自由だと思い込んでおり

 

駿河昌樹

 
 

 
ここはなんと悲劇的な領域なんだろう
と少年は思った

下のこの領域にいる人々は囚人で
究極の悲劇は当人たちがそれを知らないということだ

自由になったことがないからこそ
自分たちが自由だと思い込んでおり
自由がどういう意味だか
理解していない

これは監獄なのに
それを推測できた人はほとんどいない

でもぼくは知っている

少年はつぶやいた

だってそのためにこそ
ぼくは
ここに来たのだから

壁を打ち破り
金属の門を引き倒し
それぞれの鎖を
引きちぎるために

脱穀をしている牛に
くつわをかけてはいけない

少年はトーラを思い出した

自由な生き物を収監しないこと
それを縛ってはいけない
きみたちの神たる主が
そう言っている
ぼくがそう言っている

人々は
自分がだれに仕えているか
知らない

これが
みんなの不幸の核心にある

まちがった奉仕
まちがったものに対する奉仕

まるで金属で毒されているかのように毒されているんだ

少年は思った

金属が人々を閉じ込め
そして
金属が血液にある

これは
金属の世界だ

歯車に駆動され
その機械は動き続けながら
苦悶と死を
まき散らし続ける……

みんな
あまりに死に慣れすぎて
まるで
死もまた自然だ
とでも
いうかのようだ

少年は気がついた

人々が園を知ってから
なんとも
長い時間が経ったものだ

園は
休む動物や花の場所

人々に
あの場所を再び見つけてあげられるのは
いつになるだろう? *

 
 

 
の記述の内容は
フィリップ・K・ディック『聖なる侵入』よりの
引用

それを
分かち書きにし
いくらか
自由詩形式に近づけた

ディックが後期に書いたものは
21世紀から22世紀の黙示録と目されるのに
ふさわしいことが
昨今ははっきりしてきている

 
 


 

あらずもがな
だが
引用行為をし
さらに
改変行為も加えたので
『引用の織物』の
宮川淳を
思い出しておきたくなった

「人間が意味を生産するのは無からではない。それはまさしくブリコラージュ、すでに本来の意味あるいは機能を与えられているものの引用からつねに余分の意味をつくり出すプラクシスなのだ。」
(宮川淳「引用について」)

 

 

* フィリップ・K・ディック『聖なる侵入』(山形浩生訳、ハヤカワ文庫、2015)の訳に多少変更を加えてある。

** 宮川淳 『引用の織物』(筑摩書房、1975)