放蕩息子

今井義行

 

母と子の間には”絆 ”というものがあって━━━

つる草のように全方位に伸びている

くっきりと健やかに伸びているものもあれば

うねうね・・・と伸びているものもある

どういう絡み方をするにつれ良し悪しの問題ではなく

ねじれ具合のようすがどんな形状──オブジェになっているか

「ごみは可燃物と不燃物を必ず分別して 下記の曜日の朝に出してください」 ”絆 ”を引きはがして

決済が下るとき なにかが華かは分からない

どちらがより相手を咲かせようとしたか

●◆▼★Σ§ΗΦ「●◆」「●§」「●α」」「●Σ」・・・

けれど いつも頭に●がついて見守られている

図鑑によるとわたしは「放蕩息子」の相なのだそうだ

母親にとって 子どもはいつまでもあのときの子ども

勝手に物件を契約して 狭い場所で詩を書こうとする

わたしを「放蕩息子」として否定したがっているかのように

好きかってしているから仕方ないけれどね

おかあさん・・・あなたは全知全能でないことも

「こんなはずでは」とも既に判って知っているのでしょう?

それでも 放蕩息子は「●◆」「●§」「●α」」「●Σ」・・・

いつも頭に●がついて見守られている

・・・・・・・・・・・・・・・・・

図鑑によるとわたしは「放蕩息子」の相なのだそう

どんな放蕩かといえば「静かで狭い場所で詩作三昧すること」

これは 損か得かのスケールでは測れるものではないな

 

 

 

 

あるサボタージュのお話

辻 和人

 

一人暮らししていた頃、アパートで保護した野良猫のレドとファミ
実家で預かってもらって早4年、すっかり馴染んだと思っていたら……

レド
レドレド
レドレドレドレ
大変、大変

結婚式を無事終えてぐったりしていた2日後
実家の母より緊急の電話
「大変、大変
レドちゃん、昨日から散歩から戻らないの」
えぇーっ
「一度ベランダまで戻ってきたんだけど
お父さんが家に入れようとしてずんずん近づいたら
また逃げちゃってそれっきりなのよ」
あ、大変、そりゃ大変だ

それからぼくの頭は鳴りっぱなし
大変、大変
レド、どこ?
レドレドレドちゃん、どこにいる?
レド
レドレド
レドレドレドレ
仕事中も鳴りっぱなし
困ったな、週末に実家に帰って探しに行こ

ところが3日後の早朝また電話
「さっきレドちゃん戻ってきたの
ベランダで大きな声で鳴くから急いで戸を開けたら
家の中に走り込んで、ファミちゃん探してるのよ
ファミが、どうした、どうした?って顔して出てきたら
安心したみたいでエサ食べて
食べ終わったらお腹出して甘えるから
抱っこしていい子いい子してあげて
それで満足したみたいで冷蔵庫の上のいつもの場所にぴょーんと飛び乗って
いつものようにおねんねしちゃったよ
でもまあ、良かったねえ」

更に更にお昼頃
「さっき3つ隣の家の人が後で訪ねてきて
おたくの白い猫ちゃん、ウチの庭に3日間じっとしてたって言うのよ
じっとうずくまってるからどうしてるのかなって
かわいそうに思ってご飯あげてたって
ファミも時々会いに来てたらしいのね
なんか心配して損しちゃった感じよ」

えーえーっ
そんな近くにぃ
ファミも一緒!
大変、大変
って程じゃなかったのね
ぼくも心配して損しちゃったな
レド
レドレド
レドレドレ

「猫を外で飼わないでください」
なんてゆう回覧板が回ってくるご時世
だから猫たちは早朝だけ外に散歩に出ることを許されてる
いつもはお腹が空いて2時間もすると帰ってくるんだけど
その日、レドの心に
ふと
「今日は、帰らなくていいかな」
というアイディアがよぎっちゃったんだよ
な、レド
レドレド
レドレドレドレ

3月下旬の空気ってまだ結構冷たいじゃない?
我慢できなくはないよ
お庭の枯れ草に体を寄せてれば
一匹でずっといてさみしくない?
薄い陽の光が目の前でゆらゆら揺れていれば
さみしくないよ
それに毎朝仲良しのファミちゃんがあくびしながらやってきて
10秒臭いを嗅ぎに来てくれるから
全然さみしくない
かわいがってくれたお家の人の顔を見たいって思わない?
……
……

あはっ、何だそりゃ
たった3軒隣で「飼い猫する」ことををサボタージュかよ
何不自由ない暮らししてるくせに
レド
レドレド
レドレドレ

でも何となくわかるよ
いつもいつもかわいがられなけりゃいけないって
負担だもんな
甘えなきゃいけないって
負担だもんな
おいしいモノねだらなきゃならないって
負担だもんな
たまにはサボりたいよな
飼い猫をサボって
ただの猫に戻る
そういう時間って
ウン、大切だ
ぼくなんかこないだまで「ただの猫」状態に浸りきってたもの
レド
レドレド
レドレドレドレ

「婚約者」から「妻」になったばかりの妻が
電話を傍で聞いていて
「レドちゃん、帰ってきて良かったねえ」
というから
「そうだね、ほんと良かった、安心したよ」と答えた

でもね
ほんとにほんとは
プチ家出できて良かったね
飼い猫を休めて良かったね
なんだよ
ぼくはさすがに家出はできないけどさ(笑)
妻に「おはよう」を言ったりハグした後に現われる
弱い草が薄い陽光になぶられるようなしなる薄暗い空間に
ひゅっと入り込んで
冷たい地面の上にじっと体育座り
なんてことは「夫」になってからも何度かやったよ
(「夫」になって幾日もたたないけど)

大変、大変、じゃない
自然なことなのさ
レド
レドレド
レドレドレドレ

 

 

 

『ペチャブル詩人』が「丸山豊記念現代詩賞」を受賞しちゃってね。

鈴木志郎康

 

 

納豆で昼飯を食べ終えて、
ベッドでテレビドラマを見ようと思っていた
二〇一四年二月二八日の午後のこと、
丸山豊記念現代詩賞事務局の熊本さんという人から
電話が掛かって来た。
知らない人だ。
何度も聞き返して、
丸山豊記念現代詩賞を受けるかっていう、
『ペチャブル詩人』が受賞したって、
勿論、受けます受けます、と応える。
でも、受賞のことは正式発表の
三月二八日まで極秘にして下さいって言われて、
妻の麻理には言ったけど、
息子たちにも言えない言わない。
何か浮いた気持ち。

嬉しいね。
『ペチャブル詩人』が第23回丸山豊記念現代詩賞を受賞しちゃった。
これで受賞は四つ目だ。
この次の詩集も、またその次の詩集も受賞したいね。
まあ、欲張りのわたしがそれまで生きていれば話だけれど。

ところで、
丸山豊記念現代詩賞って、
知ってはいたが詳しくは知らない。
Webで見ると、
谷川俊太郎、新川和江、まどみちおが受賞している。
東京では余り知られてないけど、
九州では権威ある賞だ。
翌々日にメールが来て
受賞の言葉を千字と写真二枚を送ってくれと。
受賞は兎に角光栄で嬉しいけれど、
その言葉を書くとなると、
ただただ嬉しいじゃ、済まされない。
そもそも、
詩人丸山豊のことは
名前だけしか知らないんだ。
その詩を読んだことがない。
更に詩人丸山豊をWebで見ると
詩を書いていたお医者さんでその上、
久留米市に病院を開設、九州朝日放送取締役、久留米市教育委員も務めたという。
九州では知名人だ。
詩人の安西均、谷川雁たちと同人誌をやって、
森崎和江や松永伍一や川崎洋など多くの詩人を育てた、いわば
九州の現代詩の大御所といわれた詩人。
その丸山豊の詩を、
わたしは読んだことがなかった。
わたしは東京在住詩人、丸山豊は地方在住詩人ってことか。
わたしって本当に見識が狭いんだよなあ。
早速、amazonに注文だ。

日本現代詩文庫22の「丸山豊詩集」を取り寄せた。
読んでみると、
北原白秋を読みふけって、十六歳で詩を書き始め、
わたしが生まれる一年前の一九三四年に、
十九歳で処女詩集『玻璃の乳房』を出している。
ランボオやラディゲに憧れた早熟の詩人だ。

海の花火の散ったあと
若いオレルアンの妹は口笛を吹いて 僕の睡りをさまします
夜明けを畏れる僕とでも思ふのかね

モダンな格好いい言葉だ。
年譜を見ると、
処女詩集を出す一年前に、
文学を志す早稲田の高等学院の学生だった丸山少年は、
東京から九州に戻って、
医師の父親の跡を継ぐべく九州医学専門学校に入学している。
ここに丸山豊の詩人にして医者の人生が始まったのだ。
軍国主義にまっしぐらって時代だ。
日本の國は一九三七年に支那事変(日中戦争)を起こし、
更に一九四一年十二月には大東亜戦争(太平洋戦争)の勃発だ。
久留米は当時、第18師団司令部や歩兵第56連隊が置かれた軍都。
丸山豊は一九三九年二十四歳で軍医予備員候補者となり、
翌年、臨時召集を受けて軍医少尉となる。
一九四二年五月には二十五歳で中国雲南省に出征する。
丸山豊は詩人であり医者であり、そして軍人になった。
それから軍医として東南アジアを転戦して、
一九四四年五月、二十九歳で北ビルマ・ミイトキーナで死守の戦闘。
米英中国の連合軍の猛攻撃に、
軍医として為す術もなく傷病兵たちが戦死していく。
(と丸山自身が後に書いている。)
八月、丸山豊が「閣下」と呼んでいる
部下を愛する人格者の司令官水上少将が、
将兵を生かすために死守命令に反して自決。
それで丸山軍医も生き残っていた兵隊も戦闘から解放されて、
戦死者の死体や白骨が散乱する密林の道無き道を敗走する。
死ぬ力も無くした兵隊を見殺しにしなければらなかったという。
丸山軍医は尊敬する水上少将の死によって生かされた。
わたしには想像を絶している。
丸山軍医がビルマで苦戦している当時、
九歳のわたしは集団疎開で栄養失調になり、
東京に戻って米軍の空襲に遭い遂に焼夷弾で焼け出されていたんだ。
この北ビルマ・ミイトキーナの凄まじい闘いの様子を、
丸山豊は自分の比類が無い体験として終戦後二十年を経て、
ようやく『月白の道』に書き残した。
多くの戦死者の傍らで辛くも命を保てたその複雑な心情は、
丸山豊の魂の深奥にあって日常の意識を急き立てていたようだ。
戦後の一九四七年三十二歳の時の詩集『地下水』以降の詩には、
死者に対する慚愧と生者へ向けられた鼓舞が感じられる。
わたしは敗戦後六十年余りを経た2014年の今年、
苛烈な戦争体験を経た詩人丸山豊の言葉に出会えたというわけだ。
彼は屈折した詩を書くことによって肯定すべき日常に陣地を築き、
戦死者たちの声と向き合っていたのだろう。
五十歳の詩集『愛についてのデッサン』の二編、

  *
ビルマの
青いサソリがいる
この塩からい胸を
久留米市諏訪野町二二八〇番地の
物干竿でかわかす
日曜大工
雲のジャンク
突然にくしゃみがおそうとき
シュロの木をたたく

  *
雪に
捨てられたスリッパは
狼ではない
はるかな愛の行商
あの旅行者ののどをねらわない
じぶんの重さで雪に立ち
とにかくスリッパは忍耐する
とにかくスリッパは叫ばない
羽根のある小さな結晶
無数の白い死はふりつみ

ここに書かれた「久留米市諏訪野町二二八〇」を
Googleで検索する。
と、画面の地図の上を近寄って近寄ると、
「医療法人社団豊泉会」が出てきた。
更に、それを検索する。
「医療法人社団豊泉会丸山病院」のHPにヒットした。
「人間大切 私たちの理念です」とあって、
「『人間大切』は初代理事長丸山豊が残した言葉です。」とあった。
そして更に「詩人丸山豊」のページに移動すると
「丸山 豊『校歌会歌等作詞集』」のページに行き着いた。
地元の幼稚園から小学校中学校高校の校歌、そして大学の校歌、
それから病院や久留米医師会の歌などを合わせて六十九の歌詞を
丸山豊は作っているのだ。
驚いた。すごいな。
丸山豊は戦後、医者として、詩を書く人間として、
地元に生きた人だ。
生半可じゃないねえ。

その校歌を一つ一つ読んで行くと、
土地の山や川や野が詠み込まれていて、
光が輝き、誇りや未来への希望が唱われている。
それを読んでいると不思議に、
『月白の道』に書かれていた敵の銃弾に追われて、
逃げて死に直面したときに脳裏に浮かんだであろう郷里の
情景がここに書かれているように思えてきたのだった。
そうか、ああ、そうかあ。
丸山豊が「筑後川」の合唱曲の歌詞を書いたのも、
自己に向き合って迫る現代詩を書くことでは得られない言葉、
子どもたちや若者たちに唱われる言葉、
人びとの間に広がっていく言葉、
それは戦場で死線を越えて生き抜くために求めていた
郷里を語る言葉だった。
それを書くのが戦後を生きる詩人の一つの生き方だったんだろうな。

九州の古本屋からインターネットで、
一九七〇年発行の『月白の道』を買って読んだ。
その「あとがき」に、
部隊を共にした勇敢な模範兵だった帰還兵が、
「そのうち、となり村の農家の娘をめとり、げんきな子供をうみ、
村の篤農家として、一見なごやかな朝夕を送っていました。そして
十数年が経過しました。ある日、とつぜん、『なんの理由もなく』
農薬をのんで自殺したのです。もちろん、遺言も遺書もありません。
村のひとは、不思議なことよ、と首をかしげるだけです。」
と書かれていた。
戦地の過酷な体験の記憶が命を縮めることがあるのか。
丸山豊は詩を書くことで生き抜いたのか。

また、九州の古本屋からインターネットで、
一九八三年発行の詩集『球根』を買って読んだ。
「自画像」という詩があった。

自画像

それだけの力
またはそれだけの空虚によって
みにくくふくらむ鼻

頭髪はたちまち白く
きっと暗礁をもっている

ひだりの眼はほそく
みぎの眼はさらにほそく
単なる柔和ではない

胸を汲みにきた未亡人に
変化の果を告白する
蟻のいくさの日々であったが

のどは夕やけ
ほろびの色
あんぐりひらいた港口

密漁船がすべりだす
舳先では雑種の犬が
身をのりだして吠えている

詩集の「あとがき」には、
「私の詩の理想は、『いざ』の初志から『ああ』に果てる道程にあっ
た。ただ、愚は愚ながら人並の人生の哀歓を通過してきたので、思
惟に多少の転回ができて、いまは詩をたどるには、むかしとは逆に、
『ああ』を出発のバネとして、きびしい『いざ』に到達すべきでは
ないかと考えている。しかし其の『ああ』を所有することは至難で
あるし、人間のついの『いざ』にいたっては雲のなかである。心細
いことだ。恥ずかしいことだ。」
と書かれていた。
丸山豊の「初志」って何だったのかな。
それが生き抜き生かすってことだったのなら、
「ああ」はまだまだ生き切れてないっていう思いか。
キーワードは「水」と「影」のようだ。
「影ふみ」っていう詩がある。

影ふみ

それぞれ脆いところを持っていて
夕日のワインがひたひたと充ちてきて
あちらとこちらがはにかみによって溶け合うと
私の日没ようやく自立します

私の日没ようやく自立します
そのとき一つの影がうまれます
色をすてて声をすてて
歪んではいるけれどゆらゆら揺れるけれど

歪んではいるけれどゆらゆら揺れるけれど
かすかな真実を見るでしょう
あなたも影ですあなたたちも影です
愛とか憎しみとか歌ったあとの

愛とか憎しみとか歌ったあとの
そのことも影あのことも影
私の影を呼びにくる影
ふしぎな多数またはひとりぽっち

ふしぎな多数またはひとりぽっち
深い紺色の呼吸をします
夜のガラスをはらわたに収め
弱い影が濃くなります思想に濡れて

弱い影が濃くなります思想に濡れて
影とあそびますそのふくらはぎをふみます
傷ついた鼬のように
影たちがたのしく心をよせるのです

「傷ついた鼬」だってよ。
丸山豊は生活者であり孤独な詩人だったってことだ。
それから「輝く水」っていう詩がある。

輝く水

たかが水のことではないか
だれかがいった
そうですたかが水のことです
私はこたえた

その日の水
その日の胸の水
おお土管の水
白内障のひるに
亀裂のかずをかぞえながら
ますますくらい方へ
走ってゆく
名のない水
私が余所見をしたおりに
あの水が輝く
すこし遅れて私が気づく
だから私は
輝く水を見たことがない
しかし私は信じている
名のない水の燃え立ちのときを
あの輝きを

たかが水のことではないか
だれかがいった
そうですたかが水のこと
そうですたかが水のこと

詩人丸山豊のイメージは何とか掴めたような気がする。
さあ、九州の久留米まで新幹線に乗って行くぞ。

五月九日11時30分東京駅発の新幹線
のぞみ29号の11号車の車椅子専用個室に乗った。
初めての車椅子専用個室に麻理と二人で乗った!!
わたしの旅の習慣で窓ガラスにへばり付いて、
東海道から山陽道へ陸側の走り去って行く風景を5時間眺め続けた。
通過する駅名は早すぎて読めないが、
渡る川の名前で何処を走っているか見当を付けた。
富士山は曇って見えなかったが、
安倍川で静岡の市街は分かった。
高層ビルが増えている。
名古屋も大阪も岡山も広島も
高層マンションが群がり立ち並んでいた。
人の姿をほとんど見なかった。
4時39分定刻に博多着。
石橋文化センターの上野陽平さんの出迎えで、
車椅子専用のタクシーで九州自動車道をほぼ1時間走って、
久留米ホテルエスプリに投宿した。

五月十日はいよいよ丸山豊記念現代詩賞の贈呈式だ。
会場は石橋文化会館小ホール。
石橋はブリジストンだ。
ゴム底の地下足袋からタイヤへと、
人間が地面に接する接点に優しいゴムを使って、
足袋製造の工場を大企業に成功させた創業者の石橋正二郎は
久留米の仕立屋の息子だったんだ。
久留米がブリジストンの発祥の地とは知らなかったなあ。
久留米市の真ん中にある石橋文化センター。
その一角に石橋文化会館小ホールはある。
石橋の文化のセンターには美術館、大ホールの他に
日本庭園があり、バラ園がある。
バラ園には三百三十種類のそれぞれ名前の付いた花が
二万五千本も、この五月、咲き競っているのだった。
贈呈式前の午前中、わたしは電動車椅子で職員の方に案内されて
咲き誇るバラの花の中を散策した。
行けども行けども色とりどりのバラの花の中だ。
久留米に来るまで思ってもみなかったから、
ついうっかり「夢の中」なんて言葉が出てきそうで、
それは抑えた。
さあて、いよいよ第三十五回丸山豊記念現代詩賞の
贈呈式だ。
市長の挨拶があるのは、
副賞の百万円は市民税から出ていると言うから当然だ。
選考委員の高橋順子さんと清水哲男さんに
さんざん褒められて、嬉しくなったところで、
丸山豊記念現代詩賞実行委員会会長の久留米大学教授遠山潤氏から、
電動車椅子に座ったまま賞状と副賞の目録を贈呈された。
そのあと予算審議した市議会副議長の祝辞があって、
「ドキドキヒヤヒヤで詩を書き映画を作ってきた。」
っていう70年代風のタイトルでわたしは講演したのだった。
丸山豊とは違って自己中に生きていたわたしは
他人にはいつもドキドキヒヤヒヤだったってことですね。
そして丸山豊の指導を受けたというピアニストの
シャンソンの演奏があって
贈呈式は終了した。

詩集を買ってくれた数人の人にサインして、
久留米市内の料亭柚子庵に招かれて、
丸山豊の娘の径子さんと息子の泉さんの奥さんと
弟子だった陶芸家の山本源太さんと
高橋順子さん夫妻と清水哲男さんと
わたしら夫婦とで、懇談した。
話題は、丸山豊の若い詩人や芸術家たちとの付き合い。
「やー、来たね」と誰でも迎え入れるから、
丸山家には何人も若者がいつも屯して、
食べたり飲んだりして議論が盛り上がっていた、という。
そして、常に一人か二人が居候していた。
だから、「お母さんは大変だった」と。
そうか、だから何人もの詩人が育ったのだ。
「丸山豊記念」とはそのことだったのだ。
生きるということで、自分は死者たちと向かい合い 、
若い人たちを生かすということだった。
此処まで来て、丸山豊の「影」に出会えたわけだ。
そして、タクシーでホテルに戻った。
ちょっと、食べ過ぎちゃったね。

思い返すと、
久留米への贈呈式旅行までは、
三月の受賞の知らせから、
思ってもみなかったことの連続だった。
先ずは、丸山豊の詩集をインターネットで買ったなんて、
思ってもみなかったことだった。
思ってもみなかった新幹線の車椅子専用個室、
そこにわたしが乗るなんて思ってもみなかった。
時速250キロ余りの車窓から人影が見えなかった。
久留米という名は知ってたけど、
久留米に行くなんて思ってもみなかった。
そして、思ってみなかった咲き競う二万五千有余のバラの花、
その中を電動車椅子で散策するなんて思ってもみなかった。
初めて会った遠山教授から賞状と目録を授与されるなんて、
思ってもみなかった。
そして、そして一週間後に、
わたしの預金通帳に副賞の百万円が振り込まれるなんて、
夢のまた夢という思いで身体が浮くよ。
この賞金でもう一冊詩集ができる。
詩を書かなくちゃ。
それで、この長ったらしい詩も書いたというわけ。

 

 

 

クララ・ハスキル

加藤 閑

 

20140518_クララハスキル表    20140518_クララハスキル裏

 

クララ・ハスキルにルートヴィヒスブルク・フェスティバルのライブ録音がある。(CLARA LHASKIL AT THE LUDWIGSBURG FESTIVAL, 11 APRIL 1953、MUSIC & ARTS 1994 )
これは素晴らしいディスクだ。ひとりのピアニストのライブを1枚のディスクに収めたものはたくさんあるけれど、コンサートの雰囲気を伝えつつ、なおかつその音楽から深い感銘を受けるディスクとなるとそう多くはない。ホルショフスキーの「カザルスホール・ライブ」やリヒテルの「ソフィア・ライブ」、リパッティの「ブザンソン告別コンサート」などを思い出す。ハスキルのこの録音はそれほど有名なものではないが、それらに伍して、あるいはそれ以上に強く心に残る。
クララ・ハスキルというと、一般的にはモーツァルト弾きというイメージが強いようだが、わたしは以前からそれには疑問を抱いてきた。この録音にはモーツァルトは1曲も含まれていない。しかし、彼女のモーツァルトの録音を聴いたときよりも印象は深い。土台、「モーツァルト弾き」という称号など、女性のピアニストが目立ってきたときに業界がつける当たり障りのないキャッチフレーズのようなものだ。リリー・クラウス、イングリット・ヘブラー、マリア・ジョアン・ピリス、内田光子等々、いずれもモーツァルト以外にも立派な演奏を残している。

第1曲のバッハ「トッカータ」ホ短調(BWV914)の出だしからしてほとんど尋常ではない。こんなに強いバッハがあるだろうか。とは言っても「トッカータ」の演奏自体が少なく、ピアノ演奏で手元にあるのはグールドの全曲盤くらいのものだ。それとはまったく違う。まったく違うというのをいつもはグールドの演奏について言っているのに、ここでは反対にグールドとはまったく違うと言わなければならない。
次いで、スカルラッティのソナタが3曲入る。バッハから続いて奏されるハ長調(L-457、K-132)も凄い演奏だ。スカルラッティのソナタでこれほど圧倒される音楽は他に知らない。
有名なロ短調のソナタ(L-33、K-87)も弾いているが、これはやや微温的。そのあとに来るベートーヴェン最後のソナタ(ハ短調、Op-111)がまた名演だ。これを聴くと、もしかしたらこの日のハスキルはここへ持ってくるために、バッハもスカルラッティも特別の密度を持って弾いたのかもしれないとさえ思えてくる。
この最後のピアノ・ソナタをベートーヴェンの最高のピアノ曲とする人もいるが、わたしには今ひとつピンと来ないものがあった。なにか聴いているうちに気持ちが他に行ってしまうようなところがあったのだ。しかし、この演奏はわたしを離してくれない。聴いているうちに身体の奥の方が重たくなって身動きがとれなくなるようだ。なんという悲しい音楽なのだろう。クララ・ハスキルの音楽は、わたしに生きること、人としてこの世に存在することの悲しさを教えてくれる。そして同時に、それが必ずしも不幸なことではないということも。

ほんのちょっと前まで、わたしは自分が死ぬということをまったく考えなかった。一つの物体として消滅するのは当然のことだが、こうして考えている自分がなくなることを信じられなかったのだ。しかし、昨年60歳になったことと、3人の友人を相次いで亡くしたことで、死が遠いものではないことを思い知らされた。それがあまりにも素直にわたしのそばにやってきたのには驚かざるを得ない。
クララ・ハスキルのこのディスクが今まで以上にわたしの気持ちの中に染み入ってくるのも、そうした自分の心のありようと無関係ではないのかもしれない。それでは、そのときの精神状態によって音楽に対する評価が変わってしまうと言われるだろう。だがわたしにとって音楽とはそういうものだ。いつも均質な心で音楽を聴いているとしたら、どんな素晴らしい音楽もひとに感銘を与えないだろう。今は、なによりもクララ・ハスキルのこの強い音楽を欲している。

■Clara Haskil at the Ludwigsberg Festival (11 April 1953)
Johann Sebastian Bach : Toccata in e BWV914
Domenico Scarlatti
Sonata in C L457
Sonata in E-flat L142
Sonata in b L33
Ludwig van Beethoven : Piano Sonata No.32 in c Op.111
Robert Schumann : Variations on the name “Abegg”
Claude Debussy : Etudes No.10 No.7
Maurice Ravel : Sonatina

CDは、古いライブ音源などを紹介しているアメリカの「MUSIC & ARTS」から出ているが現在は廃盤らしい。先ごろ、ユニバーサルからクララ・ハスキル・エディションという17枚組のCDボックスが出た。クララ・ハスキル(1890-1965)の没後50周年を記念したアルバムで、彼女の録音を多く出していたPGILIPS(現DECCA)をはじめ、DG(ドイツ・グラモフォン)、WESTMINSTER の録音を網羅しているが、この「ルートヴィヒスブルク・フェスティバル」の録音は含まれていない。

 

 

 

 

@140509 音の羽

萩原健次郎

 

 

DSC06085 (3)

 

 

暴れ川と呼ばれた面影はないね。
氾濫して、呑んだのは、幼児だったのかなあ
老女だったのかなあ、

山と川の
天地を逆転して、夜眠っているあいだは
眼の間の、眉間のまんなかに、細い水流があり
見えていないが、
それは、両耳のあいだでもあり
溺死した、高い声を発する
ぎゃあという叫びを、顔面に流している。

泥という字は、
なずむ、と読むことは知らなかった。
溺れた人も、
地が液状になり、川と野の境が失せた

ぼくの眼と、耳のまんなかで

泥になった。
なずんだ。

ここは、いつも夕暮れているようで不思議だ。
午前も、午後も、夜も
泥んでいる。

一画に、春に花をつける木々があり
その下に、黄花の野草が密生している。
その光景も、夕暮れで

むかし、溺れた人の、
ガラスペンで書いたような叫びが
電気のスイッチみたいになって
暮れていく。

なあんだ、絵だったんだ。
一人か二人の、死がね。

それから、叱られる。

なあんだ、劇だったんだね。

それだから、怒鳴られる。

空に、傷つけたな。
また、ぼくの眼のまんなかに
文字を、なずませたね、え、

鳥の糞か。

白い粉になってる。

泥の図が
嵌め絵になって、
ホースの水で、じゃあと、地面に落ちていく。

ありすぎる。
白茶けた、息。

 

連作「音の羽」のうち

 

 

 

ガソリンは昨日入れたのか。今日か。

根石吉久

 

image

 

風邪をひいた。風邪の場合は、なぜ「ひく」と言うのだろうか。風邪に「かかる」とも言うのだろうか。風邪を「ひく」という場合、どこから「ひく」のだろうか。「たす」とか「ひく」とかの「ひく」ではないのだろう。引っ張ってくるの「ひく」か。なんにも知らないのである。
先ほど、軽トラにガソリンを入れたのは昨日だったのか、今日だったのか思い出そうとして、まったく決められなかった。そのとき、蚊がプーンというような音をたてて、顔のそばを動いた。そうだ。さっき立ち上がったのは、電気で蚊を殺すために無臭のガスを出すキンチョーノーマットだかなんだかのスイッチを入れるためだったのだ。さっき立ち上がって、何をするんだか忘れ、座ったばかりなのだ。座って、こうして字を書いたら、キンチョーノーマットだかのスイッチだったと思い出した。再度立ち上がり、スイッチを入れて来ようかどうか、と書いているが面倒くさがっているのがわかる。
軽トラにガソリンを入れたのが、昨日だったか今日だったかを決めたい。どうしてもというわけではないが、「のどごし生」350ミリリットルを一挙に飲んだオツムで、果たして思い出して決められるのかどうか、試してみる価値があるかどうか。
決めるためには、今現在から徐々にゆっくりと時間をさかのぼっていく方法がいいのではないか。今ここにいる前は、国民温泉に浸かっていたというような大雑把な思い出し方ではなく、国民温泉を出発し、今ここ(自宅)に至るまでの途中で、ファミリーマートで「のどごし生」を買ったとき、二十歳前の可愛い女の店員が、カードを俺に返しながら、汚いものに触らないように細心の注意を払っているのを気づかれないようにしているのに、客の俺は気づいたが、俺が自分で見ても、ジャンパーの袖口が実に汚いのであった。というようなことまでも思い出すのがいいのではないか。
赤いちゃんちゃんこを来て、鎮座とかしたいのだが、させてもらえないので、オレンジ色のジャンパーを着ている。
オレンジ色のジャンパーだから汚れが目立つ。毎日のように畑で土をいじるときに着ていたから、袖口まわりがしっかりと土の色で汚れまくっている。国民温泉から出たばかりでやたら額に汗をかくので、大粒の汗をジャンパーの袖口でぬぐい、その腕でそのままカードを渡したので、畑の土で汚れた袖口が汗の水でてらてら濡れていたのであることまでも思い出すのがいいのではないか。うむ、女の子は、汚いものに触らないように細心の気を配ったほうがいい。もっともだ。それが、国民温泉から今ここまで来る途中にあった「もっともなこと」だ。が、それくらいしかなかった。風邪のせいだろうと思うが、気を緩めると簡単によろめくので、車に乗ってファミリーマートを出発し、自宅までたどりつくのもけっこうきつい長旅だったと思えば思えなくもないようなものだった。が、それでも、それくらいしかなかった。車の運転自体は覚えていないものなのだ。女の子の思惑というのは覚えていられるものなのだ。
国民温泉から今ここへ、という流れではなく、今ここからファミリーマート経由で国民温泉へと、時間をさかのぼって、しかもなるべく細かくさかのぼって、汚いものに触らないようにしていた「みずみずしい女の子の指」が、白くて細くてきれいだったことなども漏らさず思い出すように努力しながら、さらにさかのぼっていけば、軽トラにガソリンを入れたのが今日なのか昨日なのかが確かめられるのではないか。

それにしても、イメージというものはその本性として、純化されるものなのだ。ガソリンのことなんかどうでもいいんじゃねえのかよ。どうでもいいんだが、ほんとうにわからない。指はきれいだった。さきほども書いた通り、「確かめて確かにした」ところで、「そうかそうかで終わり」なので、確かめる価値があるかないかはとにかく、わけがわからない。いや確かめようがない。いや確かめられる。またファミリーマートに行けば、きれいな指を見るのだ。きれいだなと思えば、瞬時に、とてつもなく果てしなくきれいになる。ガソリンをいれたのはいつか、と夾雑物としての疑問がまぎれても、夾雑物は払拭されて、白い指が確かなイメージになる。店を出ようとした。俺の前の透明な自動ドアが開く。指がきれいだったと思った。一瞬に、イメージはきれいにしたくてきれいにしてしまう。俺? 俺じゃない。イメージの本性が勝手に純化するということをする。アメリカも日本も中国も国家はきちがい。国家こそイメージでできている。長いものが、人々のイメージを巻き取る。長たらしい舌のようなもの。人もきちがいになり、生活を壊してまで、イメージのために生きる。イメージは恐ろしい。白い指はどこまでも白い。与えられるな。自分で作れ。作れない間は、白い指がきれいになるのに、どれほど時間というものが要らないかを微細に見るがいい。指じゃねえ。どれほど時間が要らないかをだ。そこが淵。どれほど時間が要らないかというイメージの挙動を見るのは、時間をかけて自分でイメージを作るやつだけなのか。

せっかくの原稿だ。後はまた元。

で、ここまで書いたところを読み直してみようとして、背中をソファーとかいうものにもたせかけ、画面を眺め、指が鼻の穴あたりに行き、左手の指で、親指と人差し指とで、鼻毛に触り、鼻毛が鼻の穴の出口まで出てきていて、「つまめばつまめて、よればよれる」ことに気づき、ハサミを取りに立ち上がって、ついでにキンチョーノーマットのスイッチを入れてくれば、一挙両得だとほくそえんでいた。まだ、立ち上がれない。面倒だ。ハサミとキンチョーノーマットは遠い。俺はぐずなのだ。ぐずにおいても、イメージの純化は速い。恐ろしい。

長旅ごくろうさまでしたというほどでもないさ。立ってから座るまで、多分20秒くらいなもんだった。馬鹿か、じゃない、早まるな、ATOK。「馬鹿蚊」とさっきのプーンを馬鹿よばわりして、長旅どうのこうのとごくろうにもアタマに浮かんだアイデヤを字にして書いて、ちったあ気のきいたことを書いたつもりの数分で、ここまで書いたのだ。馬鹿蚊、キンチョーノーマットのスイッチを入れてやったぞ、ぬふぁは、ということを書こうとして書いたのだ。一匹しか来なかったが、皆殺しだぞ。キンチョーノーマットだ。毒だ。
その後、プーンは来ない。俺は今ここにいる。ここは自宅という場所だということになっている。馬鹿蚊はどこにいたってそこが自宅。刺すことが生活。どこにいたって、その生活のところへ、毒は届く。地上何メートルのところにいるのか。GLから基礎が40センチは見える。そこからブロックを11段積んだから、2メートル20センチがブロック壁。臥梁が30センチ。その上に土台が4寸角の角材で12センチ。その高さから12ミリ合板。ミリ計算だと、400+2200+300+120+12で、どのくらいか。2900+132だ。大したことない。地上から3メートルちょいのところにある電気炬燵にあたっているのだ。人体とふるさとの土だけを見れば、宙に浮いているのだ。さとうさんから原稿催促いただいた今月今夜、今年の5月1日夜9時36分、「旅に出る」。

軽トラで帰ってきたことは間違いない。国民温泉に軽トラで行き、ファミリーマートに軽トラを駐めたのだ。いや、そうじゃない。帰ってきたことの中を出かけようとしているのに、駄目だ、酔っぱらいは。いつまでたっても、国民温泉から自宅への流れに引き戻される。旅に出よう。
国民温泉まで一挙に行こう。国民温泉にはどこを通って行ったのか。セブンイレブンからだ。セブンイレブンでは、ピザ風のパンとエクレアとかいう白いクリームの入ったパン状のものをコーヒーで食った。セブンイレブンから国民温泉に直行したのではない。セブンイレブンから観世温泉に行き、駐車場がマンパイだったので、ムラタクンチの前を通り、国民温泉に行ったのだ。国民温泉は駐車のアキがあったので、国民温泉に入った。そのアキだが、「アキができたんだな」と思った。セブンイレブンに行く前に、国民温泉の前を通っているからだ。国民温泉にアキがないか最初に見て、アキがないから観世温泉かと思い、甘いものが食いたいなと思ったから、セブンイレブンに行ったのだ。で、セブンイレブンから観世温泉、駐車場マンパイ、ムラタクンチの前、国民温泉へと戻って行ったのだ。その戻っていった時間の流れは、お湯でのんびりと伸び、国民温泉から自宅へと、途中、俺はふらついているのであったが、そのお湯で弛緩した伸びの中を無理矢理さかのぼって、先ほどはセブンイレブンまでさかのぼることができた。
国民温泉の前を一度通ったにせよ、セブンイレブンには、どこから行ったのか。どこからセブンイレブンに行ったのかを思い出さないと、どこかへさかのぼれない。旅が途切れてしまう。
絶壁かと思ったが、ファミリーマートじゃないか。今日3回、同じファミリーマートへ行ったんじゃないのか。女の子の指が白くてきれいだと思ったのは、3回のうちの1回目じゃないのか。1回目煙草。2回目コーヒー。3回目「のどごし生」じゃないか。二回目コーヒーと三回目「のどごし生」の間に、セブンイレブンおよび国民温泉、これは確かだ。
二回目のコーヒーで異常に汗が出たのだろう。風邪のせいだと思ったが、シャツがぐっしょりしたので、お湯に入る前にこんなに汗をかいたんじゃ、脳梗塞をやった体には危ないなと思い、ファミリーマートを出て、国民温泉の前でセブンイレブンに行こうと思い、甘いパンと甘くないパンをコーヒーLで食べたのだ。温泉に入れば、湯口から温泉が飲めるが、その前にファミリーマートのコーヒーSとセブンイレブンのコーヒーLで水分を補給したのだ。
ファミリーマート2回目から3回目の間に国民温泉がはさまり、わかってきた。ファミリーマート1回目と2回目の間にいったん帰宅している。その前に、畑からファミリーマート1回目への移動がある。
ファミリーマート1回目と2回目の間の帰宅は、畑で穫れたレタスとチマサンチュのおろぬきを娘に渡すためだった。お湯に入って帰宅したんでは、今日の夕飯に食べられないからと思ったのだ。それでファミリーマート1回目、帰宅、ファミリーマート2回目という流れができたのだ。(せっかく今日穫れたものを持ち帰ったのに、お湯から帰ってきてみたら、どうやらまた外食したらしく、レタスとチマサンチュは食ってないらしい。俺の娘だが、あの女の娘でもあるからな。)
ファミリーマート一回目と畑の間に、土手下の道を軽トラで走ったのではないか。どこを通って、まるで別の道のファミリーマートにいたのだろうと考えたら、土手下の道を田んぼ中の道へ逸れたのも思い出した。逸れてから、どこをどう通ったのかが思い出せない。と書いたら思い出した。まっすぐ行けばセンボヤナギ(千本柳)だと思っていたら、T字路のつきあたりだったから、左折したらまたT字路のつきあたりだったから、コブネヤマのお墓の縁を右折して、さてどうしたのか。畑からセブンイレブンに行くのによく使う道だが、気がついたらファミリーマートにいたのだ。思い出せない。
1回目のファミリーマートの前は畑だったのはほぼ間違いない。これは2度目の畑だ。1度目の畑で、袋を開いて作った黒マルチを2枚、畝にかぶせたら、雨が来た。風邪のことも考えて切り上げ、オオヒノバンキンへ行った。1度目の畑を切り上げた直後は、オオヒノバンキンへ行くことは考えず、着ているものが湿ってしまったから、セブンイレブンのコーヒーを飲んで一時的に体を温めようとした。田んぼ中の道を軽トラで走っていて、オオヒノバンキンが見えた。最近、薪割り機とチェーンソーを盗まれた、がっかりしたという話をしようと思ったのは、オオヒノバンキンのタダッシャンの弟が薪仲間だからだ。薪仲間といっても、一緒に薪を作ったりするわけではなく、二名で各自勝手に薪を作るだけだが、タダッシャンの弟も薪ストーブを焚いていて、会えば、まずたいていは薪の話をしている。正確には、薪話仲間なのである。ナガノコウギョーへ勤めていた人が、会社から出る廃品を利用して作ったエンジンの薪割り機を見せてもらった。車の塗装の仕事を中断させ、その上、お茶をもらって、体が少し温まった。オオヒノバンキンは人がよく寄る工場で、今日も人が次々と来て、四つほどある椅子が全部埋まって、また人が来た。また来るわと言い、オオヒノバンキンを出た。お宮の脇の細い道を通った覚えがないから、多分、オオヒノショウカイの前を通って、多分、セブンイレブンへ行こうと思っていたのだ。そしたら、陽が射して明るくなって、景色が急に暖かそうになった。もう一回畑に行って、黒マルチの続きをやろうかなと迷い、やりたくなった。畑に戻り2度目の畑となったのだ。1度目と2度目で、合計4枚のマルチを土にかぶせた。
さて、1度目の畑からオオヒノバンキン経由、2度目の畑まではわかったが、1度目の畑へはどこから行ったのか。今日のことであっても、ずいぶん昔のことなので、この辺からが思い出せない。休憩を兼ねて、書くのをやめて、少し時間をかけて思い出そうとしてみる。

キャロルにいたなあ。キャロルには、嫌いな市会議員がいたなあ。サバを煮たやつと、大根おろしと、タマネギを水にさらしたやつと、味噌汁を食った。綿半にいたら、雨が降ってきたが、その話を店のおば(あ)ちゃんにしたなあ。この店にくる途中で雨が切れた。道路も濡れていなかった。さっきの雨は、綿半に降らせた雲が通ったんだろう。でもすぐに止んだねと話したから、綿半からキャロルに行ったのだ。行く途中にファミリーマートがあるが、多分寄っていない。「さっきの雨」の話の時、綿半に降った雨とキャロルに降った雨を直接に比較していた。だから、ファミリーマートへは寄っていないはずだ。途中で雨が切れたのも、ちょうどファミリーマートあたりだったから、ファミリーマートに寄っていたら、ファミリーマートに降った(ほとんど降らなかった)雨を覚えているはずだが、道路が急に乾いた道路になったことしか覚えていない。ファミリーマートには寄っていない。
日に3度ファミリーマートに寄って、その他に1回はファミリーマートの前を通り過ぎている。1回目のファミリーマートの前にはどこにいたのか。それを棚に載せたままにしておいて、今はキャロルの前は綿半だったということを確かめておこうと思って、綿半、キャロル、第1回目ファミリーマートじゃないかと思いついた。そうだよ。
飯を食った後は、いつもコーヒーを飲むのが習慣のようになっている。文書の初めに戻って、「1回目」を検索文字にして検索して出てきたところに次の文がある。

「今日3回、同じファミリーマートへ行ったんじゃないのか。女の子の指が白くてきれいだと思ったのは、3回のうちの1回目じゃないのか。1回目煙草。2回目コーヒー。3回目「のどごし生」じゃないか。」

これは間違いかもしれない。今日、「煙草を買うのを忘れた」と思ったことがある。煙草が2回目ではないか。
すでに書いたものは訂正しない。
どうやら、1回目コーヒー、2回目煙草、3回目「のどごし生」らしい。3回目「のどごし生」は、国民温泉の後で、湯上がりに飲みたくなった順序をはっきり覚えているので、これは間違いない。

軽い寒気が持続しているが、ここまで炬燵で書いていたら、炬燵の熱で体が温まり、人体は温かいにもかかわらず、芯に軽い寒気があるという状態になっている。飲めば飲めるな。飲めば飲めるが飲むのか。軽い寒気と軽い喉の渇きがあるが、飲むか飲まないか。めっそうもない、さとうさんへ渡す原稿のシッピツ途中だぞ、めっそうもないという思いもあるのである。だが、飲みながら書くというのはネットをやって癖になってしまっている。迷う。そして不意に、何に迷っていたのかがわかる。飲みながら書いてはならないのではないかと迷うのではなく、ローソンまで歩いて行ってくるのが面倒なので、立ち上がろうかどうしようか迷うのであった。
体力的には、ほぼ電池切れの状態で、ブンショーにノリが全然なくなっている。電池が切れている。飲んだ方がいいのではないだろうか。書き始める前に「のどごし生」350ミリリットルを飲んでいて、酔いが少し残っていて、車で買いにいけない。少し腰が寒いが、歩けばこの寒さは取れるかもしれない。行ってこよう。歩きながら、1回目のファミリーマートの前にどこにいたのかをもう一度考えよう。考えるというか、思い出すというか、気持ちを整えてみよう。ひとまず、綿半、キャロルで飯、1回目ファミリーマートコーヒーだとすると、1度目ファミリーマートと2度目ファミリーマートの間は、俺はどこにいたのか。そこがまったく記憶が空白である。今日も少しの間、まだらぼけがあったのか。いや、今がまだらぼけだ。1度目ファミリーマートの間は、1度目畑、オオヒノバンキン、2度目畑だ。考えてこよう。そもそも、自宅から綿半へは直行したのだったかどうか。そこが靄がかかっている。現在、5月2日、0時41分。
今立ち上がろうとして、国民温泉から帰宅したときに、汗が気持ち悪くて、脱いだ下着が炬燵の脇にあることに気づいた。気づいて触った。水で冷たい。2度目のファミリーマートの時に、これは異常だと思うほどぐっしょり汗が出たんじゃなかったのか。コーヒー一杯でこんなに汗が出ると思ったのだから、2度目のファミリーマートでもコーヒーは飲んでいる。2度目では、煙草とコーヒーを買ったのかもしれない。ともかく、今からローソンで「のどごし生」を買ってきて、これを最初から読んでみることにする。
立ち上がったら、部屋の隅に「キリン一番搾り」500ミリリットルの蓋をあけてない缶があった。おととい、タテオと飲んだとき、飲みきれなくてタテオに持って行けと言ったが、タテオが「ええ、いい、いい」と置いていったやつだ。冷えてはいないがぬるいというほどでもない。
ローソンへ行かなくて済んだ。

さて、読み直す。

さて、読み直した。午前2時7分。なんでそんなに時間が経ったのだ。あっという間に2時間くらい経つことがある。
読んでいる途中、文書の最後に戻り、以下のものをメモした。

ファミリーマート1度目と2度目の間に、2度畑。
2度の畑の間にオオヒノバンキン。

それはわかっている。その前だ。ファミリーマート1度目の前に、キャロル、その前に綿半。綿半でテツに会った。ミキオにバーベキューやりに来いと俺が連絡することになった。その前だ。また霧だ。

1度目ファミリーマートから1度目の畑へ行くまでに、どこをどう通ったかがまるで思い出せない。それより前に、自宅から綿半まで、どこをどう通ったのか、まるで思い出せない。

そもそも、綿半へは自宅から直行したのかどうか。ガソリンを入れてから綿半へ行ったのか。戸倉のローソンの駐車場を斜めに横切って、信号を回避したのは、昨日だったのか今日だったのか。

今日というか、日付が変わってからなら昨日というか、その前半が思い出せない。だから、ガソリンスタンドへ行ったのが、昨日なのか今日なのか、まだわからない。

書いている途中で、ガソリンの件に関しては、解決策がみつかっている。軽トラの中に、ガソリンの領収書がある。それを見れば、そこにガソリンを買った日付がある。ガソリンを買った日付はそれでわかるが、一日の半分がもうろうとしていることについては、もうろうとしていることがわかるだけだ。

一日の前半がもうろうとしていてわからないことがわかった。一点をみつめるようになって、じっと考える。どうしても思い出せない。靄の中に絶壁の岩があるみたいだ。
「キリン一番搾り」500ミリリットルの後はもっと駄目だ。これから領収書を見てくる。

ない。領収証がない。
5月1日のも、4月30日のもない。
4月27日のが二枚もある。川中島と戸倉でガソリンを入れている。まるで覚えがない。と書いたら思い出した。多分4月27日、孫と孫の友達を連れて、信州新町へジンギスカンを食いに行く途中、川中島でガソリンを入れた。戸倉で入れた覚えはない。それなのに戸倉でガソリンを入れた領収書がある。
わけがわからない。俺はいったい何をしたのだ。
あっ、そうか。信州新町へは、軽バンで行ったから、その間に女房か娘が軽トラを使っていれば、ガソリンを補給したこともありうる。軽バンに入れたガソリンの領収書は、さっき財布から出して、軽トラに常備している紙カップの領収書入れに入れたのだった。領収書の容れ物は別々だった。

冷静になればわかることもあるが、日常は謎に満ちている。半日前がとてつもなく遠い日がある。いや、そんな日ばかりなのじゃないのか。こんなふうに検証してみようとすることは普段はないから。結局、わからなかった。靄に包まれて、旅は終わった。終わってみたら、迷子だった。
風邪のせいにしておこう。

 

 

 

都内の花見ドライブはあたしの青春回顧ドライブに変わっちまった。

鈴木志郎康

 

親友の戸田桂太さんから電話があった。
都内の桜の名所を巡る花見ドライブに行かないか、っていう。
足腰不自由のわたしを花見に誘ってくれたというわけ。
戸田桂太さんは親友だ。
呼び捨てでいいや、
戸田は
早大時代に『ナジャ』をフランス語で輪読した一人、
その後同じNHKで同僚のカメラマンになって、
そこで二人でこっそり、
過激を装った匿名映画批評誌『眼光戦線』を作って遊び、
歩きながら編集する散歩誌『徒歩新聞』を作って遊び、
それから「日刊ナンダイ」なんかのパロディ新聞を作って遊んだ
得難い相棒だった。
ここんところ暫く行き来が少なくなっていたけど、
去年ドライブに誘ってにくれて、
その他の事情もあって話が弾んだ。
親しみが復活してきたんだ。
戸田桂太は親友だ、
なんていうと、彼は照れるだろうな。
この関係が花見ドライブの気分を作ったんだ。
戸田桂太のことを詩に書けるなんて
なんか、嬉しい。
思ってもみなかったことだよ。

さて、4月2日の午後、
プジョー207(PEUGEOT207)が
あたしの家の前に来た。
戸田桂太の車だ。
あたしは前の座席の戸田の隣に、
戸田夫人の紀子さんと志郎康夫人の麻理が後ろに乗った。
さあ、出発だ。
待てよ、今日は暖かいから上着を脱ぐ、
ってことで、またドアを開けて半身を乗り出し、
麻理の手伝いでやっと脱ぐ。
利かない身体で一苦労、年取るって嫌だね。
シートベルトを締めるのも一苦労。

先ずは井の頭通りに出て代々木公園を横切る。
車の左に桜が満開。
右にはNHK放送センターの建物。
あたしらは昔あそこに勤めていたんだ。
五階の食堂の転勤噂のだべりが懐かしい。
と、もう原宿駅前。
若者の行列と人出でごった返してる。
昔は静かな住宅街だった。
変わっちまったねえ、まるっきり違う街だよ。
変わっちまった。
あたしの頭の中では時間が巻き返えし始める。
変わっちまった表参道から青山通りへ左折して、
暫く行って、右折して青山墓地の
桜並木に車は進んだ。
さくら吹雪の中を車は進む。
後ろの席のノンちゃんと麻理が声を上げる。
綺麗ねえ、
綺麗だ。
あたしはこの青山墓地の桜並木は今にして初めてだった。
東京に七十年住んでてこんなところがあるなんて知らなかった。
知らなかったといやー、
青山墓地を出て潜った乃木坂トンネルも
七十八歳で生まれて初めてくぐったんだね。
今にして初めてっていうところもあるんだ。
いや、今日のドライブが今にして初めてじゃんか。

トンネルを出れば乃木神社前、
ここらあたりは学生時代によく散歩した。
カナダ大使館脇の公園から昔のTBSの裏に出る道だ。
建物で見えなくなった丘の稜線を歩くという道だった。
TBSの前の通りに出て一軒きりの古本屋を覗いて、
赤坂見附から地下鉄で新宿に出るというのが散歩コースだった。
昔のTBSのあの建物はもう無く、
高層ビルになっちまってすっかり変わってしまった。
変わっちまった、変わっちまった。
この辺りで変わらないのは、
外堀通りと赤坂離宮と東宮御所。
昔、ベルサイユ宮殿を真似た赤坂離宮の左翼に国会図書館があってさ、
フランスかぶれの浪人生だったあたしは、
受験勉強をするという口実で毎日通って、
バルザックの小説を読みふけった。
『ゴリオ爺さん』に『従妹ベット』、
中身はすっかり忘れてしまいましたが、
ブルジョアと対決する純情と情熱が心に残った。
毎朝144席の一般閲覧室の椅子を確保するために、
四谷駅から赤坂離宮の玄関まで走ったものだったよ。
大理石の赤坂離宮の便所は珍しくて凄かったね。
ドアを押して入ると2メートルほどの奥の
二段のひな壇の上に便器があるのだ。
ひな壇の上では落ちついてできるものではなかったね。

あたしの呟きを載せて戸田のプジョー207は
四谷駅を右折して半蔵門を左折して、
イギリス大使館の満開のソメイヨシノを横に見て、
千鳥ヶ淵へと右折した。
この辺りは変わっていないなあ。
千鳥ヶ淵の山桜に、
戸田桂太は山桜が好きだと言った。
戸田の蝶を育てて羽化させる知性からして、
桜音痴のあたしは戸田の山桜に納得する。
お堀端から大手町、新装の東京駅の前を通過して、
小伝馬町馬喰町と白い花咲くこぶし並木の江戸通りを、
おもちゃや花火の問屋街の浅草橋に向った。

実は先日お彼岸に亀戸の実家に行くとき、
タクシーでお茶の水から蔵前通りに出る道を間違えちゃってさ、
あたしゃ、東京育ちの自信が揺らいだのだった。
オレも変わっちまったのか。
変わっちまったのよ。
隅田川を厩橋で渡って清澄通りを左折して、
清澄通りと浅草通りに挟まれた三角地帯の家並みに入る。
このあたりにあった天ぷら「ひさご」こそ、
高校で同人誌「ふらここ」をやった親友だった北澤の家だ。
横網町の日大一高の帰りに都電で彼の家に行き、
ほとんど一日おきに浅草六区街の映画館に足を伸ばし、
「ひさご」のお客の映画館の呼び込みのおじさんに、
毎回毎回只で映画を見せて貰った。
浅草日本館の暗闇で十七歳は三益愛子の母ものに涙した。
映画館通いの闇の中でオレはちょっと変わったってこと。
あれから何十年ぶりですよ。もう「ひさご」が何処か分からない。
あたしは車の四角い箱から出ることもなかった。
家並みはすっかり変わっちまってた。

戸田が運転するプジョー207は信号待ちの車列に割り込んで、
高速道路の下を隅田公園に向かう。
ウンコビルと呼ばれるアサヒビールの建物の脇を過ぎて、
東武線の高架トンネルをくぐると隅田公園の中だ。
この辺りも変わっちまったねえ。
変わっちまった。
川っぷちの桜並木を大勢の人が歩いている。
あそこに行って、
隅田川の川風を受けて桜の下を歩かなければ、
ここで花見をしたとは言えないんだろうな。
ちょっと残念。車はもう言問団子の前を通って、
向島の家並みに入った。
右に行って左に行ってまた右に行って。
東京スカイツリーの真下に出た。
そこで、あたしがテレビで見た運河の両岸の満開の桜並木、
あれは北十間川だったんじゃないかと先ずは押上駅を目指す。
ところがわたしは左折すべきを右折と言ってしまって、
業平橋を渡ってしまい、間違えた。
また、間違えた。
子どもの頃、歩いたり都電に乗ったりのこの道を間違えるなんて、
あたしとしてはあってはいけないことなんだ。
引き返すのに左折左折とまた橋を渡って四つ目通りを目指した。
その四つ目通りも家並みの姿を忘れちゃってて、
標識を見なければ確かめられない。
東京スカイツリー下の押上駅付近は変わり果ててる。
変わっちまったねえ。
変わっちまった。
わたしの記憶の街はもう存在しない。
何だ、あたしが育った東京はもう無いじゃん。
今の東京はあたしには初めての街ってことだ。
北十間川には満開の桜並木は無かった。
存在って、こんなにも不確か。

此処まで来たら、桜は無いけど、
あたしが生まれ育った亀戸に行こう。
浅草通りを真っ直ぐに走れば今はない昔の都電柳島車庫前を過ぎて、
明治通りの副神橋だ。
そこを右に曲がれば
高校生の頃、神主さんと万葉集を読んだ香取神社の横を通って、
十三間通りの商店街だ。
三菱銀行を過ぎて天盛堂レコード店、モスバーガーの隣りの
ドラッグストア・マツモトキヨシが元は「鈴木せともの店」!!
現在は、マツモトキヨシの二階に兄夫婦は住んでいて、
「鈴木せともの店」はもう無い。
せともの店は親父が戦後開いた店なんだ。
明治には江戸郊外の亀戸にはまだ田んぼがあって、
親父はその米作り農家の長男で若い頃は米を作った。
田んぼが町工場に変わって工員たちの家が建ち並び、
親父は花作り農家から炭屋になって、
提灯行列から大東亜戦争に突入して、焼夷弾が降りしきる戦災で、
太い大黒柱のあるあの家はB29に焼き払われた。
そしてそして焼け跡の十三間通りで敗戦の翌年せともの屋になった。
お堅い鈴木さんにはぴったりの商売というわけ。
「五円(ご縁)があったらまた来てね」とにっこりする親父さん。
戦前からコンクリートで舗装された十三間通り。
子どもの頃には蝋石で陣地を描いて陣取りをやったのよ。
自動車なんか時々しか通らなかったからね。
でも、朝鮮戦争の時には習志野の演習場に行く米軍の戦車が、
毎晩、轟音で走り抜けた。
ああ、十三間通り。
街も変わっちまったけど、
オレも変わったよ。
今のこの時、親友戸田のプジョー207に乗ってる。
この十三間通り、日曜日には
歩行者天国で家族連れが車道をお闊歩している。

あたしがそんな思いに浸っているうちに、
プジョー207は実家の前を通り過ぎ亀戸駅のガードをくぐって、
もう千葉街道に出ている。
千葉街道は京葉道路、両国橋を渡って靖国通り。
錦糸町の元江東楽天地の脇を通り過ぎると、
昔の都電錦糸堀の車庫跡は丸井のビルになっていた。
うわー、変わっちまったね。
変わっちまった。
芥川龍之介や堀辰雄が卒業した府立三中は今は両国高校。
その両国高校前を過ぎて江東橋を渡れば緑町だ。
高校時代の大雪の日に国電が止まっちゃって、
横網町の日大一高から雪が積もった緑町を歩いて帰ったことがあった。
そして両国、昔の国技館跡は今はシアターカイという劇場だ。
此処には教授だった多摩美の卒業公演で毎年来ていた。
両国橋を渡るのはこれで今年は二度目だよ。
三十年も渡ったことがなかったのに、今年はこれで二度目だよ。
再び韓国製ワンピースが安く売られている江戸通りに出て東京駅へ。
この五月には『ペチャブル詩人』の丸山豊記念現代詩賞の授賞式に、
電動車椅子で新幹線に乗って九州に行くから、
麻理が車椅子待合室を確かめに行った。
その間、車から降りて、
ベックスコーヒーショップ丸の内北口店で、
戸田と紀子さんとあたしはしばらく休憩。
そこで、オフィス勤めの人たちを間近に見たのは、
あたしには、何とも言えないリアリティだった。
そう、何とも言えないリアリティだった。

東京駅からは皇居に向かって進んで、
右折して宮城前広場の手入れが行き届いた松を眺めて、
白山通りに出ると左の歩道にフォーマルな服装の
女子大生が数人たむろしていた。入学式だったんだ。
共立女子大といえば昔よく演劇の公演を見た共立講堂だ。
フランコフォリのあたしはその共立講堂かその隣の一橋講堂かで、
劇団四季のジャン・アヌイ作の『アンチゴーヌ』を見て興奮した。
これだとばかりに、雨の日に、
石神井の浅利慶太氏の家を訪ねて劇団に入りたいと言ったのだ。
それにしても浅利さんはよく会ってくたよな。
しかし、君は先ずは大学に入って勉強すべきだと断られた。
窓の外に降る雨を覚えている。
プジョー207は白山通りを北に進む。
神保町の交差点を越えて西神田だ。
二十一歳のわたしにとって西神田は予備校の研数。
浪人三年、今度落ちたら働けと親に言われて、
後がないと悦子さんとのデートもしないでしゃかりきのしゃかりき。
秋口にはビリに近かった国語の点が
年末にはトップクラスに入って何とか早稲田の文学部に入れた。
水道橋駅のガードを潜って後楽園を左折する。
そして飯田橋、此処で降りて都電に乗って早稲田に通った。
通う都電であたしは確かに変わったのだ。

プジョー207は神楽坂下から
外堀通りの満開の桜を左に四谷に向かって走って行く。
此処の桜はJR中央線の窓から見た方が絵になる。
とは言っても、あたしゃこの五年余り電車に乗ったことがない。
またまた四谷駅から迎賓館と東宮御所の脇を過ぎて、
権田原から明治神宮外苑に入り日本青年館を右に曲がる。
ざわつく記憶が残る1960年代、
日本青年館では吊され揺れる大きな真鍮板と交わって踊る
土方巽のダンスパフォーマンスに驚いちゃった。
仙寿院の墓の下をくぐって原宿に向かうこの道は、
あたしが脊椎手術で入院の慶應義塾大学病院に通ってもう何十回も、
タクシーの運転手さんに「外苑西通りをビクターのスタジオを
左に曲がって」と告げた道路だ。
この五月には前立腺癌の治療で泌尿器科に行くのでまた此処を通る。
そしてまた原宿、若者たちでごった返す原宿。
駅前のそば屋はもう無くなったのか。
女の子男の子の行列で見えない。
変わっちまったねえ。
変わっちまった。
明治神宮を右に代々木公園を抜けて山手通りに出る。
そして麻理が見たいと言った東大駒場キャンパスの
桜を裏門越しに見て上原のあたしんちに戻った。
戸田桂太が運転するプジョー207は、
現実の東京の市街をめぐり走ったが、
あたしゃあ脳内の存在しない市街をめぐり走ってたってわけ。
戸田桂太よ、ありがとう。
オレも変わっちまってさ、
今じゃ、老い耄れ詩人になっちゃった。
年を取って今を取りこぼして生きてるって、
やだね。
どんどん詩を書こう。
それにしても、長い詩になった。
こんな長い詩を書いたのは初めてだよ。

 

 

 

五嶋みどり

加藤 閑

 

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何年か前に、五嶋みどりがバッハの無伴奏のCDを出した。ソナタの2番(BWV1003)1曲だけだったけれど、それまでバッハの録音がなかったので結構話題になった。その後、みどりは2012年に全国の教会や寺院で無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータを弾くツアーを行なったことを最近知った。いつかは全曲盤が出るかもしれないが、多分本人はそういうことにあまり積極的ではないのだろう。(実際、知名度に比べて彼女のディスコグラフィーはあまりにも寂しい。)
みどりの無伴奏はゆったりしている。何かを強く訴えるというのではなく、自分の中の音楽をできるだけ自然に音にして行きたいというような演奏だ。バッハの無伴奏と言えばシェリングを思い出すが、あのバッハ演奏の規範となるような隙のない演奏とはまったく違う印象を受ける。これはみどりに限ったことではなく、ヒラリー・ハーンや庄司紗矢香など、最近の女性のバッハの演奏は、ずいぶん風通しの良い自由なものになってきた。

そのうえ、五嶋みどりのバッハは、本人にそういう意図があるのかどうかはわからないけれども、聴く人を慰藉する音楽になっている。そしておそらくは彼女自身をも慰藉しているのではないかと思わせる演奏だ。鬱病や拒食症で苦しんだ時代があったようだが、あるいはそういうことも影響しているのかもしれない。
日本人はなぜか自国の演奏家に辛い。同じように国際的に活躍している者を比べたとき、根拠もなく日本人演奏家を低く見る。それなのに、海外で評価された者を高く買わないというおかしな風潮もある。しかし五嶋みどりはまぎれもなく現代世界最高のヴァイオリニストの一人である。

たとえば、みどり10代のときに録音された、パガニーニの「24のカプリース」全曲はいまでもこの作品の最高の録音だと思う。随所にみなぎる音楽性は比類がない。超絶技巧を要求される無伴奏曲だが、バッハの無伴奏に比べると、精神性や芸術的価値に劣るというのが定説だろう。しかし、五嶋みどりで聴く限りそういう印象はまったくない。冷たい刃物を思わせるような音の線。パールマンにはこういうところはない。ヴァイオリンの録音を聴いて背筋が寒くなったのは後にも先にもこのディスクだけだった。シェリングのバッハにも比肩しうる録音だと思っている。

 

 

 

@140410  音の羽

 

萩原健次郎

 

 

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暖気がはこぶもの
低い音の輪唱で、地から湧く。
朱の洪水は、ななめに染まり
音符のように、点々とそれは、人から出た液なのだと
歌われる。
眼の針が、そのように蕾をひとつずつ
ぷしゅんぷしゅんと潰して
ぷしゅんぷしゅんが、伴奏となって
音楽は、面に張り付いている。

視界の前には、音の羽の川が山から降りてきて
右岸には、おだやかな低体温の宮がひろがり
左岸では、それを怒る、朱の花たちが
ただしい春情を喚いている。

はるにくのやくごとにふるあぶらじる

のようなテーマの混声は、もともとは綺麗なのだ
と、まず、ひとりめの高僧が説きはじめた
しんらん、どうげん、ほうねん、えいさい、にちれん
なんとかてんのう

滝をアラームで起こす。
滝は、立ち上がって、洗顔している。

垂直に感応したのか、
瀑布の成分は、したたかなあぶらじる
鹿などは、焼かれ喰われ
木は選別して伐られ、
残った、朱のそれ
それは、椿の

春情ではなく、椿情だった。

蒼ざめた艶書の、おもてには
ののしゅの
しゅののの
ゆの、緒と朱がまぎれて

あなたさまのちはななめのおもてにならびおとわのかわはそまります

と書かれている。

夜になると、ただ鹿鳴だけが
喘いでいる。

 

連作「音の羽」のうち

 

 

 

この文明はどこへ行っちまうんだか

根石吉久

 

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もうひとつ敗北する。
畑に黒マルチを使うことを決めた。
そのことが敗北なのであるが、それを敗北だと、もし人に話したとしても、何言ってんの? と言われてしまう可能性がある。黒マルチを使う人たちは何の抵抗も持たずにヘーキでそれを使ってきた。それを使うことが何で敗北なんだ? どの点が敗北なんだ? と言われてしまったら、うまく返事ができない。いつもそうだ。うまく返事ができず、後で考えて、こう言うべきだったのかなどと思ったりする。たいていいつも後の祭りなのだ。

と、いきなり結論が出たが、ここまで、千曲川本流のそばで書いた。軽トラの助手席に脚を投げだし、ドアに背をもたせて、pomera で書いた。

さっきまで畑にいた。生ごみと土を混ぜる場所を今年から畑の隅に決めたので、生ごみを土と混ぜた。その後、黒マルチを1メートルほど枯れ草を混ぜた土の上にかぶせた。腹が減ったので、平和橋を渡り、姨捨に登る道の入り口に近い中華料理屋で五目あんかけ焼きそばを食べた。テレビが春の高校野球をやっていた。外の方が暖かいので、早めに外に出た。店の入り口の両脇に、店の奥さんが手をつけはじめた春のガーデニングが途中のままになっていた。やりかけていて開店の時間になってしまったのだろう。植えた花の株元が新しい水で濡れていた。
セブンイレブンでコーヒーと菓子を買い、千曲川の本流のわきまで土手を降りてきた。

起きたのは11時頃だったか。起きて、脱糞し、トイレのドアを閉め、家の中を何かの用で歩いたり、靴下をはいたりした。娘がテンパって、いやな声をたてて孫に命令したりしている。とにかく軽トラに乗るのだと思い、軽トラに乗ったら、気の向くままに畑まで運転して、手袋をした手で土をいじっていた。
じきに空腹、じきにあんかけ焼きそば、じきにコーヒーとお菓子を持って千曲川の川原。

川原はうららかである。軽トラの窓を開けておいても、今日は寒くない。雲雀の声はここ何年も聴いていない。雲雀がいなくなった。平和橋の上を車が走っているのが見える。車が走る音は聞こえない。ここに着いた時、軽トラのエンジンを止めたら、急に瀬音が聞こえた。瀬音だけになった。正面の飯縄山の上半分が平和橋に削られてしまって見えない。

セブンイレブンでコーヒーを買って、お金を払いながら、敗北のことを書こうかなと思ったのだった。何度もこれは敗北だとは思ったのだ。しかし、気が散って、敗北のことに意識がとどまらない。ちょっと書きかけて、すぐ違うことを書いてしまう。
そうだ。山道へ入ろうか。
さとうさんから「原稿は?」の連絡があったのだ。充電しようとして、iPhone を家のベッドの上に置いてきてしまったから読めないが、充電しようとしたときに、さとうさんから連絡が来ていることを iPhone の画面が表示したのだ。多分、フェイスブックで連絡をくれたのだ。ああそうか、月が変わったのだなと思った。

山道に入って、日当たりのあるところに軽トラを止めて、浜風文庫の原稿を書こうかなと思ったのだったが、行くなら大岡の方か。まだ大岡の方は何の花も咲いていないだろう。それでもいい。少しの日当たりがあれば、軽トラの中は快適だ、と思って、軽トラの荷台に割った薪を積んだままだということを思い出した。
薪を小屋に積み、荷を軽くしなければ、山道で余計なガソリンを使うだけだ。では、原稿を書く前に、山道に入る前に、小屋に薪を積む前に、帰宅する前に、食後の一休みを切り上げなければならない。その前に、これを書くのを中断しなければならない。
ちょっと川を見ることにする。おとといの雨でササニゴリに濁っている。鴨が流れに流されて遊んでいる。たばこを一本吸ってからエンジンをかけようか。誰に同意を求めているのか。自分か。

庭の隅に止めた軽トラの荷台から薪小屋の前まで薪を放り投げ終わるのに20分ほど。小屋の中に積み上げるのに同じくらい。小一時間で終わる。
軽トラに乗り、交差点に来るたびに、まっすぐ行くか曲がるか、曲がるならどっちに曲がるか、一瞬迷い、一瞬後、適当に突っ切ったり曲がったりして、結局、トッ坂を登った。トッ坂を登りきって下がったところにある製材所に車を駐め、昔セガをもらいに来た者だけど、今でももらえますかね、と訊いた。ああもちろんとの返事がもらえた。また今度来ますと言って、エンジンをかけた。
竹房に行ってみようかと思っていたが、途中軽井沢方面に曲がり、枝道に入り、チェーンソーを回して杉を切っていたおやじさんに、軽トラに乗ったまま窓を開けて話しかけた。雑木もらえないですかねと言うと、倒してあるのもすでに行き先があると言う。以前は、倒した雑木をそのまま林に放置して腐らせていることが多かった。県(?)が始めた森林税とかいうものが動き始めたせいか、里山も少し手入れがよくなってきた。薪ストーブが普及し始めたせいもあるのか、雑木の行き先がある。いいことだ。俺は千曲川のアカシアを切ればいいやと思う。おやじさんに別れ、また太い道に戻る。途中、また迷い、高野という村への道に入る。村を抜け、村の背後の丘を登ると、景色が開け、丘の上には畑が広がっていた。ため池の土手に軽トラを駐車。
高野の裏にはこんなに空が広がる場所があるのか。昔からこの地形で、畑になる前の広がりが野だったら、高野という村の名前はぴったり地形通りだが、地形と関係があるのかないのか。

急に眠くなる。我慢だ、我慢。

黒マルチを使うのは敗北だと書いたが、黒マルチの利点はある。いや、利点があるから人々は黒マルチを使っているのだ。
まず最初に気づいたのは、マルチを使うと土が乾かないから、種蒔きした後、動き出した芽が乾いて死んでしまうことが少ないことだった。水やりをしなくてもたいていは大丈夫だ。これはやってみるまで考えもしなかったことだった。やってみて、なるほどと思ったことだった。

土と混ぜた有機物が微生物に食われるプロセスは、マルチをかぶせるのとかぶせないのとでは違うはずだ。そもそも棲みつく微生物が違ってくるはずだと思う。風が直接土に当たらないから、気体となって空中に逃げる養分というものもほぼなくなる。養分が土から抜けにくくなるだけで、その後の発酵のプロセスも違ってくるはずだ。養分が雨水と一緒に土の中に沈むことも極端に少なくなるはずだ。マルチをしなければ抜けるはずのものが抜けないのだから、生き残る微生物の種類は違ってくる。
きわめて大ざっぱな分類をするなら、好気発酵よりも嫌気発酵に傾くだろう。作物の株元はマルチに穴があいているので、土の中と大気の底が完全に遮断されるわけではないが、マルチの下は圧倒的に嫌気発酵に適した条件になるはずだ。
好気発酵や嫌気発酵の好気とか嫌気とは、酸素の有無(多少)の違いを言うので、気体の有無や多少のことではない。「気」という語で空気の中の酸素を言っている不正確な近代日本語単語だ。こういう語はブンガクテキであってもらわない方がいい。
嫌気発酵が利点となるかどうかはわからないが、マルチのすぐ下まで地中から登ってくる水が、発酵を持続させ微生物の世代交代を促し続けることはまったくの利点となる。一番期待しているのは、地中から登った水がマルチ直下で水蒸気になろうとしてなれず、また土に戻される作用がもたらすものだ。地温が上がることと相俟って、土が変わるスピードはあがるはずだ。
春、空気が乾き土が乾く日が続くと種蒔きで失敗することが多かったが、その失敗率はぐんと減る。それはマルチをしてすぐにわかった。水やりの手間が省けることを考えると、マルチをする手間は惜しいものではない。その後は、作物を覆ってしまう草の発生を阻止できるのだから、手間をかけるだけの価値はある。
嫌気発酵に傾くことは推定できるだけで、実際のことはマルチの下だけで起こるから見えない。マルチを取り払っても見えない。微生物がやっていることは、人間の目に見えない。見ても見えない。間接的にわかるだけだ。

炭素循環農法というのをネットで調べたことがあったが、土の表層に近いところに有機物を混ぜ続けるというもので、基本は昔の普通の農法と変わりはない。炭素循環農法がはっきり言い切ったことは、5センチとかせいぜい10センチくらいのごく浅いところに有機物を混ぜ続けるということである。それまでの有機農法でこれを言い切ったものはない。
川口由一の農法は、有機物(草)を土の上に置き続けるというものだが、その祖型は福岡正信にある。福岡のものは、藁や麦藁を長いまま田んぼに撒くいうものだ。
炭素循環農法が福岡や川口を越えたところは、ごく浅いところに有機物を混ぜることによって、有機物と土の接触面を最大化したところにある。微生物が有機物を食いやすくしたのだ。
有機物を土に混ぜるなどということは、昔から人がやってきたことだ。昔の普通の農法である。だから、繰り返して言うが、炭素循環農法が独自に確立したことは、有機物を表層に近いところにだけ入れるというところにある。それだけは、他の有機農法が言葉にできなかったことだ。
炭素循環農法は手間がかかる。これはこの農法の欠点だ。
手間をかけないということを農の思想にまでした点では、福岡正信が今でも他を圧するチャンピオンのままだ。しかし、まずたいていの人が耐えることができないほど、福岡の思想は気が長い。大百姓の持つ広い田畑がその背後にある。だから、有機物と土(微生物)の接触面が極端に小さいような農法も、それでいいと考えることができたし、それで収穫量が確保できるまでやれた。
有機物がどれだけ乾きやすいかということで言えば、福岡、川口のやり方は乾きやすい。しかし、「自然がすることにゆだねる」という思想に、つまり自然の時間の速度に従うという古くからの農の思想に従順である。雨の多い日本の気候にも則っている。
炭素循環農法は、福岡や川口の方法ほどではないが、それでも土が乾きやすい。種蒔きや苗が幼い時期には不利である。その点を黒マルチは解決してしまう。

福岡には確信がある。麦一粒だって、人間が作るのではない、自然が作るのだという福岡の言葉には、確かなものがある。
だけど、どこからが自然でどこからが人為なのか。福岡が粘土団子にいろいろな作物の種を混ぜ、適当に草の中にそれを放り投げる様子は、YouTube で見ることができるが、一つの団子に何の種を混ぜるかを決めるのは福岡であり、草の中に立ち、どこに投げるかを決めるのも福岡である。人間の感覚、人間の思考がそれを決めるのだから、そこまでは人為以外のものではない。
福岡の言う「自然」も、川口の言う「自然」も、粘土団子を放った直後からのプロセスを決定するもののことである。要約すれば、川口も福岡も「人事を尽くして天命を待つ」と言っているだけだ。そして俺は、それに何の文句もない。
人事を尽くすプロセスにおいて、福岡の方が川口より遊んでいるという違いはある。福岡の大人ぶりは、人事を尽くすにも遊びながら尽くすところにある。川口は病気から有機農法に入り、福岡も病気が契機だった。福岡の病気は明日死ぬかもしれぬほどのもの、生死の境をさまようものであり、福岡は病気というよりも、むしろ「死から」、あの農法の方へ歩いて行ったのだろう。大百姓の出だということもあるが、死から始まった農法だというところに福岡独特の遊びやひょうきんがある。ゆったりしている。

高野で少し書いて、車を動かそうとして池の向こう側に人がいるのに気づいた。車で行き、この池は魚を釣っても怒られないかと訊く。村の中に漁業組合があり、組合で鯉を放流しているが、鮒くらいなら釣っていけないこともないと言う。ブラックバスもいますかと訊いたら、いるとのこと。
高野から軽井沢へ。軽井沢入り口で右折、小花見池へ。この池も向こう岸まで行ったことがないので車で行ってみる。林の中に道を開いてあるが、どれもすぐに行き止まりになる。別荘地として売りに出すのに付けただけの道だとわかった。
逆戻りし、信州新町の方へ降りる。町が近づくにつれ、暗くなってきた。腹が減ったので、ジンギスカンを食いに行くかと思っていたが、新町に着いて蕎麦屋の看板を見て蕎麦を食う。味はまあまあ。少しうまい。払うとき、金が足りなくて、近くのセブンイレブンまで金を降ろしに行ってくると言ったら、女の人が困ったような顔をした。初めての店なので、「何か置いていきますか」と言ったら、店の旦那さんが「大丈夫だ」と言った。食い逃げしそうではないと見てくれたのだ。ありがとう。歩いてセブンイレブンまで行き、歩いて店まで戻った。
新町から篠ノ井のコーヒー哲学まで、国道19号をノンストップ。帰り道が長く、山の中の道ばかりずいぶん走ったのだと思う。ここまではコーヒー哲学篠ノ井店、ここからも同店で。

店の電灯が暗く、バックライトのない pomera で書くのは少しつらい。客が他にいないので、電灯の明るい方のテーブルに移る。

黒マルチは農業用のポリエチレンが0.02ミリで一番薄い。(ポリマルチという言い方があるので、ポリエチレンだと思っていたが、ポリエステルじゃないよな? 自信がない。それぞれの違いもわからない。)
主に生ごみをごみとして行政に渡すための黒い袋もスーパーで売られていて、こちらは0.04ミリ厚。袋状だから、切らずに使えば、二枚重なった状態で土を覆うので一番丈夫。切り開けば、90センチ×160センチのシートになり、これ一枚分に種を蒔き、一日のひと仕事分にするのに具合が良い。家庭菜園をやり、黒マルチに抵抗がない人にはお薦めできる。

ビニールハウスのビニールやマルチのポリエチレン(?)を見て、しゃらくさいと思ったり、こざかしいと思ったりしてきたのだ。それで極度に貧弱な収穫量の有機(勇気)農法を続けてきたのだ。こざかしいと思ってきたものを使うのだから、これは敗北である。敗北は敗北としてはっきりさせなければならないが、どこまで敗北するのか。今でも農薬や化学肥料は使う気はない。

黒マルチを使うところまで敗北する。

この問題は、ごみ問題につながっている。

千曲市は汚れたプラスチックを燃やすごみとして出すようなでたらめな指示を住民に出している。100円寿司に置いてあるようなわさび入りの小さいプラスチックみたいなものから始まって、汚れたプラスチックになると最初からわかっており、燃やすごみとしてしか処理のやりようがないものの生産を国が野放しにしてあるのがおかしい。
家で、破れて使えなくなった長靴が可燃ごみ用の袋につっこんであるのを見て、いったい何やってんだと女房に文句を言ったら、使えなくなった長靴は汚れたプラスチック(可燃ごみ)に分類しないと、ごみ収集車が受け付けてくれないのだと女房が言った。おかしい。
そういうプラスチックや合成ゴムの処理法を禁じないと、ごみ処理場の近くの住民は処理後の気体を吸わなければならない。そこに子供も生まれてくる。
国に抗議することを決議しようとするような議員は、千曲市に一人だっていない。腰抜けのお上意識ばっかりだ。
そういう国なのだから、天皇家で国に文句を言えばいいと思う。この国の山河が汚れる、と。放射能もやめてくれと「請願」すればいいと思う。天皇家が「請い」「願う」からといって、誰も文句は言わないだろう。どうなんだろう、右翼の皆さん。

私が生まれた村は、今住んでいる村の隣村だが、そこに大型のごみ焼却溶融炉を建設する予定があると知り、自分で印刷したビラを一軒ずつ配って歩くようなことをしたことの元に、「汚れたプラスチックは燃えるごみ」などというでたらめがあったからだ。
これはまた原発の問題につながっている。ごみの溶融炉は、目に見えるほどの煙は出さない。煙突上部の見た目はきれいだ。福島第一原発みたいに、バクハツなんかしちまうと無惨なものだが、バクハツしなければ、いくら放射能を垂れ流しても、原発も見た目はきれいだ。美しくはないが、不気味ではあるが、見た目はきれいだ。
説明会に出れば、行政は安全だ安全だと繰り返す。裏で町や村の有力者に金をつかませる手法は、溶融炉建設も原発の炉の建設も同じだそうだ。

汚い。

柔らかいプラスチックを作るために原料の石油に何を混ぜるのか。固いプラスチックを作る場合はどうか。色はどんな物質によって着けてあるのか。プラスチックなどの合成化学製品の中には、うぞうむぞうの物質が含まれている。それが1000度を超えるような高温の炉の中でどんな化学変化を起こすのかなど、誰も解明することはできない。この化学変化の元になる物質が「うぞうむぞう」だからだ。何が何度のときにどの順番で炉に投げ込まれるかは「わからない」。厳密に考えれば、物質と物質の出会いとそれらの合成や変化は、つまり何が新たに生成するかは、まったく未知のことがらであるはずだ。それなのに、安全だ安全だと繰り返す行政の太い神経はまったくしゃらくさい。近代初期のしゃらくさセンスのままだ。

「わからない」というのが、ひとまずの唯一の正しい科学的な言い方だ。わからないのだ。誰にもまだわかっていないのだ。
原発の後処理が、廃棄物(放射能の固まり)を土の中に埋めるしかないくらいのことがわかっているだけだ。やめてくれ。やめろ。やめやがれ。

「これっぱかしのものを食うのに、こんな大量のプラスチックごみが出るのはおかしいぜ」と女房に最初に言ったのは、30歳頃のことではなかったか。スーパーができ、八百屋や魚屋がつぶれ、なんでもかんでもプラスチックやビニールに入って売られるようになった頃のことで、それからもう30年も経つ。そして、事態は悪くなっているばかりだという感じだ。出水の後の千曲川の川原に行くと、流されてきたプラスチックやビニールが散乱してひどいもんだ。あれも「汚れたプラスチック」なのか。千曲市を流れる千曲川の川原のプラスチックもビニールも散乱したままだ。溶融炉のことを安全だ安全だと言い続けてきた千曲市環境課は、あれだけのプラスチックやビニールや合成ゴムをみんな「溶融」するのかよ。能なしども。

そう思ってきたので、農業用の黒マルチを横目に見ては、しゃらくさいと思ってきたのだ。
単に栽培のことだけ考えれば、種に水をやることの手間が省けるし、春になっても地温がなかなか上がらない善光寺盆地の畑の地温をあげてくれるし、畝に草が生えて作物を覆ってしまうのを防いでくれるし、後は嫌気発酵がうまくいってくれれば文句のつけようがない資材だ。しかし、使った後の黒マルチを、行政や農協が業者に渡した後にどんな処理がされているのかは闇の中である。少なくとも私は何がどう処理されるのかまったく知らない。

歳に勝てない。
私は敗北する。
そして、敗北すると決めてから、使った後の黒マルチをどう使うかを本気で考え始めた。
薄いポリエチレンに泥や土が付くから使った後のマルチは重くなる。破れたポリエチレンのシートを新しいポリエチレンの袋に入れれば、重さが着いて風に飛ばされにくくなるのではないか。古くなったポリエチレンのシートを「重さとして使う」ことで何か不都合なことは出てくるだろうか。中に入れたものが袋から飛び出して散乱しないようにするにはどうすればいいんだろうか。
そんなことばかり考えているのである。
各種プラスチックや合成化学製品が、それぞれどう処理されているのか、空気や水を汚しているのかいないのか。そういうことがわからなければ、しろうととして、そんなことばかり考えるしかない。

便利なんだか不便なんだか。この文明はどこへ行っちまうんだか。闇に突入しているのか。

主義主張も糞もない。
川は本当に汚れた。
経団連。金の亡者ども。
おまえらこそ、放射能をたんとかぶれ。
なんで、東北の人たちがかぶらなければならない?

誘致に賛成した東北の亡者は別だが。