかのみんなとも、わたしは朝の挨拶をする。そしてその挨拶の感じは、ひとりひとり違っている。もうひとりのダウン症の青年に、わたしは大きな声でおはようと呼びかけたりしない。すっと忍び込むように入ってくる無口なその青年が、カバンをロッカーにしまおうとするときに、おはよう、と何気なく声をかけるだけだ。青年は小さな声で、おはようございます、と答える。そして必ず、恥ずかしそうに目をそらす。その青年にわたしは、余韻のようなものを感じる。ずっとむかしにしんみりと話し合ったことがあるような余韻を。いつか心を開いて話し合える日が来ることを予感させるような余韻を。けれども修さんとは、そのような挨拶を交わすことができない。そのような含みを持った挨拶では届かないと感じるのだった。

もしかしたらわたしは、修さんだけを特別扱いしているのかも知れなかった。

みんなで一緒にどこかへ出かけるとき、わたしはたいてい修さんと手をつないで歩いた。修さんは歩くのが遅いので、速さを加減するのが苦手なほかの人たちから、取り残されてしまうからだった。若い女性の指導員とみんなに先に行ってもらい、わたしと修さんが、その後をゆっくり追いかける。
あるとき、そうやって手をつないで路地を歩いていると、近所の老夫婦が、
「あらっ、手をつないで歩いているよ」と囁き合ったのが聞こえた。老夫婦は、
「よかったねえ」と言って修さんに微笑みかけ、笑顔のまま、わたしに頭を下げた。

前の指導員は手をつながなかったのだ、とわたしは思った。そしてあやうく、修さんの手を離しそうになった。握力のほとんどない、柔らかくて大きな修さんの手が、あらためてわたしの手に重く感じられた。

修さんは、どう思っているのだろう。素直に手を握られていて、恥ずかしくないのだろうか。わたしの手を振り払って、いやだっ、とどうして言わないのだろう。

そのようなひとつひとつの事柄が、いちいち考えこむ必要のある難しい問題だった。答えがあるのかどうか、あるとしたらその手がかりをどこで見つければいいのか、途方に暮れてしまうのだった。
わたしは孤独を感じていた。作業所のみんなは、誰ひとりわたしに反感を抱いたりしていなかった。それどころか、気をつかってくれているのが分かった。親たちも、近所の人たちも好意的で、作業所にひとりで泊まりこんでいるわたしの不便さを思って、夕食のおかずや果物を届けてくれたりした。それなのにわたしは孤独を感じ、焦りを感じていた。

朝のミーティングが終わった後、近くの河原までみんなで散歩に出かけるのが、午前中の日課になっていた。

路地を抜け、国道へ出る坂道を上り、歩道橋を渡って川の土手に下りて行く。それから土手に沿った遊歩道を、ひとつ向こうの橋の下まで歩いて、また戻ってくる。往復一時間半ほどの散歩のあいだ、わたしはまるで修さん専属の付き人のようになる。そうしなくてもいい方法があるかも知れないと思いながら、そうしなければいけないみたいに、毎朝わたしは修さんの手をとって外に出た。

散歩のあいだも、わたしの神経は張りつめていた。ところが、修さんと手をつないで歩いていると、どこか箍が緩んだようになることに、あるときわたしは気がついた。意味もなく気持ちをこわばらせているわたしに、いくつもの細かな亀裂が走ったような感じだった。その亀裂から、仕事をさぼっているような罪悪感が顔を覗かせ、青空や、路地の佇まいや、どぶ川の音が顔を覗かせるのだった。修さんと手をつないで歩きながらわたしは、街を囲んでいる遠い山々の風情に目をやり、広い空を感じ、どぶ川の水音に耳を傾けた。

水の流れは、たとえそれが汚れた流れであっても、人の気持ちに触れずに流れることはできないような気がする。その音にほんの少しのあいだ聴き入っているだけで、まるで道に迷ったみたいに流れの方向が曖昧になり、なにもかもがどうでもいいことのように思えてくる。

手をつないでいる相手が修さんでなかったら、わたしの中で張りつめているものは、緩まなかったかも知れない。修さんの遅い足がわたしに焦ることを禁じ、修さんの大きな手が、穏やかになれとわたしに命令しているのかも知れなかった。

それでも、先を行っているみんなの様子が気になって、修さんの手を離してひとりで歩き出すことがあった。みんなの後ろ姿が目に入るやいなや、今度は修さんが気になって後ろを振り返り、急いでまた修さんのところに戻って行く。誰に命じられたわけでもなく、誰に監視されているわけでもないのに、命令を忠実に守ろうとする気の弱い新人みたいに。

そのうちわたしは、路地の真ん中に立ったまま、修さんが追いつくのを待つようになった。修さんの足が遅いといっても、滅多に車も入り込まない二十メートルほどの路地を歩いてくるのに、それほど時間はかからない。黙って待つ以外に、なにか他のことができるような時間ではなかった。

わたしはどぶ川の方へ歩いて行って、路地の縁から水の流れを覗き込んだ。すると、
「こらあ!」と大きな声がした。
修さんが、道の真ん中で立ち止まって、わたしを叱っているのだった。
ふざけているのだろう、とわたしは思った。修さんはときどき、おどけてみんなを笑わせることがあったからだ。わたしは顔を上げて修さんを振り返ったが、その場を動かなかった。そして、もう一度、なにげなくどぶ川に顔を向けた。すると修さんが、また大きな声を出した。
「こらあ!」

修さんは本当に怒っているのだった。わたしはどぶ川の縁を離れて、路地の真ん中に立った。すると修さんは、何事もなかったかのように歩き始めた。

そんなことが何度もあって、そのたびにわたしは路地の真ん中に戻り、体を動かさないように気をつけながら、修さんを待たなければならなかった。

修さんはわたしに追いつくと、すぐに手を差し出した。その手を受けとめながら、
「お願いだから、修さん、わたしをさぼらせておくれよ」と、ひとりごとのように呟くと、
「だめ」と、きっぱりした声で答えるのだった。
「ほんとにだめ?」
「だめ」

修さんはわたしの手を握ったまま、不満そうに口を尖らせる。
「そうか、だめなのか」わたしはわざと大げさに、ため息をついてみせた。するとなんだか、修さんに腹が立ってくるのだった。

どぶ川を覗き込もうとするわたしをなぜ怒るのか、理由は分からなかった。子供だった修さんが、川に興味を示して走り寄ろうとするのを、お母さんが叱って止めたということがあったのかも知れない。繰り返し叱られた記憶が、条件反射のように修さんを動かしているのかも知れなかった。

修さんの手は柔らかくて、握り返そうとする意志があるのかないのか、微妙な感じでわたしの手に預けられている。そしてその手は、わたしの手よりも大きい。体がわたしより大きいのだから当然かも知れないが、そのことに気がついて不思議な気持ちになるときがあった。どうしてわたしは、こんな大きな手をつなごうと思ったのだろう。

それから修さんは、誰もいない後ろを振り返って片手をあげ、見えない影を激しく振り払うようなしぐさをすることがあった。まとわりつく虫を追い払おうとするかのように。そのたびに、上体が大きく揺れる。でもその揺れは、わたしの手に伝わらない。つないでいる手が引き寄せられたり、離れたりすることがない。ということは、修さんはわたしに配慮しながらそうしているということなのだろうか。その何秒かを、わたしの体は修さんの体より小さいという ことを感じながら、じっとやり過ごす。

「ねえ、修さん、どうして、そんなふうに手をあげるんですか?」
「それはね、誰かがわたしに、うるさく話しかけようとするからです」
「わたしがどぶ川を覗いたら、どうしていけないんですか?」
「それはね、あなたがどぶ川に落ちるといけないと思って、それで叱るのです」

修さんとそんな会話をする代わりに、わたしはわたしの気持ちを黙って見つめている。修さんに実際にそのような質問をしたことは一度もなかった。修さんが自分の気持ちを、自分の言葉で説明することはありえないと思っているからだった。

ほんとうに、わたしはこの仕事をするようになって、言葉というものが分からなくなった。言葉と人はどのようにつながっているのか、ひとつながりにつながっていると信じていた自分が分からなくなってしまった。修さんは、人としての気持ちのすべてを持っている。そのことをわたしは、肌で感じ始めていた。あるところから気持ちが伝わってくる。そして別のところから、気持ちと言葉が伝わってくる。でも、気持ちが伝わるのだとしたら、言葉が伝わらなくても、不自由とは言えないのではないだろうか。言葉と気持ちがすれ違ったまま激しく行き交うよりは、気持ちだけなんとなく伝わってくることの方が、確かなものと言えるのではないだろうか。その曖昧さを、確かなものと信じることができないのはなぜだろう。

作業所で働き始めて最初の夏がやってこようとしていた。ザリガニは、川底のどこにでも見られるようになっていた。朝の散歩は続いていて、わたしはまだ、修さんと手をつないで歩いていた。
国道を渡る陸橋の下で、みんながひとかたまりになって待っていた。そこでわたしたちと合流してから、ふたたび散歩を続ける約束になっているのだった。

空を見上げている鈴木さん、地面に視線を落としている光男さん、わたしと修さんを待ち切れないように、睨むようにこちらを見続けている自閉症の信治君、しゃがみこんで会話をしている虚弱体質のふたり。国道の車の流れを目で追いかけている女性の指導員。 修さんとわたしがそこにたどり着く前に、わたしたちの姿を確認したみんなが、一斉に腰をあげて階段を上り始めた。散歩をしているのではなくて、散歩という目的地に向かって先を急いでいる感じだった。若い女性の指導員が、わたしたちに手を振って合図をしてから、みんなの後を小走りに追いかけて行く。

「修さん、行くよ」と、わたしは声をかけた。
「あいよ」と、修さんが答える。そして腕を構え、駆け出す姿勢をつくる。でもすぐに修さんは腕を下ろしてしまい、疲れたようにため息をついた。
「修さん」
「いけねえ」と言って、修さんが自分の頭を叩いた。
「困ったもんですなあ」
「すいません」修さんは目じりに皺を寄せて、ぺこっと頭をさげた。

わたしは少しも困っていなかった。修さんも、本気で謝っているわけではないだろう。ふたりして、ゆったりとした時間のゲームを作り上げているみたいだった。

わたしたちは、歩道橋を渡り始めた。不思議なことに、修さんは階段をのぼるときには別人のようになる。みんなと同じように、あるいはそれ以上に大胆に、すたすたと足を運ぶことができる。大きな体が流れるように上へ運ばれて行く。上りの階段ではわたしが置いてきぼりにされるほどだった。ところが、階段を下りようとすると、途端に臆病になる。右端いっぱいに寄って手すりをつかみ、リハビリ中の患者のように、慎重に一歩ずつ足を下ろして行く。修さんは視力があまりよくないのだった。

わたしは修さんに寄り添って、足取りを合わせるようにゆっくりと下りて行く。陸橋を渡ったら、あとは土手の下の遊歩道をまっすぐ歩くだけだから、階段が最後の関門のようなものだった。

この最後のところでわたしはいつも、修さんのペースに合わせることに、なぜか違和感を覚えるのだった。階段を一段先に下りて、修さんを振り返り、いつでも手が差し出せるように構えを作る。修さんが一段下りると、先にまた次の一段を下りる。その時間のずれを何回か繰り返していると、待ちきれない自分の気持ちがこぼれ落ちそうになってくる。わたしは辛抱強い人間でも、優しい人間でもなかった。妻を罵ったり、感情的になって娘を怒鳴りつけることもよくあった。そんなわたしの人間としての落差が露出するのかも知れなかった。

自分の本当の姿を、隠そうとしているわけではなかった。感情や言葉を正直に出すことに、罪悪感は覚えなかったし、ためらいもなかった。でも、修さんには本当のわたしを見せられない。わたしの心の状態がそのまま修さんに伝わってしまったら、修さんはわたしを拒絶し、それきり心を閉ざしてしまうに違いない。そうしたらわたしの仕事はますます困難なものになるし、それだけでなくて、仕事の外でなにか大事なものを失うことにもなる。そんな気がするのだった。

陸橋を渡り終えて、ゆるやかな傾斜の舗装された小道を下って行く。そこにはいつも、広々としたものがある。心が塞がれていて、その広がりに誘い出されない状態であっても、広々としたものが外にあるのだけは感じられるのだった。

芝生の匂いと土の匂い。小さな花をつけている土手の雑草。川面と、白く乾いた大きな石に反射している光のきらめき。川の音。そしてそれらをぜんぶ吸い込むように、厚くゆったりと動いている風。わたしの感覚が、わたし自身に投げ返されたように感じる。修さんとからみあっていたものが、そこではっきりとふたつのものに別れるように感じるのだった。

「修さん、急ぐよ」とわたしは言った。
「あいよ」と修さんが答えた。なにかも分かっているような、おどけた声で。そして肘を曲げ、運動会のスタートに立ったみたいに、腰を落として構えを作る。
「よーい、どん」と言って、わたしは走り出した。

ほんの十メートルほど走って、すぐに後ろを振り返る。修さんが、走っている気持ちになっている感じで、ゆらゆらと歩いてくる。

わたしはさらに十メートルほど走って、道が急角度でカーブしている角を曲がり切ったところで足を止めた。それだけでわたしの息は弾んでいる。年甲斐もないことをやっているような気持ちがこみあげる。

まだかなり遠くにあるように見える橋の下の日陰に向かって、みんなが歩いているのが見えた。背中を丸め、思いつめたような足取りで先を急いでいる。二十歳そこそこの若い女性の指導員だけが、思いつめることから解放されているように見える。広々とした河原の光と色彩が、彼女の周辺でだけ、方向を見失ったように散漫に輝いている。

修さんが追いついて、ぱたっと体を投げ出すように、その場で足を止めた。修さんも息を切らしているのが分かった。わたしと修さんはほとんど年齢が違わないのだ。

「修さん、休もうか?」
「だいじょうぶ」

修さんはカーブの手前に立って、息を整えている。修さんが立っているところは、わたしが立っているところよりも高い位置にあった。修さんとわたしのあいだには芝生の地面があって、その縁が四十センチほどの高さの石垣になっているのだった。修さんが、舗装されている小道をそれて、芝生に足を踏み入れわたしの方に歩いて来た。

「違うよ、修さん」とわたしは言った。
修さんは芝生の縁まで来て、立ち止まった。
「修さん、こっちじゃないよ。危ないよ」
修さんは返事をしない。石垣の縁に立ったまま、もの思いに沈むかのように、わたしの足元を覗き込んでいる。

「落ちるよ」とわたしは言った。もしかしたら下が見えていないのかも知れないと思ったのだ。
修さんは、なんの前触れもなく、突然ぴょんとそこから飛び降りた。大きな体がふわっと浮いて、わたしの目の前にどんと着地した。咄嗟に、わたしは手を差し出した。すると修さんが、当然のようにわたしの手につかまった。

「あぶないなあ」とわたしは言った。それから、胸がどきっと鳴った。
「あぶないじゃないか、修さん」
わたしは胸の動悸を静めようとして、大きく息を吸い込んだ。それから、そっと息を吐き出した。
「どうして急に、そんなことをするの?」わたしの呼吸はまだ乱れていた。

修さんは黙っている。わたしの目の前に、修さんの顔があった。修さんの吐く息が、わたしの顔に触れている。

誇らしげな顔だった。初めて見る顔のような気がした。寡黙で自信に満ちた、まったく別の修さんがそこにいるようだった。修さんはわたしの手につかまっていたが、わたしの手を頼ってはいなかった。わたしへの義理で、手を差し出しているみたいだった。わたしの手など、本当は必要としていないのかも知れない。修さんはひとりで決断し、軽々と段差を飛び降りた。着地してよろけることもなく、わたしに身をあずけることもしなかった。

「修さん」とわたしは言った。そして、
「なんだ、できるんじゃないか」と、声に出さずに呟いた。

修さんの息は乱れていなかったし、気持ちも乱れていないように見えた。自分がしたことの余韻に浸ろうとしているみたいだった。

わたしは、ずっと先を歩いているみんなの方を振り返った。そして修さんに、
「行くよ」と言った。
「あいよ」いつもの声で、修さんが答えた。わたしの胸の動悸はすぐには収まらなかった。修さんの手にそれが伝わっているかも知れないと思った。

その日の夕方、迎えに来たお母さんにわたしは、修さんが石垣を飛び降りた話をした。
「びっくりしました。修さんにあんなことができるなんて、思ってもいませんでした」
「そうなのよ」お母さんは、弾むような声で言った。事故になっていたかも知れないわたしの不注意を、咎めようとする様子は少しも見えなかった。

「修は、子どもの頃は野球が大好きで、走るのも速かったのよ」とお母さんは言った。
「でも、今じゃあなんにもできなくなってしまったけどね」

お母さんはいたずらっぽく笑って、唇の端を少しかみしめた。

 

 

 

また旅だより 54

 

尾仲浩二

 
 

1996年5月、初めての韓国は下関からフェリーだった。釜山へは海を渡って行きたかったのだ。フェリーの中はごま油の匂いがした。
釜山港に迎えの友人の姿はなく、言葉も通じないタクシーは相乗りだった。
なんとかたどり着いた海雲台は、まだ高層ビルの姿はなく、小さな貝や、豚の血の腸詰などを浜辺の屋台で初めて食べた。
あれから27年、いままた暗室でその旅を辿っている。この写真を釜山の人たちに見せるが楽しみだ。

2023年2月14日 東京、中野の暗室にて

 

 

 

 

また旅だより 53

 

尾仲浩二

 
 

母親の薬をもらうために、月に一度地方の病院へ行く。
診療が午前中だけなので、仕方なく前日に近くのホテルに泊まっている。
ホテルの近くに気になる居酒屋があったので入ってみた。
カウンターに座る。テレビは大岡越前をやっている。
他に客はいない。とりあえず瓶ビール。
それにホワイトボードのメニューから釣り太刀魚塩焼き。
六十半ば過ぎの奥さんが、お通しのほうれん草胡麻和えとビールを出す。
パラパラと常連が入ってきてツクネを頼んだので便乗する。
酒がすすみ常連と話すと、それぞれ違う生まれ故郷を持つヨソモノだった。
芋焼酎のボトルを入れて店を出た。
ボトルキープは三ヶ月、来月の病院行きが楽しみだ。

2023年1月9日 千葉県木更津にて

 

 

 

 

また旅だより 52

 

尾仲浩二

 
 

先週から毎日暗室でカラープリントを作っている。
もう誰も使わなくなったフィルムは、この数年で驚く程高価になった。
その上、ロシアの戦争で輸送代が高騰したりで、ぼくの愛用していたフィルムも薬品も印画紙も輸入が止まってしまった。
いつかはこんな日が来るだろうと思ってはいたけど、いよいよ現実的になってきたようだ。
なのに先日、ほろ酔いで入った店で中古のカメラを買ってしまった。
このカメラで何本のフィルムを撮る事ができるだろうか。

2022年12月14日  東京 中野の暗室にて

 

 

 

 

また旅だより 51

 

尾仲浩二

 
 

母を病院に連れて行くために実家に戻っている。
母は同じ話を繰り返す。
幾度も財布の中身を数える。
家の中は大量のモノが溢れている。
ふたつの冷蔵庫はぎっしりと詰まっている。
この原稿を書くからとループする話を止めて二階へ上がった。
今にも降りだしそうな空を窓から眺めている。

2022年11月14日 千葉県君津にて

 

 

 

 

また旅だより 50

 

尾仲浩二

 
 

フランス国境に近いスペインの美しい港町に、もう2週間ほどいる。
ここで毎年開かれる写真フェスティバルに招かれ、今回撮影した写真で来年も展示する事になっている。
ところがこの町は美しすぎる観光地で、どこを撮っても絵葉書のようでなかなか手強いのだ。
町中はとてもじゃないが敵わないと郊外に逃げ、サボテンだらけの山道を歩き、なんとか撮れたような手応えを感じた。
3週間滞在できると聞いたので、そうお願いしたのだが、広くはないこの町はもう歩き尽くした。
早く戻りたい気持ちを抱えて、もう1週間どう過ごそうか。

2022年10月14日 スペイン カダケスにて

 

 

 

 

また旅だより 49

 

尾仲浩二

 
 

3年ぶりにヨーロッパへ来た。
街を歩く人は誰もマスクをしていない。
日暮には毎日キオスクの前に集まってビールを飲んだ。
トークイベントの後には握手とハグを沢山した。
バーの地下のダンスフロアでは歌謡曲DJをやって声を合わせてTOKIOと叫んだ。
翌朝ノドが痛くて、やはりコロナかと疑ったが、薬局でのど飴を買って舐めたらよくなった。急に寒くなったのとDJで大声を出したせいだろう。こちらののど飴は舌がシビれるほど強い。
 
2022年9月12日 ドイツ ケルンにて

 

 

 

 

宮柊二「定本宮柊二全歌集」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

昭和31年12月に東京創元社から刊行されたこの本は、それまでに発表された「群鶏」、「山西省」、「蒟駅の歌」「小紺珠」「晩夏」「「日本挽歌」の諸歌集に「群鶏」以前」の作品を加えたほぼ二千首からなり、昭和4年から28年に到る24年間に詠まれた作者自選集である。

宮柊二の師匠が北原白秋であることは知っていたが、白秋死後の師が釋迢空氏であることは山本健吉氏の解説ではじめて知った。しかし「美童天草四郎はいくさ敗れ死ぬきはもなほ美しかりしか」(「群鶏」)という殉教の歌に白秋調の抒情を看取することはできても、なぜ釋迢空なのかという疑いと不審の念は本編を読了してからも胸から消えなかった。

ところが改めて本書の巻頭を捲っていると、「謹呈大佛次郎先生 宮柊二」と達筆の草書で記された、時代がかった和紙が目に飛び込んできた。

私が借り出した本書は、なんと宮柊二が大佛次郎に恵贈したもので、それを遺族が図書課に寄贈したのだろう。色紙等でみる釋迢空そっくりの草書体をこの目でみた私は、「宮=釋を結ぶ絆ここにあり」と、はたと膝を打ったことであった。

それはともかく、本書の白眉はいうまでもなく「山西省」で、1939年以来5年間に亘って、大陸で中国兵と戦った作者は、その戦闘体験をいかにも生々しく歌っている。

 
 

 磧より夜をまぎれ来し敵兵の三人迄を迎へて刺せり
 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば聲も立てなくくづをれて伏す
 息つめて闇に伏すとき雨あとの土踏む敵の跫音を傳ふ

 
 

作者の「後書」に、「私は少年のころ、畫家を志望した」と書かれていたが、自他の刹那の行動を、さながら「神の視点」より一撃のもとに把握し、再現する表現力に圧倒されないものはいないだろう。

「目はまなこである」とは言い古された格言であるが、さながら「現代只事歌の元祖」のような、この非凡なる動体視力が冴えわたる異様なまでの眼力は、もしかすると「天性の絵描きのまなこ」の所産なのかもしれない。

いずれにせよ宮柊二の激烈な戦争体験は、後続の「蒟駅の歌」「小紺珠」「晩夏」「「日本挽歌」などの歌集においても、時折地下の仕掛け花火のごとく炸裂するのであるが、1986年に「歌集 純黄」の代表歌「中国に兵なりし日の五ヶ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ」において、その総括的達成を迎える。

さりながら、他の歌人あるいは大多数の日本人兵士と同様、「他国への侵略者としてのみずから」を詠う機会がついに訪れなかったことは、無い物ねだりとはいえ、この偉大な歌人のために甚だ惜しまれるのである。

 
 

 

 

 

村岡由梨詩集『眠れる花』
詩の言葉が生まれる瞬間

 

長尾高弘

 
 

 

1

 浜風文庫で村岡さんの詩を初めて読んだのはいつだったかもう忘れてしまったし、どの作品を読んだのかも覚えていないが、これはすごいと思ったことは間違いなく覚えている。近頃なかなかない衝撃だった。今年(2021年)の春にちょっとしたきっかけでFacebookの友だちにしてもらって、6月13日に映像個展〈眠れる花〉を見に行き、そこで初めてちゃんと挨拶し(村岡さんの方から声をかけていただいたんだけど)、会場で売られていた小詩集『イデア』を買って読んだ。
 7月に刊行された詩集『眠れる花』は2部に分かれていて、1には小詩集『イデア』がそのまま収められている。2は「イデア、その後」となっているが、1の3倍ほどの分量がある。詩集を開いて目次を見たとき、このアンバランスな分け方はどういう意味なのかとちらっと思った。しかも、短いセクションには「イデア」という明確なタイトルがあるのに、長い方は「イデア、その後」という自立していない感じのタイトルになっている。もっとも、そこにこだわっていてもしょうがないので、作品を何度も読んだ。読んでみて、ちょっとわかったことがあった。
 周知のように村岡さんは映像作家として知られ、国際的な賞をいくつも受賞されているのだが、初めて映像作品を作られてから20年近くたって、なぜ詩という表現手段にも進出されたのかは、私でなくても誰もが興味を持つところだろう。驚いたことに、この詩集にはその答え、とまでは言わなくてもヒントが書かれている。それもひとつではなくふたつある(いや、3つか?)。
 ひとつ目は、「イデア」の部分にある。「しじみ と りんご」の最終連(とその前の連)だ。

   死なないで、しじみ。
   これ以上大切なものを失いたくない。
   ただそれだけなのに
   小さな赤い心臓も、グリーンの目も、白くてやわらかな胸毛も、
   いつか燃えて灰になってしまう。
   後に残るのは、始めたばかりの拙い詩だけだ。

   それでも、私が言葉を書き留めたいのは、
   決して忘れたくない光景が、
   今、ここにあるから。
   もう二度と触れることが出来ない悲しみでどうしようもなくなった時、
   私は何度もこの詩を読み返すんだろう、と思う

 その名も「イデア」という作品に〈永遠に続くと思っていた関係にも/いつか終わりの時がやってくる。〉という2行があるが、この詩集ではすべてがいずれ失われるという思いがあちこちで吹き出している。完全に取り戻せるわけではなくても、言葉はその失われたものを思い出すための手段になる。
 もっとも、作品「イデア」には、次のような行もある。

   永遠に続くものに執着して
   何かを失うことを畏れて悲しんで
   壊れてしまった家族の記憶と、壊れそうな家族と
   瀕死の飼い猫についての映画を撮った。

 つまり、失わないため、あるいは失われたものを思い出すための「映画」もあるわけだ。それでは映像だけではなく詩に進出したのはなぜかという素朴な疑問への答は再びわからなくなってしまうが、もはやそんなことはどうでもよいような気もする。あえて言えば、詩の方が適したものと映像の方が適したものがあるというようなところなのではないだろうか。
 それは、初めて詩の言葉が吹き出したとき、つまり、この詩集の冒頭の2篇を読めばなんとなくわかるような気がする。それぞれ、詩集のタイトルにもなった眠(ねむ)と花(はな)のふたりのお嬢さんのことを描いているが、冒頭の1行がどちらも波乱含みになっている。

   このところ、娘のねむとの会話がぎこちない。
           「ねむの、若くて切実な歌声」

   夫とケンカした夜のことです。
           「くるくる回る、はなの歌」

 ところが、「ねむの、若くて切実な歌声」では3連目から、「くるくる回る、はなの歌」では次の2行目から、ふたりのお嬢さんがその暗い気分を吹き飛ばしてくれる。それはやはりかけがえのない瞬間、絶対に忘れたくない瞬間だろう。冒頭の暗雲を吹き飛ばしてくれただけに、その瞬間の大切さは際立ってくる。
 その大切な瞬間を映画という形で残すにはどうすればよいだろうか。まさかもう一度その瞬間を演じ直して撮るわけにはいかないだろう。思いがけないことだったから心を動かされたわけで、脚本を作って演じたのでは、予想外だった、思いがけないことだったという大切な部分がなくなってしまう。しかし、言葉で書けば、思いがけない喜びをそのまま再現できる。言葉と映像には、そのような違いがあるような気がする。
 もっとも、最初からそういうことを意識して詩を書くことを選んだということではなさそうな気もする。というのも、〈決して忘れたくない光景が、/今、ここにあるから〉〈言葉を書き留めたい〉という気持ちは、この2作では明示的には書かれていないからだ。もちろん、単に詩の流れのなかで、そういう言葉の出番がなかっただけなのかもしれないが、そういうことではないような気がする。
 そもそも、「ねむの、若くて切実な歌声」は、詩を書こうとして書かれた言葉ではないようにさえ思える。書き留めて形にしないではいられないような言葉が生まれ、それがどんどん頭に溜まっていき、悪戦苦闘してやっと書き留めたとき、初めてそれが詩だったことに気づいた、というようなことではないかという気がしてならないのである。ひとりの人のなかで初めて詩が生まれるというのは、そういうことなのではないだろうか。詩のなかに、ねむさんが歌った様子を描写した次のような4行があるが、

   最初は、はにかみながら
   途中吹っ切れたように、

   ねむが、まっすぐ前を見据える。
   歌声が、大きくなる。

これはまるで村岡さんのなかで詩が初めて生まれてこようとしているときの比喩のようにも感じられる。〈切実な歌声〉なのだ。
 それに対し、2作目の「くるくる回る、はなの歌」は、すでに詩を書こうとして書いた作品になっているように感じる。それは、先ほど引用した冒頭の1行のほか、〈よく回転する姉妹です。〉という行で、ですます文が使われているからだ。読んでいてこのふたつのですます文のところにさしかかるたびに、作者が読者としての私に語りかけてくるような錯覚に陥る。このような語りかけは、最初から作者に詩を書く、人に見せる作品を書くという意識がなければ出てこないだろう。実際、1作目以上に作者の意図(はなさんのことを書く)がはっきりと感じられる。回転寿司に側転という回転続きのエピソードに対し、一見回転とは関係のなさそうなエピソードもあるが、回転とは空気を瞬時に変えてしまう意外性のことかと考えればなるほどと思い、描かれているはなさんのイメージの鮮やかさと爽やかさが印象に残る。
 「しじみ と りんご」はこの2作が書かれたあとの3作目である。この作品は、いつ死んでも不思議ではない重い病気を抱えた猫に、不死身という言葉から〈しじみ〉という名前を付けて、〈死なないで、しじみ。〉という、あえて言えば絶対にかなわない願いをかけるという矛盾を抱えている。最初の2作を意識的、または無意識的に踏まえた上で、〈決して忘れたくない光景が、/今、ここにあるから〉〈言葉を書き留めたい〉という言葉が出てくる必然性があるのではないだろうか。
 小詩集『イデア』の掉尾を飾る作品「イデア」では、このような思いに「イデア」という名前が与えられる。常識的に言えば、「イデア」とは、生まれては消えていく現象とは異なり、そういった現象を生み出す根拠となる決して消えない本質的な存在としての観念というようなことだろう。しかし、村岡さんの「イデア」は、永遠に続くものなどないという断念を前提とした上での、〈永遠に続くもの〉への〈執着〉、〈何かを失うこと〉への〈畏れ〉(「恐れ」ではないことに注意したい)と〈悲し〉みという人としての思いらしい。
 しかし、この作品には、〈「君が今日まで生きてきて、この作品を作れて、本当に良かった」〉という〈野々歩さん〉の言葉と、〈私には一緒に泣いてくれる人がいるんだということに気が付いた〉という暗闇の出口から差す光がある。〈時間の粒子が流れるのが、一つ一つ目に見えるよう〉だという〈いつかの魔法〉の世界の美しさには目を瞠る(今まであまり触れてこなかったが、技術的な巧さも相当のものだ)。ここで小詩集『イデア』の世界がよい形でひとまず完結し、全体に「イデア」という名前が与えられるのは納得できる。
 ところがそのしじみが、次の作品(「しじみの花が咲いた」)が書かれた2か月後までの間に死んでしまう。

   野々歩さんは身をよじらせて、声をあげて泣いた。
   慟哭、という言葉では到底表しきれない
   言葉にできない何かが
   何度も何度も私たちを責めるように揺さぶった。

この4行に込められた悲しみの深さは、一読者の胸にも響くものがある。さらに、荼毘に付されてほとんど灰になったしじみを見て、〈私は言葉を失〉い、それからのひと月は〈空っぽ〉になってしまう。〈空っぽだった心〉に新たな〈気持ちが芽生えてきた〉のは、亡くなったしじみにかぶらせた花冠と同じヒナギクを庭に植え、その花が一輪咲いたときだった。ここで詩を書く第2の理由が生まれる。

   「言葉にできない気持ちを言葉にするのが詩なのだとしたら、
   もう一度、言葉に向き合ってみよう。」

しじみを失って言葉を失った〈私〉には、まもなく〈しじみの花〉も枯れてしまうという試練がやってくるが、もう言葉を失ったままにはならない。

   わからないまま
   今日もレンズ越しに、言葉を探している。
(中略)
   答えのない問いを、何度も繰り返しながら。

 これで詩は村岡さんにとってはるかに大きな存在になったと思う。あえて言えば、〈決して忘れたくない光景が、/今、ここにあるから〉〈言葉を書き留めたい〉ということなら、詩が必要になるのは特別なときだけに限られるだろう。そういえば詩を書いていた時期もあったなあという人は、詩のない生き方は考えられないという人よりもずっと多いはずだ。〈言葉にできない気持ちを言葉にする〉ために〈答えのない問いを、何度も繰り返しながら〉〈言葉を探〉すということになると、詩は生きることの中心に関わってくることになる。詩集のふたつの区分のうち、「イデア」が〈言葉を書き留めたい〉という時期、「イデア、その後」が〈言葉を探している〉時期だとすると、後者の方がずっと多いのは当然だと思う。

 

2

 もっとも、〈決して忘れたくない光景が、/今、ここにあるから〉〈言葉を書き留めたい〉という思いがはっきりと言葉になったのが3作目だったのと同じように、〈言葉にできない気持ちを言葉にする〉ために〈言葉を探〉すという作業は、すでに「イデア」の時代から行われていたようにも思う。それは、「イデア」の部で今まで触れてこなかった「未完成の言葉たち」と「青空の部屋」の2つの作品で顕著に感じることだ。
 「未完成の言葉たち」は、タイトル自体が言葉を探した戦いの跡だということを示しており、4つの断章から構成されている。「1 「旅」」は、次の4行から始まる。

   いつかバラバラになってしまう私たち
   今はまだ、そうなりたくなくて
   必死に一つに束ね上げ
   毎夏、家族で旅に出る。

 最初の3行で「しじみ と りんご」までの3作に漂っていた不安を言語化しており、この不安が作品全体を覆うことになる。最初の3作にも不安はあるが、その不安を吹き飛ばす要素が出てくる。しかし、「未完成の言葉たち」では「1 「旅」」のなかのはなさんの笑い声ぐらいしか救いがない。その笑い声も、〈いつかバラバラになってしまう私たち〉の予兆として描かれていると思う。最終連の〈遠く離れて撮っている私〉は、頑張ってもいずれバラバラになってしまうという思いに駆られているように見える。
 ただ、ここでかすかな疑問が浮かぶ。家族の絆というものが案外もろいものだということは事実だとしても、いずれかならずバラバラになるとまで思うのは、ちょっと度を越しているのではないだろうか。少々ごたごたすることがあっても、家族の絆を疑わない人もいる。家族の絆がもろいという思いは、かつて家族が壊れたことがあるという経験があるからではないだろうか。
 詩「イデア」では、村岡さんにとって11本目の映画『イデア』(映像個展〈眠れる花〉でも上映された)のことが触れられているが、〈壊れてしまった家族の記憶と、壊れそうな家族と/瀕死の飼い猫についての映画〉だと要約されている。実際、「1 「旅」」に書かれている秩父旅行は映画『イデア』に含まれており、赤紫色の花も、自分以外の3人を少し離れたところから撮っているショットもある。「2 「夜」」は、この詩集で初めて出てくる暴力的で残酷なシーンだが、〈お母さん〉が出てくることからも、〈壊れてしまった家族の記憶〉だと考えられるように思う。〈私〉と〈あの女〉と〈お前〉がいるが、全部同じで自分のことを指しているのではないだろうか。
 「3 「空」」は〈――未完成――〉と書かれているが、この詩集は、作品が完成したかどうかにかかわらず、書かれたものを次々に突っ込んで作られたようなものではない。実際に印刷された本になったものと、最初に発表された浜風文庫のものとでは、いくつかの作品で異同がある。だから、〈――未完成――〉というスペースホルダーを置いていることには何らかの意味があるはずだ。たぶん、次の「青空の部屋」がこの「3 「空」」にあたるものなのではないのかと思う。ただ、「青空の部屋」として完成したものはもう「未完成の言葉たち」の枠には収まりきらなかったようだ。
 「青空の部屋」は、「未完成の言葉たち」の「2 「夜」」と「1 「旅」」のふたつの家族をつなぐ時期のことを書いているように感じられる。壁紙として選んだのは青空だが、学校にはほとんど行っていないという。〈夜が更けて/私がいた部屋は光が無くなり真っ暗闇になった。〉とあるので、青空の壁紙の部屋にずっと籠もっていたのだろうか。天窓から本物の青空は見えたようだが、一見開放的な青空の壁紙のなかで閉じこもっているという矛盾がある。実際、感じていたのは〈自分の精神と魂が互いの肉体を食い潰していく激しい痛み。〉だ。そして〈「白と黒の真っ二つに切り裂かれるアンビバレンス」〉と自己規定している。

   この時期、私と私の核との関係は、
   ある究極まで達したけれど、
   それと引き替えに、
   私の時間的成長は、15歳で止まってしまった。
   私が発病した瞬間だった。

これは恐ろしい言葉だ。〈ある究極〉とは、自分は〈「白と黒の真っ二つに切り裂かれるアンビバレンス」〉だとわかってしまったということなのだろうと思うが、それは安心が得られる自己理解からはほど遠い。そして、そこで止まってしまったというのである。そこは、言葉の見かけとは裏腹に固く閉ざされている牢獄のような「青空の部屋」だ。
 「青空の部屋」をこのように読むと、「未完成の言葉たち」の「4 「光」」を読む糸口が見えてくるように思う。何しろ、この部分は〈もう鎖は必要ない。〉という解放の瞬間を歌っているからだ。しかし、〈けれど、もうすぐ私は私の体とさよならする。/真の自由を手にするために〉という自殺の示唆は、本当の解放なのだろうか。
 もちろん、そうではないだろう。〈やがて「青空の部屋]で死んでいくんだろう。〉という行を含む「青空の部屋」が「未完成の言葉たち」の「3 「空」」の位置に入るのではなく、「未完成の言葉たち」の「4 「光」」のあとに続く別の作品になったのは、自殺すれば解放されるわけではないという考えに落ち着いたからではないだろうか。そして、このように考えていくと、次の詩作品「イデア」の先ほども引用した次の箇所がとても大きな意味を持っていることを感じる。

   いつもは何かと注文をつけたがる野々歩さんが、
   「君が今日まで生きてきて、この作品を作れて、本当に良かった。」
   と言ってくれた。
   その言葉を聞いて、
   私には一緒に泣いてくれる人がいるんだということに気が付いた。

 

3

 長くなったが、〈言葉にできない気持ちを言葉にする〉ために〈言葉を探〉すということが『イデア、その後』よりも前から始まっていたという話だった。先ほども触れたように、「イデア、その後」では、そのような作業がさまざまな方向に向かって行われていく。言葉を必要とするあらゆるものが次々に詩の題材として取り上げられているように感じる。そして、それは見事に成功して、さまざまなものが言葉を見つけて村岡さんの詩の新しい領土になっていく。
 ただ、それらのなかでも私には読者として特に気になるテーマがひとつある。それは〈お父さん〉のことだ。『イデア』のなかですでに始まっていた〈言葉を探〉す作業が直接つながっているのは、このテーマだと思う。そして、このテーマは村岡さんをもっとも苦しめているテーマでもあるようだ。
 一冊を読み終えたときに強い印象を残す〈お父さん〉だが、初めて出てくるのは意外と遅い。「イデア、その後」のなかの「クレプトマニア」で、全体の9作目である。それに対し、〈お母さん〉は「イデア」に含まれている全体としては3作目の「しじみ と りんご」で登場し、「未完成の言葉たち」や「青空の部屋」でも登場している。そして、「クレプトマニア」での〈お父さん〉の初登場のしかたは異様だ。
 クレプトマニアとは病的に窃盗を繰り返してしまうことである。最初の6連、2ページ半は〈私〉が繰り返したそのような食べ物の窃盗と〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉というテーマで進んでいく。正確に言うと、2連から5連までは窃盗の記憶と罪の感情であり、窃盗が見つかった破局的な場面の記憶であり、〈あなた〉が〈私〉を〈メッタ打ち〉にしたあとで〈きつく抱きしめ〉た記憶で、非常にはっきりとした映像が目に浮かぶ(〈あなた〉に対する告白という形で全体が「ですます」調になっているからということもあるだろう)。
 「クレプトマニア」というタイトルの詩だが、クレプトマニアの話はこの5連で終わってしまう。何しろ5連で〈それ以降、私はパタリと盗みをやめました。〉と言っているのだから、非常にきれいに終わってしまう。本当のテーマはクレプトマニアではないのではないか。実際、不潔で醜い男たちとの性交、しかもその男たちは自分であるというという1、6連のテーマの方がクレプトマニアのテーマよりも映像がはっきり見えて来ない分、深いのではないかと感じさせられる。窃盗癖は克服できた〈けれど私の外形は醜いまま〉。克服できないものがあると言っている。
 正直なところ、私には〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉と窃盗のつながりがよくわからない。たぶん、作者には切実なつながりがあるのだろうとは思うが、むりやりこじつけて考えてもあまり意味がないような気がするし、そこまで踏み込まない方がよいような気もする。あとで(16連)、〈切れない刃物でメッタ刺しにされているような気分。〉という〈夫〉の感想が紹介され、なるほどと思わされるが、そのような感想になるのは、外からは本当の核心がよく見えないからだろう。
 7連では1、6連の〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉の身の置所のなさから〈お母さん〉に助けを求める。ちなみに、2連から5連までの間にも親である〈あなた〉が出てくるが、この〈あなた〉は〈お母さん〉とは呼ばれていない(あとで触れるように、〈お母さん〉であることは間違いないが)。しかし、7連で〈お母さん助けて〉と悲鳴を上げたあとの8連では、生まれた家での家族が列挙される。

   お母さん、お姉ちゃん、弟、お父さん。友達。
   たくさんの人たちを傷つけながら生きてきた。」
   私の生活は今、
   たくさんの人たちの不幸の上に成り立っている。

 家族の列挙の仕方として〈お父さん〉を最後にするというのはなかなかないことだが、その後の「家族写真(抜粋)」で父親はほかの女性と別の家庭を築いたことが明かされ、なるほどと思うことになる。これだけ多くの人を列挙しているが、9連から11連は〈お父さん〉の発言と〈お父さん〉への謝罪と〈私〉の応答で、ほかの人たちは登場しない。しかも、その〈お父さん〉の発言は、人の親としてまったく信じがたいものである。

   「お前たちは育ちが悪い」
   「由梨はヤク中」

 最初の1行は、子ども全員を切り捨てるだけでなく、〈育ちが悪い〉という表現で母親も侮辱している。次の1行は、最初の1行よりももっと強い言葉で由梨さん個人を侮辱している。ここで〈たくさんの人たちを傷つけ〉ているのは、〈私〉ではなく〈お父さん〉なのである。しかし、〈私〉は〈お父さん〉に謝ってしまう。

   お父さん、誇れるような人間でなくて、ごめんなさい。

   お父さん、私のことが嫌いですか?
   私は、私のことが嫌いです。

 9連2行目の部分に対して〈私〉が謝るのはまだわかるが、これでは1行目で侮辱された母と姉、弟は救われない。
 先ほど、〈夫〉の感想について触れたが、この詩はもとの詩とそれに対する感想の両方から構成されている。〈夫〉の感想が入っている16連の冒頭は〈この詩を一気に書き上げて、〉という1行なので、もとの詩の部は15連までで、それに対する感想の部は16連以降のように見える(実際、浜風文庫で発表された初出形では、15連と16連の間に3行分ぐらいの空行が入っていた)。12連から15連は、9連から11連と同じように、〈私〉以外の人(ふたりの娘さん)の言葉に対する〈私〉の反応であり、詩のリズムとしては9連から11連とうまく響き合っている。
 しかし、内容から考えると、11連までの登場人物は結婚、出産前の家族だったのに対し、12連以降からは新しい家族が登場している。そして、12連から15連でふたりのお嬢さんが発する言葉は、11連の2行目、〈私は、私のことが嫌いです〉に対する反応である。お嬢さんたちがこの詩の前の部分を読んでいるのか、母親がこの詩と関係のないところでときどき口にする(のではないかと想像される)〈私のことが嫌い〉という言葉に反応しているのかは明確には示されていないが、16連の〈夫〉の感想のあと、17連以降でふたりのお嬢さんが〈私〉を抱きしめるところが描かれているので、彼女たちも11連までの全部を読んだのかもしれない。
 いずれにしても、ここで言っておきたいのは、11連までで前後を区切って読むと、この詩を読む上で何かと役に立つということである。15連までで区切って読むと、12連から15連が11連までの毒を洗い流してくれるというシンコペーションのような効果があるが、逆に11連までが訴えていた苦しみが見えにくくなる。言いにくいことを断片的に言葉にしながら、辛さの根源が〈お父さん〉にあることにようやくたどり着いたことがぼやける。それは、ぼやけるように書いたということでもあるのだろう。
 作者にとって、この詩はたぶん「もとの詩」よりも「感想」に意味があると思う。16連で夫の感想に反応したあと、次の3行がある。

   決して虚構を演じているわけではないけれど、
   私の中に詩という真実があるのか、
   詩の中に私は生きているのか。

どう読んだらよいか、なかなか迷うところだ。仮に「もとの詩」は11連までだったとして、クレプトマニアにしても〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉にしても父親の言葉にしても、そうですよね、そういうこともありますよね、と簡単に納得できる話ではない。〈私の中に詩という真実があるのか〉という言葉からは、〈私〉の真実は〈私〉以外の人には伝わらないのかという苛立ち、〈詩の中に私は生きているのか〉という言葉からは、〈私〉は本当に生きているのかという不安を感じる。
 しかし、次の17連でふたりのお嬢さんに抱きしめられ、次の4行が生まれる。

   幼い頃の大きな渦に飲み込まれたまま
   いつしか私は
   抱きしめるだけではなく、
   抱きしめられる立場に、また、なっていた。

〈あなた〉に抱きしめられてクレプトマニアから卒業できた5連がここで想起される。かつて子だった〈私〉は母になっており(ここで5連までの〈あなた〉が〈お母さん〉であることは間違いないと判断できる)、ふたりの子を抱きしめているが、またふたりの子に抱きしめられてもいる。

   その瞬間、
   間違いなく詩の中に生きていた。
   詩の中に生きていた。

という最後の3行からは、本当に生きているという充足感が伝わってくる。しかし、〈その瞬間、〉という限定と過去形からは、その充足感がいつまでも続くわけではないという思いも感じられる(実際、母に抱きしめられてクレプトマニアから卒業できた5連のあとの6連は〈けれど〉で始まって、〈醜い私を愛してくれる人など、いるわけもなく/私は私を愛するしかなかった。〉という閉塞に引き戻されている)。
 〈お父さん〉のことに話を戻そう。先ほども触れたように、「クレプトマニア」の「もとの詩」を11連までだと考えると、辛さの根源が〈お父さん〉にあることがはっきりする。〈「お前たちは育ちが悪い」/「由梨はヤク中」〉の2行だけでも相当なものだ。しかし、当事者ではない読者としては、もう少し手がかりがほしい。先ほども触れた「家族写真(抜粋)」には、次の3行がある(タイトルに「(抜粋)」とあるのは、浜風文庫の初出では、“”で囲まれた部分の後ろに家族写真を燃やしたことへの後悔の言葉が続いているからである)。

   精神を病み、大量服薬を繰り返した私を、軽蔑していた父。
   私の母ではない女性たちとの生活に安らぎを見出した父。
   腹違いの弟たち妹たちの方が優秀だ、と言って自慢する父。

「クレプトマニア」の〈「由梨はヤク中」〉の1行の意味がここで明らかになり、〈ヤク中〉という言葉の酷さがさらに激しく感じられる。そして、〈父〉が家族を捨てたこと、もとの家族をどのように侮辱したかもわかる。しかし、「透明な私」の次の3行の方が、〈お父さん〉に対する感情をよく伝えてくれるかもしれない。

   ゆりはどこだ!ころしてやる!
   おとうさんが、わたしをさがしてる。
   わたしは、いきをひそめて、かくれてる。

もっとも、これは一度ならず見ている〈怖い夢〉で、おそらく実際にそういうことがあったわけではないだろう。ただ、父親に対してとてつもない恐怖心を抱いていたのは事実だと思う。以上以外で〈お父さん〉が明示的に出てくるのは、「昼の光に、夜の閣の深さが分かるものか」の「3 由梨」だけである。

   だいぶ前、東京拘置所にいた父と手紙のやりとりをしたことがあって、
   その中に、父から届いたこんな言葉があった。

   「由梨が小さい頃、自分の鼻を指差して『パパ、パパだよ』って教えていたら、鼻=パパだと勘違いしたらしく、
   由梨の鼻を指差して『パパ、パパ』って言ってたことがあった(笑)。」

   それを読んで、
   怖かった父のイメージが完全に覆るまではいかなかったけれど、
   私の中で何かがグシャっと潰れて、
   涙が止まらなくなった。
   人は単純じゃない、多面的な生き物なんだって
   そう、腑に落ちたというか。
   ああ、私にも父親がいたんだな
   愛されていなかった訳じゃないんだな、ということがわかった。
   完璧な親なんていないってことも、
   傲慢だけど、許す許さないってことも、
   長い時間をかけて決着がつけばいいやと思い始めている。

引用がちょっと長くなった。読んでいて読者もほっとして救われる部分だが、〈父〉を〈怖〉いと思っていることはわかる。

 

4

 全33篇のうち、これら4篇にしか登場しない〈お父さん〉がなぜ強く印象に残ってしまったのだろうか。それは、詩集を何度も読むうちに、この〈お父さん〉が村岡さんの一部として村岡さんのなかに入り込んでいると感じてしまったからだ。何しろ、この詩集のなかで村岡さんに強い憎悪の言葉を投げつけてくるのは、〈お父さん〉と村岡さん自身だけなのである。まだ保護を必要とする小さな子どもにとって親は絶対的な存在であり、その時期に親が子に与える影響は計り知れないものがある。子どもの内面の奥深くに入り込んで容易に消えない痕跡を残すことはあると思う。それは、私自身がそうだったからということでしかなく、村岡さんもそうなのだと決めつける根拠にはならないが、一読者としての私は、村岡さんのなかに内面化された父親がいるという読みにひとたびたどり着いてしまうと、もうそこから離れられなくなってしまったというわけである。
 このように読むと、父と名指しされていなくても父の影が見えてくる作品が浮かび上がってくる。小詩集『イデア』のなかにもすでにある。それは言うまでもなく、「未完成の言葉たち」と「青空の部屋」のことだ。
 先ほども引用したように、「青空の部屋」には〈自分の精神と魂が互いの肉体を食い潰していく激しい痛み。〉という行がある。〈精神〉は論理的、理性的な思考、〈魂〉は衝動的に浮かび上がってくる理性で抑えられない感情のことだろうか。そのようなご自身のことを〈「白と黒の真っ二つに切り裂かれるアンビバレンス」〉と言っていることも先ほど触れたが、この行は次の3行から導き出されている。

   男でも女でもない。大人でも子供でもない。
   人間でいることすら、拒否する。
   じゃあ、お前は一体何者なんだ?

〈男でも女でもない〉し、〈大人でも子供でもない〉のだ。私はここに内面化された父親の存在を読み込んでしまう。そして、〈…激しい痛み。〉の行のあとには次のような連が続く。

(2行略)
   緑の生首が生えてきた。
   何かを食べている。
   私の性器が呼応する。
(4行略)
   私が母の産道をズタズタに切り裂きながら産まれてくる音だ。
   そして、漆黒の沼の底に、
   白いユリと黒いユリが絡み合っていた。

〈緑の生首〉が指しているものは内面化された父のペニスだろう。それに〈呼応〉しているのは〈私の性器〉だ。どちらも〈私〉なので、〈白いユリと黒いユリが絡み合って〉いることになる(もちろん、ユリは花の百合と村岡さんの名前の由梨をかけているのだろう)。「クレプトマニア」冒頭の〈私自身〉である〈不潔で醜い男たち〉との性交とのつながりを感じる。〈私が母の産道をズタズタに切り裂きながら産まれてくる〉というところが謎だが、〈母〉を傷つけているという罪の意識は感じられる。少し前のところで、〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉と窃盗のつながりがよくわからないと書いたが、〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉と母のメッタ打ちからの抱擁とのつながりと見れば、これと通じるところがあるのかもしれない。
 「未完成の言葉たち」では、「2 「夜」」の冒頭に〈私は、叫んだ。/「あの女の性器を引き裂いてぶち殺せ!」〉という2行がある。ここは〈私〉が〈お父さん〉としての〈私〉で〈あの女〉が本来の〈私〉だというように私は読んでしまう(〈私〉と〈あの女〉、そして、2行後の〈お前〉が全部同じ〈私〉なのではないかということは先ほども触れた)。しかし、この詩で特に注目すべきは、「4 「光」」の後半だろう。

   ある夜、6本指になる夢を見た。
   自分の体の一部なのに、自分の思うようには動かせない、
   もどかしい6本目の指。
   思い切ってナタを振り下ろしたら、
   切り裂くような悲鳴をあげて、鮮血が飛び散った。

   真っ赤に染まった5本指は私。
   切り落とされた6本目の指は誰?

   そんな風に、痛みで私たちは繋がっている。

〈自分の体の一部なのに、自分の思うようには動かせない、/もどかしい6本目の指。〉という2行にも、〈真っ赤に染まった5本指は私。/切り落とされた6本目の指は誰?〉という2行にも、自分のなかにある他者の存在が描かれている。それが〈お父さん〉であるとは書かれていないが(〈誰?〉なのだから)、「イデア、その後」を読み、全体を何度も読んでしまった私には、〈お父さん〉に思えてしかたがない。
 「2 イデア、その後」にも、同じように気になる箇所が含まれている詩がいくつかある。「診察室」は「クレプトマニア」と同じようにていねいに読みたい作品だが、それをしてしまうと長くなるし、この文章が何を目指しているのかわからなくなってしまうので省略して、やむを得ず今の話題に関連するところだけを引っ張り出してくるが、まずは電車のなかで見かけた女性を乱暴に犯す想像をする。

   私の股の間から鋭利なナイフが生えてきて、
   女の陰部は血だらけになった。
   絶頂に達した瞬間、女は不要な単なるモノになり、
   エクスタシーと嫌悪と憎悪のグチャグチャの中で私は
   醜く歪んだ女の顔を、原型をとどめないくらい何度も殴った。

〈鋭利なナイフ〉という女性を傷つける存在としてのペニスの非常に具体的なイメージが出てくる。「クレプトマニア」の〈母の産道をズタズタに切り裂〉くという表現に通じるものがある。これは単なる男ではなく、〈お父さん〉という〈私〉の内面に住み着いてしまった具体的な男性なのではないか。
 そして、〈殺す、殺される、死ぬ、死なせるなどの/不穏な言葉が〉〈飛び交う〉診察室の場面を間にはさんで次のような2連で締めくくられる。

   死刑判決を受けて、
   独居房にいる孤独なあなたを今すぐ連れ出して
   狂おしいほど交わりたい。一つになりたい。
   そして、あなたが他の人にしたように、
   私をメッタ刺しにして、殺して欲しい。

   この詩は、午前2時過ぎにあなたとわたし宛てに書いた
   歪なラブソングだ。

この〈あなた〉は誰とは名指しされていないが、殺人事件を起こして〈死刑判決を受け〉た不特定の誰かではなく、特定の人物がイメージされていると思う。そして、冒頭の想像とつながっている。〈あなた〉は〈私〉であり、「クレプトマニア」の冒頭の〈不潔で醜い男たちと交わる〉〈私自身〉や「未完成の言葉たち」「2 「夜」」の〈私〉、〈あの女〉、〈お前〉でもある。
 実は、〈父〉に関して唯一ほっとする描写が含まれているとして先ほど引用した「昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか〉は、この〈診察室〉の半月後に発表されている。これもじっくり読むべき作品で、「1 花」の部分だけ〈診察室〉の3日後に先に発表されていて、そのあとに「2 眠」、「3 由梨」が書き足されているという形なのだが、「3 由梨」の冒頭に先ほども引用した〈東京拘置所にいた父〉が出てくる。〈死刑判決を受けて、/独居房にいる孤独なあなた〉というのはその〈父〉のことであり、〈私〉のことでもあるように見える。
 「イデア、その後」には、ほかにも「絡み合う二人」、「鏡」、「ピリピリする、私の突起」などにこのテーマに関連して注目すべき箇所があり、それぞれていねいに取り上げるべき意味があると思うが、詳述は避けたい(この文章が終わらなくなってしまうので)。
 ここでちょっと考えておきたいことがある。この文章の最初の方で、「イデア」が〈言葉を書き留めたい〉という時期、「イデア、その後」が〈言葉を探している〉時期というような見取り図を書いたが、「イデア、その後」が〈言葉を探している〉時期だというのはちょっと違うのかもしれない。〈お父さん〉、あるいは〈父〉という言葉が詩のなかに現れた過程をこのように見直してみると、〈お父さん〉という言葉は〈探して〉見つかったものとは思えない。単にお父さん一般にとどまらない村岡さんにとってある特別で具体的な意味を持った父親の像はずっと前からあり、それを表す〈お父さん〉、あるいは〈父〉という言葉は村岡さんのなかにあったと思う。
 しかし、言葉を発すること、特に文字や映像として残るような形で発することには、途方もないエネルギーが必要になることがあると思う。自分にとって特に重い意味があり、容易に解決できないことでは特にエネルギーが必要になるだろう。そういう言葉を発するためには、何かしら噛み砕いてその言葉を客観化(無害化?)できるようにする咀嚼の過程(気持ちの整理?)が必要になる。村岡さんが詩よりも十数年前から取り組んでこられた映像作品でも、公式サイトの映像作品紹介のページ( http://www.yuri-paradox.ecweb.jp/works.html )を見た限りでは〈父〉というテーマは見当たらない。〈未完成の言葉たち〉、〈青空の部屋〉、〈クレプトマニア〉、〈家族写真(抜粋)〉、〈診察室〉(触れそこなっていたが、この作品は浜風文庫では〈家族写真〉の次に発表されており、詩集でも同じように配列されている。また、映像作品の『イデア』に家族写真を燃やすシーンがあるが、詩作品〈家族写真〉の3連以降の内容は映像作品には含まれていない)、〈昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか〉という作品の流れを見ると、〈言葉を探〉す過程というよりも言葉を咀嚼し、外に発せるようにする過程のように感じる。

 

5

 詩集を何度か読むうちに、この詩集はノンフィクションとして書かれていると思うようになった。これはかなり珍しいことだと思う。今どき、詩を書こうと思って現代詩の講座に通えば、詩はフィクションでよいのであって、小学校で教わったように思ったことを正直に書くことを最優先にすることはないと教わるだろう(もっとも、私には講座に通った経験はないのでここは想像である。小学校でそういうことを教え込まれた経験の方はある)。独学でも、ゲンダイシというものを目指したのなら、あれこれの詩論などを読んで、思ったことを正直に書いたりしないものだということを学ぶ(私はこっちの方)。
 そう思った理由はいくつかある。ひとつは随所に挿入されている写真だ。「1 イデア」の最後には、こちらを向いている猫が小さく写っている家のなかで撮ったと思われる写真がある。これは生きていたときのしじみなのだろう。小詩集『イデア』には、これを含む4枚の猫の写真がある。「しじみの花が咲いた」には、黄色い花の写真がある。「はな と グミ」には折り紙、「眠は海へ行き、花は町を作った。」には小さな町という詩のなかで出てきたものの写真が入っている。そして、映画『イデア』には、家族写真を燃やすシーンがある。詩集を何度か読むうちに、これらはすべて詩に書かれたことが真実であることを証明するという任務を負ったものに見えてきてしまったのである。もちろん、それだけが目的だと言うつもりはない。むしろ、言葉だけでは足りないので、写真や映像も使っているということなのかもしれないが、結果として存在証明のようにもなっているとは言えるだろう。
 もうひとつの理由は写真ほど多くの例があるわけではないが、作品自体にある。先ほども触れたように、「クレプトマニア」は「もとの詩」と「家族の感想」のふたつの部分に分かれている。そして「家族の感想」は、「もとの詩」と一体となった村岡さんの現実の思いに対する感想になっている。つくりものに対する感想ではない。また、「塔の上のおじいさん」には、夢のなかの話だが、〈「すごい御宅だったよ。/塔の上のラプンツェルみたいなお家だった!/今から詩に書くから! そしたら読んでね、野々歩さん」〉という3行がある。ここで当たり前の前提となっているのは、見てきたものを詩に書くということだ。そして、そのような詩を家族が読んで書かれた事実についての感想を言うということが日常になっていることを窺わせる。
 そして、ある意味で決定的な理由がもうひとつある。村岡さんの作品はノンフィクションなのではないかと考えるようになり、この文章を書こうとしていたときに、たまたま公式サイトのprofileのページ( http://www.yuri-paradox.ecweb.jp/profile.html )を見て驚いた。「私の制作方法」の項目に次のような一節があったのだ。

   私の作品は、フィクションではありません。どの作品も、私が見たもの・聞いたもの・体験したこと…等の忠実な再現です。作品中に描かれるもの全てが私にとっての「現実」なのです。

しかも、同じページの「私が表現したいこと「私=パラドックス」」には、〈表現手段にこだわりは無く、絵でも文章でも映像でも何でも良いのです。〉とも書かれている。これはおそらくかなり前に書かれたもので、映像作品の作者として書かれたものだろうが、「クレプトマニア」の〈真実〉という言葉はここに書かれた〈現実〉と同じ意味だろう。この文章で書いた私のあれこれの推測には的外れな部分がいろいろあるだろうが、村岡さんの詩がノンフィクションとして書かれているという推測はほぼ間違いないと思う。
 とは言え、フィクションとノンフィクションは言葉にして並べた印象ほど大きく違うわけではない。そもそも、ノンフィクションという言葉はフィクションという言葉よりも厳密で、虚構の部分がちょっとでも混ざっていたらノンフィクションとは言えなくなる。しかし、虚構がちょっとだけ混ざっているフィクションは、まったく架空のフィクションよりもノンフィクションに近いものになるだろう。
 たとえば、村岡さんの義父である鈴木志郎康さんの詩は、ほとんど詩集ごとにスタイルが変わり、取り上げられている題材も変わるので、簡単にひとことでまとめられるものではないものの、実際に起きたこと、見聞きしたことを素材として書かれたらしいものがかなり多数ある(それこそ、村岡さんの作品と同様に家族が登場するものも)。それらの作品は、完全なフィクションよりもはるかにノンフィクションに近い。しかし、多くの場合、書かれている題材自体を伝えることよりも、その題材に対する作者の視角に作者の関心があるように感じる。実際に起きたことを素材としているので、純粋なフィクションではない。しかし、鈴木志郎康さんというレンズを通し、書かれた事実よりもレンズ自体による光の曲がり方に表現行為の重点が置かれるために、書かれた事実のノンフィクション性は軽視され、ときには意図的に歪められる。ここで思い出さずにはいられないのが、鈴木志郎康さんに魚眼レンズで撮った写真を集めた『眉宇の半球』という本があることだ。そのあとがきには、次のような部分がある。

 わたしは撮影行為を一種の思考装置として来たわけである。写真を撮ることで、写真の意味の生まれ方を考えるのを楽しんできた。魚眼レンズはそういうことでは非常に楽しい。撮影するときの微妙な身体の動きが、向き合った空間の意味の持ち方に大きく影響するところが、おもしろくて堪えられない。つまり、これら写真は、結果としての「写真」であるから、それを見る方はそこから出発してしまうが、実は撮ったわたしにとっては終点なのだ。

 これは、鈴木志郎康さんの詩にも(そして多くの現代詩人の詩にも)当てはまることではないだろうか。書かれた内容よりも、それをどう書くか、どう歪めるかに興味がある。ノンフィクションを目指していないので、最終的に一切の虚構の混入を許さないノンフィクションにはなり得ない。
 このことに関連して印象に残っていることがある。20年以上前に初めて鈴木志郎康さんの奥様で、鈴木志郎康さんの詩集にたびたび登場する麻理さんと初めてお会いしたときのことだ。何しろ前世紀のことなので正確なところは覚えていないが、志郎康さんの詩にたびたび登場されることについてどう思っておられるのかを尋ねたら(もちろん、すぐ横に志郎康さんご本人もいらっしゃったのだが)、「あれは私ではありません。私はあんな人ではありません。あんなのは大嘘です」と満面の笑顔で返されたのだ。言葉の細部ははっきりと覚えていないが、笑顔で全面否定は間違いないところで、そこは死ぬまで忘れないだろう。志郎康さんも、不機嫌になったり困った顔をされたりするのではなく、いっしょに笑っていた。ところが、本当のお名前は麻理さんではなく真理子さんであるらしいということは、つい最近Facebookを見るまで知らなかった。でも、鈴木志郎康さんがどなたかの文章について、「麻里じゃなくて麻理だ」と怒っているところを目撃した記憶もある。要するに、「麻理」さんは鈴木志郎康さんの詩の世界のなかでの真実なのだ。
 このように言うと、先ほどの村岡さんの文章も〈私にとっての「現実」〉と言っているので、両者に大きな違いはないようにも見える。〈私にとっての「現実」〉だから、あなたにとっての現実ではないかもしれないと言っているわけだ。しかし、作者の意識のなかで、ノンフィクションとしての生身の自分を押し出すか、作品の世界はあくまでも作品の世界であって事実そのものではないと考えるかの間には、天と地ほどの差があると思う(どちらかが優れているということではなく)。
 ノンフィクションとして書こうとすると、書いた内容にフィクションが混ざらないようにしようとする。フィクションを排除して書こうとすると、作者が特に意識しなくても、作者という統一体が作品全体にある秩序を与えるようになるのではないだろうか。もちろん、作者自身にも統一の取れていない部分やはっきりと矛盾する部分があり(村岡さんの主題はまさにそこにある)、たとえば光を求める作品と光を拒絶する作品が現れるというようなことはあるだろう。作者にも、外部の情況の変化や自分のなかの感覚や思考の発展とともに変化が現れるはずだ。しかし、作者にとっての現実にできる限り忠実に書こうとすれば、矛盾にも一貫性のある形が現れ、時間とともに起きる変化も、前の段階を踏まえた成長、変化であって、唐突なものにはならないだろう。
 それに対し、ノンフィクションとして書く気がなければ、作品を作品らしく仕上げることに力を注ぐことになる。だから、作品が独立し、過去の作品が今の作品に影響を与えたり、今の作品が将来の作品を縛ったりすることはない。
 もっとも、これは図式化しすぎで、ノンフィクションとして書くという意識がなくても、同じ作者が書くものが大きくばらついたりはしないものだろう。ひとりの作家を論じるときには、この作家にはこれこれこのような傾向があり、このような主題の展開、発展があるという指摘をするものだ。しかし、ノンフィクションとして書かれた詩群には、その程度ではとても済まないぐらいの複雑なリンクが張り巡らされる。そのため、ひとつの詩を単独で解釈するのが難しくなる。個々の作品の独立性が弱まるということだ。この文章がこのような形で、つまりある作品のある部分と別の作品のある部分のつながりを執拗に追いかけるような形で書かれることになったのはそのためである。

 この文章は、映像作家として確固たる地位を築いた村岡さんがなぜ新たに詩作にも進出したのかという素朴な疑問から始まった。その疑問がつまらないものだったことはすぐにわかった。しかし、ひとつひとつの詩作品には作品としてのまとまりがありつつ、それらの詩作品の間に密接なつながりがあるこの詩集は、まとまった複数のシーンが組み合わされて作られる映像作品の比喩のようでもある。
 浜風文庫( https://beachwind-lib.net/?cat=48 )には、すでにこの詩集以後の作品がたくさん集まっている。それらを読むと、浜風文庫に「ねむの、若くて切実な歌声」が掲載されてから4年もたっていないのが嘘のように感じる。この文章ではふたりのお嬢さんについては最初の方でしか触れなかったが、2年ちょっとの詩集のなかの時間でも、成長にともなう大きな変化が感じられる。詩集以後の2年弱で変化のスピードがさらに上がったような気がする。月並みな言い方だが、村岡さんの詩からは当分目を離せない。
(2021.10―2022.09)

 

(後記)
 2021年7月に出た詩集について、内面化された父親とノンフィクションというアイデアをつかんで10月頃からこの文章を書き始めたが、2ぐらいまで書いたところで停滞してしまった。今年の1月末から2月始めにかけて3の冒頭を書こうとしたが、ほんの少し進んだだけでまた止まった。今度の停滞は非常に長く、やっと再開したのはこの8月で、何とかここまできた。文章を区切って番号を入れたのはこの作業の過程である。
 4を書き終えようというところで、Profileページを確認するために久しぶりに公式ページを見た。そしてdiaryページを見ていないことに気づき、恐る恐る覗いてみた。恐る恐るというのは、不都合な事実がわかっちゃっう恐れがあるからだ。2004年から書き続けられているので(毎日ではないが)、かなりの量がある。最初はつまみ食いのような読み方だったが、この後記を書く前に全部読んだ(映像作品もVimeoで見られる分は一通り見た)。で、予想通り不都合な事実がわかっちゃったわけである。
 「しじみ と りんご」の〈始めたばかりの拙い詩〉というフレーズを鵜呑みにして、村岡さんの詩は『イデア』から始まったのだと思い込んでいたが、それは村岡さん自身が自らの言葉を「詩」として押し出すようになったのが『イデア』、「ねむの、若くて切実な歌声」からだということに過ぎず、diaryにはすでに詩の原石がたくさん眠っていたことがわかった。それこそ、はてなブログに移行する前の2004年12月11日の最初の記事からそうだ( http://www.yuri-paradox.ecweb.jp/diary/04-12.html )。

   基本的に私は、「変化するもの」より「変化しないもの」に惹かれるんです。根がグータラだからかもしれないけど(笑)。「不変なもの」に惹かれるの。だから自分自身の変化も望まないんです。永遠に私は私でいたいんです。ただね、変化は変化でも、唯一例外、「成長」という名の変化だけは大歓迎であります! 常に学習して常に成長し続けたいわ!

〈「普遍なもの」に惹かれるの〉から〈…大歓迎であります!〉までの各文の展開の速さ、疾走感(あえて吉増剛造的な語彙を使うが)はすごいものだと思う。はてなブログ移行前のすべてのエントリーに、さまざまな意味で詩的だと思わされる部分が含まれている。
 しかし、「ねむの、若くて切実な歌声」以前の詩的原石は、散文の一部に詩的なものが含まれているということには留まらない。2006年3月3日の「タイトルなんて思い浮かばないです」が最初だと思うが、行分け詩のように一文一文で改行するエントリーも現れる。これはブログなどではよくあることだと言ってしまえばそれまでだが、2007年5月3日に「言葉にならない詩」というタイトルで、一文の途中でも改行するエントリーが現れる。これは「青空の部屋」の原形とも言うべきもので、一読者からすれば詩作品そのものだと言えるだけの質がある。2008年には、義父である鈴木志郎康さんの『声の生地』の感想があり、行分けの投稿が目立って増えてくる。その最初である2008年6月6日の「箱の中から こんにちは!」は、〈今日のこのブログ記事〉という言葉が出てきて、詩を書くという意識ではないのだろうが、最後の行が秀逸だ。
 統合失調症の治療のために作家活動を休止したという期間はブログ記事も少なくなるが、2017年から2018年にかけてはこの種の詩の卵がたくさん登場する。しかし、村岡さんはそれらをあくまでも「詩」としては扱っていない。ただ、その後の詩の素材としては使っている。たとえば、「透明な私」から〈おとうさん〉が出てくる箇所として引用した3行は、2017年7月7日の「こわいゆめ」に含まれている3行の1、2行目を逆転させたものだ。村岡さんの詩が「ねむの、若くて切実な歌声」から唐突に始まったわけではないことがわかった。イメージの多くには、長ければ10年以上の歴史がある。村岡さんの詩が2018年に始まったという先入観で文章を書いてしまったので、いやあ参ったというところである。
 詩集のなかでの父親の登場が遅いということも書いたが、diaryでは、先ほどの2017年7月7日以外で2008、9年に3回登場している。それらはどれも悪い登場のしかたではない。〈「人生は絶望でいっぱいだけど、ほんの少しの希望があれば、それだけで、人生を生き抜く価値がある」〉という〈良い言葉〉を言った人であり、〈「晴れ着を着て、記念写真を撮りなさい」〉と言ってお金を渡してくれた人であり、〈知識欲が旺盛な人〉であって、「クレプトマニア」や「家族写真(抜粋)」で出てきた人とは別人のようである。しかし、3箇所とも注意して読むと、父に対して複雑な感情を抱いていることは伝わってくる。
 ほかにも、diaryを読まずに、詩集だけを読んだためにちょっと不都合なところはいくつかある(〈私が母の産道をズタズタに切り裂きながら産まれ〉たというのが事実だったらしいことなど)。ちなみに、Facebookの古い投稿は読んでいないが、それも読んでいればさらに新たなことがわかってしまうだろう。しかし、不備がいくつもあってもまったく無駄なものを書いたわけではないだろうと思うので、このまま提出することにした。以上、長い言い訳で恐縮です。

 

 

 

 

また旅だより 48

 

尾仲浩二

 
 

猛暑、コロナ禍、お盆初日の朝9時半から開催と悪条件のブックマーケットにオマケに台風が来てしまった。
会場は来年取り壊されてしまう中野サンプラザ。
こんな日に人が来るのだろうかと心配していたけれど、開場と同時にたくさんの入場者があった。
おしゃれな人も、いかにもな人も、痛い系の人も、フツーの人もいて、これはこのブックマーケットが「まんだらけ」の主催で、アート・カルチャー・文芸・芸能・怪奇漫画・精神世界に占いと様々な店が並んだので、それぞれのファンが集まったからだと思う。いかにも怪しい中野ブロードウェイ的でうれしい。アートだけではこんな雰囲気にはならない。
写真のファンも少なからず雨の中やってきてくれ、感謝感謝。
中野は今、再開発の真っ最中。いつもの見慣れた風景がもうすぐなくなってしまう。

2022年8月15日 東京中野にて