佐々木 眞
その1 ウンチを我慢する
宇治拾遺物語の第76段に「仮名暦誂えたる事」という短いコラムがある。
そこには3日連続で「雲古すべからず」と書き込まれた偽カレンダーを信じた生女房が、
「左右の手して、尻をかかへて、いかにせん、いかにせん、と、よぢりすじりするほどに、物も覚えず、してありけるとか。」
団鬼六のロマンポルノではないけれど、我慢に我慢した挙句に、とうとうしてしまったんだあ。
可哀想に。
その2 ウンチを見る
むかしむかし、京の北白川にあった重度の障害児(者)施設で、黄色い風呂を見たことがある。
黄色と映ったものは利用者が排泄した雲古で、それは冷めた風呂水と上から下まで完全に混ざり合って、微動だにせず午前10時の太陽に浮かんでいた。
そのとき私は、福祉の仕事というのは、このウンチがいっぱい浮かんだ風呂に飛び込んで、障害者の体を洗ってあげることなんだ、と思った。
その3 ウンチを踏む
私はうっかりしていて、(恐らく石ころの上にとまっている小型の茶色いチョウがテングチョウかヒメアカタテハかを確認しようとしていて)道端のウンチを、ムギュっと踏んだことがある。
運動靴がズヌっとぬめって、明後日の方角にずれてしまって、相当不気味だった。
義姉のエイコさんは、蛇を何回か踏んだことがある、そうだ(今度会ったら確かめてみよう)。
私はまだ蛇を踏んだことはないが、あの明後日の方角にズヌっとぬめっていく感じは、限りなくそれに近いのではないかと、密かに考えている次第である。
ウンチを踏んだズックは、洗っても、洗っても、臭かった。
その4 ウンチを掴む
むかしむかしのそのむかし、丹波の綾部の上野の丘に小学校があって、私は放課後に、同級生と便所掃除をしなければならなかった。
便所は汚れている時と、そうでない時があったが、汚れている時には、おおかたでぶでぶのオオツキマサト君が、率先してキレイにしてくれるので、僕らは、ほとんど何もする必要がなかった。
するとある日、突然そのことに気づいたように、オオツキマサト君が「お前らあ、いっつも、いっつも、ずるいやないか。わいらあ、今日はなんもせえへんさかい、お前らあで、しっかりやらんかいな」と怒鳴って、ぷいと校庭に出ていった。
オオツキマサト君が去ったあと、便器の傍には、プリプリの巨大なウンチが、ぐんにゃりと横たわっていて、微かに湯気が立ち上っていた。ついさっき誰かがやらかした出来たてのホヤホヤ、ちゅうやっちゃ。
アカオ君やキタハラ君やカワギタ君と一緒に、僕はしばらくその黄色いプリプリの巨大なウンチを眺めていたが、いつまでたっても誰も手を出さないので、これはもう僕がやるしかないと思って、僕は恐る恐る、その臭い立つ巨大なやつに両手を伸ばして、ぐウンとつかんだ。
えいやっと、つかみとって持ち上げたら、そいつは結構重くて生温かで、「これはいったい、どこのどいつが垂れたんだろう」と、不思議な気がした。
その日、僕はこの世の「実在」という奴に、初めて触れたのだった。
その5 ウンチを垂れる*
毎日トイレで便器に跨るたびに、私は遠い親戚の言葉を思い浮かべる。
「人間はトイレに入る時には生まれたままの姿で、本音も建前もない。これこそ人間の真の姿である」
「大事なのは、ウンコを垂れるあの気持ちだ。堅からず、柔らかからず、ロクロの廻るにまかせて、なんの技巧もなく生まれてくるのが、ほんとうの茶碗だな」
この「ウンコ哲学」を唱えたのが、ほかならぬ私の伯祖父、上口作次郎(1892-1970)である。
彼は明治25年に谷中に生まれ、小学卆業後、宮内省御用の大谷洋服店に弟子入りし、大正末期に「超流行上口中等洋服店」を開店した。
最高級オーダーメイドスーツでしこたま儲けた金で、江戸時代の大名時計や長谷川利行の作品を収集したり、東京の土を捏ねて陶器を焼いたり、ぐるぐる廻る茶室「眩暈庵」や樹上の茶室「巣寝る庵」を作ったり、「雲谷斎愚朗」と称して、いつも裸で過ごしたこの破天荒の野人を、私は好きである。
その6 ウンチを忘れる
それからおよそ半世紀の歳月が流れた。と思いねえ。
私は今ではそんじょそこらの三等リーマンになりおおせていて、ある日大阪支店に出張して取引先の営業マンに会って名刺を交換したら、すっかり「難波のアキンド」になった、でも昔と同じようにでぶでぶの、オオツキマサト君だった。
私は彼の顔を見た瞬間、黄色いウンチのことを思い出し、2人だけの密かな西田哲学的な体験!?について語り合いたいと思ったのだが、彼はそんな私の胸中をいささかも忖度することなく、破顔一笑うれしそうに叫んだ。
「おやまあ、綾部のてらこのマコちゃんやないか! これはこれは、粗末に扱う訳にはいきまへんな。あんじょう勉強させてもらいまっせ!」
ホカホカのウンチを入れたマッチ箱振り回しつつ学校へ行く 蝶人
*参考文献 片山和男編・「闘う茶碗~野人・上口愚朗ものがたり」