佐々木 眞
旅は道連れ
液体セッケンの時代をへて
オーガニックでひとまわり
ふたたびかたちあるあのセッケンを
手に取る今日この頃です
小さくなったセッケンを
新しいセッケンの背中にくっつける
くりかえしくりかえし
うまくくっついて一体化してくれると
なんだかうれしいのです
思い出すと辛いことも
忘れてしまうとかなしい
けれどご心配なくそういうことは
落とせないひつこい汚れのように
あの頃は
どんな汚れだって落とせるものと
言葉は水のよう蛇口からあふれ
いや、それは熱い湯だったかもしれない
いま頃は
電車の中で腰掛けた腰が重い
人々はスマートフォンにおおいかぶさり
親指はめまぐるしく動いて
乗り換え通路を高速ですり抜けて行く
今日も
小さくなったセッケンを
新しいセッケンの背中にくっつける
くりかえしくりかえす寿命のリセット
やがて
古いセッケンはいつのまにか消え
ぴかぴかのまあたらしい人生が
ふたたび忘却を演出する
いまでは
落ちない汚れがある
のも知っている
セッケンの洗浄力というよりは
いや、それは落としたくないのかもしれない
一体化すると
なんだかうれしいのです
セッケンの白さも脆さも
まるであたしの骨のようで
(1993年 詩集「忘却セッケン」より)
雑誌で
自分はどこからきて
どこへいくのかということを考えている科学者の話を
読んだ
その時 私は
電車の中で
家へ向かっていた
遠い遠い昔に
忘れ去られたことを再び
憶い出そうとする
その人の顔のところに私の親指があたっていた
家にたどり着いたら
また、私は
忘却セッケンで手を洗ってしまった。
机に向かって
自分はどこからきたのか
憶い出そうとした
(私は、多分、男と女が結合してそして女の人の中からきたみたいだ
けれど、
私の体液の表面張力で(それは、コトバかもしれない)
その細かな水の玉に強引に
くるめてくることができる記憶は
ほんのちょっとです(科学者の言う宇宙のチリより小さいみたい)
その夜 お風呂に入って
また、私は
忘却セッケンで身体を洗ってしまった。
この忘却セッケンが
どんどん小さくなって
しまいになくなるとき
私は終点に着くのだ
私はかかれるためにこの世にあり
光彩を放つ
水玉模様のアームカバーから はみだした腕を
かく女
その赤黒いいびつな物体はあなた自身で、
私ではない
かかれるためにある私は
太陽とか、空気とか、ドラム缶とか、総理大臣とかの
力を借りて 存在感を増し
人気を博した
私をかくために大黒屋店員を辞めた青年Nは
首筋からボロボロ落ちる自分の一部を
勝ち取ったような表情でかき集め 屑カゴに捨てた
Nの頭で音楽(大塚愛)が鳴り
ザーと音を立てて 減っていくN
そして今度は客として大黒屋に私を買いに行く Nと
百円で買われていく 私と
それを眺めている私
増える私
減らない私
決してかかれず、傷まない私
百円アトピー
私をかくために成長し
私をかくためにお米をとぎ、
私をかくために私をののしる世界に だけど私はまったく不調和で
今日も あちこちの私とそっと目を合わせながら
望郷の歌を口ずさむ
(2017年9月20日 東京大学附属病院皮膚科待合室で)
「ひよっこ」の時子は、ツイッギー・コンテストに当選するんでしょうかねえ。
みね子のお父さんの頭と、マスコミに追われて逃げてきた川本世津子の仕事も心配。
北朝鮮のミサイルより、ずっと心配。
三横綱が休場して、高安と宇良も休場した秋場所は、どうなるんだろう。
私の好きな、「日本人より日本人な横綱」ただひとりで、大丈夫なんだろうか。
北朝鮮のミサイルより、ずっと心配。
突然の解散総選挙で自公+新党の保守勢力が圧勝して、「保守にあらずんば人にあらず」の国になったら、憲法第9条なんてどうなるんだろう。
北朝鮮のミサイルより、ずっと心配。
きのう、青大将の長くて白い抜け殻を庭で見つけた。
あれは、今頃どこにいるのか。天井で、とぐろを巻いているのかしらん。
北朝鮮のミサイルより、ずっと心配。
寄る年並みに勝てず、われら老夫婦が先立ったら、残された子供はどうなるんだろう。
いったい誰が彼の歯を磨いて、爪を切ってくれるんだろう。
北朝鮮のミサイルよりずっと心配。
北朝鮮のミサイルよりずっと心配。
わたしのために野菜が刻まれる
じゅうじゅう
それらを聞きながら
スパゲティはケチャップたっぷり
ベーコンより豚バラ
粉チーズは少し控えめに
我が家のスパゲティ=ナポリタンだ
ケチャップはストックしておくのを忘れるな
1度でほぼ使いきるから
お買い得でもメーカーは守ること
父のスパゲティ
うまくいったときの70点以上くらいのときの
父の満足そうな食べる姿
わたしのための目の前のスパゲティ