michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

朝顔

 

みわ はるか

 
 

小学校1年生の時、朝顔を育てた。
自分たちで土を配合し、種をまいた。
しばらくすると小さな芽が出て、そこからはものすごい勢いで弦が伸びていった。
紫、白、ピンク、それはどれも色鮮やかでわたしの目を楽しませてくれた。
ラッパの形のようなそれらは朝思いっきり咲くとシュルシュルとしぼんでいった。
次の日にはまた力いっぱい花弁を開きたくましかった。

その頃、私の家にもたくさんの朝顔が夏になると咲いた。
祖父が必ず真夏前に種をまき育てていたからだ。
育てたといっても、種さえまけば勝手に成長していた。
その次の年に種をまくのを忘れていても勝手に芽を出した。
おそらく、去年の種が落ちてそのまま夏を待っていてくれたのだろう。
広範囲に咲く朝顔はどれも生き生きしていた。
冬には椿の花が庭に咲いた。
力強く固い深い緑の葉に、深紅の椿は美しかった。
どんなに寒い冬でも、忘れずきちんと顔を出した。
他にも様々な木があった。
梅(昔は祖母と梅干をこれでもかというくらい作った)、枇杷、夏ミカン、ゆず、山椒、柿・・・・・・・。
どれも好きな時に収穫してムシャムシャ食べていた。
ゆず風呂も最高だった。
しぶ柿は祖母が干し柿にして食べやすいようにしてくれた。
時には獣に食べられてしまったけれどそんなに悔しい思いは抱かなかったように記憶している。

そんな祖母も祖父もわたしが社会人になる前に亡くなった。
朝顔は数年間は毎年いつものように芽を出し、きれいな花を咲かせてみんなを楽しませてくれた。
しかし、しばらくしてうんともすんとも芽がでなくなった。
種が底をついたのだと思う。
さらに、手入れが大変だからという理由で、様々な木々が伐採されていった。
電動ノコギリであっという間に崩れ落ち、もう昔のように愛でることも食べることもできなくなった。
自然と獣の姿も見なくなった。
唯一、山椒の木だけなぜか残されていた。
つい先日ちょうど山椒の収穫時期だったため、何枚か大事に採った。
小さく刻んで炊き込みご飯や魚の煮物に添えた。
子供の頃はそんなに好きではなかったけれど、大人になった今はそれは料理の絶妙な引き立て役になっていてとても美味しかった。

小学校の夏休みが始まる前、学校で育てた朝顔を鉢(プラスチック)ごと家に持ち帰らなければならなかった。
徒歩15分の道のりを、それを抱きかかえて帰るのは汗が噴き出るほど大変だった。
なんとか持ち帰り、家の朝顔たちの横に置くと、またそれは仲間が増えたようで嬉しそうに見えた。

季節の移り変わりを目や舌、感触で感じていた幼少期。
今ではほとんど木々や花々がなくなってしまったことは寂しい。
玄関に一輪挿しでも置こうかな。
ほんのちょっぴり昔のように季節を楽しめるような気がする。

 

 

 

飼育

 

塔島ひろみ

 
 

郵便局で用をすませ家畜を連れて帰路につく
たまった洗濯物がまつ 43号棟にむかい
首に括りつけた紐を引く
家畜は太って重く膝が悪い
家畜にあわせてゆっくり歩いた
旧棟解体後放置された空地のまん中を
ふれあい通りという名の道が通る
両側に旧棟があったときについた名だ
空地には雑草が咲き乱れ 小鳥たちの絶好の遊び場となっている
疲れたので少し休む
「今日もラーメンでいいね」とぼっそり言うと、家畜が笑った
ふいに思い立ち 紐を後ろに強く引く
家畜は首が締まり、苦しそうに咳をした
ここは私達が50年ほど住んだ16号棟のあった辺りだ
広大な地面の上に空は大きく
ずっと先に11階建ての新棟が見える
黄色い花がいっぱい咲いていた
スズメが棒杭の上に立ち 歌の練習をするように 大きく長く鳴いていた
投げ込まれたゴミをカラスがボリボリと食っていた
どこかに池があった気がする
池の場所をぼんやり探しながら
私は家畜のそばににじりより 
もう使い物にならなくなった尻を叩く
肩を抱く
家畜はイヤイヤをしてそっと逃れた

 

(5月某日、高砂で)

 

 

 

餉々戦記 (ことの始まり、あるいは前口上)

 

薦田愛

 
 

洗って剥いて刻んで煮て
にんじんあおくさい
かぼちゃかたい
じゃがいもの肌理
しいたけは石突きも捨てない
トマトを湯剥きする手順は省いて皮ごと
ほうろうの鍋の白を汚す橙いろ黄いろ
まな板が空くひまがない
二十二時
地下鉄を乗り継いで二十五分
デスクの前から家にはあっという間
でも
かき揚げ天ざる讃岐うどんや
新蕎麦に日本酒でいっぱい
なんて
寄り道のかわりに家ごはん
と言えるほどのものではないけれど
洗って剥いて刻んで煮て
ぐつぐつ
くぐつのように鬱屈する思いも放り込んで茹でたり
焦がしたりするかわりに
野菜室のすみに何かわすれていやしないか
かきわけかきわけ
ああ大根のきれはし 玉ねぎ四分の一 水菜半束
いやこれは明日のぶん
当年とってごじゅうろくのわたくし
自慢ではないが
リョウリと呼べそうなことを
ほぼ経験せずに歳を重ねた
二十代半ばに半年
(つくってくれていた親が体調をくずし
あわてて料理入門書を手に弁当ひとつに毎夜二時間)
まごまごまどわぬはずの四十代初めに半年
(涙が止まらなくなって出かけたカウンセリング先で
 まず夕食だけでもじぶんでつくりましょうと促され
 赤いパスタ白いパスタ
 赤いチャーハン白いチャーハンと
 呼んでいたあやしい一品のくりかえしを半年)
そしてこのたび
発端は
最高気温三十五度を下まわることのない八月某日
夜の炭水化物摂取はやっぱり
控えたほうがいいでしょうかと
十年かよう鍼灸の先生にふと問うや
元アスリート男前の女先生「そうね」とひと言
ゆえにその夜
唐突に洗ったり剥いたり刻んだり煮たりが
始まったのだった
そう
八月の終わり
ウェイトは一見問題なしだったけれど
みもこころもどことなく滞っていて

まっこうからリョウリといってキッチンに立つのが
面映ゆかった
ひとりっ子の生い立ちに加え
はたちで父をなくすと
あとは世話見のよすぎる母との暮らし
いちど結婚するも
諸般の事情というより周囲の懸念思惑によったろう
オヤツキケッコン
ひとり暮らしの長かった当時の夫のほうが
煮炊きの経験はゆたかだったうえ
箸のあげおろしにも講評をくわえずにはいられない母のまえでは
野菜を刻もうなどという気がうせるのは
あたりまえ

だからね

お米はとげるし味噌汁もつくれるが
そこに加えるなにひとつ
ないままに
ねえ
ごじゅうろくさい

だからね

じぶんだけのために
じぶんのたべたいものを
おもうままに煮たり焼いたり
地下鉄を乗り継いで二十五分
二十二時
ああ今夜は二十一時
この時間に帰ると
「早かったね」っていわれるんだ
母にね

カレー粉 焙煎玄米胚芽 昆布粉末
岩塩 かつお節粉末 そして水
野菜十種カレー煮のつづいたある日
豆腐や乾燥わかめに玉ねぎ椎茸を加えて
ぐつぐつ
昆布粉末を溶いちゃってね
湯豆腐ふうにしてぽん酢かけて食べた
そしてあの
伝説のメニューが生まれる
豆腐ステーキ
水切りもせずにね
木綿豆腐一丁をうすく二枚に削いで
両面あぶって
皿にのせ
しめじに玉ねぎ人参なすなんかを
塩こしょうして炒めたのをたっぷりトッピング
ぽん酢をざぶざぶかけてむしゃむしゃ
おお
二十一時
あるいは二十二時の
じぶんだけのための煮たり焼いたり
にたり
にんまり
ほころんでしまうくらい
いい
うんまいっとひとりごち
いやね毎日こしらえていた
野菜のカレー煮や湯豆腐ふうだって
けっこう美味しく食べていたんだが
いずれにせよ今夜のだって
リョウリと呼べるほどのものではあるまいが
それでもこれは
誰かに食べてもらってもいいのかな
いや
食べてもらうあてもないけれど

箸が止まる夜半
ことの始まり
これがはじまり

 

 

 

5月35日

 

工藤冬里

 
 

5月25日
被曝と5Gとコロナの有効な治療法が同じということは顎に鉤を付けて再稼動反対から虹に向かせただけで2011は未だに終わってないということ、石原さとみが海から上るgodzillaだということ、陰謀は「全く変わってないこと」←(ココ太字な)
になる
https://youtu.be/6wOPCmVhO9I

100円になった70%
得意気にプレゼンしていた姿が眼に浮かぶようだ

とうめい花びら

愛国心は他の国を憎むことと表裏一体なので、ナショナリズムはその溢れる愛によって先天的に間違っています。それに対してグローバリズムはそもそもの愛がないことによって後天的に間違っています。自分を憎む者を愛することが出来るかが分かれ目だと思います。

Yahoo!newsが”開示系”に傾いているのは支配の平衡を取るために過ぎない、とまず思わないといけないのかな。

それでも受けるという人の根拠は、①生権力として徴兵とは違う種類の要請であること、②体を殺してもその後は何もできない人たちを恐れてはなりません(luk12:4)、というような気持ちを汲んでいるということでしょうか

量子力学における時間の概念の変更が悪用されていて、それが顕在化しています。焦ってるみたいです。スウェデンボルグの頃から何も変わってない。

昔、歩けない人を乗せて田舎町を走っていたら道の駅で香西かおりショーというのをやってたのを思い出した。「雨酒場」とか

いま樋の落葉の掃除が終わって疲労compile

鶴さんとこでもらった梅を漬けるのに蜂蜜を買おうと思うんだけど中国の500円のやつより同級生の西崎のやつを買ってやろうと思うのって当たり前だとおもうが愛国心以外に呼び名はないのか

茶にできる方のジャスミン?が生えているのを発見

この茉莉花は毒があるそうです

森の中で眠る、というのは現体制では不可能な夢としてある。ゴダールに森の中で裸の男女の群れがボール遊びをしているシーンがあるが虫に刺されないだろうかとか同質の怖れを感じる。それは自然農法に対する不安にも通底する。

ホタルが多くて怖ろしい

ただブルゴーニュではあんまり虫はいなかったよ
https://youtu.be/e8Eq–d88wE

5月26日
undergroundの5曲目で歌ってるpenelope peabodyて誰?マキさんより抜けてて急に安心させられるんですけど

スマホは夜の輪郭が撮れないし耳鳴りを録音できない
https://youtu.be/k1tqYadOTuY

曇っている
ホタルはまだいるのでつらい

5月27日

https://twitter.com/_YukioHakagawa/status/1397684480819687427?s=20
https://twitter.com/seiun_seidan/status/1399041163210878976?s=20

rap/ture

塵を舐める家畜
を被曝させる
元素にカエル
勤続に金属
平服で平伏
コミナティ筋注
車からrapture

https://twitter.com/_YukioHakagawa/status/1397684480819687427?s=20/

https://youtu.be/cNUHnlPKZDI

西村君、朝君

ホタルまだいるのでくるしい

5月28日
いつまで動くの?
生きたいという気持ちがないと人が奇異に見える

FMの音の風景でリクエストを受け付けているのを知って、昭和30年代の、汽車がホームに着く時流れる「アオモリ」と「ヒロサキ」に濁点が付いたアナウンスをまた聴きたいと思った。
青函連絡船の回の時に流れるかと思い耳を澄ませたがその時は聴き逃した。

麦はどうしてこんな毒のある食べ物になってしまったんだろう
麦こそが地球を侵略する宇宙人だという説まである

3時前からspaceを 開きますからよろしくお願いします

https://www.facebook.com/events/319235449557034?ref=newsfeed
fbにイヴェントをアップしたところ、村に火をつけ白痴になれもとい人の目を閉じてケモノとして生きようのsaki machidaさんがlikeしてくれました。ありがとうございます。

fbページでエルカエル切り絵でお馴染みのくらもとさんがlikeしてくださいました。感謝です。
fbページで活動的なフリージャズのサックスの庄司さんがlikeしてくださいました。今年はさびしいですね。ありがとうございます。

田村さんはTwitterでは見ないのでfbでしょうたいしましたがネットはあんまりやらないみたいなので伝わったかどうかは分かりません
あとは外国でも同じことだと思いマクラウドも誘いましたが

と思ったらマクラウドが参加予定にしてくれていました。律儀な奴だなあ。

ホタルまだいる怖い

fbページで松山のヒッピー王画廊主大地君がlikeしてくれました。ありがとうございます。これからも捕まらないよう頑張ります。

5月29日
僕は自然農に於ける「雑草」の敷き方もアートだと思っています。レッドクレイヨラの3人が食べられない野菜で、familiar uglyが食べられる雑草です。

重力に浸かる
人体という土地に化学物質を入れる
それにしても毎日変わる植生の凄さ
野良の顔疵
5G-la
ボウリング的進行に於ける覚醒という名のガター
聴く音楽を聴く時間がもうない
あと何年かで、トラウマを抱えたまま死ぬ
シーンと淫らなノイズの縦糸横糸で
耳型の取手を彫っていた
耳鳴りcosmic

Hay un amigo que se apega más que un hermano
apegarseはアガペーに似ているのでくっ付く、と語呂で覚える

前日にやる筈だった佐島の人とフィラデルフィアの岩田の友達がlikeをポチッてくれました。情宣は大体こんなもんかな

ホタルまだいる長生きだね

5月30日
ヒットエンドラン
ヒットエンドラン
5G寝落ちで無頭葉

Ya desde antes de nacer, estará lleno de espíritu santo

5月30日
https://twitter.com/_YukioHakagawa/status/1399016913401827330?s=20

 

 

 

#poetry #rock musician

ノラと 燕たちと

 

さとう三千魚

 
 

昨日
日曜日だった

午後に
モニターを通して

ユアンドアイの詩人たちと会った

詩を
持ち寄り

その詩について

感想を
交換した

自身の言葉が他者にどのように伝わるのか

わたしの呟きが
他者に

ほんとに伝わるものなのか

検証する

夕方には
モコと近所を歩いた

ノラが工場の倉庫のパレットに寝そべっていた

欝陶しそうに
こちらを睨んだ

言葉はない

ノラに
言葉はない

燕の夫婦が
幼稚園の玄関で

巣づくりに飛びまわっていた

泥や小枝を
嘴に咥えて

巣に戻りすぐに飛びたっていた

燕たちがチキチキと鳴いて空を飛ぶのを
見たことがある

 

 

 

#poetry #no poetry,no life